僕がオメガじゃなかったら

ネギマ

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 彼――西條依月という名前の青年は、積極的に人とは関わらず、講義室の隅の方でひっそり息をひそめるように過ごすような……よく言えば落ち着いた雰囲気、悪く言えば影が薄い人だった。
 自分が家族や友人以外の人間にあまり興味が無いのは自覚していて、西條も、普段であれば気にもとめない部類の人間だ。しかし俺は大学に入学して早々、そんな西條に目がとまった。
 オリエンテーションが行われた講義室の隅っこに座っていた彼の方から、甘く、春に咲く花のような匂いが僅かにしたのだ。
 アルファ性が強いからか、俺は他人のフェロモンの匂いに敏感だった。言われなくても、誰がアルファで誰がオメガかわかるくらいに。だから不意に香ってきた匂いがオメガのもので、それが西條からしているとすぐに気が付いた。
 しかしいつもは、フェロモンを感じ取ったとしても興味がないからいちいち匂いの主を探したりはしない。ではなぜこのとき、フェロモンを発している西條を見つけたのか。それは彼のフェロモンが、これまで感じてきたオメガのどのフェロモンよりも魅力的で、うっとりしてしまうくらい魅惑的であったからだ。
 他人のフェロモンに対してそうなるのは初めてで、俺は少々戸惑った。離れた場所に座ってみても勝手に視線は彼の方に向いてしまう。きっと彼のフェロモンと俺は相性が良いのだろう。このとき、自分はちゃんとオメガに惹かれるようにできているアルファなんだなと、改めて実感した。
 だがしかし、俺はこと恋愛に関しては興味がないしする気もない。そんな中で彼のフェロモンにいちいち惹かれてしまっては、自分の本能と本心の温度差でいつかストレスで大学に行くのが嫌になってしまいそうだと、今後を憂いた。

 そんなことを考えているうちに大学の入学からしばらく経ち、新生活にも慣れてきた頃だった。彼が腫らした頬にガーゼを貼って講義室に入って来たのは。
 彼と講義が被ったり大学構内で姿を見かけると無意識のうちに視線を向けてしまっている自分に気付く度に、まったく面倒な性に生まれてしまったものだとため息を吐いていたのだが、ときはさすがに驚きすぎて視線を逸らすことができなかった。
 ガーゼを貼っても隠しきれないあまりにも痛々しいそれは周囲から注目を浴びそうなもんだったけれど、西條は元々目立たないタイプの人だったからか、すぐ近くに座っている同期たちは彼の様子に気付いていないようだった。それはそれでどうなんだと思わなくもないが、いつも以上にうつむいて小さくなっている背中を見て、普段からの異様な影の薄さはあえてそうしているのだと察した。
 息をひそめるようにひっそりと過ごしているのも、普通に生活していたら負わないような怪我も、なにか深い事情がってのものなのだろうか。……というか、明らかにそうだろうな。あの怪我の感じは事故とか不注意でぶつけたなんてレベルじゃない。確実に誰かに負わされたものだ。
 誰かと殴り合いのケンカをした末に負ったものというのも考えにくい。遠目でもわかるくらいの細腕に華奢な西條の身体じゃ、やり返すことも難しいだろう。だからおそらく彼は、一方的に暴力をふるわれている。
 まだ痛みはあるのか、他に怪我はしていないのか。一体誰が、そんなひどいことをしているのか。
 この日はそうやって、普段は決してしない彼の身を案じるようなことばかり考えてしまった。



「それ、身内からDVを受けてるんじゃないか?」

 講義を全て終えたあと、俺は他の大学に通っている数人の友人とカフェに集まっていた。はじめは各々適当に課題をしていたのだが、集中力も切れてしまい、みんなで雑談をし始めたところで俺の恋愛事情に一番興味を示している友人、目黒に、「気になる子はいないのか」という大学に入って何度目かになる質問を投げかけられた。その際に、ふと思い浮かんだ西條のことと今日の彼の様子を話してみたら、目黒が軽薄な笑顔を引っ込め珍しく真剣な表情と声色で先の言葉を言った。

「西條ってたぶん“あの”西條だろ。末の息子がオメガだったって、一時期めちゃくちゃ騒いでたし」
「“あの”って……?」
「東雲、西條家のこと知らないの?」

 隣りで話を聞いていた別の友人、高田が目を丸くする。周りの動向など気にせずなにも考えていなさそうな目黒も西條家のことは知っているようで、「相変わらずマイペースだな」なんて呆れた目を向けられてしまった。
 二人曰く、西條家とはうちのように会社を経営している家で、一部界隈では悪い意味で有名らしい。なんでも西條家は、十数年前に事業で成功し現在の地位を築き上げたものの、代々アルファ至上主義でオメガへの偏見がひどく、差別がなくなりつつある今現在もその思想が根強く残っているそうだ。そのため今はその西條家と関わる家も減っており落ち目ではあるみたいなのだが、残っている傘下とともにしぶとく生き残っているらしい。
 そしておそらく西條依月は、その西條家の末の息子だ。

