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第四章 王立学院中等部三年生
269 記憶の欠片①
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Side:アシェル14歳 秋
シオンが気を取り直し、マリクに解放されたアークエイドは、シオンにジト目を向けながらも食ってかかるようなことは無かった。
イザベルがシオンに時期を聞いて、アークエイドに向かって「誰かさんのお陰で、アシェル様の状態が悪化した後の出来事でございます。」と、刺を含んだ言葉を投げつけたからだろう。
思うに、その誰かさんがアークエイドなのだと思う。
話の中でも、キスをした時も。
アークエイドはアシェルに近くて、親しい間柄だったと分かる。
でもシオンとのことを思い出して。
——何故か、アークエイドとは距離を取らなくてはいけないと思った。
今は恋人だと言っていたが、シオンとのやり取りがあった時はそうではない、と感じた。
きっとそれは、その時のアシェルの感情なのだろう。
そして好きだという気持ちも分かった気がした。
これが本当にそうなのかは分からないが、少なくとも欲しかった好きな人の子供の相手は、アークエイドなのだろうと思った。
時系列の繋がらない記憶の欠片。
その中身は、確かにアシェルが今までこの世界で生きていたのだと強く思わされる。
「それで。私はどうしたらいいの?保護者……ううん、家族ね。家族には、もう少し記憶を思い出してから会いたいのだけれど。」
「邸にも手紙が届いていると思いますが、旦那様達はまだ戻っておられないでしょう。一先ず、学院内を周りましょう。少しは記憶の手掛かりがあるかもしれません。ですが、夜はメイディー公爵家へお帰りいただきます。旦那様達がご心配なさっているでしょうし、あの手紙を読めば、大急ぎで帰りの手配をするでしょうから。」
夜には家族と顔を合わせないといけないらしいが、少しばかり猶予が出来たことに安堵する。
ちょうど教室を訪れたノアールという幼馴染の一人を紹介され、大人数だと目立つという理由で、アシェルはイザベル、アークエイド、マリク、リリアーデと共に校舎内を巡る。
これでも大所帯だと思ってしまったが、アークエイドは傍に居ると言い張るし、マリクは護衛代わりだという。
それと話や感性の通じる人間が一人いないと困るので、リリアーデが付いて来てくれたのだ。
施設が閉まってしまうからと一旦校舎外に出て、三つもある大きなコロッセオにも見える演習場や、お洒落なカフェテリア、大人数が入れそうな食堂を見た。
大きなエピソードは思い出せなくても、それでもそれらを利用したことがあるのは思い出せた。
時系列の繋がらない小さなパズルのピースが、あちらこちらに落ちている感じで少し不思議な感覚だ。
それから校舎に戻り、普段移動教室で使っている教室を窓から覗いていく。
と言っても、誰もいない教室は全て同じに見えるのだが。
5階まで上がると、生徒会室に連れていかれる。
生徒会役員であるメルティーとノアール、シオンが既に事情を説明していることと、アシェルは生徒会役員で全員と面識があることを事前に伝えられた。
「失礼します。」
コンコンと扉を叩いたイザベルが、返答を受けて扉を開け、まずは綺麗なお辞儀をしてからアシェル達が入るまで扉を抑えていてくれた。
扉くらい自分で抑えて通るので、先に入ってくれて構わないのにと思う。
リリアーデにこっそり、使用人が扉を開けるのは当たり前のことだと言われたが、なんだか不思議な感覚で落ち着かない。
来訪者に気付いた生徒の中で真っ先にアシェルの元に近づいてきたのは、黒髪に小麦色の肌のエキゾチック美女だった。
「アシェル、身体は大丈夫なの!?ノア様達から話は聞いたわ。全く、あの国は……。あら、驚かせてしまったわね、ごめんなさい。」
最初の勢いにビックリしてリリアーデの陰に隠れてしまったアシェルを見て、アビゲイルは口調を穏やかなものに変えた。
その背後から驚きの声も上がっている。
——それは普段のアシェルであれば、絶対に取らないような行動をしたから。
「わたくしはアビゲイル・ナイトレイ。この国の第一王女で、そこのアークエイドの姉よ。危害を加えたりしないわ、安心して頂戴。」
「王女様……。失礼をしてしまい申し訳ありません。事情をお聞きとのことですが、作法なども全て忘れてしまっております。不躾な言動をしてしまうかもしれませんが、寛容にご対処いただければと思います。」
淡々と言葉を紡ぎながら、手を揃えしっかり90度腰を折り曲げたアシェルを見て、居合わせた人々はぽかんとあっけに取られた。
これでは執事たちが、忠誠を誓った者にする最上位の礼だと。
「待って、アシェル。顔を上げてちょうだい。礼を取るために頭を下げてくれたのは分かるけれど、下げ過ぎよ。アシェルは公爵家の娘。そんな風に頭を下げてしまっては、事情を知らない人間は貴女を侮ってしまうわ。挨拶と、軽く頭を下げてくれるだけで良いのよ。」
言われた通り頭をあげたアシェルは、アビゲイルの助言を有り難く受けた。
この世界のマナーを知らないから他人を不快にさせられない。それが平民であればきっと問題なかったのだろうが、中途半端に身分が高いのでややこしそうだ。
「分かりました、ありがとうございます。」
「生徒会の方は気にしなくても良いわ。今は人員が多いから十分にまわると思うし。きっとアークは、アシェルの傍を離れたがらないと思うの。迷惑をかけるかもしれないけれど、アシェルのことに詳しいのは、侍女のイザベルとアークだと思うわ。頼るのは難しいかもしれないけれど、分からない事があるなら二人に聞けば良いわ。」
「そう……ですか。分かりました。」
「アーク。貴方はアシェルの傍に居て支えてあげなさい。もしかしたら呼び出すこともあるかもしれないけれど、国としての対応の方は、わたくしが受け持つわ。」
「迷惑をかけてすまない。」
