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形而上の愛
二〇一九年七月二十日土曜日
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『二〇一九年七月二十日土曜日 by:Unified-One.
Subject:Your password will expire soon..
市井野工業高等専門学校総合情報処理センターよりお知らせします。
高専共通システムに登録されているパスワードの有効期限が近づいています。あと十五日です。パスワードを変更してください。
有効期限が切れた場合、ログインが出来なくなります。
パスワードの変更は、市井野高専認証サーバ
https://douyathsy.itiino-ct.ac.jp\iumus/にて行ってください。』
会議のせいで金曜日の夜遅くに帰省する羽目となった私は、日付と有効期限だけが変わるメールを無視し続けて、ゆっくりと時間の流れる土曜日を過ごしていた。昼下がりにリストを背景に飲むコーヒーが私の寛ぎだった。そして、なにもかも考えることを放棄した頭に、なにか、ぼんやりと浮かんで来る。
それは、非常に懐かしい、私の幼年期の思い出だった。
〇
八年前だっただろうか。
私は、親に連れられて二日ほど市井野に訪れたことがある。祖母の家に顔を出しに行ったときのことだ。祖母の家は、市井野高専の近くにあり、山が近いものだから、私は祖母の家に着いて直ぐ、カブトムシ採集へとひとり、当時大好きだった『虫王者』のカードを半ズボンのポケットに入れて、向かったのである。
その日は、八月上旬ごろの異様に蒸し暑い日だった。昼ごろ、雲はどっぷりと濁水を孕んでいて、今にも地上におろしてしまいそうに、雲行きが怪しかった。そんなことにも、図鑑に載っていたクヌギの樹が見つからないことにも、不安がちに成りつつも、ただ、カブトムシを捕まえたい一心だった。
幾何かの時間が経って、それにつれ雲は濁りを増していった。胃の中身がこみ上げてきそうなほどの寂寥感に、私は、もう限界だった。「帰ろう」と、独り吐き捨て、踵を返したとき。
頬を、雫が駆けた。
私は、仰いだ。雲の切れ目を探した。――しかし、色の悪い雲がどこまでも続いているのだった。
やがて雨脚は、私のブルーのタンクトップに、黒い水玉模様を刷り込み始めた。睫毛が重くなっていき、瞬きをするたびに雫が伝っていった。
ふと、ポケットにカードを入れていたことを思い出した。その瞬間、私はこれが濡れてしまわないようにと、どこか、取りつく島を求めて走り出していた。
しばらく走ると、ひときわ暗んでいる空間があった。それは、ブナが櫛比した回廊への入り口だった。私は進むことしか考えず、何の迷いもなくその暗がりに入った。
浅く曲がった回廊は、終わりがないように見えた。景色が一切変わらないのだ。ただ、その場で足踏みをしているような気だった。それでも進むにつれて、変化はあった。――徐々に立ち並ぶブナの密度が小さくなっていき、その間隙に、一軒の四阿を見た。私は、そこなら雨に濡れないだろう、と思って、その隙間に身を潜らせた。そこを抜けると、開けた草っぱらの中に、四阿が建っていることを知った。私は、踝ほどしかない草本を踏みつけ、ようやく四阿へとたどり着いたのだった。
「ああ、ヘラクレスオオカブトが……」
私のお気に入りだったヘラクレスオオカブトのカードは、水気をすっかりと吸ってしまい、黒ずんでいた。指で掴むたびに、じゅッ、と水が滲む。私は両手でカードを押しつぶして、水気を絞りだそうと努めた。しかし、様子を見ようとして手を離した途端、それは、静かに裂けたのだった。
私は、啼泣した。
こんなことだったら父に言って、着いて来てもらえばよかった。
こんなことだったら、早めに祖母の家に戻ればよかった。
雨の止まない今は、そうやって自分の欠点を抉りだして、後悔することしか、出来なかった。
そんなとき、ひとりの来訪者があった。
「ねえ、どうしたの」
そう声を掛けて来たのは、穴が空き骨の折れた緋色のおんぼろ傘をさしている、白いワンピースの少女であった。――傘を掴むのは穢れを知らぬような白く細い指先で、胸元まで落ちた亜麻色の髪はところどころ濡れて毛先がはねていた。
「え、あ……ぼくの好きなカードが、やぶれちゃったんだ……」
