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第一章
第3話:パーティーの招待状
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久遠が3日間の研修を終えたのと同時に、神永は2日間の出張から東京へ帰ってきた。
「小島さん」
久遠が給湯室にいた時だった。
来客用のコーヒーカップをお盆に並べ、お茶出しの準備を整えていた久遠の背に、聞き慣れた声が降ってきた。
振り向かなくてもわかる。神永の声が、自分の名字を読んだ。
この声に名字で呼ばれるのは、この時が初めてだった。
振り向かなくてはいけないのはわかっている。上司に呼ばれているのだから、返事をしないといけない。
頭はそう指令を出しているのに、久遠の身体が動いてくれない。
心臓の音が外まで聞こえて、気持ち悪いと思われていたら、どうしよう。
手にしていたカップがわずかに傾いてしまっている。
深淵のように真っ黒な液体が波紋を立てて、久遠の指先が震えていることを教えてくれている。
この声を、夢の中で何度繰り返し聞いてきたか。
胸の奥が、8年分の後悔で苦しくなる。
謝らなきゃ、謝らなきゃ。
――でも、謝る権利なんてあるんだろうか。
謝るという行為は、知っている仲だということを互いの間ではっきりさせてしまうことになる。
忘れたふりをしているこの関係の中で、それを勝手に破るのは愚かではないだろうか。
ぐるぐる考えている間にも、2人の間には重たい沈黙が流れている。
神永はなぜ話しかけてきたのだろう。
もしも……過去の話だったらどうしよう。
バクバクと鳴る心臓の音が外まで漏れ出てしまわないように、カップを持つ両手で胸を押さえている。
「Slack、溝口さんに入れてもらってるよね?」
「え、あ、はいっ」
神永が聞いてきたのは、チームの業務連絡用に使っているチャットアプリについてだった。
「今さっき連絡を入れたんだけど、見てないかな」
「ご、ごめんなさい。まだ…」
慌ててスーツのポケットに手を突っ込むが、そこにあるはずのスマホの感触がなかった。
そうだ、デスクに置いたままここへきてしまったようだ。
「いや、いい。口頭で言うから返信は不要なんだけど、ちょっと仕事をお願いしたくて」
返信は不要。
なんでもない言葉のはずなのに、なぜか拒絶の意図を感じ取ってしまって、勝手に少し傷ついた。
いまだに、神永と会話しているということを信じることができていない状態だ。
統制不十分な思考のせいで、なにかとんでもないことを言ってしまわないようカップを持つ手に力をこめる。
「明後日の夜、『フロンティア・エンジニアリング』の周年記念パーティーがあるんだけど、もともと参加予定だった中原が出席できなくなって。それでなんだけど……小島さんが代わりに出席してくれないかな」
神永は、表情をほとんど動かさず、それでいて穏やかに言葉を紡いだ。
久遠の頭にはハテナしか浮かばなかったが、使えない社員だと思われてはまずい。
咄嗟に、よくわかっていないのにうなずくという、新人社員として典型的なバッドムーブをしてしまった。
ここまで聞いてかろうじて久遠でも分かるのは、中原という人名がチームメンバーの名前だということと、明後日の夜の久遠の予定は空いているということだ。あ、あと、今出てきた社名は、『BRIDGEnote』のアプリを共同開発している会社だったはず。
スケジュールが空いているだけでも、この仕事を引き受けるための条件は一つクリアしていることになるはずである。
「難しいことはなにもないし、ペアで招待されているから埋めないといけない、ってだけだから、心配しないで」
会社の業務についてまだ研修で学んだことくらいしか知らない自分に務まる仕事なのだろうか。
そういう不安が久遠の顔ににじみ出ていたのか、神永が付け足した。
――ん?『ペア』?
