86 / 104
第二章
86話:表参道デート②
しおりを挟む
「酔って久遠にキスしそうになったことあるし」
……え?
世界が一瞬止まったみたいだった。
耳に入った言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかってしまう。
「え!?いつ!?いつですか!?」
声がひっくり返った。周りの視線を気にして口を塞ぐが、もう遅い。自分でも驚くほど大きな声で尋ね返してしまった。
久遠の食いつきの良さに神永は少し笑い、記憶を検索するように目線を上向きに彷徨わせる。
「うーんなんだっけあれ。……あ、翌日に久遠のこと叱った日だ。無断残業しないでくださいって」
「残業……」
思い出した。
胸の奥に、あの日の恥ずかしさと情けなさが一気に蘇る。静まり返ったフロアで、机に突っ伏して寝落ちしたあの日。翌朝、冷静に叱られた時のこと。
たしかあの夜は、展示会に参加することが決まったことで、ブリッジノートについて慌てて勉強していたのだった。
――え、でも待って。
彼はあの日、珍しくチームの誰よりも早く退勤したと記憶している。
「あの日飲みがあって、前の上司にサシでかなり飲まされてね。解散してから、忘れ物思い出したからオフィス寄ったんだけど」
そこまで言われて、今の今まで忘れていたとある記憶が蘇る。
ということは、あの時聞こえた気がした声は――彼のものだったんだ……!
『笑った顔が好きだったのに……』
夢か現かわからない覚醒状態で耳を撫でたあの言葉は、オフィスに戻ってきていた、神永のものだったのだ。
「デスク行ったら久遠いるじゃん。びっくりした。ひざ掛け落ちてるし、よだれ垂れてるし」
「え!嘘ですよね?」
「ふふ、よだれは嘘だけど、とにかく可愛くて」
「え」
「もうアルコールで頭おかしくなってるからさ、あーもう寝顔にキスしちゃおっかなと思ったんだけど、犯罪じゃん。ギリギリでちゃんととどまったよ。自分で起こすわけにもいかないから、警備員さんに頼んで帰ったんだあの日は」
「そ、そんなことが…」
淡々と語る神永とは対称的に、久遠の胸の奥はかき混ぜられる。
あの時期のチーム長が、自分の寝顔を見て、そんなことを思っていただなんて。少し前の自分に教えてあげたい。
あの頃の自分はただ、自分が情けなくて、存在が申し訳なくて、チーム長を煩わせてしまったと落ち込んでいた。それなのにまさか、知らない間にも2人の想いの矛先は互いを向いていただなんて、想像もしていなかった。
罪悪感と片想いで占められた長い時間が、少しずつ、静かに書き換えられていく。
隣の彼を見るだけで、胸がぎゅうっと締め付けられた。繋いだ手にぎゅっと力を込めてみる。「うん?」と笑顔で受け止めながら、同じだけ握り返してくれる彼が愛おしい。もう手の中にいるのに、もっと自分の近くに繋ぎたいと思う。
8年間という歳月は、不要な決め付けで互いを避けるには長すぎた。もう、少しも離れてほしくなくて、目の前にいてくれているのに少し不安になる。満ち足りているはずのこの胸に、隙間風のようなものがひやりと吹き込むような感覚がした。
「久遠、そろそろお腹すいた?どこか入ろうか」
少しだけセンチメンタルな気持ちになっていると、地図アプリを見ながら歩いていた神永が言った。
軽めの朝食から5時間が経過しているお腹は、たしかに、きゅるきゅると音を鳴らし始めている。
「近くに久遠が好きそうなところあったよ、見て」
神永が見せてくれるスマホの画面には、都会的な喧騒の中にパッと目を引く鮮やかな赤い壁が印象的なお店のテラスが映っていた。
「わぁ、可愛い」