「仕方のないことだし良いわよ。ただし、これは一つ貸しよ。冬休みの執務は変わってもらうから、そのつもりでいてね。」
「うっ……。ちゃんとノアに確認を取ってからにしてくれ。」
「ふふっ、言質は取ったわよ。さぁ、アシェルは一旦お部屋に戻りなさい。準備もあるでしょうから。メルティーも今日はもう良いわ。きっとメイディー卿のことだから、家族全員を集めるでしょう。」
「分かりましたわ。皆様、お先に失礼いたします。」
何をノアールに確認するのか分からないが、アシェルのせいでアークエイドの仕事が増えたことだけは分かった。
そして王族だからか、学生の身でありながら既に仕事をこなしていることが凄いと思った。
日本の学生もアルバイトをしているが、国に関わる仕事だ。内容の難しさもだが、責任も重大だろう。
生徒会役員たちがひらひらと手を振ってくれる。生徒会でも良好な人間関係を築いていたようだ。
それに軽く会釈して返事の代わりにした。
メルティーも加えて、次は寮に向かう。この学校は全寮制だそうだ。
メルティーとは違う棟のようで寮の入り口で別れ、エレベーターで5階に到着した。
「……タワマン仕様?」
オートロックの扉を見てぼそりと呟いたアシェルの言葉を、リリアーデが拾い苦笑する。
「気持ちは分かるわ。わたくしだって最初そう思ったもの。寮の最上階にはセキュリティがしっかりしているエリアがあるの。ここがそうよ。この長い廊下に六部屋しかなくって、どの部屋も大きいの。王族とか、特別な事情がある人が入る場所ね。アークの部屋は勿論。わたくしと双子のデュークはここの一部屋に住んでいて、その事情でアシェもここにある部屋なの。まぁ詳しくは……説明がややこしいし、思い出せば分かるわ。」
長い廊下を歩きながら、そう説明を受けた。
アークエイドは廊下の真ん中で、支度をしたらすぐに部屋に行くと言い残し。
突き当りというにはかなり手前で、リリアーデは向かい側の扉に入っていった。
イザベルに届いたという手紙を片手に、デュークに説明してくるからと。それを終えたらアシェルの部屋に来るそうだ。
二人にイザベルは、鍵を開けておくので勝手に入ってくれと言っていた。
二人が当たり前のようにそれに返事をしたことから、普段から部屋の行き来はあるのだろうなと感じる。
アシェルは自分の部屋だという扉をイザベルが開けてくれ、その広さに驚いた。
そしてすぐに、調度品や布製品に施された繊細な装飾に驚く。
「……広い……豪華……。」
「アシェル様……これでも公爵家としては質素な方でございます。アシェル様は必要最低限以上のものは好みませんので。各部屋の案内をさせていただきますね。」
応接間が間仕切りで半分になっていたことにも驚いたが、一部屋一部屋がとにかく広い。
一人暮らしでお風呂とトイレが二つもあるし、寝室のベッドも大きかった。何サイズになるんだろうか。
これが日本でお家賃となると、大富豪しか住むことが出来ないだろう。
「アークエイド様はよく同衾……お泊りされておりましたので、そういう仲だった、とお伝えしておきます。」
それは身体を重ねていたという意味だろうか?濁された言葉の意味を考えつつも、お泊りするほど仲が良かったのだと改めて思う。
大事な人が——咲や健斗が——もし今のアシェルみたいになったら、自分だって傍を離れたくないと思うだろう。
アークエイドの気持ちが少しだけ分かった気がした。
それから絶対に手を触れないようにと言われ、普段アシェルが錬金という、薬を作る作業をしていたという部屋を見せて貰う。
イザベルでも素材に関しては全て理解しているわけではないので、出来れば入口から覗くようにと。
置いてあるガラス器具を見て、理科室みたいだと思うと同時に。
その部屋に漂う香りは身体に馴染むような、落ち着く匂いだった。日本の病院臭とはまた違う、漢方だろうか。きっと薬の素材の匂いなのだろう。
「念のため、アシェル様が思いだした時に作業が出来るように、道具を荷造りしておきますね。ここだけは記憶が無くとも、アシェル様の見ているところで準備させていただきたいので。」
言いながらイザベルは、テキパキとガラス器具を手に取り『ストレージ』の中に仕舞っていく。
きっとアシェルにとって大事な部屋だから、アシェルが居る場所で支度してくれているのだろう。そのちょっとした気遣いがなんだか嬉しい。
実験室の支度が済むと応接間に戻り、ソファへ座るように促された。
身体が沈むくらいふかふかのソファだった。かといって沈みすぎることもなく、腰に悪そうという事もない。
ぺらっぺらの座椅子を使っていた薫とは大違いである。その座椅子ですら、咲から床に直座りは身体が冷えるからダメだと怒られたから用意したものだった。
紅茶を振舞われ、大人しく座っているように、と言われた。
イザベルは着替えなどの必要品を纏めに行くようだ。
程なくしてリリアーデがノックと共に扉を開けて顔を見せ、自分の紅茶とアシェルの隣に一杯のコーヒーを置いて向かい側に座った。
「デュークにも会わせようかと思ったんだけど、急に沢山の人に会ってアシェも疲れてるでしょ?わたくしとデュークって大体セットだから、思い出すなら一緒に思い出すだろうし、急がなくても良いかなって。デュークにはエトとトワ……あと二人の幼馴染に説明しに行ってもらったわ。」
「手間をかけてごめんなさい。」
「このくらいなんともないわ。アシェは気にしすぎなのよ。それより、お腹空いてない?サンドイッチだけど、用意してもらったの。晩御飯をどうするか分からないけど、こっちじゃお箸なんて無いからフォークとナイフだし。もしメイディー邸でご飯ってなったら、緊張して喉を通らないんじゃないかと思って。はい。お好きなのをどうぞ。」
リリアーデが『ストレージ』から取り出したサンドイッチは色とりどりで、どれも美味しそうだった。
「ありがとう。いただきます。」
しっかりと両手を合わせてから、大好きな卵の入ったサンドイッチを手に取る。
卵とマヨネーズを混ぜたものよりも、卵焼きにケチャップのこの具材のものが好きなのだ。
