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第四章 王立学院中等部三年生
278 はじめてのおつかい⑤
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Side:アシェル14歳 秋
アシェルはテオ達に連れられて、住宅街の薄暗い路地を歩いていた。
もしかしたら思い出せていない記憶にあるのかもしれないが、王都の中にもこんなに狭い通り抜けに使われる路地があったんだなと。なんだか不思議な気分になる。
冒険者エリアから商業エリアまで、王都の半分ほどのエリアは基本的にどこも綺麗な区分けをされている。
大通りは歩行者が歩いていても馬車二台が余裕ですれ違えるほどの広さがあるし、一本脇道に入ってもゆとりのある道幅だ。
高級住宅エリアに至っては、城壁に近いほど敷地の広い邸が多く、外壁に近いと邸と小さな庭園のみとなるが、それでもしっかり隣の邸との距離が保たれている。
——これらは王都の治安に関わるもので、意図的に薄暗い裏通りが出来ないように配慮されている。
それに比べて初めて歩いた住宅エリアは、何本かある大き目の通りを除けば、馬車がすれ違うなんてとてもじゃないが難しそうな細さである。
辛うじて馬車がすれ違えそうな道は住宅エリアの中央に続いていて、そこに馬車の停留所があるそうだ。
平民で馬車を使う人は限られているし、使う人でもバスのような感じで目的地付近の停留所に行くのを目的に使うらしい。
台数の少ない辻馬車は、稀に居る太っ腹な客用らしい。大体暇そうにしてるんだとか。
建物同士の間も狭く、場所によってはどうやって建てたのだろうかと思ってしまうような隙間しか開いていない場所もあった。
テオ達は近道だという路地を何本も潜り抜けていく。
分かりにくいが真っ直ぐ北上しているのではなく、僅かに東北に向かって歩いているようだ。
時折建物の隙間から王宮の屋根や城壁が見えるのだが、間違いなく城壁には近づいている。
地図上では王宮の北側城壁と道を挟む形で大聖堂がある。その隣に孤児院も建てられているはずである。孤児院は大聖堂をトップとした教会の管轄だ。
敷地面積は広く、聖職者向けの寮や家族で住める居住エリアも大聖堂の敷地内にあるそうだ。
手を繋いでいるキースに「そこはデコボコがあるから気を付けて。」と時々アドバイスを貰いながら、建物の間を通り抜け続けた。
途中までは手を繋いでいたのだが、流石に狭い道では手を繋いでいては歩きにくく。途中からはアシェルがキースを抱き抱えて進んだ。
ユッカとミリィが羨ましがったが、流石に路地抜けで三人を抱えるわけにはいかなかった。
小さな子供が居るので歩行スピードは早くないが、先頭を行くテオがちびっ子たちだけでなく、アシェルのスピードも気にかけてくれているようだと感じる。
案内人として身に着けた気遣いなのだろうか。
路地を抜けるとエリア分けの大きな街路に出た。
手前に見えるのは公園だろうか。
その奥にカラフルなステンドグラスの美しい、立派な教会が建っている。
想像していたよりも大きい教会なので、大聖堂と呼ばれているのだろう。
「大きくて、カラフルなガラスがすごく綺麗ね。」
「だろ。国内じゃ王都の教会が一番大きいらしいぜ。ここの司祭様が一番偉いから、大聖堂なんだってよ。入れるのは礼拝堂と懺悔室くらいで、他は用事がある時じゃないけど入れないけどな。中じゃ静かにしねぇといけねぇから、質問あるなら今聞いとくぜ?」
「中の案内は要らないわ。お祈り、したことがないの。ただ地図を見ると大きいみたいだったから。どんな場所なんだろうって気になっただけなの。」
「……ふぅん、そっか。あとは孤児院だったな。この道の先にあるから、もう少しだ。つっても、楽しいものは無くて、子供がいっぱいいるだけだけどな。こっちも見るだけ、なんて言わねぇよな?出来たら寄っていってほしいんだけど……チビ達も期待してるみたいだしさ。」
「責任者に確認してからだけど、お邪魔できるならさせて貰おうかなって。」
アシェルがそう答えると、路地を抜けても抱き上げたまま降りるのを嫌がったキースも、ユッカとミリィも嬉しそうに笑みを浮かべた。
文字が読めるのか聞かれた時に、絵本を読んで欲しいと言われていたのだ。
ほどなくして孤児院に到着し、門をくぐって平屋になっている建物に入った。
流石に一緒に暮らす家族たちに、抱き抱えられた姿を見られるのは恥ずかしいのか。
キースは孤児院が見えた時に自主的に降りていった。
沢山人数を収容するなら二階建ての方が良い気がするが、不思議に思っていたらテオから解説が入る。
建築コストとその後の税金を考えると、同じ建物面積でも二階建て以上にするより平屋にした方が安くなるらしい。それだけの土地があるのなら、ではあるが。
孤児院は国営になるので、税金対策というよりは建築コストと維持・修繕費の都合ではないかというのがテオの予想らしい。
玄関ホールでテオに解説を受けている間に、ミオが責任者の一人にアシェルの来訪を告げてくれたようだ。
シスター服を身に纏った女性がミオと共に歩いてくる。
こちらでも見ただけで分かるシスター服が、教会に勤める女性の制服のようだ。
「責任者って言ってたから、シスタールシルを連れて来たよ。」
「ようこそおいでくださいました。私はルシルと申します。いつもお世話になっているのになんのおもてなしもできませんが、ゆっくりしていってください。」
「はじめまして、アシェルと申します。こちらこそ急な訪問ですが、受け入れていただきありがとうございます。お土産……というほど大層な物ではありませんが。こちらのお子様たちに、道に迷っているところを助けていただいたお礼です。良かったら、お夕飯の時に皆さんで召し上がってください。」
「まぁ、ありがとうございます。……あなたたち。人の良いお方だからって、せがんだりしてないわよね?」
「「「してないよー。」」」
すかさずちびっ子達が口を揃えて否定する。
「わたくしが、お土産にと思って買ったんです。それと……お子様は何人いらっしゃいますか?甘味もあるのでお渡ししたいのですが、足りるか分からなくて……。」
「そこまでお気遣いいただいて。子供たちの為にありがとうございます。立ち話もなんですから、移動しながらお話ししましょう。」
歩くルシルに合わせてアシェルも移動する。
「今この孤児院には24名の子供がいます。上は成人間近の者から、下はようやく離乳食を食べ始めた子まで。孤児院としては40名まで収容可能な作りをしていますが、これまで満員になったことは無いと聞いています。中には冒険者になったり職人に弟子入りして、成人までに出て行く子供たちもいますが、成人の誕生日を迎えるまでは孤児院で過ごすことが出来るんです。お嬢様の持ってきた甘味にもよりますが、固形物を食べられる子供となると20名ですね。」
24人なら買ってきたもので足りるので良かったと、胸を撫で下ろす。
「離乳食を食べている子供なら、工夫が必要ですが食べられるので。全員に行き渡りそうで安心しました。個包装になっているので、一人に一つずつ、渡してもらえますか?」
「でしたら、直接渡してもらえると子供たちが喜びますわ。運営ですが国からの補助金と、沢山の方からの寄付で成り立っています。メイディー公爵様は寄付もそうですが、よく様子を見に来て下さるんですよ。ご長男様だけの時もございますが、お二方とも、いつも孤児院に足りないものが無いか気にしてくださって。お陰で今いる子供たちは、寒さに震えることも、ひもじい思いをすることもなく過ごせております。」
「お父様とアン兄様が……。最低限の暮らしは出来ても、出来れば子供たちには健やかに過ごして欲しいですものね。足りないものなんて、いくらでもありそうです。」