画面をスクロールすると、こんもりと盛られたブルーベリーがこぼれ落ちそうな、厚みのあるパンケーキの写真が飛び込んでくる。それから、カリカリに焼かれたベーコンが添えられた、いかにもアメリカの朝食といった食欲そそるプレート。
「有名なんだって。骨董通り沿いだから、ここからすぐだよ。土曜だし混んでるかもしれないけど」
こんなに綺麗な格好をさせてもらって、こんなに素敵な場所にまで……。
写真の中の料理の煌めきを見ていると、湧いてくるワクワクを追いかけるように、久遠の中にはまた、幸せすぎてまずいんじゃないかという不安が頭をもたげる。けれど、隣で画面を覗き込む神永の横顔があまりに優しくて、思いやりに応えたいという思いが引け目よりもわずかに上回った。
「行ってみたいです!すごく美味しそう」
久遠が神永を見上げてそう言うと、彼は「よし、決まり」と嬉しそうに微笑んだ。そして、ポケットにスマホをしまいながら言う。
「もし久遠の方でもっと食べたいご飯があったらそれでもいいんだけど……夜は夜で行きたいとこあるから、軽めにしておこうかなと」
「行きたいとこ?」
「うん。久遠も行ったことあるところ」
2人の思い出の場所ということだろうか。2人が付き合っていた頃のデートを思い出してみる。
しばらく考えてみるけれど、デートはしても大抵夜ご飯は家で食べていた学生カップルに、思い出のディナーレストランなんてものは思い当たらなかった。
きょとんとしている久遠の様子に気づいた神永が、片方の口角だけ上げる。
「霧島の店だよ」
「……え!」
「今日ちょうど土曜日でしょ?もう早速行って、報告してやろうかなって」
たしかに今日は霧島がバーを間借りしている曜日のはずだ。
気になるのは、神永の若干嘲るような語尾。彼は霧島のことになると、いつも以上に冷たくなるような気がする。元々彼は美しい顔で毒づく方ではあったけれど、霧島が相手だとそれが顕著だ。
「いいですね、夕飯も楽しみです」
前回は凌也がたくさんオーダーしてくれたとはいえ、まだ他にも興味をそそられるメニューがあって、満腹なお腹を抱えて泣く泣く諦めたことを覚えている。それに、彼が出している料理のラインナップは流動的らしく、今日行けばまた新たに気になる料理名が黒板に書かれているのだろう。
「久遠嬉しそう。じゃあ夜は恵比寿行こうね。まずはこっち、おいで」
神永は久遠の手を握り直して、カフェを目指して歩き出した。
……え?
世界が一瞬止まったみたいだった。
耳に入った言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかってしまう。
「え!?いつ!?いつですか!?」
声がひっくり返った。周りの視線を気にして口を塞ぐが、もう遅い。自分でも驚くほど大きな声で尋ね返してしまった。
久遠の食いつきの良さに神永は少し笑い、記憶を検索するように目線を上向きに彷徨わせる。
「うーんなんだっけあれ。……あ、翌日に久遠のこと叱った日だ。無断残業しないでくださいって」
「残業……」
思い出した。
胸の奥に、あの日の恥ずかしさと情けなさが一気に蘇る。静まり返ったフロアで、机に突っ伏して寝落ちしたあの日。翌朝、冷静に叱られた時のこと。
たしかあの夜は、展示会に参加することが決まったことで、ブリッジノートについて慌てて勉強していたのだった。
――え、でも待って。
彼はあの日、珍しくチームの誰よりも早く退勤したと記憶している。
「あの日飲みがあって、前の上司にサシでかなり飲まされてね。解散してから、忘れ物思い出したからオフィス寄ったんだけど」
そこまで言われて、今の今まで忘れていたとある記憶が蘇る。
ということは、あの時聞こえた気がした声は――彼のものだったんだ……!