卵サンドというより卵焼きサンドである。
真っ先に手に取ったサンドイッチを見て、リリアーデは凄く大人びた笑顔で口を開いた。
「ふふっ、やっぱりアシェはそのサンドイッチが好きなのね。わたくしはアシェのお家までついていくことは出来ないけど……コレだけは覚えておいて。どんな記憶があっても無くても、その魂の本質は変わらないの。わたくしがリリアーデで百合であったように、アシェが薫だったように。確かに積み重ねるものも経験も違うけれど、それでも自分は自分でしかないのよ。そして今、アシェを取り巻く周囲の人たちは、アシェのことが大好きだわ。記憶がしっかり戻るまで、ちょっとしたことで戸惑いは生まれるかもしれないけれど、それでもそんな些細なことでアシェのことを嫌ったりなんてしないから。言い方は変かもしれないけれど、自分は愛されているって自信を持ってちょうだい。アシェも薫も大事なことに関しては言葉が少なそうだけど、出来るだけ考えを口にしてあげて。そうすれば、相手からもちゃんと反応が返ってくるし、アシェのことをもっと理解してもらえるわ。……約束して欲しいの。周囲の反応が怖いからって、自分から嫌われようとしないって。……約束できる?」
「約束、する。」
「ふふっ、良かったわ。あ、アークも来たわね。」
カチャっと小さな音がして扉が開き、今度はアークエイドが現れた。
手には一通の手紙を持って。
「邪魔をする。メイディー公爵家から手紙が届いている。」
「アークの部屋に来たの?」
リリアーデの問いに、ほとんど表情が変わらないままアークエイドは頷いた。
「アシェの侍女はイザベルだけだからな。俺の方に届けたほうが、行き違わないと思ったんだろ。イザベルは?」
「支度。座っててって。」
「分かった。手紙はイザベルに開けて貰った方が良いだろ。」
スッと隣までやってきたアークエイドを見て、リリアーデが珈琲を用意したのはアークエイドの為だったのだなと思った。
きっと紅茶よりも珈琲が好きなんだなと。
ふわっと、どこか落ち着く香りがして温もりを感じた。
今のアシェルには分からなかったが、アークエイドがいつものように隣にピッタリと寄り添うように座ったのだ。
あまりの近さに体温が上がり、頬が熱を持つのを感じる。
なんていうか、恋人だとしても近すぎないだろうか。
それを向かい側からしっかり見ていたリリアーデは、ニヤニヤしている。
「うふふっ、役得だわ。アシェの照れる姿なんて貴重かも。」
その言葉に視線を動かしたアークエイドの、サファイアブルーの瞳と眼があった。
僅かに口角が上がり、満面の笑みとは程遠いのに。
それを見ただけで、アークエイドがとても喜んでいることが分かった。
「本当だな……。何に照れたんだ?」
先程より僅かに近くなった顔から、涼しげなサファイアブルーの纏う熱から目を逸らすことが出来なかった。
この瞳を良く知っている気がする。
「ちか、くて……落ち着く、匂い、して……。部屋、寒くないはずなのに。」
熱の籠った瞳が驚きに見開かれる。
「あぁそうだな。アシェはいつも俺に寒いの?って聞いてたが……。別に寒い訳じゃない。少しでも意識して欲しかったし、こうやってアシェに少しでも触れてたかったんだ。残念ながら、5歳のアシェには全く相手にしてもらえなかったがな。」
頭の中に浮かんだことを言葉にする。
記憶のパズルがちょっとだけ埋まったし、考えていることを話せば新しいピースが出てくるかもしれない。二人の口から聞けなくても、見つかるかもしれないから。
「だって、あのアシェルは男の子だったから……。恋愛の好きって、思ってなかった。最初の内は、少しだけ……ドキドキしたけど、じゃれてるみたいなものって。そう思ってたら、多分、普通になってた。」
たどたどしく自分の思いを口にすると、今度はアークエイドが頬を染めた。
それから手で顔を覆い、視線が逸らされる。
「これは……ヤバい。この状況が許せないのに、この状況だからこそ聞けると思うと……。」
「はいはい。良いわねぇ、若いって。おねーさんニマニマが止まらないわ。でも、お願いだから目の前でおっぱじめないでよね。そういうプレイならともかく、友達のエッチを眺める趣味はないわよ?せめてキスまでにしてちょうだい。」
チラッとアークエイドの視線が飛んでくる。
「いや……流石にそれはアシェが嫌がるだろ。強く望めば受け入れてくれるかもしれないが、それは俺に合わせてるだけで。アシェの意志が無い。散々望まないことを受け入れてきたんだ。無理をさせたくない。」
「……知ってるの?」
今まで薫がどんなことをしてきたのか。
「知ってる。大人達に強要されていたことを、親友を守る手段を。幼馴染たちは薫が孤児だったとか簡単な事しか知らないが、俺とアシェの家族は全員、割と細かいことも聞いてる。家族に話したと聞いた時に、そうアシェが言っていた。俺とアシェの一番上の兄はちょっとしたエピソードも、かなり細かく聞いた。手法は違うだろうが、アシェは薫の時の嫌な記憶を封じてたんだ。それが虫食いみたいで気になるからと、思い出すのを手伝っていたから。」
「そう……軽蔑しないの?知らない人に身体を売って、お金を貰ってたんだよ。こっちじゃどうか知らないけど、犯罪だった。」
「する訳ないだろ。軽蔑するとしたら、それを薫にさせた大人の方にだ。辛かっただろうが、きっと逆らう方が難しかっただろうと思うからな。非力な女性じゃ、出来ることも限られる。それを強要していたのが、本来薫を庇護するべき大人だったんだからなおさらだ。」
何でもないことのように言われたその言葉が、ずっと心の中に燻っていた後ろめたさや罪悪感を洗い流していく。
仕方ないことだ、必用な事だと思っていても、未成年がお金を貰って悪いことをしているという意識は消えなかった。
咲と健斗とならば心が埋まるのに、あの行為は心に暗い穴を広げ続けた。
その穴がどんどん小さくなっていって、心の中がぽかぽかと暖かくなる。
「そっか……ありがとう。」
