【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~

葉影

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第一章

62話:襲われる久遠

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 振り向いた久遠の視界に入ったのは、神永――じゃ、なかった。

 さっきまで隣に座っていて、声を掛けてくれていた男性だ。名前は確か――修斗。

 振り向く瞬間、明らかに、神永がそこに立っていることを期待してしまっていた。それを自覚せざるを得なくて、ちょっと自虐的に笑ってしまう。だって彼は今頃、恋人とパスタを食べているところなのに。

 自分の惨めさに呆れるしかなくなっている久遠に、まだ男は話しかけている。

「具合悪いのかなって心配で。迎えに来ちゃった」

 食事に手をつけず、ワインばかりあおっていた変な女の体調にお気遣いいただいてありがたい。と、思う。けれど、今は知らない人と話すエネルギーは一切ない。生憎、満身創痍なのだ。

「ありがとうございます。でも大丈夫です」

 そう言って、距離を取ろうと修斗を避けて歩き出した。しかし、修斗はついてくる。

「ほんと?顔色あんまりよくないよ。水飲んだほうがいいんじゃない?」

「いえ、大丈夫なので」

 そう言い切ったつもりだった。けれど、そこから一歩踏み出した瞬間、視界が一瞬ぐらりと揺れた。

「あ、ほら」

 腕を掴まれた。触られたところからぞわりと鳥肌が立つような感覚があり、頬の筋肉が引き攣る。

「無理しないで」

 強がった途端よろけた久遠を、少し馬鹿にするように笑う。

「……本当に、一人で」

 そう言いかけた言葉は、修斗によって遮られた。

「結構お酒回ってるでしょ。外に自販機あったし、一緒にお水買いに行こう?」

 半ば当然のように、久遠の体を支える修斗。その距離が近くて、再び鳥肌が立った。

「大丈夫ですから」

 とうとう強めに言ってみたが、修斗は帰ってくれない。久遠はそのまま逃げるように店の外に出た。

 夜風が肌を撫でる。

 修斗の言うとおり、自販機が近くにあった。嘘じゃなかったんだ、と少し意外に思う。

 水を買うために財布を取り出そうとして、スマホしか持ってきていなことを思い出した。しかも、スマホ決済は出来ない機種のようだ。
 再び店内に戻るしかないか……と思い、ふらりと踵を返した。

「っ!」

 久遠のその弱弱しい足取りは、修斗によって阻まれた。修斗は久遠の手を取ると、「こっち」と言って、自販機横の路地裏の方へ足を向ける。

「え、いや……」

 言い終わる前に、掴まれた手にぐっと力を入れられた。久遠が「いたっ」と声を上げるのも聞かず、修斗は路地裏へと久遠を引き込む。久遠は男性の力に強さに驚きながら、恐怖に襲われていく。

「きゃっ」

 あっという間に壁に押し付けられ、背中に鈍い痛みが走った。恐怖の表情で見上げる先の修斗の表情は、口元は笑っていて白い歯が見えているが、目は笑っていない。久遠の反応を見て面白がるように、瞳に妙な熱が籠っていく。

 人通りのない、建物と建物の隙間。ネオンの光が僅かしか届かない、暗い場所――。そこで、目の前の男の視線だけが熱を帯びていく。

「なんですか?やめてください」

 久遠が抗議の声を上げても、修斗は口角を上げるだけだった。

 ――どうしよう。この人聞いてくれない。

 その危機感を感じると、途端に頭が冷えてきた。さっきまでアルコールが回っていた体も、少しずつ感覚を取り戻していく。

「あのっ」

「ねえ」

 修斗の指が久遠の唇にそっと当てられたのだ。叫び声を上げそうになったが、久遠の声帯は痛いほど固まるだけで、何も発することが出来なかった。

「君、可愛いよね。俺結構気に入っちゃった」

 鳥肌が立った。顔が近い。久遠は顔を逸らしたいのに、蛇に睨まれた蛙のように目も動かせなかった。少しでも目の前の男の動きを見逃したら、一瞬で攻撃されそうで。

「や、やめて……離して……」

 自分でも驚くほど、喉から抜けた声が弱弱しかった。こんなんじゃ、道行く人がいても気づいてもらえない。そう思うのに、息が上がってうまく声が出ない。ただ喉から空気が抜けていくだけだ。