「それと噂で、西條家のオメガが傘下の……えぇと、ナントカって家に嫁いだって聞いたな」
「嫁いだんじゃなくてまだ婚約段階らしいよ。兄さんが仕事で、西條家の末息子を貰ったって自慢気に話してる人と会って、そこでなんとなしに聞いたみたい」
「未だに西條と付き合いがある家なんか、どうせ落ち目で西條と同じオメガ差別してるような奴らだろ。そこに嫁がなきゃならないって……気の毒だよなぁ」
「そんなのばかりがいる環境に身を置いてるオメガが周りからどういう扱いを受けるかなんて、想像に難くないよね……」

 高田はそう言って、物悲しげに目を伏せた。
 そうか。DV、という可能性を考えていなかった。
 思い返してみれば彼は、入学当初から度々足をかばうように歩いていたり、座っているのも辛そうにしているときがあったように思う。それら全てが身内や婚約者から受けている暴力のせいだったとしたら。それからあの控えめな存在感や性格も、彼の置かれている環境がそうさせているのだとしたら……。
 俺は、オメガだとかアルファだとか言って性別を見て差別する人間が嫌いだ。オメガを下に見る人は特に。小学生のときの友人宅であったあの出来事以来、その嫌悪感は顕著になっている。
 アルファもベータもオメガも、できることがそれぞれ違うだけでみんな同じ人間だ。オメガだから劣っているわけじゃない。西條のように、難関大と呼ばれているうちの大学し試験をパスして入学できる人もいる。優秀とされるアルファにだってしょうもない奴はいるし、ベータにだってアルファ以上に優秀な人がたくさんいるのだ。
 だから、性別だけで判断し、オメガを差別するような思想や、憶測とは言えオメガを――西條を虐げている人間が許せない。

「……西條を逃がせる方法、なにかないかな」

 俺のふとこぼした呟きに、目黒と高田が目を丸くして数秒呆けたように俺を見つめた。

「……なに?」
「い、いやぁ、まさか東雲の方からそんなこと言うとは思わなくて。友達とか家族以外にはドライなお前にしては珍しい……ってか、初めてじゃない?他人のために自分からなにか行動起こそうとするの」
「そんなことないと思うけど」

 いや、あるかも?
 たしかに友人や家族以外のためになにかしようと思ったことすらここ数年はないかもしれない。下手に気を遣って優しくして、つきまとわれた経験があるからそれ以来いらない気は遣わないようにしているのだ。

「なぁなぁ、もしかしてその西條くんのこと、結構マジだったりする?」

 先程まで真剣な顔つきをしていた目黒が、軽薄そうな笑みを浮かべ楽しそうに言った。いつの間にか、普段の調子に戻っている。

「マジって、なにが」
「ラブなのかどうかに決まってんじゃーん!ね、ね、どうなの?」
「そういうんじゃない」
「またまたぁ。フェロモンの相性もいいみたいだし、本能レベルで惹かれちゃってんじゃない?面倒くさいって態度取ってるけどかなり気にしてるっぽしさー」
「こら目黒、だる絡みするなよ」

 高田が止めに入ってくれたが、目黒はそれでもしつこくどうなんだと問い詰めてくる。これをまともに相手しても意味はないので、いつものごとく無視を決め込んだ。
 しかし、目黒の言っていることはあながち間違いじゃないのかもしれない。ラブとか、本能レベルで惹かれてるとかは正直よくわからないが、面倒だと言いつつも気にしてしまっているのは事実だ。西條が困っているのならば放ってはおけないと、そんな心持ちになる。先にも述べたがこんなことを他人に思ったことなどなかったのに、おかしな話だ。

「まぁとにかく、手助けしたいと思ったならまずは話しかけてみろよ。そんでいろいろ聞いてって、助けを必要としてるようなら手を差し伸べてみる」
「俺も、それが一番いいと思う。必要なら俺たちも手伝うから、なんでも言ってよ」
「……あぁ、ありがとう高田」
「ちょっと、俺にありがとうは無いの?」
「目黒も珍しくいい助言をありがとう」
「一言余計!」

 それから俺は、以前より一層西條に意識を向けるようになった。

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