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九、王女と冬りんご
しおりを挟む「それじゃあ、エミィ。少し待っていて」
「はい。お願いしますね、フレッド」
「うん。任された」
わたくしは、そう言って揚々と木を登っていくフレッドを見送る。
フレッドが目指すのは、木の天辺付近に実る冬りんご。
りんごは、夏の終わりから晩秋にかけて実る種類が一番多いけれど、わたくしは、この真冬に実る冬りんごも大好きで、フレッドはそんなわたくしの為、アールグレーン公爵家の、王都の屋敷内に冬りんごを幾本か植えてくれた。
『いつか、エミィがここへお嫁に来るのだから』
だからここへ来ると、冬りんごの若木を前にそう言って照れ臭そうに笑うフレッドと、そんなフレッドを優しく見守る、今は前となったアールグレーン公爵夫妻の温かな笑みを思い出す。
わたくしとフレッドの婚約、婚姻には政略としての意図も多分に含まれていただろうに、わたくしがそれを余り感じなかったのは、ひとえにフレッドがくれた本当の愛情と、お義父様、お義母様から感じた心からの優しさや思いやりが大きいのだと思う。
本当に、わたくしは幸せ者よね。
『木に登るなど、野蛮だな』
けれど、それと同時に、わたくしは不愉快な言葉とその顔をも思い出した。
そのひとの名は、イェルド。
準王子、特別に設置された準王族として離宮に住まう彼は、よくこうしてわたくしの目の前に出現しては、嫌味な発言を繰り返していた。
それだけではなく、他者を巻き込む嫌がらせも、それはもうしょっちゅう。
そう。
あれは、わたくしが十二歳の事。
わたくしの飼っていた子猫が、木の高い所に置き去りにされた時だったわ。
『大丈夫だよ、エミィ。すぐに連れ戻ってあげるからね』
みぃみぃと木の高い所から聞こえる、怯えた鳴き声。
助けを求めているのだと分かっても、わたくしは木に登ることができなくて、ただ一緒に泣いている時に聞こえた優しい声。
『フレッドにいさま』
『大丈夫だから、泣かずに待っておいで』
そう言って、自ら木に登って行ったフレッドにいさまを下から見守っていれば、とても不愉快な声がした。
『きにのぼるなど、やばんだな』
振り返り見れば、楽々と木に登っていくフレッドにいさまを蔑んだ目で見つめる、自分こそは醜悪な表情のイェルド。
そして、その後ろに控える使用人が怯えたように肩を震わせているのを見て、わたくしはこの件の実行犯を知った。
『あのこねこは、まだじぶんできのぼりができませんの。なのに、どうしてあんなたかいところに』
確証が欲しくて、殊更おっとりと手を頬に当てて言えば、使用人の顔は更に真っ青になり、イェルドは馬鹿にもほどがあると思うほど、容易に自分の罪を晒す。
『それは、ボクがめいじたからだ。どうだ、おどろいたか』
『まあ』
確かに驚きですわ。
こんなに簡単に、自分の命じたことだと言ってしまうなんて。
思いつつ、わたくしがわたくしの後ろに控える侍女と侍従、それに護衛に目配せをすれば、彼等はそれぞれの任を全うすべく動き出してくれる。
『それにしても、あのおとこは、ほんとうにきぞくらしくないな』
『どういったところが、でしょう?』
フレッドを貶す言葉など聞きたくもないが、証人となってくれる立場のある誰かが来るまで引き留めねばと、わたくしはイェルドに言葉の続きを促した。
『しらないのか?あいつのいえは、きぞくでありながら、りょうしゅだからとみずからりょうちをおさめているのだそうだ。きぞくがじぶんでりょうちをおさめるなど、おろかなことだとちちうえもははうえもいっていた。それだけじゃないぞ。あやつらは、じぶんでけんもふるっているのだ。きぞくならば、まもられてとうぜんなのに』
『そうでしょうか。わたくし達を護ってくれている騎士のなかにも、貴族の方々は多いですけれど?』
何を言っているのだとわたくしが言えば、イェルドは無意味に胸を張って言い切った。
『はあ。おまえばかだな。やつらはぜんいん、へいみんだ』
『いいえ。それこそは、誤りですわ』
あの頃、イェルドは十歳になっていたけれど、本当に常識というものが欠落しているだけでなく、何も知らなかったわね。
思うわたくしの前に、真っ赤なりんごがにゅっと突き出された。
「エミィ、何を思案中だい?」
「ああ、いえ。昔、わたくしの飼っていた子猫を、フレッドが助けてくださったことを思い出していました」
言えば、フレッドの表情がやわらかに緩む。
「あったな、そんなことも。しかし、あの時の子猫がああなるとはな」
「元気で何よりです」
みぃみぃとか弱く鳴いていた子猫も、今では立派な風体となり、この季節は暖炉の前にどっしりと座り込んで離れない。
誰よりも、その部屋の主然としている様子は、威風堂々という言葉が似あうと誰もが言う存在となった。
「あの時は、貴族のくせに木に登るなど、とイェルドに散々言われたな」
「原因を作っておいて何を、と言いたいですよね」
苦笑して言うフレッドに答えれば、その苦い笑みが益々苦くなる。
「そうだな。あの頃は、あやつらの周りに居た使用人達も、奴等に従順だったからな。子猫のみならず、エミィの事も貶めて。今思い返しても、腹が煮える」
「あの方達の使用人は皆、ブリット様を側妃にと薦めた貴族とアンデル公爵家が雇っていましたからね」
