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第一章
25話:8年前の出会い②
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「いつまで知らないふりしてないといけないの?」
びっくりして変な声が出てしまうところだった。
明らかに自分に向けられた声。あの時より少しだけ低いけど――明らかに彼の声。
責め立てるような言葉の引力に久遠は振り返ったが、しかし、口調に反して一織の表情は柔らかった。こちらを見て可笑しそうに笑みを浮かべている。
「い……おり、くん。覚えてるの?私、」
「どうやったら忘れるの」
一織は長い足で歩いてきてあっという間に距離を詰めると、久遠の頭に優しく手の平をのせた。そして、その後に言った言葉があまりに自然すぎて、久遠は危うく聞き流すところだった。
「大好きなのに」
「……え?」
「黙って退院しちゃうなんてひどいよ。あの時俺がどれだけ傷ついたか」
「ご、ごめん!私寂しくて、なんて言ったらいいか、っ分かんなくて、それで」
「分かってる」
焦ってしまって慌ただしく目線を動かした久遠をなだめるように、久遠にのせられている一織の手が一瞬頭を撫でた。
「傷ついたけど、もういいよ。許してあげる。久遠がちゃんと覚えてくれてたってだけで、今すごく嬉しいから」
そういって目を細めた神永の顔は、彼らしくないほど無邪気な笑顔だった。まるで、母親の帰りが思ったよりも早くて喜ぶ子どもくらい無邪気な顔。
同じ制服を着て、大好きだった男の子が目の前に立っている。学校の廊下の背景に、一織が合成されているだけなんじゃないだろうか。浮いて見えるくらい、一織が今一緒にここにいるということが信じられなかった。
「あ、さっきおめでとう……!」
上手く言葉が出なかったけれど、一織は久遠がついさっきの部内戦のことを言っているのだとちゃんと汲み取ってくれたらしく、「ありがとう」と言った。
「久遠さっき見てたでしょ」
「えっ、気づいて……」
「うん探したもん。いないかなーって。そしたら本当にいるし、なんかマスクつけて隠れてるし」
まさか気づかれていたなんて……。あんなに真剣な雰囲気を纏っていたのに、いつの間にこちらに意識を向けていたのだろう。
そして、久遠が一織に気づいたのは入学式の日だったけど、一織はいつ久遠の存在に気づいたのだろう。
一織にまた可笑しそうに笑われてしまって、久遠の耳が熱くなる。恐らく今、滑稽なほど赤くなっているに違いない。
「……一織くん、たくさん頑張ったんだね。あの時あんなに、苦しそうだったのに」
久遠が最後に見た一織の姿は、痙攣して嘔吐していた姿だった。
「急に久遠いなくなっちゃって、リハビリしかすることなかったからね」
久遠の慎重な言葉に対してあっけらかんと返され、何も言えなくなる。
「あの後、高校上がる前に退院出来て、高1の時はずっと外来リハビリと自主練してたんだ。その間、絶対俺の方がセンスあるのに他がレギュラーになって悔しかったけど、必要な期間だったんだと思う」
簡単に言うけれど、1年間で他の部員を抑えてレギュラーに選ばれるまでに能力を磨くのは、大変な努力があったはずだ。
「後遺症とかって……」
「ああもう全然。俺は残らなかったんだ」
一織が手をグーパーと動かしてみせる。前は杖で補っていた、麻痺のあった側の足もぶらぶらと動かして見せてくれる。
「よかった……」
安堵してほっと息を吐くように呟いた。けれどすぐに、さっき一織が聞き捨てならない言葉を放っていたようなことを思い出してしまって、また固まる。
「あの一織くん、さっき……」
――『大好き』って言った?
そんな大胆な質問はさすがに口にできず、久遠は言葉に詰まった。
確かに聞こえた気がする。でも、期待している私が作り出した幻聴の可能性も無きにしも非ずだ。
「なぁに?久遠」
神永が意地悪そうに笑って久遠の顔を覗き込んだ。濡れた前髪の先から、ひとしずく水が落ちる。シャンプーのような爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
誰か他の人が通りかかったらどうしよう。この状況を誰かに見られたら大変なんじゃないか。
段々そんな焦りも生じてきて、久遠は問いかけを引っ込めた。
「な、なんでもない」
「俺、久遠とまた話せてすごく嬉しいよ」
遠くの方から、夕方の鐘が聞こえてきた。
久遠の目は、久遠を見つめる一織から離せなくなっている。
「久遠が退院してから、しばらくずーっと久遠のこと考えてたよ。ああ、こんなつらいんならさっさと気持ち伝えとくんだったなーって、後悔してた」
「え?」
「久遠が俺の初恋だったから」
一織の顔は、もう久遠をからかっているようには見えない。
「久遠は?……俺のことどう思ってた?」
一織の声はいつも通り穏やかだったけれど、微笑みはもうなかった。真剣な顔で、少し緊張も浮かんでいた。
「私……は……」
遠くで鐘の音が止んでしまう。2人がいる踊り場に落ちた静寂が、久遠が答える出番であることを急かしてくる。
別世界、身の程知らず、不釣り合い――。
久遠の脳が瞬時に余計な思考に走ろうとしてしまう前に、それを停止させるために、久遠はぎゅっと目を瞑った。そして、息を整えて目を開く。
一織はまだ、少し緊張した顔で真っ直ぐ久遠を見下ろしていた。