だから最初に“いつもお世話になっているのに”と言っていたのだと、ようやく分かった。
そしてこの孤児院についての解説も、貴族など寄付してくれる人向けの説明なのだろう。
「ふふ、そうですね。でも、贅沢をしたいわけではありませんから。それらとは別に、寄付していただいた古着をリメイクしたり、手仕事をしてバザーで売った売上も運営に使っています。刺繍の上手い子は、仕立て屋から直々に声がかかったりするので、子供たちの将来の選択肢を広げる機会にもなっています。あちらは中庭ですね。安全に自由に動けるように、庭は広めに作ってあります。遊んでいる子も出かけている子も、そろそろ子供たちは全員戻ってきているので、一先ず食堂に向かいましょうか。」
夕陽を取り込む窓は大きく、廊下から中庭の様子が一望できた。
アスレチックのような物や木が植えてある場所なので、目につきにくい場所もあるが、これなら安心して子供たちを遊ばせてあげれそうだ。
何をして遊んだのか分からないが、泥んこ二人組は神父に先に風呂で綺麗にしてこいと怒られている。
土汚れは洗濯も掃除も大変なのだ。怒りたくなる気持ちがよく分かる。
食堂はダイニングテーブルがいくつも置いてあり、最大50人は座れるようになっている大広間だった。
持っていたアシェルの荷物を置いた五人の子供たちは、他の子供たちを集めるために散り散りになる。
その中からアシェルが持って帰る予定だった分を、おつかいの荷物と一緒にまとめて避けておく。
「こっちが辛い物で、こっちが甘いタレです。得手不得手があると思うのと、串のままだと危ないので。取り分けて量も調節してあげてください。手間がかかるのでお手伝いも出来ます。それからこれが甘味のキャンディです。どれも小さな粒なのでのどに詰まりにくいですが、特に小さな子は気を付けてあげてください。一粒ずつ味が違うのですが、一人ひと箱あるので、誰かのを取ったりしない限り喧嘩にはならないと思います。」
「そこまで考えてお土産を選んで頂いたのね。ありがとうございます。お嬢様は、小さなお子様に慣れていらっしゃるんですね。」
「下の子が、いるので。それに子供は好きです。表情がくるくる変わって、可愛いと思います。」
「ふふ、そうね。」
「この四つは固形食の食べられない子供に。先にお渡ししておきますね。五つはシスターたち大人で分けてください。コップ半分ほどのお湯でキャンディを溶かしてもらって、冷ましたシロップなら赤ん坊でも飲めますから。離乳食を食べているのなら、お茶やお水の代わりに出してあげると良いと思います。少し味は薄くなってしまいますけどね。綿菓子にするともっと食べやすくて甘いんですけど、流石にそれは手間だと思うので。」
「私達の分まで。たしかにシロップなら、あの子達も飲めますね。何から何まで、本当にありがとうございます。」
ルシルと話している間に子供たちはどんどん集まってくる。
アシェルとあまり変わらない年齢に見える子は、ちゃんと小さな子供たちを抱えたり手を引いたりしている。
——とても懐かしい光景だ。
一人一人に手渡して、それぞれから感謝の言葉を貰う。
カラフルで艶々なキャンディの入った宝箱の形をした箱を見て、早速食べようとしてルシルから食事の後にしなさいと怒られる子。大事そうに抱きしめる子。勿体なくて食べられないと言って、それこそ勿体ないと話している子達。
反応も色々で、年齢の近い子達は本当に貰っても良いのかと戸惑いながら感謝の言葉をくれた。
道案内のちびっ子三人組はしっかり絵本を持ってきていて、そのまま食堂で絵本の読み聞かせが始まる。
一冊目は英雄を描いた冒険譚だったが、あまりにもアシェルが淡々と読み進めるので、二冊目はちょっと悲しい落ち着いた物語になった。
大きな子供たちは夕食の支度と肉串の処理に駆り出されたのだが、ミオとテオは子供たちのお目付け役とアシェルのために食堂に残ってくれたのだ。
アシェルの語りに合わせた絵本をチョイスしたのはミオである。
二冊目を読み終えたところで。子供たちは今からお風呂の時間だと言われた。
懐中時計を見るともう17時で、アシェルも帰らなくてはいけない。
走らずに門限までに辿り着けるだろうか。城壁の一辺を歩く時間を計って、無理そうなら気付いた時点で護衛を呼ぶことにする。
女の子が先に入るようで、ミオや食事の支度に行っていた子も出てきて子供たちを誘導していく。
残った男の子たちがアシェルの見送りに来ると言っていたが、流石に迷惑になるとテオが宥めた。
キッチンのルシルに礼を伝えたあと、玄関ホールまでテオ一人が見送りに来てくれた。
「バタバタしちまって悪かったな。それにまさかほぼ全部がうちにくれるもんだと思ってなかった。にーちゃんたちもチビ達もすげぇ喜んでたし、ありがとな。」
「どういたしまして。といっても、毎日あげれるわけじゃないし、わたくしがあげたかっただけだから。自己満足よ。」
「そっか。……帰らずに、うちに居てくれても良いんだぞ。」
今世のアシェルは孤児ではない。
真剣な表情で言われたテオの言葉に、アシェルは首を傾げる。
「ねーちゃん、結構辛い経験してきた口だろ?あの公爵様が、自分の子供につらく当たるのは考えられねぇけど。いや、だからマシに見えるのか?孤児院ってのは親が居ない子供がくる場所だけど、親が居るけど親元では生活できなかったり、酷い状態の子供だって入って良いんだ。シスタールシルも、神に祈ったところで救いの手が差し伸べられることはないから、巣立ってからも困ったことがあれば戻ってこい。困った人が居たら連れてきていいって言ってる。祈ってる暇があるならあがけ。一人でダメなら頼れだってよ。」
「どうして、そう思ったの?」
ルシルが神を否定して良いのかは置いておいて。
何故テオがアシェルのことをそう判断したのかが気になった。
「同じ境遇のやつって、目を見たら分かんだよ。そいつにとってはそれが当たり前でも、心も身体も疲弊してくんだってさ。って、俺がここに来た時に言われた。俺の目は暗くて見えるものが限られてるから。ここで一杯楽しいことを覚えて、今見えてない新しいこと、楽しいことをもっと見つけようねって。そしたら曇って暗くなった眼も、また明るくなるからって。」
「そうなのね。誓って、お父様たち家族が原因ではないわ。原因はそれ以外の人達で、もうわたくしには関わりのない人なの。多分、お父様の処罰を受けたんじゃないかしら。幸せだ、楽しいって思うことは多いから。きっと私の目も、テオみたいに綺麗になるわ。……心配してくれてありがとう。」
幼少時の侍女三人組はアレリオン達がアベルに報告したはずだ。
何かしらの形で重い罰を受けていそうだ。
テオの瞳には同類特有の陰りは見られない。
こうなるまでにどれだけの時間がかかったのか分からないが、それだけここが素晴らしい孤児院であるということだ。
「そっか、なら良かったよ。無駄に時間取らせちまって悪いな。とりあえず、いつでも逃げ込める場所があるって覚えといてくれよ。チビ達もねーちゃんのこと気に入ってたしな。」
「ありがとう。ちゃんと覚えておくね。また会うことがあるか分からないけど、元気でね。」
「アシェルねーちゃんもな。」
バイバイと手を振り孤児院を出たアシェルは、なんとかして門限までに帰ろうと目の前に広がる城壁沿いを早足で歩きはじめる。
どちらに足を向けるか少し悩んで、僅かに時計回りの方が早く辿り着くだろうかと学院エリアに向かって歩いた。
メイディー邸はここと丁度対角線にあるのだ。
間に王宮が無ければ早いのだが、流石に王宮の敷地内を通り抜けは出来ない。
門限までには無理だとしても、一旦冒険者エリアが見える場所まで歩いて、帰宅予想時刻を伝えた方が家族も安心するだろう。
「アシェ、こんなところにいたんだね。今から歩いて帰るつもりかい?」