私はその裂けてしまったカードを掌に乗せて少女にみせた。「そうなんだ……残念だったね」と、悲しそうに言いながら、傘を折り畳み始め、
そして、少女の顔が露わになった――。
〇
「――懐かしいな」
朧げに頭の中に浮かんだ少女の表情が、妙な痛みを胸に与えた。二度と会っていないあの少女が、生意気にも私の初恋の相手であることが、その由縁だった。
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会議のせいで金曜日の夜遅くに帰省する羽目となった私は、日付と有効期限だけが変わるメールを無視し続けて、ゆっくりと時間の流れる土曜日を過ごしていた。昼下がりにリストを背景に飲むコーヒーが私の寛ぎだった。そして、なにもかも考えることを放棄した頭に、なにか、ぼんやりと浮かんで来る。
それは、非常に懐かしい、私の幼年期の思い出だった。
〇
八年前だっただろうか。
私は、親に連れられて二日ほど市井野に訪れたことがある。祖母の家に顔を出しに行ったときのことだ。祖母の家は、市井野高専の近くにあり、山が近いものだから、私は祖母の家に着いて直ぐ、カブトムシ採集へとひとり、当時大好きだった『虫王者』のカードを半ズボンのポケットに入れて、向かったのである。
その日は、八月上旬ごろの異様に蒸し暑い日だった。昼ごろ、雲はどっぷりと濁水を孕んでいて、今にも地上におろしてしまいそうに、雲行きが怪しかった。そんなことにも、図鑑に載っていたクヌギの樹が見つからないことにも、不安がちに成りつつも、ただ、カブトムシを捕まえたい一心だった。
幾何かの時間が経って、それにつれ雲は濁りを増していった。胃の中身がこみ上げてきそうなほどの寂寥感に、私は、もう限界だった。「帰ろう」と、独り吐き捨て、踵を返したとき。
頬を、雫が駆けた。
私は、仰いだ。雲の切れ目を探した。――しかし、色の悪い雲がどこまでも続いているのだった。
やがて雨脚は、私のブルーのタンクトップに、黒い水玉模様を刷り込み始めた。睫毛が重くなっていき、瞬きをするたびに雫が伝っていった。
ふと、ポケットにカードを入れていたことを思い出した。その瞬間、私はこれが濡れてしまわないようにと、どこか、取りつく島を求めて走り出していた。
しばらく走ると、ひときわ暗んでいる空間があった。それは、ブナが櫛比した回廊への入り口だった。私は進むことしか考えず、何の迷いもなくその暗がりに入った。
浅く曲がった回廊は、終わりがないように見えた。景色が一切変わらないのだ。ただ、その場で足踏みをしているような気だった。それでも進むにつれて、変化はあった。――徐々に立ち並ぶブナの密度が小さくなっていき、その間隙に、一軒の四阿を見た。私は、そこなら雨に濡れないだろう、と思って、その隙間に身を潜らせた。そこを抜けると、開けた草っぱらの中に、四阿が建っていることを知った。私は、踝ほどしかない草本を踏みつけ、ようやく四阿へとたどり着いたのだった。
「ああ、ヘラクレスオオカブトが……」
私のお気に入りだったヘラクレスオオカブトのカードは、水気をすっかりと吸ってしまい、黒ずんでいた。指で掴むたびに、じゅッ、と水が滲む。私は両手でカードを押しつぶして、水気を絞りだそうと努めた。しかし、様子を見ようとして手を離した途端、それは、静かに裂けたのだった。
私は、啼泣した。
こんなことだったら父に言って、着いて来てもらえばよかった。
こんなことだったら、早めに祖母の家に戻ればよかった。
雨の止まない今は、そうやって自分の欠点を抉りだして、後悔することしか、出来なかった。
そんなとき、ひとりの来訪者があった。
「ねえ、どうしたの」
そう声を掛けて来たのは、穴が空き骨の折れた緋色のおんぼろ傘をさしている、白いワンピースの少女であった。――傘を掴むのは穢れを知らぬような白く細い指先で、胸元まで落ちた亜麻色の髪はところどころ濡れて毛先がはねていた。
「え、あ……ぼくの好きなカードが、やぶれちゃったんだ……」
私はその裂けてしまったカードを掌に乗せて少女にみせた。「そうなんだ……残念だったね」と、悲しそうに言いながら、傘を折り畳み始め、
そして、少女の顔が露わになった――。
〇
「――懐かしいな」
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