ふわりと微笑んだアシェルの笑顔に、熱が引いていたアークエイドの頬がまた染まる。
黙ってしまったアークエイドに代わり、リリアーデが口を開いた。
「アークはアシェの貴重な本当の笑顔が見れて嬉しいんですって。アシェはいっつもにこにこしているけど、それはアシェの処世術の一つなのよね。まぁ幼馴染なわたくし達には、いつもの微笑みと本当の笑顔くらい見分けられるけれど。因みに、アークの無表情のから感情の変化を読み取ることもよ。」
どこか胸をはってるようなリリアーデがおかしくて、クスクス笑う。
さっきまでお姉さんみたいだったのに、今は見た目の年相応に見えるから不思議だ。
「そっか、さっき思ったのは間違いじゃなかったんだね。アークを見た時、視覚情報と脳内情報が一致しなかったから。にこにこしている私……想像がつかないわ。でも確かに、小さい時の僕はいつも笑顔だった気がする。」
「気がするんじゃなくて笑顔だったのよ。まぁそれも、記憶を思い出せば思い出すんじゃないかしら?封印そのものは弱いって言ってたしね。アークはストーカーかってくらい、いつもアシェにべったりだったから。アークといっぱいお喋りしながら、焦らず思い出すと良いわ。何にしても焦りは禁物よ。人生焦ったって、どうせやれることも限られてるし、時間しか解決しないものだってあるんだから。どーしても思い出せないことは、大体どうでも良いことなのよ。とにかく、無茶はダメよ。」
「リリィが言うと、重みが違うね。」
「ふふっ、なんせ実年齢プラス30歳だからね。薫は考えてることをあまり口にしないみたいだから、出来るだけ言葉にして。何を思ったとか感じたとかだけでも良いから、アークに教えてあげると良いわ。アシェに関することなら無駄に物覚えが良いから。」
「無駄じゃない。」
気付けば再起動したようで、ジト目がリリアーデに向けられていた。
当のリリアーデは素知らぬ顔である。
「さて、もうわたくしがいなくても大丈夫かしら?アークと二人だと不安?」
そこまで言われて、ようやくリリアーデがずっと付き添ってくれていた意味が分かった。
アシェルがアークエイドを信用できないと言って突っぱねたので、馴染むまで様子を見てくれていたのだと。
「大丈夫。嫌な感じ、しないから。あたたかくて落ち着く。」
「そう。良かったわ。アーク、アシェが可愛いからって同意なく襲っちゃダメよ?また学院に戻ってくるのを楽しみにしておくわ。あ、授業のノートも気にしなくて良いからね。アシェなら授業に出てなくても、きっとノートだけで十分だから。頭がいいって羨ましいわ。じゃあまたね。」
「ありがとう、またね。」
「おやすみ。」
賑やかなリリアーデが居なくなると、部屋の中に無言が満ちる。
だがそれも嫌な感じではなく、落ち着く感じだ。
二人でのんびり飲み物に口をつけていると、イザベルが戻ってきた。
「帰りの支度が整いました。……リリアーデ様は?お声がしていたと思ったのですが。」
「リリィは帰った。俺とアシェを二人にしても大丈夫だと判断して。それより、メイディー公爵家からの手紙だ。アシェよりも、イザベルが読んだ方が良いだろ?」
「そうですね、失礼いたします。」
アークエイドから手紙を受け取り開封したイザベルは、ざっと内容に目を通した。
「やはり迎えが来るようですね。私はマルローネと共に外出手続きをしてまいりますが……アークエイド様はどうなさいますか?メルティー様は絶対にですが、アークエイド様はご自由にとのことです。」
「行く。」
「そう言うと思っておりました。ついでですので、一緒に手続きをしておきます。お部屋への連絡も。」
「すまない。」
「二人も三人も一緒でございます。その代わり、アシェル様の傍から離れず、応接間でゆっくりされていてください。絶対に出歩かれませんようにお願いします。」
「分かっている。」
イザベルの言葉に淡々とアークエイドが返事をし、それを確認してイザベルは部屋を出て行く。
ちょんちょんとアークエイドの袖口を引っ張ると、不思議そうにこちらを見た。
「ベルの話し方、不敬って言われたりしない?怒ってない?」
「ん……?あぁ、侍女が王族に直接口をきいて良いのか、行動を制限して良いのかとか……そういうことか?」
コクコクと頷く。
「気にするな。イザベルには俺も世話になっているし、今のはかなり丁寧な方だ。イザベルはアシェ付きの侍女とは言え、伯爵令嬢でもあるからな。俺達と同じように学院に通っている貴族だ。学院内では、一応身分の貴賤を問わず平等を謳っている。それにリリィが、メイディーにはそれぞれ王族の幼馴染がいて、王命より兄妹優先と言っていただろ?イザベルもアシェの乳兄妹で、アシェの兄妹達にとって、血の繋がりは無くても妹の一人だ。」
今ので丁寧?と疑問に思うが、それよりも恐ろしいことを言っている気がする。
「つまりベルも、王命より兄妹が大事?」
「そういうことだ。俺達兄弟はソレを知っているから、イザベルやアシェの兄達も含め、その言動を特別不敬だと思うことは無い。イザベルはアシェが嫌がることや困ることをすると、普通に怒鳴り込んでくるぞ。まぁ普段通りのやり取りだ。気にしなくて良い。」
くくっと面白そうにアークエイドは笑う。
シオンとのやり取りを怒られた時のような感じかなと首を傾げ、何はともあれ、アークエイドが気にしていないなら良かったと胸を撫で下ろした。
物語の中では王族は気位が高かったり、気に入らなければ首を刎ねるようなキャラクターだっていたのだ。イザベルが罰を受けるんじゃないかと心配してしまった。
しばらくしてイザベルが戻り、メルティーとその侍女だというマルローネとも合流した。
初めて——ではないのだろうけれど、初めてみる大きな馬にちょっと驚きながらも、馬車に乗って実家に帰ることになったのだった。
ちなみによくある転生チートで、馬車の揺れを軽減するために改良案を云々とあるが。きっとそれは為された後だと思う。
座席はフワフワでガタゴト音はするのに揺れは無く、想像していたよりも快適な乗り心地だった。