「私の方が、多分もっと好きだよ」
その日から1年半、神永一織と小島久遠は恋人同士だった。
びっくりして変な声が出てしまうところだった。
明らかに自分に向けられた声。あの時より少しだけ低いけど――明らかに彼の声。
責め立てるような言葉の引力に久遠は振り返ったが、しかし、口調に反して一織の表情は柔らかった。こちらを見て可笑しそうに笑みを浮かべている。
「い……おり、くん。覚えてるの?私、」
「どうやったら忘れるの」
一織は長い足で歩いてきてあっという間に距離を詰めると、久遠の頭に優しく手の平をのせた。そして、その後に言った言葉があまりに自然すぎて、久遠は危うく聞き流すところだった。
「大好きなのに」
「……え?」
「黙って退院しちゃうなんてひどいよ。あの時俺がどれだけ傷ついたか」
「ご、ごめん!私寂しくて、なんて言ったらいいか、っ分かんなくて、それで」
「分かってる」
焦ってしまって慌ただしく目線を動かした久遠をなだめるように、久遠にのせられている一織の手が一瞬頭を撫でた。
「傷ついたけど、もういいよ。許してあげる。久遠がちゃんと覚えてくれてたってだけで、今すごく嬉しいから」
そういって目を細めた神永の顔は、彼らしくないほど無邪気な笑顔だった。まるで、母親の帰りが思ったよりも早くて喜ぶ子どもくらい無邪気な顔。
同じ制服を着て、大好きだった男の子が目の前に立っている。学校の廊下の背景に、一織が合成されているだけなんじゃないだろうか。浮いて見えるくらい、一織が今一緒にここにいるということが信じられなかった。
「あ、さっきおめでとう……!」
上手く言葉が出なかったけれど、一織は久遠がついさっきの部内戦のことを言っているのだとちゃんと汲み取ってくれたらしく、「ありがとう」と言った。
「久遠さっき見てたでしょ」
「えっ、気づいて……」
「うん探したもん。いないかなーって。そしたら本当にいるし、なんかマスクつけて隠れてるし」
まさか気づかれていたなんて……。あんなに真剣な雰囲気を纏っていたのに、いつの間にこちらに意識を向けていたのだろう。
そして、久遠が一織に気づいたのは入学式の日だったけど、一織はいつ久遠の存在に気づいたのだろう。
一織にまた可笑しそうに笑われてしまって、久遠の耳が熱くなる。恐らく今、滑稽なほど赤くなっているに違いない。
「……一織くん、たくさん頑張ったんだね。あの時あんなに、苦しそうだったのに」
久遠が最後に見た一織の姿は、痙攣して嘔吐していた姿だった。
「急に久遠いなくなっちゃって、リハビリしかすることなかったからね」
久遠の慎重な言葉に対してあっけらかんと返され、何も言えなくなる。
「あの後、高校上がる前に退院出来て、高1の時はずっと外来リハビリと自主練してたんだ。その間、絶対俺の方がセンスあるのに他がレギュラーになって悔しかったけど、必要な期間だったんだと思う」
簡単に言うけれど、1年間で他の部員を抑えてレギュラーに選ばれるまでに能力を磨くのは、大変な努力があったはずだ。
「後遺症とかって……」
「ああもう全然。俺は残らなかったんだ」
一織が手をグーパーと動かしてみせる。前は杖で補っていた、麻痺のあった側の足もぶらぶらと動かして見せてくれる。
「よかった……」
安堵してほっと息を吐くように呟いた。けれどすぐに、さっき一織が聞き捨てならない言葉を放っていたようなことを思い出してしまって、また固まる。
「あの一織くん、さっき……」
――『大好き』って言った?
そんな大胆な質問はさすがに口にできず、久遠は言葉に詰まった。
確かに聞こえた気がする。でも、期待している私が作り出した幻聴の可能性も無きにしも非ずだ。
「なぁに?久遠」
神永が意地悪そうに笑って久遠の顔を覗き込んだ。濡れた前髪の先から、ひとしずく水が落ちる。シャンプーのような爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
誰か他の人が通りかかったらどうしよう。この状況を誰かに見られたら大変なんじゃないか。
段々そんな焦りも生じてきて、久遠は問いかけを引っ込めた。
「な、なんでもない」
「俺、久遠とまた話せてすごく嬉しいよ」
遠くの方から、夕方の鐘が聞こえてきた。
久遠の目は、久遠を見つめる一織から離せなくなっている。
「久遠が退院してから、しばらくずーっと久遠のこと考えてたよ。ああ、こんなつらいんならさっさと気持ち伝えとくんだったなーって、後悔してた」
「え?」
「久遠が俺の初恋だったから」
一織の顔は、もう久遠をからかっているようには見えない。
「久遠は?……俺のことどう思ってた?」
一織の声はいつも通り穏やかだったけれど、微笑みはもうなかった。真剣な顔で、少し緊張も浮かんでいた。
「私……は……」
遠くで鐘の音が止んでしまう。2人がいる踊り場に落ちた静寂が、久遠が答える出番であることを急かしてくる。
別世界、身の程知らず、不釣り合い――。
久遠の脳が瞬時に余計な思考に走ろうとしてしまう前に、それを停止させるために、久遠はぎゅっと目を瞑った。そして、息を整えて目を開く。
一織はまだ、少し緊張した顔で真っ直ぐ久遠を見下ろしていた。
「私の方が、多分もっと好きだよ」
その日から1年半、神永一織と小島久遠は恋人同士だった。
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