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第一章
第2話:研修1日目
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まだ夢かもしれないと、信じられていない自分がいる。
新しい環境はどうか、何をすることになるのか、自己紹介は適切な長さでできるだろうか――緊張して臨んだ日ではあったけど、元恋人に出会ってしまう展開は想像もしていなかった。
その後どのようにして彼のデスクから離れたかという記憶も曖昧なくらい、頭の中は混乱状態だった。
けれど、悠長に衝撃を受けていられるほど、新人社員(契約)の1日目は暇じゃない。ここから3日間は研修の予定のようで、今日はチームの業務内容の説明をうけた。
昨日、あの後、チーム長である彼はすぐに外出の予定があったみたいで、チームに一言残した後颯爽と去っていった。
そのため、同じ空間にいなくてはいけない時間はかなり短く、久遠はなんとか命拾いしたのだった。
「うちのチームの説明はこんな感じだけど……なにか今の時点で質問とかある?」
同じく契約社員である溝口が、鼻にずり落ちた老眼鏡の位置を直しながら久遠に尋ねる。
久遠は手を止め、それまで書いていたメモを眺めた。
『BRIDGEnote』
入院により普段の日常から分断されてしまった小児患者と、学校・医療などをつなぐ連携アプリ。
このチームは、そのサービスの開発および導入を担っていて、主に病院と学校相手に営業を行う。現在試験導入中の取引先は3件らしい。
医療×ITサービスを広く手がけるこの会社の中でも最も新しいプロジェクトの1つで、勢いはあるが人手が足りていないとのことだった。
「いえ、大丈夫です」
「最初は覚えることも多くて大変だと思うけど、おばさんの私でも何とか覚えられてるから、あんまりドキドキしないでいいからね」
溝口は9歳の息子を持つ主婦で、2年前からここの契約社員として働いているらしい。
老眼鏡をかけなおす仕草が母と重なって、母親をやりながら大企業で仕事をしていることに尊敬の念を抱く。
「小島久遠ちゃんって言うんだよね。いい名前ね」
私のピカピカの社員証に視線を落とした溝口にそう言われ、少し微笑む。
「ありがとうございます。父と母が喜びます」
「どういう意味でつけられたの?」
緊張をほぐそうとしてくれているのか、水筒に入った飲み物を飲みながら、リラックスした口調で雑談をしてくれる。
「長生きするようにって、そういう願いが込められてます」
「長生き?」
不思議そうな溝口に、久遠は「はい」とまた微笑む。
「私昔病気してて。小児で入院してたんです。出生時から既に体が弱かったので、なんとか普通の人みたいに生きられますようにって、両親が」
「ああ、だからうちを志望したの?」
その通りだった。
この度務めることになったこの株式会社ネクサイユは、「子どもの未来を、テクノロジーで支える。」を理念とし、主に小児科向け医療ITツールの開発・提供を行っている企業で、私が本来行いたかった仕事に合致していた。
転職の必要性が出てきて急いで求人サイトを奔走していた時、たまたまネクサイユが募集を行っていたのはラッキーだった。
――と、昨日までは思っていた。
会いたくない人に、まさかの再会を果たしてしまうまでは――。
「産休代替派遣制度での雇用なんだってね。だいぶ忙しくなると思うけど…」
産休代替派遣制度とは、企業で働く社員が産休や育休に入る間、その業務を一時的に代行するために派遣社員を受け入れる制度で、今回久遠はその制度上での雇用だった。
通常の派遣に比べて、ほぼ社員と同等の働きを求められることが多いため、負担は大きい。面接の際はその旨をしっかりと説明され、それでもいいかと確認されたが、一刻も早く職にありつきたかった久遠はその場で肯定の返事をした。
「産休に入る予定の子は、今日は午後から出社するみたいだから引き継ぎはその時に。私はただの契約社員だから初歩的なことしか分からないかもしれないけど、力になれることがあったらなんでも聞いてもらっていいからね」
温かい教育係の存在に安堵する。
新奇の場では緊張で呼吸が浅くなってしまうことがある久遠でも、溝口のおかげか、今日は問題なかった。
「あとはチームリーダーにも質問して大丈夫だから。優しいからなんでも答えてくれるよ」
どくん。
突然話にあの存在が出てきて、胸が固まる。
説明の理解にリソースを費やしていた脳の中で、昨日の再会はもはや遠い記憶として追いやられかけていたが、そうだ。
このチームには信じ難い人がいるんだった。
「チームリーダーさ、顔がど~えらい綺麗でびっくりしたでしょ。綺麗すぎて近寄り難い雰囲気あるし厳しいとこあるけど、話してみたら優しいから」
『厳しいとこあるけど』のところで内緒話のように声を潜めた溝口に笑いかけられながら、久遠は自己紹介しようとした時の彼の姿が思い起こされてしまう。
あの姿を見た時、息が止まった。
美しい背筋で、オフィスの蛍光灯を反射する真っ白なシャツを着て、パソコンを操作する指は白くて繊細で。
顔を上げて久遠をとらえた瞳は、艶めいて吸い込まれそうになったほど綺麗だった。
「さて次は、社内案内だ。ついてきて」
トリップしかけていたところに溝口から声をかけられ、つい「はい、お母さん」と言ってしまいそうになって危ない。
溝口の歳や醸し出す安心感は、お母さんにそっくりで、つい気が緩んでしまう。
久遠は慌ててメモとボールペンを持ち、ゆったりと待ってくれている溝口のあとを追った。
新しい環境はどうか、何をすることになるのか、自己紹介は適切な長さでできるだろうか――緊張して臨んだ日ではあったけど、元恋人に出会ってしまう展開は想像もしていなかった。
その後どのようにして彼のデスクから離れたかという記憶も曖昧なくらい、頭の中は混乱状態だった。
けれど、悠長に衝撃を受けていられるほど、新人社員(契約)の1日目は暇じゃない。ここから3日間は研修の予定のようで、今日はチームの業務内容の説明をうけた。
昨日、あの後、チーム長である彼はすぐに外出の予定があったみたいで、チームに一言残した後颯爽と去っていった。
そのため、同じ空間にいなくてはいけない時間はかなり短く、久遠はなんとか命拾いしたのだった。
「うちのチームの説明はこんな感じだけど……なにか今の時点で質問とかある?」
同じく契約社員である溝口が、鼻にずり落ちた老眼鏡の位置を直しながら久遠に尋ねる。
久遠は手を止め、それまで書いていたメモを眺めた。
『BRIDGEnote』
入院により普段の日常から分断されてしまった小児患者と、学校・医療などをつなぐ連携アプリ。
このチームは、そのサービスの開発および導入を担っていて、主に病院と学校相手に営業を行う。現在試験導入中の取引先は3件らしい。
医療×ITサービスを広く手がけるこの会社の中でも最も新しいプロジェクトの1つで、勢いはあるが人手が足りていないとのことだった。
「いえ、大丈夫です」
「最初は覚えることも多くて大変だと思うけど、おばさんの私でも何とか覚えられてるから、あんまりドキドキしないでいいからね」
溝口は9歳の息子を持つ主婦で、2年前からここの契約社員として働いているらしい。
老眼鏡をかけなおす仕草が母と重なって、母親をやりながら大企業で仕事をしていることに尊敬の念を抱く。
「小島久遠ちゃんって言うんだよね。いい名前ね」
私のピカピカの社員証に視線を落とした溝口にそう言われ、少し微笑む。
「ありがとうございます。父と母が喜びます」
「どういう意味でつけられたの?」
緊張をほぐそうとしてくれているのか、水筒に入った飲み物を飲みながら、リラックスした口調で雑談をしてくれる。
「長生きするようにって、そういう願いが込められてます」
「長生き?」
不思議そうな溝口に、久遠は「はい」とまた微笑む。
「私昔病気してて。小児で入院してたんです。出生時から既に体が弱かったので、なんとか普通の人みたいに生きられますようにって、両親が」
「ああ、だからうちを志望したの?」
その通りだった。
この度務めることになったこの株式会社ネクサイユは、「子どもの未来を、テクノロジーで支える。」を理念とし、主に小児科向け医療ITツールの開発・提供を行っている企業で、私が本来行いたかった仕事に合致していた。
転職の必要性が出てきて急いで求人サイトを奔走していた時、たまたまネクサイユが募集を行っていたのはラッキーだった。
――と、昨日までは思っていた。
会いたくない人に、まさかの再会を果たしてしまうまでは――。
「産休代替派遣制度での雇用なんだってね。だいぶ忙しくなると思うけど…」
産休代替派遣制度とは、企業で働く社員が産休や育休に入る間、その業務を一時的に代行するために派遣社員を受け入れる制度で、今回久遠はその制度上での雇用だった。
通常の派遣に比べて、ほぼ社員と同等の働きを求められることが多いため、負担は大きい。面接の際はその旨をしっかりと説明され、それでもいいかと確認されたが、一刻も早く職にありつきたかった久遠はその場で肯定の返事をした。
「産休に入る予定の子は、今日は午後から出社するみたいだから引き継ぎはその時に。私はただの契約社員だから初歩的なことしか分からないかもしれないけど、力になれることがあったらなんでも聞いてもらっていいからね」
温かい教育係の存在に安堵する。
新奇の場では緊張で呼吸が浅くなってしまうことがある久遠でも、溝口のおかげか、今日は問題なかった。
「あとはチームリーダーにも質問して大丈夫だから。優しいからなんでも答えてくれるよ」
どくん。
突然話にあの存在が出てきて、胸が固まる。
説明の理解にリソースを費やしていた脳の中で、昨日の再会はもはや遠い記憶として追いやられかけていたが、そうだ。
このチームには信じ難い人がいるんだった。
「チームリーダーさ、顔がど~えらい綺麗でびっくりしたでしょ。綺麗すぎて近寄り難い雰囲気あるし厳しいとこあるけど、話してみたら優しいから」
『厳しいとこあるけど』のところで内緒話のように声を潜めた溝口に笑いかけられながら、久遠は自己紹介しようとした時の彼の姿が思い起こされてしまう。
あの姿を見た時、息が止まった。
美しい背筋で、オフィスの蛍光灯を反射する真っ白なシャツを着て、パソコンを操作する指は白くて繊細で。
顔を上げて久遠をとらえた瞳は、艶めいて吸い込まれそうになったほど綺麗だった。
「さて次は、社内案内だ。ついてきて」
トリップしかけていたところに溝口から声をかけられ、つい「はい、お母さん」と言ってしまいそうになって危ない。
溝口の歳や醸し出す安心感は、お母さんにそっくりで、つい気が緩んでしまう。
久遠は慌ててメモとボールペンを持ち、ゆったりと待ってくれている溝口のあとを追った。
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