『笑った顔が好きだったのに……』
夢か現かわからない覚醒状態で耳を撫でたあの言葉は、オフィスに戻ってきていた、神永のものだったのだ。
「デスク行ったら久遠いるじゃん。びっくりした。ひざ掛け落ちてるし、よだれ垂れてるし」
「え!嘘ですよね?」
「ふふ、よだれは嘘だけど、とにかく可愛くて」
「え」
「もうアルコールで頭おかしくなってるからさ、あーもう寝顔にキスしちゃおっかなと思ったんだけど、犯罪じゃん。ギリギリでちゃんととどまったよ。自分で起こすわけにもいかないから、警備員さんに頼んで帰ったんだあの日は」
「そ、そんなことが…」
淡々と語る神永とは対称的に、久遠の胸の奥はかき混ぜられる。
あの時期のチーム長が、自分の寝顔を見て、そんなことを思っていただなんて。少し前の自分に教えてあげたい。
あの頃の自分はただ、自分が情けなくて、存在が申し訳なくて、チーム長を煩わせてしまったと落ち込んでいた。それなのにまさか、知らない間にも2人の想いの矛先は互いを向いていただなんて、想像もしていなかった。
罪悪感と片想いで占められた長い時間が、少しずつ、静かに書き換えられていく。
隣の彼を見るだけで、胸がぎゅうっと締め付けられた。繋いだ手にぎゅっと力を込めてみる。「うん?」と笑顔で受け止めながら、同じだけ握り返してくれる彼が愛おしい。もう手の中にいるのに、もっと自分の近くに繋ぎたいと思う。
8年間という歳月は、不要な決め付けで互いを避けるには長すぎた。もう、少しも離れてほしくなくて、目の前にいてくれているのに少し不安になる。満ち足りているはずのこの胸に、隙間風のようなものがひやりと吹き込むような感覚がした。
「久遠、そろそろお腹すいた?どこか入ろうか」
少しだけセンチメンタルな気持ちになっていると、地図アプリを見ながら歩いていた神永が言った。
軽めの朝食から5時間が経過しているお腹は、たしかに、きゅるきゅると音を鳴らし始めている。
「近くに久遠が好きそうなところあったよ、見て」
神永が見せてくれるスマホの画面には、都会的な喧騒の中にパッと目を引く鮮やかな赤い壁が印象的なお店のテラスが映っていた。
「わぁ、可愛い」
画面をスクロールすると、こんもりと盛られたブルーベリーがこぼれ落ちそうな、厚みのあるパンケーキの写真が飛び込んでくる。それから、カリカリに焼かれたベーコンが添えられた、いかにもアメリカの朝食といった食欲そそるプレート。
「有名なんだって。骨董通り沿いだから、ここからすぐだよ。土曜だし混んでるかもしれないけど」
こんなに綺麗な格好をさせてもらって、こんなに素敵な場所にまで……。
写真の中の料理の煌めきを見ていると、湧いてくるワクワクを追いかけるように、久遠の中にはまた、幸せすぎてまずいんじゃないかという不安が頭をもたげる。けれど、隣で画面を覗き込む神永の横顔があまりに優しくて、思いやりに応えたいという思いが引け目よりもわずかに上回った。
「行ってみたいです!すごく美味しそう」
久遠が神永を見上げてそう言うと、彼は「よし、決まり」と嬉しそうに微笑んだ。そして、ポケットにスマホをしまいながら言う。
「もし久遠の方でもっと食べたいご飯があったらそれでもいいんだけど……夜は夜で行きたいとこあるから、軽めにしておこうかなと」
「行きたいとこ?」
「うん。久遠も行ったことあるところ」
2人の思い出の場所ということだろうか。2人が付き合っていた頃のデートを思い出してみる。
しばらく考えてみるけれど、デートはしても大抵夜ご飯は家で食べていた学生カップルに、思い出のディナーレストランなんてものは思い当たらなかった。
きょとんとしている久遠の様子に気づいた神永が、片方の口角だけ上げる。
「霧島の店だよ」
「……え!」
「今日ちょうど土曜日でしょ?もう早速行って、報告してやろうかなって」
たしかに今日は霧島がバーを間借りしている曜日のはずだ。
気になるのは、神永の若干嘲るような語尾。彼は霧島のことになると、いつも以上に冷たくなるような気がする。元々彼は美しい顔で毒づく方ではあったけれど、霧島が相手だとそれが顕著だ。
「いいですね、夕飯も楽しみです」