「立食形式で、ドレスコードはセミフォーマルなんだけど、結婚式とかに着ていくようなワンピースで大丈夫だから」
突然、「あと……」と神永が言いよどんだ。
先を促すように久遠が軽く首をかしげると、神永は目を伏せて髪をかき上げる。
神永が自分の目を見ている間は久遠から神永の顔を見ることはできないので、神永の姿に焦点をあてられている時間は珍しい。
久しぶりに焦点をあてた。
やっぱり、綺麗な人だ。
艶のある黒髪は、学生時代はさらさらと風に吹かれていたけれど、今は社会人らしくワックスで固められている。
さっきから気づかないふりをしていたけれど、香りも、大人の男性の香水の香りになっている。
会社の女性社員から彼が一目置かれているのは、初日から簡単に察することが出来た。
今も昔も変わらない。彼はこのまま生涯ずっと、高嶺の花なのだろうと思う。
「一緒に行くの、俺なんだ」
どこの香水なんだろう、とトリップしかけて久遠は、耳を疑った。
つまりそれは……どういうことだ?
「詳細はあとで共有するけど、頼めるかな」
神永が視線を上げ、視線がぶつかり合いそうになってしまった。
慌てて久遠が視線を手元におとし、ばっちりと目が合ってしまう事態を回避する。
――だけど。
ほんのすこし、彼の瞳が見えてしまった。
コンマ数秒でしかなかった。けれど、その目には何の感情も映っていないことまでは見えた。とても静かなまなざしだった。
「……わかりました」
自分でも驚くほど、機械的な声だった。
なんとも思っていないということを醸し出そうとして、かえって意識しすぎてしまったみたいだ。
「助かるよ。後で連絡する」
彼が去っていったあと、久遠は手元を見つめた。
指先が白くなるほど、カップを握りしめている。
久遠の鼓動だけが、取り残されたように鳴っている。
――なにを勝手に、謝ろうとしていたんだろう。
神永は、ただの上司として話しかけてきただけなのに。
仕事の話をしに来ただけなのに。
さっき彼に話しかけられた時、大きすぎる罪悪感とともに久遠の中に湧いていたのは、少し浮ついた気分だった。
水と油のような本来親和性のない2つの感情がせめぎ合っていたところを、静かに落とされた。
過去に囚われたままの自分が、みっともなかった。
彼はもうとっくに違う場所にいて、違うものを見てる。
ここは職場だ。センチメンタルになっていい場所じゃない。
久遠は唇を噛み、深く息を吸い込んだ。
――帰ったら、招待された結婚式で2度ほど着たワンピースを出さないと。
「小島さん」
久遠が給湯室にいた時だった。
来客用のコーヒーカップをお盆に並べ、お茶出しの準備を整えていた久遠の背に、聞き慣れた声が降ってきた。
振り向かなくてもわかる。神永の声が、自分の名字を読んだ。
この声に名字で呼ばれるのは、この時が初めてだった。
振り向かなくてはいけないのはわかっている。上司に呼ばれているのだから、返事をしないといけない。
頭はそう指令を出しているのに、久遠の身体が動いてくれない。
心臓の音が外まで聞こえて、気持ち悪いと思われていたら、どうしよう。
手にしていたカップがわずかに傾いてしまっている。
深淵のように真っ黒な液体が波紋を立てて、久遠の指先が震えていることを教えてくれている。
この声を、夢の中で何度繰り返し聞いてきたか。
胸の奥が、8年分の後悔で苦しくなる。
謝らなきゃ、謝らなきゃ。
――でも、謝る権利なんてあるんだろうか。
謝るという行為は、知っている仲だということを互いの間ではっきりさせてしまうことになる。
忘れたふりをしているこの関係の中で、それを勝手に破るのは愚かではないだろうか。
ぐるぐる考えている間にも、2人の間には重たい沈黙が流れている。
神永はなぜ話しかけてきたのだろう。
もしも……過去の話だったらどうしよう。
バクバクと鳴る心臓の音が外まで漏れ出てしまわないように、カップを持つ両手で胸を押さえている。
「Slack、溝口さんに入れてもらってるよね?」
「え、あ、はいっ」
神永が聞いてきたのは、チームの業務連絡用に使っているチャットアプリについてだった。
「今さっき連絡を入れたんだけど、見てないかな」
「ご、ごめんなさい。まだ…」
慌ててスーツのポケットに手を突っ込むが、そこにあるはずのスマホの感触がなかった。