朝よりも足早に歩き、大聖堂エリアと学院エリアを区切る街路に出た時。
名前を呼ばれ、その声がした方を見る。
孤児院と王立学院の間に当たる位置に大聖堂エリアの馬車停留所があって、声を掛けてきたアレリオンはそこに居た。
「アン兄様?と、連れの人……?」
アレリオンの隣には茶髪で色付き眼鏡をかけた男が立っている。
二人の立ち位置的に見知らぬ他人ということは無いだろう。
ジッと見つめた先の男は、見たことがある気がする。
あれはいつだっただろうか。
「うん、仕事でね。やっぱり今のアシェは忘れてるね。彼はアッシュだよ。王立学院の学院祭で会ったことがあるんだけど……思いだせないかな?」
学院祭という単語を元に記憶の欠片を探す。
「アン、早く帰らないとって言ってたのは誰だったかな。立ち話しもなんだから、まずは馬車に乗った方が良いんじゃないのかい。」
「それもそうだね。アシェもおいで。今から歩いて帰ってたら、外が真っ暗になってしまうよ。」
近くにある二頭立ての馬車が二人の乗ってきた馬車なのだろう。
なんの家紋もついていないシンプルな馬車だが、御者の男が二人に頭を下げている。
アシェルのエスコートはアレリオンがするからと言って、二人が馬車に乗り込む。
それからアシェルの為にアレリオンが手を差し出してくれ、その手を助けに馬車に乗り込んだ。
見た目もそんなに大きな馬車ではないが、内部は見た目よりも狭く感じる。
アッシュにも、馬車にも違和感を感じる。
「少し狭いけど、防衛に重点を置いてる馬車なんだよ。膝の上は抵抗があるかな?並んで座るには少し狭いから、アシェが嫌じゃなければ充電しながら帰りたいんだけど。」
狭い座席を見て固まっていたからだろう。
アレリオンに言われて、その膝の上に乗ることにした。ぎちぎちで座るよりも良いし、兄の膝の上なら抵抗が無い。
「アン兄様なら。……馬車は装甲じゃなく、内部に向かって壁を増やしてるのかしら?この造りの馬車は初めてみた気がします。」
「そうだよ。機密だから教えられないけど、各所に魔術回路も刻んであるから。馬車の形をした大きな魔道具ってところかな。」
この壁の向こうにはどんな術式が刻まれているのだろうかと、好奇心が顔を覗かせる。
今のアシェルでは見ても分からないだろう。
でも確か。どこかに参考資料があるはずだ。
「王族が乗る馬車なので、機密は仕方ないと思います。でも、どうしてアークと一緒に居るんですか?」
アッシュへの違和感は、どう見ても中身がアークエイドだという事だ。
間違えていなければ、アッシュはグレイニールの変装姿の名前のはずだ。
アークエイドの場合は冒険者をしていた時の格好になって、エイディという名前で物凄く無口な姿になるはずである。
先程のアッシュの言動を思い返し、アークエイドにもあんな風に喋ったり笑顔を作ったりできるんだなと思っていると、困惑した二人が口を開いた。
この馬車の中に、恐らく『防音』が発動した。
アレリオンの触れた壁に一瞬見えた魔術式を観て、そう感じたのだ。
「アシェル嬢。私と弟じゃ、似ても似つかないと思うんだけどね?事情は聞いてるよ。知らなければ勘違いしても仕方がない、のかな?」
「アッシュはグレイ……第一王子で王太子のグレイニール殿下のお忍び姿だよ。アークエイド殿下の兄だし、僕の幼馴染だからね。アシェも何度も会ったことがあるよ。」
「それは思いだしました。だからこそ、アークだと思います。」
頑ななアシェルに、二人は困ったように顔を見合わせた。
「アシェはどうしてそう思うんだい?」
「歩き方が少しだけ違うんです。グレイ殿下は堂々と、多分あえてしっかりした足取りを意識して歩いてると思うんです。でもアークの場合、目立たないように歩くから。似せてはいるけど、普段が全然似てない分。歩き方に違和感を感じました。」
「って、うちのアシェは言ってるよ?」
「……今までその指摘を受けたことは無かったな。アレリオンといいアシェといい、指摘してくるところが修正の難しい部分だ。俺自身は兄上と同じように笑っているし、歩いてるつもりなんだがな。」
どうやら誤魔化すのは止めたらしい。
一瞬で常にたたえた笑顔が消えたと思ったら、口調はいつものアークエイドに戻った。
「笑顔?」
「僕から見た中身の違うグレイもアッシュも、少しだけ笑顔が違うんだよ。アークエイド殿下の笑顔と違って、グレイの笑顔は胡散臭いからね。時々こうやって入れ替わって視察に出たりするんだけど。アルでも二人が魔力を使わないと分からないくらい、そっくりらしいよ?まぁそうじゃないと、影武者の意味が無いんだけどね。」
「危ないこと……してるの?」
影武者とは相手にかかる危険の身代わりになるというイメージだ。
聞いておいてなんだが、危ないこととしか思えない。
「そういうのじゃない。兄上が穴をあけられない公務を代わったり、情報操作のため、だな。視察の入れ替わりは、咄嗟の時に違和感なく入れ替われるようにするための練習みたいなものだ。それすらも滅多にない。」
「なら良いのだけれど。」
アークエイドが影武者だと言われても、何一つピンとこない。
最初に誤魔化そうとされたことを考えると、アシェルは知らないことだったのかもしれない。
アークエイドが自身の安全に関することで隠し事をしていたのが、なんだか気に入らない。
でも恐らくこれはアークエイドではなく。グレイニールに関することになるので、アレリオンだけが知っていたのだろう。
「そんな顔をしないで。アシェに意地悪をしてたわけじゃないんだ。一応、国の機密に関わることだからね。知ってるのは最低限の人間なんだよ。アシェの大切なモノのことで隠し事をして、ごめんね。」
ぎゅっとアシェルを抱きしめたアレリオンは、宥める様に頭を撫でてくる。
「仕方のないことですから。」
話している間に何度か停止と発進を繰り返していた馬車が止まる。
御者席からコンコンと音がした。
「到着したみたいだね。……うん、アシェの門限にも間に合ったね。」
「もう?」
馬車とはそんなに速度が出る乗り物だっただろうか。
出るのかもしれないが、街中でスピードを出した馬車を見た覚えはない。
「普通に帰ってたら間に合わないからな。王宮を抜けさせた。」
「王族が居るからこそできる力技だよ。」
邸を出た時とは異なり正門から入ったようで、玄関ホールで使用人達に迎え入れられる。
この頭を下げられるのは慣れないなと思いながら、残ってくれたイザベルに早速アベルへ取り次いでもらう。
今日は休みだと言っていたので、すぐに会うことが出来た。
おつかいの結果を報告し、手荷物も手渡す。
それから子供たちに振舞う為に革袋の中のお金に手を付けてしまったこと。
綺麗に思いだせてはいないが、アシェルにもお金があるはずなのでそこから支払う意思があることを伝えた。
だがアベルは「これくらいは返さなくて良いよ。」と笑う。
結構な額を使ったのに、これくらいで済むなんてとアシェルは思った。
アベルからすると最低限のお金しか使わないアシェルが使った金額は、本来なら毎月お小遣いを渡していたら余裕でおつりがくる程度だった。
アシェルは普段から無駄遣いをしたりしないので、これくらいなら喜んで代わりに支払ったのだ。
丸一日かけた散歩とおつかいは、無事終わりを告げたのだった。
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Side:アークエイド15歳 秋
住宅エリアの路地を進むアシェル達を、アレリオンが『探査魔法』で捕らえ続けながら追いかけていた。
流石に同じ路地を通るわけにもいかず、少し離れた分かりやすい道を少し足早に進んでいく。
「無事についたようだよ。いくら騎士団が巡回しているって言っても、治安がいいとは言い切れないから。正直何も無くて良かったよ。」