前回は凌也がたくさんオーダーしてくれたとはいえ、まだ他にも興味をそそられるメニューがあって、満腹なお腹を抱えて泣く泣く諦めたことを覚えている。それに、彼が出している料理のラインナップは流動的らしく、今日行けばまた新たに気になる料理名が黒板に書かれているのだろう。
「久遠嬉しそう。じゃあ夜は恵比寿行こうね。まずはこっち、おいで」
神永は久遠の手を握り直して、カフェを目指して歩き出した。
20
あなたにおすすめの小説
行き遅れのお節介令嬢、氷の公爵様と結婚したら三人娘の母になりました
鳥柄ささみ
恋愛
お節介焼きで困っている人を放っておけないシアは、数多のご令嬢達から人気の令嬢だ。毎日ファンレターが届き、社交界に出れば令嬢に取り囲まれるほどである。
けれど、それに反比例するように男性からの人気はなく、二十七だというのに嫁の貰い手もないため、毎日母から小言をもらっていた。
そんなある日のこと、突然公爵家から縁談の話が。
シアは公爵家がなぜ自分に縁談など持ち掛けるのかと訝しく思いつつ話を受けると、なんと公爵の後妻として三人の娘の母代わりになれと言われる。
困惑するも、自分へ縁談を持ちかけた理由を聞いて、お節介なシアは嫁ぐこと決めたのだった。
夫になるレオナルドはイケメンなのに無表情で高圧的。三人の娘も二女のアンナを除いて長女のセレナも三女のフィオナもとても反抗的。
そんな中でもお節介パワーを発揮して、前向きに奮闘するシアの物語。
※他投稿サイトにも掲載中
【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―
七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。
【完結】溺愛予告~御曹司の告白躱します~
蓮美ちま
恋愛
モテる彼氏はいらない。
嫉妬に身を焦がす恋愛はこりごり。
だから、仲の良い同期のままでいたい。
そう思っているのに。
今までと違う甘い視線で見つめられて、
“女”扱いしてるって私に気付かせようとしてる気がする。
全部ぜんぶ、勘違いだったらいいのに。
「勘違いじゃないから」
告白したい御曹司と
告白されたくない小ボケ女子
ラブバトル開始
溺婚
明日葉
恋愛
香月絢佳、37歳、独身。晩婚化が進んでいるとはいえ、さすがにもう、無理かなぁ、と残念には思うが焦る気にもならず。まあ、恋愛体質じゃないし、と。
以前階段落ちから助けてくれたイケメンに、馴染みの店で再会するものの、この状況では向こうの印象がよろしいはずもないしと期待もしなかったのだが。
イケメン、天羽疾矢はどうやら絢佳に惹かれてしまったようで。
「歳も歳だし、とりあえず試してみたら?こわいの?」と、挑発されればつい、売り言葉に買い言葉。
何がどうしてこうなった?
平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?
【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
椿かもめ
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい
【完結】育てた後輩を送り出したらハイスペになって戻ってきました
藤浪保
恋愛
大手IT会社に勤める早苗は会社の歓迎会でかつての後輩の桜木と再会した。酔っ払った桜木を家に送った早苗は押し倒され、キスに翻弄されてそのまま関係を持ってしまう。
次の朝目覚めた早苗は前夜の記憶をなくし、関係を持った事しか覚えていなかった。
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
恋とキスは背伸びして
葉月 まい
恋愛
結城 美怜(24歳)…身長160㎝、平社員
成瀬 隼斗(33歳)…身長182㎝、本部長
年齢差 9歳
身長差 22㎝
役職 雲泥の差
この違い、恋愛には大きな壁?
そして同期の卓の存在
異性の親友は成立する?
数々の壁を乗り越え、結ばれるまでの
二人の恋の物語
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる