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第四章 王立学院中等部三年生
281 訪れた期日③
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Side:アシェル14歳 秋
「んぅ……あったかい……?」
「おはよう、アシェ。昨日、アシェがこうして欲しいと言ったんだが……覚えてるか?」
どうやら今日もアークエイドの腕の中にいるらしい。
アークエイドは寝惚けていないのに、しっかりとその腕で抱きしめてくれている。
だが、いつこんなお願いをしただろうかと、アシェルは寝起きであまり働かない頭を探る。
確かに昨日、抱きしめられていて嬉しいと思ったし、思い出した寝起きシーンはいつもこうやって腕に抱かれていた。
アークエイドが気を使ってくれていることは分かっていたが、離れて寝るのは寂しいなと思っていたのだ。
だがそれと、アシェルがおねだりしたのは別問題である。
「……あれ……夢の……。」
「やっぱり夢だと思ってるのか。夢なんかじゃないぞ。酒に酔っていたから、そう思っても仕方がないかもしれないがな。」
「夢じゃ、ない……?」
夢だと思っていたから、アシェルはアークエイドにおねだりしたし、大好きだって言えたのだ。
それにアベルも来ていたはずだ。小さい時の記憶に引っ張られて、幼子のような事を言った覚えがある。変に思われていないだろうか。
「忘れてっ、今すぐ!あれは無かったことにしてっ。」
「くくっ、それは無理な相談だな。メイディー卿は朝になれば大丈夫だと言っていたが、二日酔いになったりしてないか?」
顔を真っ赤にして以前と同じように忘れろとアシェルが言うが、アークエイドはアシェルからの貴重な「だいすき。」を忘れる気なんてない。
「うぅ……。それは大丈夫。たった二杯で酔うなんて……僕ってお酒に弱いのかな。」
メイディーの体質が無かったら下戸だったのだろうか。
アベルたちが楽しそうにお酒を飲み交わすのを見て、アシェルもいつか一緒にと思っていたのだが。
「メイディー卿が言うには、様々な要因がたまたま重なってしまったせいだ。特別弱いという訳じゃないと思うぞ?もし普段から弱くて、魔力で分解が追い付かないっていうなら……。俺はアシェに人前で酒を飲んでほしくないな。」
「そんなに見苦しかった?ごめんね。」
「違う。可愛すぎた。直ぐにでも襲いたいくらいにな。酔うなら俺の前だけにして欲しい。あとはネグリジェの胸元をはだけさせただろ……他の奴らの前で、アシェの肌を晒してほしくない。アシェは酔ったら服を脱ぎだすタイプなのかと、本気で焦った。」
「アークが僕とエッチしたいって言うの、いつものことでしょ?お年頃だから仕方ないんだろうけど。あれは暑かっただけだってば。露出狂じゃないんだから。……はぁ……。酔ってるのに気づいてなかったとはいえ、自力で酔いを醒ませなかったのは、魔力のコントロールが上手くいって無いってことだよね。ただ魔力を絞るだけじゃなくて、程よい加減を身に付けないと……。」
昨夜はお酒のお陰で記憶の蓋が緩んで、元のアシェルらしい状態だった。
寝起きも元のアシェルと変わりないので、てっきり思いだしたのかと思ったのだが、そうでもないらしい。
「口調的に思いだしたのかと思ったが……違うのか?」
どこか残念そうなアークエイドの言葉に、アシェルは苦笑を返す。
「実はね、昨日あたりからあまり関係の深くない人相手なら。元の僕らしく話すことは出来るんだよ。それくらい、記憶の欠片は集まったと思ってる。でもまだ集まり切ってないんだ。特に身近な人相手になる程、エピソードが限られた状態で浮かんでくるっていうか……。そう、記憶の繋がりが途切れて、大事に仕舞われている感じ。僕がいつも通り喋ってたら、ぬか喜びさせちゃうんじゃないかと思ってね。それにずっとドレス姿だったから、喋り方は薫を意識したほうが、ベルの望む感じだよなーって。」
