【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~

葉影

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第二章

88話:カフェランチ②

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 あの時の、足元から這い上がってくるような寒気を覚えている。浴衣姿の彼に背後から呼び止められ、突き放すように告げられたその言葉。

 再会してからそれまで無言のうちにひしひしと受け止めていた拒絶を、初めて本人から言葉で突きつけられた。たった一言で、お風呂で温めたばかりの久遠の体は一気に熱を奪われ、その晩は枕を濡らしたのだ。

「ああ、そう言ったっけ俺」

 神永は少し笑って、まるで他人事のように言った。今の久遠の内心の焦りなどほとんど汲んでいない様子に、あの旅館の一件に関する2人の認識と温度の差を感じてしまう。

「いや、それも同じだよ。なんだっけ、あの日、久遠がなんかやらかしたよね。……そうだ、資料渡されて、俺と手が当たっちゃって。で、床にばらまいて。手が当たった時の久遠の表情って言ったらもう……ああ、ほんとに俺のこと怖いのかなと思って」

 神永は軽く頬杖をついて、過ぎたことを話す、諦念が漂う声色で続けた。

「かなり気まずいんだろうなっていうのはずっと分かってたけど、あんなにビビられちゃうとね。こんなことなら会いたくなかったよなーって。俺と。昔の記憶として終わってる方がずっとよかったのに、転職先に俺いて、だいぶストレスになってそうだなって」

 神永の淡々とした言葉の裏側にあったのは、信じられないほど的外れで、けれど彼なりの切実な配慮だった。

「全部私のセリフ……みたいです」

 呆然としたまま、それだけを絞り出した。神永は「そうなの?」と、可笑しそうに笑っている。

「それにあん時そうだ、一人で飲んじゃってたからさ。若干脳のリミッターが外れてたっていうか……余計なこと言ってるくせに言葉足りない、みたいな感じだったね」

「どういうことですか?」

「だって俺が言いたかったこととさ、久遠が受け取ったもの、だいぶ違うでしょ?俺が言いたかったのは、"久遠はもう会いたくなかったよね、ごめんね"ってこと」

  久遠の身体を、わなわなとした震えが駆け抜ける。

 さっき、あの一言は久遠への配慮だと受け取りかけた。けれど、それとも少し違うみたいだ。久遠への優しさというよりも――。

『――俺たち、もうあんまり会いたくなかったよね』。

 久遠はようやく理解する。あれは彼の自己防衛だったのだ。

 あの一言は、自分を突き放すための言葉ではなく、神永自身の傷つきを抱えた結果として出てきたものだったのだ。相手からの拒絶に怯えていたのは、彼も同じだった。

 あの時の彼は、2人の間に漂っていただけの空気を、自ら"互いの共通認識"として言語化した。それはまるで、両手を上げて自分の無害さを示すポーズをとるように、分かってるよ、同じ気持ちだよ、と先回りの降伏をしていたのだ。

 つまりあれは、拒絶でもなく配慮でもなく、彼なりの自己防衛だったのだ。これ以上、自分に怯える久遠の顔を見て傷つくことがないように――。

「…………じゃあもしかして、他の部署に異動させようとしてたのも……」

「だからなんでそれ久遠が知ってるの?」

 神永は半笑いだ。

「そう、それもそう。せっかく職場決まったのに俺いるとか可哀想すぎて。のびのびさせてあげたくて、どっか空き無いかって上司に掛け合ったんだけど…………今の俺なら絶対しないね。他の人のとこにやるなんて有り得ない」

 神永は、それまで朗らかな笑みをたえていた唇をニヤリと吊り上げた。

 ――まだ、感情の整理はつかない。

 けれど、今は彼がそばにいてくれている。8年間が覆った大規模な混乱は、これから時間をかけて整理していくしかない。

 店員がにこやかに食事を運んできてくれる。白い陶器の皿の上で、こんがりときつね色に焼かれた薄めのパンケーキが3枚重なっている。その上には、ほかほかの生地の熱でとろけたメープルバターと熟したバナナ、香ばしくローストされたくるみが贅沢に散らされていた。 

「写真撮ってあげようか?」と神永が聞いてくれるが、久遠はぶんぶんと手を振って断った。自分の写真なんて残して何が嬉しい。こちらはむしろ、美しい彼の写真を撮りたい。

 神永から受け取ったナイフを入れると、しっとりとした生地から立ち上がる湯気とともに、甘い香りがさらに色濃く鼻腔を蕩かす。

「嬉しそう。よかったね」

 焼きたての香りを肺いっぱい吸い込むようにしていると、神永に笑いかけられてしまった。なんだか気恥ずかしくなって、慌ててパンケーキを切り分けて口に含む。舌の上でとろける甘さと、カリッとした食感とともに広がるくるみの芳しさ。

 今一番幸せなのは紛れもなく自分だと、本気でそう感じた。

 けれど、そこにやっぱり混じる罪の意識。8年前どころか最近まで、気づかないうちに彼を傷つけていた自分が、いきなりこんな幸せを享受していいのだろうか。

 「久遠に気持ち悪がられてると思い込んで、遠ざけるような態度とってごめんね」

 食べていたサンドイッチを皿に置いた彼が言った。ウェットティッシュで指先を拭いてから、一口コーヒーを飲む。

 切れ長の瞳が、カフェの窓から差し込む陽光を受けて、銀灰色に透き通って見える。

 「でももう、逃がさないから」

 神永の声が、一段と低くなる。 

 2人の間に漂う雰囲気が一気に変わって、噛んでいた口が止まった。パンケーキとはまた違う甘美な匂いが体に絡んでくる。

 彼はカップをソーサーに戻し、テーブル越しに久遠の手に自分の手を重ねた。すらりとした、けれど男らしい力強さを秘めたその指が、久遠の指の間に深く入り込み、絡め取られる。

「これからは、久遠が俺を怖がろうが、嫌おうが、飽きようが、絶対に手放してあげないからね」

 薄く形のいい唇が緩く弧を描いているが、目元は下まぶたにほんの少し力が入っているだけ。瞳は妖しく光って久遠を逃さず、久遠は、ここが昼下がりのカフェであることを忘れてしまいかけた。

 2人だけの世界に迷い込んだみたいだ――そんなメルヘンなことを思うのは、高校時代の恋愛を取り戻そうとしている痛い大人になったからだろうか。

「……はい」

 消え入るような声で答えるのが精一杯だった。 繋がれた指先から、神永の脈動がドクドクと伝わってくる。彼もまた、余裕そうな顔の裏側で、こんなにも激しく自分を求めている。

 昨日までは、完璧な仕事ぶりと高潔な美しさで周囲を威圧する不可侵の"チーム長"だった。そんな彼が今、社会的な仮面をかなぐり捨てたように、率直な欲望を剥き出しにしている。

 それは、淡い甘さの奥に、深く煮詰められたカラメルの苦みを隠したデザートのようだった。 掬い上げた表面の滑らかさに油断して食べ進めた先に、突如として現れる濃密な苦味。衝撃的なのに、もっと欲しくなる。

 久遠は震える手でコーヒーカップを引き寄せた。 これ以上彼の空気に絡め取られたら、本当にこの場所で溶けてなくなってしまいそうだ。



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