「同じく、だな。冒険者ギルドでの戦い方を見る限り。今のアシェル嬢でもある程度は対処できるだろうけど、絶対とは言い切れないからね。」
「せっかく大聖堂に来たのに中に入らないんだな。」
「お祈りしたことないって言ってるし、わたくしだって大聖堂の見た目には興味あっても、中に入ってお祈りの邪魔をしようなんて思わないもの。多分そういうことじゃない?」
外観を見て満足したのか、アシェル達はすぐに孤児院へと向かった。
これまで可能な限りアシェルの姿を目視して尾行——ではなく護衛をしてきたが、さすがに孤児院に乗り込むわけにはいかない。
「アシェは子供たちと入ったから良いけど。僕達だけであの敷地に入ると、多分警備が飛んでくると思うんだよね。大人しく音だけ聞いておこうか。」
孤児院の近くにある王宮の北門の詰所を一部屋借り受け。
シスタールシルの説明や、アシェルのお土産選びの配慮、賑やかな子供たちの声を聞く。
絵本の読み聞かせは、清々しいほどに平坦な話し方だった。
そこに感情を挟むことなく、口調が盛り上がることもなく。淡々と書かれている文字を読み上げているのだ。
アシェルならそれくらい器用にこなしそうな気がするが、これが薫の意識が強いから起きていることなのか。
それとも元のアシェルでも読み聞かせではこうなるのか分からない。
二冊目はあまり子供向けとは言いにくい内容だったが、アシェルの語りだと考えると無難なチョイスだった。
一冊目の読み聞かせで盛大に噴き出したアレリオンは、絶対に門限に間に合わないから馬車を手配してくれと、扉の前に立つ騎士に頼んでいる。
「うーん……。アシェが頑なに音楽の授業を嫌がったのって、こういうことなのかしら?」
「どうしてここで音楽の授業が出てくるんだい?音楽と言えば、レディには必須の授業だよね?」
中等部二年から増える女子生徒は必須の、男子生徒は希望者のみの授業だが、アシェルは受講していなかった。
家庭科はリリアーデの道案内も兼ねてという名目できちんと受講しているのに、音楽だけは絶対に嫌だと拒否したのだ。道案内の役割はデュークがしている。
「そういえば僕が受講してくれって頼んできた時……音痴だとか言ってたな?」
「アシェなら何でもできそうなのにって思うのにね。何でも感情が乗ってないとか、抑揚が少なすぎて全然歌えてないって言われたらしいのよね。前世でらしいんだけど。リコーダーは辛うじて合格が出たらしいけど、こっちの音楽の授業って歌がメインでしょ?もし歌ってる時もこの感じなら、アシェが嫌がるのも納得だなぁって。」
言われてみればアシェルが歌っているのは聞いたことが無い。誕生日ソングくらいだが、それすらも正解が分からないので参考にならなかった。
——リリアーデは感動して気にしていなかったが、平坦すぎる感情が籠っていないと感じられてもおかしくない歌だった。
時々聞き覚えのないフレーズの何かを鼻歌で歌っているが、歌詞が付いているのは聞いたことが無い。
ダンスのリズムが狂っているのは見たことが無いので、決して音感が無いわけではないと思うのだが。
「でもアシェって、機嫌がいいと時々鼻歌を歌っているよ?メロディーは……。」
アシェルがよく鼻歌として歌っているメロディーを、アレリオンは同じように歌う。
たしかにアシェルも同じような感じでふんふん言ってたはずだ。
「えーっと……ちょっと待ってくださいね?多分、たぶん分かりますから。」
アークエイドもアレリオンもアシェルを見ていて聞き慣れているが、リリアーデは顔を顰めて必死に記憶を探っているようだ。
「……もしかして、森のくまさん、かしら?あまり上手くないからあれだけど。あるーひ、森の中。くまさーんに。であーったー。はなさーく、もーりーのみーちー。くまさんにーであーったー。っていう童謡です。子供向けの歌って言ったら分かりやすいのかしら?」
「なんていうか……比べると、アシェの鼻歌はそんなに楽しそうじゃないね。じゃあこれは?」
アレリオンが紡いだメロディーを、リリアーデが必死に記憶を探って正解だと思われる歌を歌う。
その歌はとても楽しそうでのびのびとしたものが多く、アシェルの鼻歌が同じ歌かと言われたら疑問が残る。
チューリップ。大きなのっぽの古時計。やぎさんゆうびん。小さい秋みつけた。大きなクリの木の下で。手を叩きましょう。はるがきた。めだかの学校。ゆき。夕焼け小焼け。
アレリオンがこれは違うメロディーのはずだと鼻歌を歌った全てに、リリアーデは答えを出した。
「こんなものかな?リリアーデ嬢も知ってるなら、有名な歌なんだね。それになんていうか……かなり印象が変わったものもあるね。てっきり、オペラみたいに何か長いお話が歌になっていて、それを口ずさんでいるのかと思っていたよ。」
それくらいアシェルの鼻歌はメロディーはあるが、抑揚自体が少なかったために全く別の歌だとも言いきれない状態だった。
アレリオンが鼻歌として真似たのは、間違いなく別日に歌っていたメロディーを真似たものなので、リリアーデも混乱せずに済んだ。
「全部童話で、殆どの人が聞いたことがある歌なんじゃないかなって思いますよ。正直、聞いたことあるけどタイトルはうろ覚えって曲も多かったですし。うーさすがに頭が痛いわ。こんなに記憶を漁ったのっていつぶりかしら。この記憶力、現世にも欲しかったわ。」
「それは無い物ねだりだろ。頑張って勉強してくれ。」
「してるつもりよっ。」
「負担をかけてごめんね。」
「いえいえ、こんなことでお役にたてるんでしたら。」
こちらはこちらで盛り上がっている間に、アシェルは孤児院をお暇するらしい。
懐中時計を見れば17時になろうとしている。
身体強化を使って駆け抜ければ門限に間に合うだろうが、今のアシェルでは無理だろう。
それに今日はイザベルから走るなと言われていたので、どちらにしてもアシェルが間に合うことはない。
子供たちの名残惜しそうな声に見送られて、玄関ホールまではテオという気さくな男の子が見送りに来たようだ。
ただの見送りだと思っていたのに、彼は帰らなくて良いとアシェルを引き留めたのだ。
あのテオという少年はそんなにもアシェルを気に入ったのだろうか。
そしてアシェルは何と答えるのだろう。彼のことを気に入っているようだった。もしかしたら……。
一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、続けられたテオの言葉に怒りが収まる。
——アレリオンと共に膨れ上がった一瞬の殺気に、扉を護る騎士たちは中に押しかけかけていた。それを留めたのは一日護衛を務めていた白騎士達である。
テオはアシェルのことを心配して帰らなくていいと言った事が分かる。
薫の眼を見て、彼女が孤児院に居ても良い存在だと気付いたからだと。
とにかく逃げ込める場所があるのだと伝えたかったようだ。
「どうなるかと思ったけど、普通に親切だったわね。アシェももう帰るみたいだから、わたくし達も解散で良いのかしら?学院側に向かってるから、アシェに見つかる前に帰りたいわ。」
「付き合ってくれてありがとう。目の前の馬車停留所に、馬車を手配してあるから。それに乗って帰ってくれたら良いよ。こちらも、あとはアシェを回収して帰るだけだしね。お礼に何か贈りたいんだけれど……何か欲しいものはあったりするかな?」
リリアーデとデュークは顔を見合わせ、リリアーデがうーんと悩んだ。
「特にお礼なんて要らないんですけど。それじゃ気にしちゃうんですよね?……じゃあ、アシェがいつも絶賛してるチョコレートケーキを。今度シルのところに遊びに行く約束をしてるので、その時にシルと一緒に食べれたらなぁって思います。」
「あぁ、グレイも一緒に晩餐の予定だったね。分かったよ。楽しみにしていて。」
馬車の停留所で双子と別れ、白騎士の一人はコートを羽織って御者台に座り、ダニエルはメイディー公爵邸へと馬を走らせた。