——アシェルはそもそも知らないが、これは馬車の構造と魔法を組み合わせた結果の産物である。
シオンが気を取り直し、マリクに解放されたアークエイドは、シオンにジト目を向けながらも食ってかかるようなことは無かった。
イザベルがシオンに時期を聞いて、アークエイドに向かって「誰かさんのお陰で、アシェル様の状態が悪化した後の出来事でございます。」と、刺を含んだ言葉を投げつけたからだろう。
思うに、その誰かさんがアークエイドなのだと思う。
話の中でも、キスをした時も。
アークエイドはアシェルに近くて、親しい間柄だったと分かる。
でもシオンとのことを思い出して。
——何故か、アークエイドとは距離を取らなくてはいけないと思った。
今は恋人だと言っていたが、シオンとのやり取りがあった時はそうではない、と感じた。
きっとそれは、その時のアシェルの感情なのだろう。
そして好きだという気持ちも分かった気がした。
これが本当にそうなのかは分からないが、少なくとも欲しかった好きな人の子供の相手は、アークエイドなのだろうと思った。
時系列の繋がらない記憶の欠片。
その中身は、確かにアシェルが今までこの世界で生きていたのだと強く思わされる。
「それで。私はどうしたらいいの?保護者……ううん、家族ね。家族には、もう少し記憶を思い出してから会いたいのだけれど。」
「邸にも手紙が届いていると思いますが、旦那様達はまだ戻っておられないでしょう。一先ず、学院内を周りましょう。少しは記憶の手掛かりがあるかもしれません。ですが、夜はメイディー公爵家へお帰りいただきます。旦那様達がご心配なさっているでしょうし、あの手紙を読めば、大急ぎで帰りの手配をするでしょうから。」
夜には家族と顔を合わせないといけないらしいが、少しばかり猶予が出来たことに安堵する。
ちょうど教室を訪れたノアールという幼馴染の一人を紹介され、大人数だと目立つという理由で、アシェルはイザベル、アークエイド、マリク、リリアーデと共に校舎内を巡る。
これでも大所帯だと思ってしまったが、アークエイドは傍に居ると言い張るし、マリクは護衛代わりだという。
それと話や感性の通じる人間が一人いないと困るので、リリアーデが付いて来てくれたのだ。
施設が閉まってしまうからと一旦校舎外に出て、三つもある大きなコロッセオにも見える演習場や、お洒落なカフェテリア、大人数が入れそうな食堂を見た。
大きなエピソードは思い出せなくても、それでもそれらを利用したことがあるのは思い出せた。
時系列の繋がらない小さなパズルのピースが、あちらこちらに落ちている感じで少し不思議な感覚だ。
それから校舎に戻り、普段移動教室で使っている教室を窓から覗いていく。
と言っても、誰もいない教室は全て同じに見えるのだが。
5階まで上がると、生徒会室に連れていかれる。
生徒会役員であるメルティーとノアール、シオンが既に事情を説明していることと、アシェルは生徒会役員で全員と面識があることを事前に伝えられた。
「失礼します。」
コンコンと扉を叩いたイザベルが、返答を受けて扉を開け、まずは綺麗なお辞儀をしてからアシェル達が入るまで扉を抑えていてくれた。
扉くらい自分で抑えて通るので、先に入ってくれて構わないのにと思う。
リリアーデにこっそり、使用人が扉を開けるのは当たり前のことだと言われたが、なんだか不思議な感覚で落ち着かない。
来訪者に気付いた生徒の中で真っ先にアシェルの元に近づいてきたのは、黒髪に小麦色の肌のエキゾチック美女だった。
「アシェル、身体は大丈夫なの!?ノア様達から話は聞いたわ。全く、あの国は……。あら、驚かせてしまったわね、ごめんなさい。」
最初の勢いにビックリしてリリアーデの陰に隠れてしまったアシェルを見て、アビゲイルは口調を穏やかなものに変えた。
その背後から驚きの声も上がっている。
——それは普段のアシェルであれば、絶対に取らないような行動をしたから。
「わたくしはアビゲイル・ナイトレイ。この国の第一王女で、そこのアークエイドの姉よ。危害を加えたりしないわ、安心して頂戴。」
「王女様……。失礼をしてしまい申し訳ありません。事情をお聞きとのことですが、作法なども全て忘れてしまっております。不躾な言動をしてしまうかもしれませんが、寛容にご対処いただければと思います。」
淡々と言葉を紡ぎながら、手を揃えしっかり90度腰を折り曲げたアシェルを見て、居合わせた人々はぽかんとあっけに取られた。
これでは執事たちが、忠誠を誓った者にする最上位の礼だと。
「待って、アシェル。顔を上げてちょうだい。礼を取るために頭を下げてくれたのは分かるけれど、下げ過ぎよ。アシェルは公爵家の娘。そんな風に頭を下げてしまっては、事情を知らない人間は貴女を侮ってしまうわ。挨拶と、軽く頭を下げてくれるだけで良いのよ。」
言われた通り頭をあげたアシェルは、アビゲイルの助言を有り難く受けた。
この世界のマナーを知らないから他人を不快にさせられない。それが平民であればきっと問題なかったのだろうが、中途半端に身分が高いのでややこしそうだ。
「分かりました、ありがとうございます。」
「生徒会の方は気にしなくても良いわ。今は人員が多いから十分にまわると思うし。きっとアークは、アシェルの傍を離れたがらないと思うの。迷惑をかけるかもしれないけれど、アシェルのことに詳しいのは、侍女のイザベルとアークだと思うわ。頼るのは難しいかもしれないけれど、分からない事があるなら二人に聞けば良いわ。」
「そう……ですか。分かりました。」
「アーク。貴方はアシェルの傍に居て支えてあげなさい。もしかしたら呼び出すこともあるかもしれないけれど、国としての対応の方は、わたくしが受け持つわ。」
「迷惑をかけてすまない。」
「仕方のないことだし良いわよ。ただし、これは一つ貸しよ。冬休みの執務は変わってもらうから、そのつもりでいてね。」
「うっ……。ちゃんとノアに確認を取ってからにしてくれ。」
「ふふっ、言質は取ったわよ。さぁ、アシェルは一旦お部屋に戻りなさい。準備もあるでしょうから。メルティーも今日はもう良いわ。きっとメイディー卿のことだから、家族全員を集めるでしょう。」
「分かりましたわ。皆様、お先に失礼いたします。」
何をノアールに確認するのか分からないが、アシェルのせいでアークエイドの仕事が増えたことだけは分かった。
そして王族だからか、学生の身でありながら既に仕事をこなしていることが凄いと思った。
日本の学生もアルバイトをしているが、国に関わる仕事だ。内容の難しさもだが、責任も重大だろう。
生徒会役員たちがひらひらと手を振ってくれる。生徒会でも良好な人間関係を築いていたようだ。
それに軽く会釈して返事の代わりにした。
メルティーも加えて、次は寮に向かう。この学校は全寮制だそうだ。
メルティーとは違う棟のようで寮の入り口で別れ、エレベーターで5階に到着した。
「……タワマン仕様?」
オートロックの扉を見てぼそりと呟いたアシェルの言葉を、リリアーデが拾い苦笑する。
「気持ちは分かるわ。わたくしだって最初そう思ったもの。寮の最上階にはセキュリティがしっかりしているエリアがあるの。ここがそうよ。この長い廊下に六部屋しかなくって、どの部屋も大きいの。王族とか、特別な事情がある人が入る場所ね。アークの部屋は勿論。わたくしと双子のデュークはここの一部屋に住んでいて、その事情でアシェもここにある部屋なの。まぁ詳しくは……説明がややこしいし、思い出せば分かるわ。」
長い廊下を歩きながら、そう説明を受けた。
アークエイドは廊下の真ん中で、支度をしたらすぐに部屋に行くと言い残し。
突き当りというにはかなり手前で、リリアーデは向かい側の扉に入っていった。
イザベルに届いたという手紙を片手に、デュークに説明してくるからと。それを終えたらアシェルの部屋に来るそうだ。
二人にイザベルは、鍵を開けておくので勝手に入ってくれと言っていた。
二人が当たり前のようにそれに返事をしたことから、普段から部屋の行き来はあるのだろうなと感じる。
アシェルは自分の部屋だという扉をイザベルが開けてくれ、その広さに驚いた。
そしてすぐに、調度品や布製品に施された繊細な装飾に驚く。
「……広い……豪華……。」
「アシェル様……これでも公爵家としては質素な方でございます。アシェル様は必要最低限以上のものは好みませんので。各部屋の案内をさせていただきますね。」
応接間が間仕切りで半分になっていたことにも驚いたが、一部屋一部屋がとにかく広い。
一人暮らしでお風呂とトイレが二つもあるし、寝室のベッドも大きかった。何サイズになるんだろうか。
これが日本でお家賃となると、大富豪しか住むことが出来ないだろう。
「アークエイド様はよく同衾……お泊りされておりましたので、そういう仲だった、とお伝えしておきます。」
それは身体を重ねていたという意味だろうか?濁された言葉の意味を考えつつも、お泊りするほど仲が良かったのだと改めて思う。
大事な人が——咲や健斗が——もし今のアシェルみたいになったら、自分だって傍を離れたくないと思うだろう。
アークエイドの気持ちが少しだけ分かった気がした。
それから絶対に手を触れないようにと言われ、普段アシェルが錬金という、薬を作る作業をしていたという部屋を見せて貰う。
イザベルでも素材に関しては全て理解しているわけではないので、出来れば入口から覗くようにと。
置いてあるガラス器具を見て、理科室みたいだと思うと同時に。
その部屋に漂う香りは身体に馴染むような、落ち着く匂いだった。日本の病院臭とはまた違う、漢方だろうか。きっと薬の素材の匂いなのだろう。
「念のため、アシェル様が思いだした時に作業が出来るように、道具を荷造りしておきますね。ここだけは記憶が無くとも、アシェル様の見ているところで準備させていただきたいので。」
言いながらイザベルは、テキパキとガラス器具を手に取り『ストレージ』の中に仕舞っていく。
きっとアシェルにとって大事な部屋だから、アシェルが居る場所で支度してくれているのだろう。そのちょっとした気遣いがなんだか嬉しい。
実験室の支度が済むと応接間に戻り、ソファへ座るように促された。
身体が沈むくらいふかふかのソファだった。かといって沈みすぎることもなく、腰に悪そうという事もない。
ぺらっぺらの座椅子を使っていた薫とは大違いである。その座椅子ですら、咲から床に直座りは身体が冷えるからダメだと怒られたから用意したものだった。
紅茶を振舞われ、大人しく座っているように、と言われた。
イザベルは着替えなどの必要品を纏めに行くようだ。
程なくしてリリアーデがノックと共に扉を開けて顔を見せ、自分の紅茶とアシェルの隣に一杯のコーヒーを置いて向かい側に座った。
「デュークにも会わせようかと思ったんだけど、急に沢山の人に会ってアシェも疲れてるでしょ?わたくしとデュークって大体セットだから、思い出すなら一緒に思い出すだろうし、急がなくても良いかなって。デュークにはエトとトワ……あと二人の幼馴染に説明しに行ってもらったわ。」
「手間をかけてごめんなさい。」
「このくらいなんともないわ。アシェは気にしすぎなのよ。それより、お腹空いてない?サンドイッチだけど、用意してもらったの。晩御飯をどうするか分からないけど、こっちじゃお箸なんて無いからフォークとナイフだし。もしメイディー邸でご飯ってなったら、緊張して喉を通らないんじゃないかと思って。はい。お好きなのをどうぞ。」
リリアーデが『ストレージ』から取り出したサンドイッチは色とりどりで、どれも美味しそうだった。
「ありがとう。いただきます。」
しっかりと両手を合わせてから、大好きな卵の入ったサンドイッチを手に取る。
卵とマヨネーズを混ぜたものよりも、卵焼きにケチャップのこの具材のものが好きなのだ。
卵サンドというより卵焼きサンドである。
真っ先に手に取ったサンドイッチを見て、リリアーデは凄く大人びた笑顔で口を開いた。