「始まる前から君ばっかり見てたよ」

 囁かれ、久遠の背筋がこおる。

「やめて……ください」

 久遠の声は掠れていた。路地裏の湿った空気が肺に入るたび身体は冷えてき、こめかみからは汗が滴る。修斗はそれを楽しげに眺めた。指で雫を受け止め、彼の唇が妖しく歪む。

「怯えた顔もいいね……。でもさ——」

 突然、修斗の手が久遠の後頭部をガッシリと掴んだ。強い圧力に脳が揺さぶられる。

「俺もちゃんと分かってるよ……。本当は、俺のこと求めてるよね」

 久遠の歯が、カチカチと音を刻んだ。

「ちがっ……ぁ!」

「大丈夫」

 言葉が途中で詰まった。修斗の親指が強引に久遠の顎を開かせたからだ。口腔が強制的に晒される不快感。

「はぁ……」

 吐息を漏らす修斗の目が細くなる。恍惚と蔑みが入り混じった奇妙な光を帯びている。彼は片膝を曲げ、久遠の脚の間に強引に差し込んだ。

「んっ……!」

 内腿に押し付けられた、ゴツゴツした膝頭。あまりにも露骨な位置に久遠は息を呑んだ。久遠とは対照的に、修斗の口角がさらに上がっていく。

「強引にされるのが好きなのかな?だって……」

 彼の左手が久遠の左鎖骨をゆっくりと這う。恐怖の対象が骨のすぐ近くの皮に触れてくる感触に、久遠は全身を震わせた。今すぐ逃げ出したいのに、力が入らない。

「こんなにドキドキして。脈拍すごいね……感じてんだ」

 修斗の指先が首筋を降り、デコルテを滑る。ありすから借りた、普段よりも露出がある服の襟元のキワに、そこに潜り込むかどうか焦らすように修斗が指先をひっかける。

「嫌……!」

 久遠の両手は、男の左手で封じられ、久遠の頭の上で壁に押し当てられている。久遠の体がどんどん力を失っていくのと反比例して、男から加えられる力は増していく。

「ああそそる……。いいね、こっち向いて」

 修斗の右手が、久遠の腰に触れ、グッと自分の方へ近づけた。互いの吐息が交錯する距離。

 彼の呼吸は明らかに速く、荒くなっていた。久遠も精一杯の力をこめて、少しでも距離が開けるように抵抗した。

「やだっ……」

「ねぇ」

 その時初めて、修斗の目に怒りが灯った。思いのほか長引く久遠の抵抗に、彼の中の何かが軋み始めたのだ。

「いつまでそれやるつもり?」

 声のトーンが急に落ちた。

「清純ぶるの、もう十分。そもそも俺のこと気に入ってるのは――久遠ちゃんだよね」

 自分の名前が、こんなに汚いものに聞こえたのは初めてだった。

 視界が砂嵐のように霞んで、見たくないあの時の景色と重なっていく。
 ――腰に回された、湿り気のある手のひら。自宅のエントランスで待ち伏せされた日に、目と鼻の先まで顔を近づけられた時の相手の息の感触。

 前の勤め先でのセクハラの記憶が、金縛りとなって久遠を雁字搦めにしてくる。

 とうとう、体がびくともしなくなってしまった。自分のコントロールを失った体に、修斗の粘っこい視線が無遠慮に絡みつく。

「離して……」

 まるで、半殺しの状態で標本にされる虫のような気分だった。体は動かせないのに、目を動かすことと意識を保つことだけで来てしまう。だから、自分がこれから刺されるとわかっていながら逃げ出せず、鋭利な針が自分に刺される瞬間を今か今かと待っている。そんな地獄のような時間。

「嫌……」

 叫び声になるはずの声はすべて、久遠の口でほとんど吐息のように姿を変えて外に出てしまう。その様子を面白がるように卑しく口角を歪める修斗の顔が、どんどん近づいてくる。

 久遠は最後の力を振り絞るようにして顔を背けた。しかし――

「痛いっ……」

 デコルテに降りていた修斗の手が戻ってきて、久遠の顎を掴み上げた。その痛みに顔を歪める久遠を見下ろす修斗の目つきは、鋭く、熱い。

「ねえ久遠ちゃん」

 嘲笑も混じった、心底バカにしたような声色だった。

「そういうの、もういいんだよ」

 久遠の両手を押さえつける修斗の手に、力がこもる。

「俺が清楚好きなのさは、ビジュの話だから。そんな中身まで作り込まなくていいんだって」

 意味が、すぐには理解できなかった。

「やめて……」

「あ、いーいーいーいー」

 修斗は、苛立ったように声を荒げる。

「これじゃ、俺が無理矢理犯罪してるみたいじゃん。そういう演技もういいって。ありがとね、でももう十分」

 無理やり顔を上げさせられる。

「正直今悦んでるでしょ。――無理しないで」

 修斗は、久遠の太腿に割って入っている脚を踏ん張って体を密着させ、耳元でそう囁いた。耳が朽ちたのかと思うほど、不快で苦痛だった。

「ね、我慢しなくていいから。ほら……ありすからも聞いてるし」

 修斗の手がまた胸元の方に降りていく。恐怖で心臓がばくばくとなっているのに、久遠の脚はもはや自分のものではなくなってしまったのかと思うほどに動かない。

 ――ありす?

「違います」

 声が震える。

「違うってば。やめて……!」

「あーーうんうんうんだからさ、いいのいいのもう。盛り上げたいのわかるけど、いい加減ちょーっとしつこいかな?……ごめんごめん、焦ってごめん。俺とただ、気持ちいいことしよう?こっちに任せていいから……」

 ゆっくりと顔が近づく。とうとう唇が触れそうになる。

 体が固まる。もう一切声が出ない。ほとんど観念してしまうのと同時に、熱い涙が頬を伝っていくのを感じた。

 ――助けて、一織くん。

「助けて……」

 修斗の指によって無理やり開けられている唇から、また誰にも届かない吐息のような言葉を漏らした。



 ――その時だった。

「久遠!!」
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