無事アシェルとも合流し、アークエイド達にとっても長かったお出かけが終わったのだった。
アシェルはテオ達に連れられて、住宅街の薄暗い路地を歩いていた。
もしかしたら思い出せていない記憶にあるのかもしれないが、王都の中にもこんなに狭い通り抜けに使われる路地があったんだなと。なんだか不思議な気分になる。
冒険者エリアから商業エリアまで、王都の半分ほどのエリアは基本的にどこも綺麗な区分けをされている。
大通りは歩行者が歩いていても馬車二台が余裕ですれ違えるほどの広さがあるし、一本脇道に入ってもゆとりのある道幅だ。
高級住宅エリアに至っては、城壁に近いほど敷地の広い邸が多く、外壁に近いと邸と小さな庭園のみとなるが、それでもしっかり隣の邸との距離が保たれている。
——これらは王都の治安に関わるもので、意図的に薄暗い裏通りが出来ないように配慮されている。
それに比べて初めて歩いた住宅エリアは、何本かある大き目の通りを除けば、馬車がすれ違うなんてとてもじゃないが難しそうな細さである。
辛うじて馬車がすれ違えそうな道は住宅エリアの中央に続いていて、そこに馬車の停留所があるそうだ。
平民で馬車を使う人は限られているし、使う人でもバスのような感じで目的地付近の停留所に行くのを目的に使うらしい。
台数の少ない辻馬車は、稀に居る太っ腹な客用らしい。大体暇そうにしてるんだとか。
建物同士の間も狭く、場所によってはどうやって建てたのだろうかと思ってしまうような隙間しか開いていない場所もあった。
テオ達は近道だという路地を何本も潜り抜けていく。
分かりにくいが真っ直ぐ北上しているのではなく、僅かに東北に向かって歩いているようだ。
時折建物の隙間から王宮の屋根や城壁が見えるのだが、間違いなく城壁には近づいている。
地図上では王宮の北側城壁と道を挟む形で大聖堂がある。その隣に孤児院も建てられているはずである。孤児院は大聖堂をトップとした教会の管轄だ。
敷地面積は広く、聖職者向けの寮や家族で住める居住エリアも大聖堂の敷地内にあるそうだ。
手を繋いでいるキースに「そこはデコボコがあるから気を付けて。」と時々アドバイスを貰いながら、建物の間を通り抜け続けた。
途中までは手を繋いでいたのだが、流石に狭い道では手を繋いでいては歩きにくく。途中からはアシェルがキースを抱き抱えて進んだ。
ユッカとミリィが羨ましがったが、流石に路地抜けで三人を抱えるわけにはいかなかった。
小さな子供が居るので歩行スピードは早くないが、先頭を行くテオがちびっ子たちだけでなく、アシェルのスピードも気にかけてくれているようだと感じる。
案内人として身に着けた気遣いなのだろうか。
路地を抜けるとエリア分けの大きな街路に出た。
手前に見えるのは公園だろうか。
その奥にカラフルなステンドグラスの美しい、立派な教会が建っている。
想像していたよりも大きい教会なので、大聖堂と呼ばれているのだろう。
「大きくて、カラフルなガラスがすごく綺麗ね。」
「だろ。国内じゃ王都の教会が一番大きいらしいぜ。ここの司祭様が一番偉いから、大聖堂なんだってよ。入れるのは礼拝堂と懺悔室くらいで、他は用事がある時じゃないけど入れないけどな。中じゃ静かにしねぇといけねぇから、質問あるなら今聞いとくぜ?」
「中の案内は要らないわ。お祈り、したことがないの。ただ地図を見ると大きいみたいだったから。どんな場所なんだろうって気になっただけなの。」
「……ふぅん、そっか。あとは孤児院だったな。この道の先にあるから、もう少しだ。つっても、楽しいものは無くて、子供がいっぱいいるだけだけどな。こっちも見るだけ、なんて言わねぇよな?出来たら寄っていってほしいんだけど……チビ達も期待してるみたいだしさ。」
「責任者に確認してからだけど、お邪魔できるならさせて貰おうかなって。」
アシェルがそう答えると、路地を抜けても抱き上げたまま降りるのを嫌がったキースも、ユッカとミリィも嬉しそうに笑みを浮かべた。
文字が読めるのか聞かれた時に、絵本を読んで欲しいと言われていたのだ。
ほどなくして孤児院に到着し、門をくぐって平屋になっている建物に入った。
流石に一緒に暮らす家族たちに、抱き抱えられた姿を見られるのは恥ずかしいのか。
キースは孤児院が見えた時に自主的に降りていった。
沢山人数を収容するなら二階建ての方が良い気がするが、不思議に思っていたらテオから解説が入る。
建築コストとその後の税金を考えると、同じ建物面積でも二階建て以上にするより平屋にした方が安くなるらしい。それだけの土地があるのなら、ではあるが。
孤児院は国営になるので、税金対策というよりは建築コストと維持・修繕費の都合ではないかというのがテオの予想らしい。
玄関ホールでテオに解説を受けている間に、ミオが責任者の一人にアシェルの来訪を告げてくれたようだ。
シスター服を身に纏った女性がミオと共に歩いてくる。
こちらでも見ただけで分かるシスター服が、教会に勤める女性の制服のようだ。
「責任者って言ってたから、シスタールシルを連れて来たよ。」
「ようこそおいでくださいました。私はルシルと申します。いつもお世話になっているのになんのおもてなしもできませんが、ゆっくりしていってください。」
「はじめまして、アシェルと申します。こちらこそ急な訪問ですが、受け入れていただきありがとうございます。お土産……というほど大層な物ではありませんが。こちらのお子様たちに、道に迷っているところを助けていただいたお礼です。良かったら、お夕飯の時に皆さんで召し上がってください。」
「まぁ、ありがとうございます。……あなたたち。人の良いお方だからって、せがんだりしてないわよね?」
「「「してないよー。」」」
すかさずちびっ子達が口を揃えて否定する。
「わたくしが、お土産にと思って買ったんです。それと……お子様は何人いらっしゃいますか?甘味もあるのでお渡ししたいのですが、足りるか分からなくて……。」
「そこまでお気遣いいただいて。子供たちの為にありがとうございます。立ち話もなんですから、移動しながらお話ししましょう。」
歩くルシルに合わせてアシェルも移動する。
「今この孤児院には24名の子供がいます。上は成人間近の者から、下はようやく離乳食を食べ始めた子まで。孤児院としては40名まで収容可能な作りをしていますが、これまで満員になったことは無いと聞いています。中には冒険者になったり職人に弟子入りして、成人までに出て行く子供たちもいますが、成人の誕生日を迎えるまでは孤児院で過ごすことが出来るんです。お嬢様の持ってきた甘味にもよりますが、固形物を食べられる子供となると20名ですね。」
24人なら買ってきたもので足りるので良かったと、胸を撫で下ろす。
「離乳食を食べている子供なら、工夫が必要ですが食べられるので。全員に行き渡りそうで安心しました。個包装になっているので、一人に一つずつ、渡してもらえますか?」
「でしたら、直接渡してもらえると子供たちが喜びますわ。運営ですが国からの補助金と、沢山の方からの寄付で成り立っています。メイディー公爵様は寄付もそうですが、よく様子を見に来て下さるんですよ。ご長男様だけの時もございますが、お二方とも、いつも孤児院に足りないものが無いか気にしてくださって。お陰で今いる子供たちは、寒さに震えることも、ひもじい思いをすることもなく過ごせております。」
「お父様とアン兄様が……。最低限の暮らしは出来ても、出来れば子供たちには健やかに過ごして欲しいですものね。足りないものなんて、いくらでもありそうです。」
だから最初に“いつもお世話になっているのに”と言っていたのだと、ようやく分かった。
そしてこの孤児院についての解説も、貴族など寄付してくれる人向けの説明なのだろう。
「ふふ、そうですね。でも、贅沢をしたいわけではありませんから。それらとは別に、寄付していただいた古着をリメイクしたり、手仕事をしてバザーで売った売上も運営に使っています。刺繍の上手い子は、仕立て屋から直々に声がかかったりするので、子供たちの将来の選択肢を広げる機会にもなっています。あちらは中庭ですね。安全に自由に動けるように、庭は広めに作ってあります。遊んでいる子も出かけている子も、そろそろ子供たちは全員戻ってきているので、一先ず食堂に向かいましょうか。」
夕陽を取り込む窓は大きく、廊下から中庭の様子が一望できた。
アスレチックのような物や木が植えてある場所なので、目につきにくい場所もあるが、これなら安心して子供たちを遊ばせてあげれそうだ。
何をして遊んだのか分からないが、泥んこ二人組は神父に先に風呂で綺麗にしてこいと怒られている。
土汚れは洗濯も掃除も大変なのだ。怒りたくなる気持ちがよく分かる。
食堂はダイニングテーブルがいくつも置いてあり、最大50人は座れるようになっている大広間だった。
持っていたアシェルの荷物を置いた五人の子供たちは、他の子供たちを集めるために散り散りになる。
その中からアシェルが持って帰る予定だった分を、おつかいの荷物と一緒にまとめて避けておく。
「こっちが辛い物で、こっちが甘いタレです。得手不得手があると思うのと、串のままだと危ないので。取り分けて量も調節してあげてください。手間がかかるのでお手伝いも出来ます。それからこれが甘味のキャンディです。どれも小さな粒なのでのどに詰まりにくいですが、特に小さな子は気を付けてあげてください。一粒ずつ味が違うのですが、一人ひと箱あるので、誰かのを取ったりしない限り喧嘩にはならないと思います。」
「そこまで考えてお土産を選んで頂いたのね。ありがとうございます。お嬢様は、小さなお子様に慣れていらっしゃるんですね。」
「下の子が、いるので。それに子供は好きです。表情がくるくる変わって、可愛いと思います。」
「ふふ、そうね。」
「この四つは固形食の食べられない子供に。先にお渡ししておきますね。五つはシスターたち大人で分けてください。コップ半分ほどのお湯でキャンディを溶かしてもらって、冷ましたシロップなら赤ん坊でも飲めますから。離乳食を食べているのなら、お茶やお水の代わりに出してあげると良いと思います。少し味は薄くなってしまいますけどね。綿菓子にするともっと食べやすくて甘いんですけど、流石にそれは手間だと思うので。」
「私達の分まで。たしかにシロップなら、あの子達も飲めますね。何から何まで、本当にありがとうございます。」
ルシルと話している間に子供たちはどんどん集まってくる。
アシェルとあまり変わらない年齢に見える子は、ちゃんと小さな子供たちを抱えたり手を引いたりしている。
——とても懐かしい光景だ。
一人一人に手渡して、それぞれから感謝の言葉を貰う。
カラフルで艶々なキャンディの入った宝箱の形をした箱を見て、早速食べようとしてルシルから食事の後にしなさいと怒られる子。大事そうに抱きしめる子。勿体なくて食べられないと言って、それこそ勿体ないと話している子達。
反応も色々で、年齢の近い子達は本当に貰っても良いのかと戸惑いながら感謝の言葉をくれた。
道案内のちびっ子三人組はしっかり絵本を持ってきていて、そのまま食堂で絵本の読み聞かせが始まる。
一冊目は英雄を描いた冒険譚だったが、あまりにもアシェルが淡々と読み進めるので、二冊目はちょっと悲しい落ち着いた物語になった。
大きな子供たちは夕食の支度と肉串の処理に駆り出されたのだが、ミオとテオは子供たちのお目付け役とアシェルのために食堂に残ってくれたのだ。
アシェルの語りに合わせた絵本をチョイスしたのはミオである。
二冊目を読み終えたところで。子供たちは今からお風呂の時間だと言われた。
懐中時計を見るともう17時で、アシェルも帰らなくてはいけない。
走らずに門限までに辿り着けるだろうか。城壁の一辺を歩く時間を計って、無理そうなら気付いた時点で護衛を呼ぶことにする。
女の子が先に入るようで、ミオや食事の支度に行っていた子も出てきて子供たちを誘導していく。
残った男の子たちがアシェルの見送りに来ると言っていたが、流石に迷惑になるとテオが宥めた。
キッチンのルシルに礼を伝えたあと、玄関ホールまでテオ一人が見送りに来てくれた。
「バタバタしちまって悪かったな。それにまさかほぼ全部がうちにくれるもんだと思ってなかった。にーちゃんたちもチビ達もすげぇ喜んでたし、ありがとな。」
「どういたしまして。といっても、毎日あげれるわけじゃないし、わたくしがあげたかっただけだから。自己満足よ。」
「そっか。……帰らずに、うちに居てくれても良いんだぞ。」
今世のアシェルは孤児ではない。
真剣な表情で言われたテオの言葉に、アシェルは首を傾げる。
「ねーちゃん、結構辛い経験してきた口だろ?あの公爵様が、自分の子供につらく当たるのは考えられねぇけど。いや、だからマシに見えるのか?孤児院ってのは親が居ない子供がくる場所だけど、親が居るけど親元では生活できなかったり、酷い状態の子供だって入って良いんだ。シスタールシルも、神に祈ったところで救いの手が差し伸べられることはないから、巣立ってからも困ったことがあれば戻ってこい。困った人が居たら連れてきていいって言ってる。祈ってる暇があるならあがけ。一人でダメなら頼れだってよ。」
「どうして、そう思ったの?」
ルシルが神を否定して良いのかは置いておいて。
何故テオがアシェルのことをそう判断したのかが気になった。
「同じ境遇のやつって、目を見たら分かんだよ。そいつにとってはそれが当たり前でも、心も身体も疲弊してくんだってさ。って、俺がここに来た時に言われた。俺の目は暗くて見えるものが限られてるから。ここで一杯楽しいことを覚えて、今見えてない新しいこと、楽しいことをもっと見つけようねって。そしたら曇って暗くなった眼も、また明るくなるからって。」
「そうなのね。誓って、お父様たち家族が原因ではないわ。原因はそれ以外の人達で、もうわたくしには関わりのない人なの。多分、お父様の処罰を受けたんじゃないかしら。幸せだ、楽しいって思うことは多いから。きっと私の目も、テオみたいに綺麗になるわ。……心配してくれてありがとう。」
幼少時の侍女三人組はアレリオン達がアベルに報告したはずだ。
何かしらの形で重い罰を受けていそうだ。
テオの瞳には同類特有の陰りは見られない。
こうなるまでにどれだけの時間がかかったのか分からないが、それだけここが素晴らしい孤児院であるということだ。
「そっか、なら良かったよ。無駄に時間取らせちまって悪いな。とりあえず、いつでも逃げ込める場所があるって覚えといてくれよ。チビ達もねーちゃんのこと気に入ってたしな。」
「ありがとう。ちゃんと覚えておくね。また会うことがあるか分からないけど、元気でね。」
「アシェルねーちゃんもな。」
バイバイと手を振り孤児院を出たアシェルは、なんとかして門限までに帰ろうと目の前に広がる城壁沿いを早足で歩きはじめる。
どちらに足を向けるか少し悩んで、僅かに時計回りの方が早く辿り着くだろうかと学院エリアに向かって歩いた。
メイディー邸はここと丁度対角線にあるのだ。
間に王宮が無ければ早いのだが、流石に王宮の敷地内を通り抜けは出来ない。
門限までには無理だとしても、一旦冒険者エリアが見える場所まで歩いて、帰宅予想時刻を伝えた方が家族も安心するだろう。
「アシェ、こんなところにいたんだね。今から歩いて帰るつもりかい?」
朝よりも足早に歩き、大聖堂エリアと学院エリアを区切る街路に出た時。
名前を呼ばれ、その声がした方を見る。