そうだ、デスクに置いたままここへきてしまったようだ。
「いや、いい。口頭で言うから返信は不要なんだけど、ちょっと仕事をお願いしたくて」
返信は不要。
なんでもない言葉のはずなのに、なぜか拒絶の意図を感じ取ってしまって、勝手に少し傷ついた。
いまだに、神永と会話しているということを信じることができていない状態だ。
統制不十分な思考のせいで、なにかとんでもないことを言ってしまわないようカップを持つ手に力をこめる。
「明後日の夜、『フロンティア・エンジニアリング』の周年記念パーティーがあるんだけど、もともと参加予定だった中原が出席できなくなって。それでなんだけど……小島さんが代わりに出席してくれないかな」
神永は、表情をほとんど動かさず、それでいて穏やかに言葉を紡いだ。
久遠の頭にはハテナしか浮かばなかったが、使えない社員だと思われてはまずい。
咄嗟に、よくわかっていないのにうなずくという、新人社員として典型的なバッドムーブをしてしまった。
ここまで聞いてかろうじて久遠でも分かるのは、中原という人名がチームメンバーの名前だということと、明後日の夜の久遠の予定は空いているということだ。あ、あと、今出てきた社名は、『BRIDGEnote』のアプリを共同開発している会社だったはず。
スケジュールが空いているだけでも、この仕事を引き受けるための条件は一つクリアしていることになるはずである。
「難しいことはなにもないし、ペアで招待されているから埋めないといけない、ってだけだから、心配しないで」
会社の業務についてまだ研修で学んだことくらいしか知らない自分に務まる仕事なのだろうか。
そういう不安が久遠の顔ににじみ出ていたのか、神永が付け足した。
――ん?『ペア』?
「立食形式で、ドレスコードはセミフォーマルなんだけど、結婚式とかに着ていくようなワンピースで大丈夫だから」
突然、「あと……」と神永が言いよどんだ。
先を促すように久遠が軽く首をかしげると、神永は目を伏せて髪をかき上げる。
神永が自分の目を見ている間は久遠から神永の顔を見ることはできないので、神永の姿に焦点をあてられている時間は珍しい。
久しぶりに焦点をあてた。
やっぱり、綺麗な人だ。
艶のある黒髪は、学生時代はさらさらと風に吹かれていたけれど、今は社会人らしくワックスで固められている。
さっきから気づかないふりをしていたけれど、香りも、大人の男性の香水の香りになっている。
会社の女性社員から彼が一目置かれているのは、初日から簡単に察することが出来た。
今も昔も変わらない。彼はこのまま生涯ずっと、高嶺の花なのだろうと思う。
「一緒に行くの、俺なんだ」
どこの香水なんだろう、とトリップしかけて久遠は、耳を疑った。
つまりそれは……どういうことだ?
「詳細はあとで共有するけど、頼めるかな」
神永が視線を上げ、視線がぶつかり合いそうになってしまった。
慌てて久遠が視線を手元におとし、ばっちりと目が合ってしまう事態を回避する。
――だけど。
ほんのすこし、彼の瞳が見えてしまった。
コンマ数秒でしかなかった。けれど、その目には何の感情も映っていないことまでは見えた。とても静かなまなざしだった。
「……わかりました」
自分でも驚くほど、機械的な声だった。
なんとも思っていないということを醸し出そうとして、かえって意識しすぎてしまったみたいだ。
「助かるよ。後で連絡する」
彼が去っていったあと、久遠は手元を見つめた。
指先が白くなるほど、カップを握りしめている。
久遠の鼓動だけが、取り残されたように鳴っている。
――なにを勝手に、謝ろうとしていたんだろう。
神永は、ただの上司として話しかけてきただけなのに。
仕事の話をしに来ただけなのに。
さっき彼に話しかけられた時、大きすぎる罪悪感とともに久遠の中に湧いていたのは、少し浮ついた気分だった。
水と油のような本来親和性のない2つの感情がせめぎ合っていたところを、静かに落とされた。
過去に囚われたままの自分が、みっともなかった。
彼はもうとっくに違う場所にいて、違うものを見てる。
ここは職場だ。センチメンタルになっていい場所じゃない。
久遠は唇を噛み、深く息を吸い込んだ。
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