使用人が雇い主に従順なのは仕方ないこと、とわたくしは当時を思い返す。
今は、元となった側妃ブリット様は、側妃となってすぐイェルドを産んだものの、お父様が未だ彼女の寝室を訪れていない、つまりはふたりにとっての初夜を迎える前に身籠っていることが判明しており、イェルドの持って生まれた特徴からも、ヨーラン殿がイェルドの父だということは、もはや貴族全員の常識事項となっていた。
そのことから、お父様は、ブリット様を即刻廃妃にと望んだものの、ブリット様を側妃にと薦めた貴族達は、次こそは国王陛下のお子を産んでくださるはず、と廃妃とすることに反対したのだそう。
けれど、それこそはお父様の目論見通りだったようで、ブリット様を側妃として離宮に留め置く代わり、その生活にかかる費用はすべて、側妃を薦める貴族に出費させることを会議で正式に決めたと聞く。
そしてその後も、ブリット様の貞淑には問題ありとして、お父様はブリット様と閨を共にすることはなく、ブリット様はそのまま側妃として離宮に住み続けた。
実際、ヨーラン殿との関係は続いていたというのだから、驚きよね。
子どもが出来ないように手術までして。
そのふたりの愛の巣が離宮だと思えば、ため息しか出ない。
「義父上にしてみれば、勝手をさせているようでしっかりと手綱を握っていたわけだし、元側妃を置いておくことで新たな側妃をとも言わせない体勢を整えていたのだろうけれど。あの頃はそこまで分かっていなかったから、とにかくエミィにどうして奴等が近づくのを許すのか、憤りさえ感じていたな」
「わたくしは、イェルドがフレッドを侮蔑するのが許せませんでしたわ。分かっていないのは自分の方なのに、と」
思い出しても顔が歪みそうになる、とわたくしはかつてのイェルドとの会話を思い出す。
『お前、語学が堪能なだけでなく、政治や経済にも明るいそうだな。ますます王女らしくない、愚かで馬鹿者だ』
ある日、いつものように王城で絡まれそう言われた時、わたくしはまた女のくせにと言われるのだと思っていたのだけれど。
『それに、お前の婚約者のあの男も、昨今は自分の領地だけでなく、国政にも関与しているというではないか。嘆かわしいことだ』
『・・・・・』
わたくしは王女で、フレッドはその婚約者。
つまりは、将来この国を担う立場となるふたりなのだ。
互いに十五歳となった今、国政や経済、多言語に通じていて何が不都合、嘆かわしいというのか、わたくしには不可解すぎて直ぐに言葉が出て来ない。
昔から、こういった発言を繰り返していたけれど。
あれって、フレッドより劣っている自分を擁護するためのものではなかったの?
思っていると、何を勘違いしたのかイェルドが偉そうに胸を張った。
『それに引き換え、ボクは王に相応しい。愚かなお前等と違って、語学も出来なければ、政治、経済になど興味も無いからな』
『・・・・・』
『かといって、馬鹿なお前等のように文化を護る気も無い。どうだ。ボクほど王に相応しい者はいないだろう』
『それで、どのような為政者になるつもりなのですか?』
思わず、心底不思議に思って尋ねれば、心底不思議そうに問い返された。
『いせいしゃとは何だ?』
『政治を行う者。この国を治める者です』
『お前はほんとに馬鹿だな。ボクはそんな者にはならない。ボクがなるのは、王なのだから』
『この国の王とは、つまりは為政者です』
『はあ。本当にきゅうきょくに?馬鹿だなお前。王とは贅を極めて生きる者だぞ。政治も経済も関係ない』
言葉に自信が無い様子ながら、本当に呆れたように言われ、幾度も、馬鹿だ、愚かだと言われたわたくしは、わたくしの傍で控える侍女や侍従が、血管切れそうな勢いでイェルドに飛び掛からんとするのを抑えるのに苦労した。
『因みに、誰がそのようなことを?』
『父上と母上だ。ボクこそ、真の王なのだと言っておられる』
『その父上とは?』
『アンデル公爵に決まっているだろう。そんな事も知らないなんて、本当に馬鹿で愚かだな、お前。いや、お前だけでなくお前の婚約者もか。『国王陛下が父でないのに、王子、ひいては王となれると思うなど』と言っていたからな。話の辻褄も合わない、意味も通じない。ボクは真の王となるのに。あやつは、本当に馬鹿だ』
『フレッドほど、優秀なひとはいませんわ』
『馬鹿はお前だ』との言葉は何とか呑み込み、それでも、それだけは、と言い切ったわたくしだけれど、いつだってイェルドとの会話は疲れましたわね。
「姫。これで機嫌を直していただけませんか?」
気疲れすることを思い出してしまったわたくしに、フレッドがお道化た様子で切り分けたりんごを差し出して来た。
「まあ、ありがとう。騎士様」
なので、わたくしもお道化てそのりんごを一切れ手に取る。
「おいしいわ」
ひと口齧ればしゃくりと小気味のいい音がして、そのおいしさが更に増す気がする。
「姫。私めにも、その甘露をお分けください」
またもお道化て言うフレッドに、私はりんごを差し出した。
「どう?おいしい?」
「ええ、とても。今度は、私めが姫様にこの香りをお分けしましょう」
そう言って近づく、フレッドの顔。
フレッド。
大好きよ。
そっと目を閉じれば、唇に柔らかな感触がして。
それと同時、冬りんごが、ふわっとふたりの間に香った。
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