孤児院と王立学院の間に当たる位置に大聖堂エリアの馬車停留所があって、声を掛けてきたアレリオンはそこに居た。
「アン兄様?と、連れの人……?」
アレリオンの隣には茶髪で色付き眼鏡をかけた男が立っている。
二人の立ち位置的に見知らぬ他人ということは無いだろう。
ジッと見つめた先の男は、見たことがある気がする。
あれはいつだっただろうか。
「うん、仕事でね。やっぱり今のアシェは忘れてるね。彼はアッシュだよ。王立学院の学院祭で会ったことがあるんだけど……思いだせないかな?」
学院祭という単語を元に記憶の欠片を探す。
「アン、早く帰らないとって言ってたのは誰だったかな。立ち話しもなんだから、まずは馬車に乗った方が良いんじゃないのかい。」
「それもそうだね。アシェもおいで。今から歩いて帰ってたら、外が真っ暗になってしまうよ。」
近くにある二頭立ての馬車が二人の乗ってきた馬車なのだろう。
なんの家紋もついていないシンプルな馬車だが、御者の男が二人に頭を下げている。
アシェルのエスコートはアレリオンがするからと言って、二人が馬車に乗り込む。
それからアシェルの為にアレリオンが手を差し出してくれ、その手を助けに馬車に乗り込んだ。
見た目もそんなに大きな馬車ではないが、内部は見た目よりも狭く感じる。
アッシュにも、馬車にも違和感を感じる。
「少し狭いけど、防衛に重点を置いてる馬車なんだよ。膝の上は抵抗があるかな?並んで座るには少し狭いから、アシェが嫌じゃなければ充電しながら帰りたいんだけど。」
狭い座席を見て固まっていたからだろう。
アレリオンに言われて、その膝の上に乗ることにした。ぎちぎちで座るよりも良いし、兄の膝の上なら抵抗が無い。
「アン兄様なら。……馬車は装甲じゃなく、内部に向かって壁を増やしてるのかしら?この造りの馬車は初めてみた気がします。」
「そうだよ。機密だから教えられないけど、各所に魔術回路も刻んであるから。馬車の形をした大きな魔道具ってところかな。」
この壁の向こうにはどんな術式が刻まれているのだろうかと、好奇心が顔を覗かせる。
今のアシェルでは見ても分からないだろう。
でも確か。どこかに参考資料があるはずだ。
「王族が乗る馬車なので、機密は仕方ないと思います。でも、どうしてアークと一緒に居るんですか?」
アッシュへの違和感は、どう見ても中身がアークエイドだという事だ。
間違えていなければ、アッシュはグレイニールの変装姿の名前のはずだ。
アークエイドの場合は冒険者をしていた時の格好になって、エイディという名前で物凄く無口な姿になるはずである。
先程のアッシュの言動を思い返し、アークエイドにもあんな風に喋ったり笑顔を作ったりできるんだなと思っていると、困惑した二人が口を開いた。
この馬車の中に、恐らく『防音』が発動した。
アレリオンの触れた壁に一瞬見えた魔術式を観て、そう感じたのだ。
「アシェル嬢。私と弟じゃ、似ても似つかないと思うんだけどね?事情は聞いてるよ。知らなければ勘違いしても仕方がない、のかな?」
「アッシュはグレイ……第一王子で王太子のグレイニール殿下のお忍び姿だよ。アークエイド殿下の兄だし、僕の幼馴染だからね。アシェも何度も会ったことがあるよ。」
「それは思いだしました。だからこそ、アークだと思います。」
頑ななアシェルに、二人は困ったように顔を見合わせた。
「アシェはどうしてそう思うんだい?」
「歩き方が少しだけ違うんです。グレイ殿下は堂々と、多分あえてしっかりした足取りを意識して歩いてると思うんです。でもアークの場合、目立たないように歩くから。似せてはいるけど、普段が全然似てない分。歩き方に違和感を感じました。」
「って、うちのアシェは言ってるよ?」
「……今までその指摘を受けたことは無かったな。アレリオンといいアシェといい、指摘してくるところが修正の難しい部分だ。俺自身は兄上と同じように笑っているし、歩いてるつもりなんだがな。」
どうやら誤魔化すのは止めたらしい。
一瞬で常にたたえた笑顔が消えたと思ったら、口調はいつものアークエイドに戻った。
「笑顔?」
「僕から見た中身の違うグレイもアッシュも、少しだけ笑顔が違うんだよ。アークエイド殿下の笑顔と違って、グレイの笑顔は胡散臭いからね。時々こうやって入れ替わって視察に出たりするんだけど。アルでも二人が魔力を使わないと分からないくらい、そっくりらしいよ?まぁそうじゃないと、影武者の意味が無いんだけどね。」
「危ないこと……してるの?」
影武者とは相手にかかる危険の身代わりになるというイメージだ。
聞いておいてなんだが、危ないこととしか思えない。
「そういうのじゃない。兄上が穴をあけられない公務を代わったり、情報操作のため、だな。視察の入れ替わりは、咄嗟の時に違和感なく入れ替われるようにするための練習みたいなものだ。それすらも滅多にない。」
「なら良いのだけれど。」
アークエイドが影武者だと言われても、何一つピンとこない。
最初に誤魔化そうとされたことを考えると、アシェルは知らないことだったのかもしれない。
アークエイドが自身の安全に関することで隠し事をしていたのが、なんだか気に入らない。
でも恐らくこれはアークエイドではなく。グレイニールに関することになるので、アレリオンだけが知っていたのだろう。
「そんな顔をしないで。アシェに意地悪をしてたわけじゃないんだ。一応、国の機密に関わることだからね。知ってるのは最低限の人間なんだよ。アシェの大切なモノのことで隠し事をして、ごめんね。」
ぎゅっとアシェルを抱きしめたアレリオンは、宥める様に頭を撫でてくる。
「仕方のないことですから。」
話している間に何度か停止と発進を繰り返していた馬車が止まる。
御者席からコンコンと音がした。
「到着したみたいだね。……うん、アシェの門限にも間に合ったね。」
「もう?」
馬車とはそんなに速度が出る乗り物だっただろうか。
出るのかもしれないが、街中でスピードを出した馬車を見た覚えはない。
「普通に帰ってたら間に合わないからな。王宮を抜けさせた。」
「王族が居るからこそできる力技だよ。」
邸を出た時とは異なり正門から入ったようで、玄関ホールで使用人達に迎え入れられる。
この頭を下げられるのは慣れないなと思いながら、残ってくれたイザベルに早速アベルへ取り次いでもらう。
今日は休みだと言っていたので、すぐに会うことが出来た。
おつかいの結果を報告し、手荷物も手渡す。
それから子供たちに振舞う為に革袋の中のお金に手を付けてしまったこと。
綺麗に思いだせてはいないが、アシェルにもお金があるはずなのでそこから支払う意思があることを伝えた。
だがアベルは「これくらいは返さなくて良いよ。」と笑う。
結構な額を使ったのに、これくらいで済むなんてとアシェルは思った。
アベルからすると最低限のお金しか使わないアシェルが使った金額は、本来なら毎月お小遣いを渡していたら余裕でおつりがくる程度だった。
アシェルは普段から無駄遣いをしたりしないので、これくらいなら喜んで代わりに支払ったのだ。
丸一日かけた散歩とおつかいは、無事終わりを告げたのだった。
========
Side:アークエイド15歳 秋
住宅エリアの路地を進むアシェル達を、アレリオンが『探査魔法』で捕らえ続けながら追いかけていた。
流石に同じ路地を通るわけにもいかず、少し離れた分かりやすい道を少し足早に進んでいく。
「無事についたようだよ。いくら騎士団が巡回しているって言っても、治安がいいとは言い切れないから。正直何も無くて良かったよ。」
「同じく、だな。冒険者ギルドでの戦い方を見る限り。今のアシェル嬢でもある程度は対処できるだろうけど、絶対とは言い切れないからね。」
「せっかく大聖堂に来たのに中に入らないんだな。」