アシェルと薫の喋り方は明らかに違うので、下手に思い出したと思われない方が良いと思ったのだ。
まだまだ抜け落ちていると感じる部分も多いので、相手がアシェルは記憶を取り戻したことを前提で話されると理解できないこともあって、相手を落胆させてしまうかもしれない。
——まさに今、アークエイドががっかりしたように。
「その、きっとまだアークの良く知るアシェルじゃないから。私のままの話し方の方が良い?」
いつもの笑顔から急に不安そうになったアシェルは、抑揚の少ない声で聞いてくる。
本当に同一人物なのかと思うレベルの変わりようだが、アシェルは薫の人格と知識を持った上で、人当たりよく過ごしているうちに染みついた性格なのだろうとも理解している。
——アークエイドが無愛想に振舞ううちに、今の生活が当たり前になったように。
「俺はどちらでも気にしない。どっちもアシェで、どっちも薫だ。二人は別人じゃなく同一人物なんだから、そんなこと気にするだけ無駄だろ?」
「気にするだけ……ありがと。あ、でも。まだ他の人には内緒にしててくれない?」
「アシェの家族たちは気にしないと思うがな。アシェがそう望むなら黙っておく。」
とはいえ昨夜の護衛でアレリオンは、今のアシェルがある程度言葉を使い分けられることは知っているし、アベルもきっと報告として聞いているだろう。
「ありがと。そうだ。多分僕のためだと思うけど、アークはいつも僕にしてるみたいに過ごしてくれない?その方が思いだすことも増えるんじゃないかなって。まぁ、そんなことしなくても、今日全部思いだすかもしれないんだよね?」
「あぁ、ちょうど夕方で丸三日だ。魔法庁とモーリス殿達で解読にあたって、期限は間違いないだろうと言ってる。」
「そっか。……じゃあ、今日の僕はのんびり読書だね。ふふ、懐かしいけど、ちゃんと覚えてるかな?新鮮な気持ちで昔読んだ本を読めるって、なんだかお得な気分だね。」
前向きな発言をして笑ったアシェルは、するっといつものようにアークエイドの腕の中を抜け出した。
薫の話し方では違和感があるだろうが、今日はドレスを着ないぞと意気込んで衣装部屋に向かう。
昨日はアークエイドが起き上がるまで腕の中にいてくれたのにと、少しばかり悲しくなるが、アシェルらしいと言えばアシェルらしい行動にアークエイドは複雑な思いを抱くのだった。
あのあと起こしにきたイザベルに、一人で着替えたことを喜ばれ、薫の意識が強い間は言葉遣いを間違わないのでドレスを着て欲しかったとも言われた。
普段から女装で間違えなければ及第点なのにと言われたが、恐らく意識を薫に持っていけば出来なくはないと思う。
その場合、表情も口調もコミュニケーション向けとは言えなくなるのだが、イザベルはそれで良いのだろうか。
そんなささやかな疑問も抱いたが、イザベルのことだから薫の言葉遣いでアシェルの雰囲気で喋ろと無茶ぶりされるに決まってる。
アシェルはあえてその疑問を口にしなかった。
朝食後は応接間のソファで、昔使っていた教科書を読みふける。
アシェルが普段通りとお願いしたので、アークエイドはソファに足を伸ばし、足の間にアシェルを座らせることにしたようだ。
アークエイドは暇だと思うのに、後ろから教科書を覗き込みながら、時々嬉しそうに頬や首筋にキスされる。
自由が無くなるしアシェルの背もたれにされているだけなのだが、どうやらこれで満足らしい。
最初のうちは退屈ではないかとアークエイドのことが気になっていたのだが、気付けばキスされることにも気付かずに、渡されていた教科書たちを読み終えていた。
読んでいると確かに見たことがあるなと思いだす。