「ふふっ、やっぱりアシェはそのサンドイッチが好きなのね。わたくしはアシェのお家までついていくことは出来ないけど……コレだけは覚えておいて。どんな記憶があっても無くても、その魂の本質は変わらないの。わたくしがリリアーデで百合であったように、アシェが薫だったように。確かに積み重ねるものも経験も違うけれど、それでも自分は自分でしかないのよ。そして今、アシェを取り巻く周囲の人たちは、アシェのことが大好きだわ。記憶がしっかり戻るまで、ちょっとしたことで戸惑いは生まれるかもしれないけれど、それでもそんな些細なことでアシェのことを嫌ったりなんてしないから。言い方は変かもしれないけれど、自分は愛されているって自信を持ってちょうだい。アシェも薫も大事なことに関しては言葉が少なそうだけど、出来るだけ考えを口にしてあげて。そうすれば、相手からもちゃんと反応が返ってくるし、アシェのことをもっと理解してもらえるわ。……約束して欲しいの。周囲の反応が怖いからって、自分から嫌われようとしないって。……約束できる?」
「約束、する。」
「ふふっ、良かったわ。あ、アークも来たわね。」
カチャっと小さな音がして扉が開き、今度はアークエイドが現れた。
手には一通の手紙を持って。
「邪魔をする。メイディー公爵家から手紙が届いている。」
「アークの部屋に来たの?」
リリアーデの問いに、ほとんど表情が変わらないままアークエイドは頷いた。
「アシェの侍女はイザベルだけだからな。俺の方に届けたほうが、行き違わないと思ったんだろ。イザベルは?」
「支度。座っててって。」
「分かった。手紙はイザベルに開けて貰った方が良いだろ。」
スッと隣までやってきたアークエイドを見て、リリアーデが珈琲を用意したのはアークエイドの為だったのだなと思った。
きっと紅茶よりも珈琲が好きなんだなと。
ふわっと、どこか落ち着く香りがして温もりを感じた。
今のアシェルには分からなかったが、アークエイドがいつものように隣にピッタリと寄り添うように座ったのだ。
あまりの近さに体温が上がり、頬が熱を持つのを感じる。
なんていうか、恋人だとしても近すぎないだろうか。
それを向かい側からしっかり見ていたリリアーデは、ニヤニヤしている。
「うふふっ、役得だわ。アシェの照れる姿なんて貴重かも。」
その言葉に視線を動かしたアークエイドの、サファイアブルーの瞳と眼があった。
僅かに口角が上がり、満面の笑みとは程遠いのに。
それを見ただけで、アークエイドがとても喜んでいることが分かった。
「本当だな……。何に照れたんだ?」
先程より僅かに近くなった顔から、涼しげなサファイアブルーの纏う熱から目を逸らすことが出来なかった。
この瞳を良く知っている気がする。
「ちか、くて……落ち着く、匂い、して……。部屋、寒くないはずなのに。」
熱の籠った瞳が驚きに見開かれる。
「あぁそうだな。アシェはいつも俺に寒いの?って聞いてたが……。別に寒い訳じゃない。少しでも意識して欲しかったし、こうやってアシェに少しでも触れてたかったんだ。残念ながら、5歳のアシェには全く相手にしてもらえなかったがな。」
頭の中に浮かんだことを言葉にする。
記憶のパズルがちょっとだけ埋まったし、考えていることを話せば新しいピースが出てくるかもしれない。二人の口から聞けなくても、見つかるかもしれないから。
「だって、あのアシェルは男の子だったから……。恋愛の好きって、思ってなかった。最初の内は、少しだけ……ドキドキしたけど、じゃれてるみたいなものって。そう思ってたら、多分、普通になってた。」
たどたどしく自分の思いを口にすると、今度はアークエイドが頬を染めた。
それから手で顔を覆い、視線が逸らされる。
「これは……ヤバい。この状況が許せないのに、この状況だからこそ聞けると思うと……。」
「はいはい。良いわねぇ、若いって。おねーさんニマニマが止まらないわ。でも、お願いだから目の前でおっぱじめないでよね。そういうプレイならともかく、友達のエッチを眺める趣味はないわよ?せめてキスまでにしてちょうだい。」
チラッとアークエイドの視線が飛んでくる。
「いや……流石にそれはアシェが嫌がるだろ。強く望めば受け入れてくれるかもしれないが、それは俺に合わせてるだけで。アシェの意志が無い。散々望まないことを受け入れてきたんだ。無理をさせたくない。」
「……知ってるの?」
今まで薫がどんなことをしてきたのか。
「知ってる。大人達に強要されていたことを、親友を守る手段を。幼馴染たちは薫が孤児だったとか簡単な事しか知らないが、俺とアシェの家族は全員、割と細かいことも聞いてる。家族に話したと聞いた時に、そうアシェが言っていた。俺とアシェの一番上の兄はちょっとしたエピソードも、かなり細かく聞いた。手法は違うだろうが、アシェは薫の時の嫌な記憶を封じてたんだ。それが虫食いみたいで気になるからと、思い出すのを手伝っていたから。」
「そう……軽蔑しないの?知らない人に身体を売って、お金を貰ってたんだよ。こっちじゃどうか知らないけど、犯罪だった。」
「する訳ないだろ。軽蔑するとしたら、それを薫にさせた大人の方にだ。辛かっただろうが、きっと逆らう方が難しかっただろうと思うからな。非力な女性じゃ、出来ることも限られる。それを強要していたのが、本来薫を庇護するべき大人だったんだからなおさらだ。」
何でもないことのように言われたその言葉が、ずっと心の中に燻っていた後ろめたさや罪悪感を洗い流していく。
仕方ないことだ、必用な事だと思っていても、未成年がお金を貰って悪いことをしているという意識は消えなかった。
咲と健斗とならば心が埋まるのに、あの行為は心に暗い穴を広げ続けた。
その穴がどんどん小さくなっていって、心の中がぽかぽかと暖かくなる。
「そっか……ありがとう。」
ふわりと微笑んだアシェルの笑顔に、熱が引いていたアークエイドの頬がまた染まる。
黙ってしまったアークエイドに代わり、リリアーデが口を開いた。