「お祈りしたことないって言ってるし、わたくしだって大聖堂の見た目には興味あっても、中に入ってお祈りの邪魔をしようなんて思わないもの。多分そういうことじゃない?」
外観を見て満足したのか、アシェル達はすぐに孤児院へと向かった。
これまで可能な限りアシェルの姿を目視して尾行——ではなく護衛をしてきたが、さすがに孤児院に乗り込むわけにはいかない。
「アシェは子供たちと入ったから良いけど。僕達だけであの敷地に入ると、多分警備が飛んでくると思うんだよね。大人しく音だけ聞いておこうか。」
孤児院の近くにある王宮の北門の詰所を一部屋借り受け。
シスタールシルの説明や、アシェルのお土産選びの配慮、賑やかな子供たちの声を聞く。
絵本の読み聞かせは、清々しいほどに平坦な話し方だった。
そこに感情を挟むことなく、口調が盛り上がることもなく。淡々と書かれている文字を読み上げているのだ。
アシェルならそれくらい器用にこなしそうな気がするが、これが薫の意識が強いから起きていることなのか。
それとも元のアシェルでも読み聞かせではこうなるのか分からない。
二冊目はあまり子供向けとは言いにくい内容だったが、アシェルの語りだと考えると無難なチョイスだった。
一冊目の読み聞かせで盛大に噴き出したアレリオンは、絶対に門限に間に合わないから馬車を手配してくれと、扉の前に立つ騎士に頼んでいる。
「うーん……。アシェが頑なに音楽の授業を嫌がったのって、こういうことなのかしら?」
「どうしてここで音楽の授業が出てくるんだい?音楽と言えば、レディには必須の授業だよね?」
中等部二年から増える女子生徒は必須の、男子生徒は希望者のみの授業だが、アシェルは受講していなかった。
家庭科はリリアーデの道案内も兼ねてという名目できちんと受講しているのに、音楽だけは絶対に嫌だと拒否したのだ。道案内の役割はデュークがしている。
「そういえば僕が受講してくれって頼んできた時……音痴だとか言ってたな?」
「アシェなら何でもできそうなのにって思うのにね。何でも感情が乗ってないとか、抑揚が少なすぎて全然歌えてないって言われたらしいのよね。前世でらしいんだけど。リコーダーは辛うじて合格が出たらしいけど、こっちの音楽の授業って歌がメインでしょ?もし歌ってる時もこの感じなら、アシェが嫌がるのも納得だなぁって。」
言われてみればアシェルが歌っているのは聞いたことが無い。誕生日ソングくらいだが、それすらも正解が分からないので参考にならなかった。
——リリアーデは感動して気にしていなかったが、平坦すぎる感情が籠っていないと感じられてもおかしくない歌だった。
時々聞き覚えのないフレーズの何かを鼻歌で歌っているが、歌詞が付いているのは聞いたことが無い。
ダンスのリズムが狂っているのは見たことが無いので、決して音感が無いわけではないと思うのだが。
「でもアシェって、機嫌がいいと時々鼻歌を歌っているよ?メロディーは……。」
アシェルがよく鼻歌として歌っているメロディーを、アレリオンは同じように歌う。
たしかにアシェルも同じような感じでふんふん言ってたはずだ。
「えーっと……ちょっと待ってくださいね?多分、たぶん分かりますから。」
アークエイドもアレリオンもアシェルを見ていて聞き慣れているが、リリアーデは顔を顰めて必死に記憶を探っているようだ。
「……もしかして、森のくまさん、かしら?あまり上手くないからあれだけど。あるーひ、森の中。くまさーんに。であーったー。はなさーく、もーりーのみーちー。くまさんにーであーったー。っていう童謡です。子供向けの歌って言ったら分かりやすいのかしら?」
「なんていうか……比べると、アシェの鼻歌はそんなに楽しそうじゃないね。じゃあこれは?」
アレリオンが紡いだメロディーを、リリアーデが必死に記憶を探って正解だと思われる歌を歌う。
その歌はとても楽しそうでのびのびとしたものが多く、アシェルの鼻歌が同じ歌かと言われたら疑問が残る。
チューリップ。大きなのっぽの古時計。やぎさんゆうびん。小さい秋みつけた。大きなクリの木の下で。手を叩きましょう。はるがきた。めだかの学校。ゆき。夕焼け小焼け。
アレリオンがこれは違うメロディーのはずだと鼻歌を歌った全てに、リリアーデは答えを出した。
「こんなものかな?リリアーデ嬢も知ってるなら、有名な歌なんだね。それになんていうか……かなり印象が変わったものもあるね。てっきり、オペラみたいに何か長いお話が歌になっていて、それを口ずさんでいるのかと思っていたよ。」
それくらいアシェルの鼻歌はメロディーはあるが、抑揚自体が少なかったために全く別の歌だとも言いきれない状態だった。
アレリオンが鼻歌として真似たのは、間違いなく別日に歌っていたメロディーを真似たものなので、リリアーデも混乱せずに済んだ。
「全部童話で、殆どの人が聞いたことがある歌なんじゃないかなって思いますよ。正直、聞いたことあるけどタイトルはうろ覚えって曲も多かったですし。うーさすがに頭が痛いわ。こんなに記憶を漁ったのっていつぶりかしら。この記憶力、現世にも欲しかったわ。」
「それは無い物ねだりだろ。頑張って勉強してくれ。」
「してるつもりよっ。」
「負担をかけてごめんね。」
「いえいえ、こんなことでお役にたてるんでしたら。」
こちらはこちらで盛り上がっている間に、アシェルは孤児院をお暇するらしい。
懐中時計を見れば17時になろうとしている。
身体強化を使って駆け抜ければ門限に間に合うだろうが、今のアシェルでは無理だろう。
それに今日はイザベルから走るなと言われていたので、どちらにしてもアシェルが間に合うことはない。
子供たちの名残惜しそうな声に見送られて、玄関ホールまではテオという気さくな男の子が見送りに来たようだ。
ただの見送りだと思っていたのに、彼は帰らなくて良いとアシェルを引き留めたのだ。
あのテオという少年はそんなにもアシェルを気に入ったのだろうか。
そしてアシェルは何と答えるのだろう。彼のことを気に入っているようだった。もしかしたら……。
一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、続けられたテオの言葉に怒りが収まる。
——アレリオンと共に膨れ上がった一瞬の殺気に、扉を護る騎士たちは中に押しかけかけていた。それを留めたのは一日護衛を務めていた白騎士達である。
テオはアシェルのことを心配して帰らなくていいと言った事が分かる。
薫の眼を見て、彼女が孤児院に居ても良い存在だと気付いたからだと。
とにかく逃げ込める場所があるのだと伝えたかったようだ。
「どうなるかと思ったけど、普通に親切だったわね。アシェももう帰るみたいだから、わたくし達も解散で良いのかしら?学院側に向かってるから、アシェに見つかる前に帰りたいわ。」
「付き合ってくれてありがとう。目の前の馬車停留所に、馬車を手配してあるから。それに乗って帰ってくれたら良いよ。こちらも、あとはアシェを回収して帰るだけだしね。お礼に何か贈りたいんだけれど……何か欲しいものはあったりするかな?」
リリアーデとデュークは顔を見合わせ、リリアーデがうーんと悩んだ。
「特にお礼なんて要らないんですけど。それじゃ気にしちゃうんですよね?……じゃあ、アシェがいつも絶賛してるチョコレートケーキを。今度シルのところに遊びに行く約束をしてるので、その時にシルと一緒に食べれたらなぁって思います。」
「あぁ、グレイも一緒に晩餐の予定だったね。分かったよ。楽しみにしていて。」
馬車の停留所で双子と別れ、白騎士の一人はコートを羽織って御者台に座り、ダニエルはメイディー公爵邸へと馬を走らせた。
無事アシェルとも合流し、アークエイド達にとっても長かったお出かけが終わったのだった。
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