「アークはアシェの貴重な本当の笑顔が見れて嬉しいんですって。アシェはいっつもにこにこしているけど、それはアシェの処世術の一つなのよね。まぁ幼馴染なわたくし達には、いつもの微笑みと本当の笑顔くらい見分けられるけれど。因みに、アークの無表情のから感情の変化を読み取ることもよ。」
どこか胸をはってるようなリリアーデがおかしくて、クスクス笑う。
さっきまでお姉さんみたいだったのに、今は見た目の年相応に見えるから不思議だ。
「そっか、さっき思ったのは間違いじゃなかったんだね。アークを見た時、視覚情報と脳内情報が一致しなかったから。にこにこしている私……想像がつかないわ。でも確かに、小さい時の僕はいつも笑顔だった気がする。」
「気がするんじゃなくて笑顔だったのよ。まぁそれも、記憶を思い出せば思い出すんじゃないかしら?封印そのものは弱いって言ってたしね。アークはストーカーかってくらい、いつもアシェにべったりだったから。アークといっぱいお喋りしながら、焦らず思い出すと良いわ。何にしても焦りは禁物よ。人生焦ったって、どうせやれることも限られてるし、時間しか解決しないものだってあるんだから。どーしても思い出せないことは、大体どうでも良いことなのよ。とにかく、無茶はダメよ。」
「リリィが言うと、重みが違うね。」
「ふふっ、なんせ実年齢プラス30歳だからね。薫は考えてることをあまり口にしないみたいだから、出来るだけ言葉にして。何を思ったとか感じたとかだけでも良いから、アークに教えてあげると良いわ。アシェに関することなら無駄に物覚えが良いから。」
「無駄じゃない。」
気付けば再起動したようで、ジト目がリリアーデに向けられていた。
当のリリアーデは素知らぬ顔である。
「さて、もうわたくしがいなくても大丈夫かしら?アークと二人だと不安?」
そこまで言われて、ようやくリリアーデがずっと付き添ってくれていた意味が分かった。
アシェルがアークエイドを信用できないと言って突っぱねたので、馴染むまで様子を見てくれていたのだと。
「大丈夫。嫌な感じ、しないから。あたたかくて落ち着く。」
「そう。良かったわ。アーク、アシェが可愛いからって同意なく襲っちゃダメよ?また学院に戻ってくるのを楽しみにしておくわ。あ、授業のノートも気にしなくて良いからね。アシェなら授業に出てなくても、きっとノートだけで十分だから。頭がいいって羨ましいわ。じゃあまたね。」
「ありがとう、またね。」
「おやすみ。」
賑やかなリリアーデが居なくなると、部屋の中に無言が満ちる。
だがそれも嫌な感じではなく、落ち着く感じだ。
二人でのんびり飲み物に口をつけていると、イザベルが戻ってきた。
「帰りの支度が整いました。……リリアーデ様は?お声がしていたと思ったのですが。」
「リリィは帰った。俺とアシェを二人にしても大丈夫だと判断して。それより、メイディー公爵家からの手紙だ。アシェよりも、イザベルが読んだ方が良いだろ?」
「そうですね、失礼いたします。」
アークエイドから手紙を受け取り開封したイザベルは、ざっと内容に目を通した。
「やはり迎えが来るようですね。私はマルローネと共に外出手続きをしてまいりますが……アークエイド様はどうなさいますか?メルティー様は絶対にですが、アークエイド様はご自由にとのことです。」
「行く。」
「そう言うと思っておりました。ついでですので、一緒に手続きをしておきます。お部屋への連絡も。」
「すまない。」
「二人も三人も一緒でございます。その代わり、アシェル様の傍から離れず、応接間でゆっくりされていてください。絶対に出歩かれませんようにお願いします。」
「分かっている。」
イザベルの言葉に淡々とアークエイドが返事をし、それを確認してイザベルは部屋を出て行く。
ちょんちょんとアークエイドの袖口を引っ張ると、不思議そうにこちらを見た。
「ベルの話し方、不敬って言われたりしない?怒ってない?」
「ん……?あぁ、侍女が王族に直接口をきいて良いのか、行動を制限して良いのかとか……そういうことか?」
コクコクと頷く。
「気にするな。イザベルには俺も世話になっているし、今のはかなり丁寧な方だ。イザベルはアシェ付きの侍女とは言え、伯爵令嬢でもあるからな。俺達と同じように学院に通っている貴族だ。学院内では、一応身分の貴賤を問わず平等を謳っている。それにリリィが、メイディーにはそれぞれ王族の幼馴染がいて、王命より兄妹優先と言っていただろ?イザベルもアシェの乳兄妹で、アシェの兄妹達にとって、血の繋がりは無くても妹の一人だ。」
今ので丁寧?と疑問に思うが、それよりも恐ろしいことを言っている気がする。
「つまりベルも、王命より兄妹が大事?」
「そういうことだ。俺達兄弟はソレを知っているから、イザベルやアシェの兄達も含め、その言動を特別不敬だと思うことは無い。イザベルはアシェが嫌がることや困ることをすると、普通に怒鳴り込んでくるぞ。まぁ普段通りのやり取りだ。気にしなくて良い。」
くくっと面白そうにアークエイドは笑う。
シオンとのやり取りを怒られた時のような感じかなと首を傾げ、何はともあれ、アークエイドが気にしていないなら良かったと胸を撫で下ろした。
物語の中では王族は気位が高かったり、気に入らなければ首を刎ねるようなキャラクターだっていたのだ。イザベルが罰を受けるんじゃないかと心配してしまった。
しばらくしてイザベルが戻り、メルティーとその侍女だというマルローネとも合流した。
初めて——ではないのだろうけれど、初めてみる大きな馬にちょっと驚きながらも、馬車に乗って実家に帰ることになったのだった。
ちなみによくある転生チートで、馬車の揺れを軽減するために改良案を云々とあるが。きっとそれは為された後だと思う。
座席はフワフワでガタゴト音はするのに揺れは無く、想像していたよりも快適な乗り心地だった。
——アシェルはそもそも知らないが、これは馬車の構造と魔法を組み合わせた結果の産物である。
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