のだが、ちょっとしたことを忘れていたり、次のページが思い出せなかったりしたので、最後まで楽しく読み進めることが出来た。
どれも錬金や素材に関するものがメインで、読み終えるとうずうずと何かを作ってみたいという欲求が湧いてくる。
内容も基礎から始まって、段々と誰かが書いた論文を参考にした解説書だったりと専門的になっていったので、今のアシェルでもしっかり理解できたのだ。
でもそれだけで、実際にアシェルがどうやって錬金をしていたのかサッパリ思いだせない。
「ねぇ、ベル。僕はまだ、錬金小屋に入っちゃ駄目なの?実際に何か作ってみたいんだけど、どうやってたかがまだ思いだせなくて。実際に作業していた場所を見たら思い出せるかなって思ったんだけど。」
朝食時。男装姿でわたくしと言ったらアレリオンが大爆笑してしまい、結局僕として喋ることにした。
まだ記憶は曖昧なのでおかしいところがあったら指摘して欲しいとは伝えたので、がっかりされることは無いと思う。
あの笑いを堪えようと肩を震わせる大爆笑を見て、アシェルが男装をしたいと言いだした時のことも思いだした。
なんせその笑い方が、当時と全く同じだったのだから。
「思い出すまでは禁止だとお伝えしましたよね?素材の中には危険なモノだってあるんです。素材の状態では問題なくても、調合次第では毒素を分泌するものも。少なくとも錬金に手を付けるのは思いだした後で、しばらくは旦那様かアレリオンお義兄様、アル様の誰かと一緒でなければ許可はできません。」
「むぅ……思い出したなら、一人でも良いじゃない。」
「むくれてみせても無駄です。むくれるってことは、ご自分でも無理だって自覚があるんでしょう?この件に関しては、条件を緩めるつもりはありませんからね。」
付き合いが長いだけあって、アシェルが頬を膨らませた意図をお見通しらしい。
イザベルがこれだけハッキリ宣言したという事は、一切譲歩する気はないということだろう。
「思い出したらすぐ言うから。そしたら三人のスケジュールを確認して、セッティングしてくれる?」
「えぇ、そちらはお任せください。事前に予定を組んでおかないと、暇さえあれば皆様ご自身の実験室に籠ってしまわれますから。……お客様がいらしたようですね。わたくしはお出迎えに向かいますが、こちらにお通しする予定ですので。失礼いたします。」
廊下が騒がしくなったと思ったら、どうやら本日の客を乗せた馬車が門をくぐったようだ。
「アーク、お客さんがくるから離して?」
「嫌だ。誰が来るかは分かってるし、時間が来た時にアシェがどんな反応を示すかも分からないと聞いてる。離れたくない。前回のケースでは、頭痛を訴えたらしい。もしかしたら……またアシェが倒れるかもしれない。」
「また?」
「アシェが薫の記憶を思い出した時。箝口令が敷かれているが、侵入者の精神干渉系の魔法を受けている。アレリオン曰く、トラウマを思い出させそこに囚われてしまうようなものだったらしい。その魔法のせいなのか、記憶を一気に思い出した影響かは分からないが、しばらくアシェは意識を失っていた。場所は王宮の俺の自室だから、イメージが沸かないと思うがな。」
「あの時は本当に心配したよ。意識の戻ったアシェは今みたいに薫の意識が強すぎて、僕らのことを上手く認識できてなかったしね。」
今はアークエイドと二人っきりだと思っていたのに、アレリオンの声が聞こえてそちらに目を向ける。
「アン兄様、おかえりなさい。お仕事は?」
「今日はアシェの傍に居ることが仕事だよ。」
「アークの部屋に、アン兄様も居て、私の意識が強かった……?」
うーんと悩んで、ようやく最初から残っていた謎の記憶に思い当たる。
やたらとキラキラした広い部屋で、
「もしかして、忍者と黒髪?……確かに、覚えてる。覚えてるっていうか残ってたから、繋がった感じがする。」
「ふふっ、あの時もそう言ってたね。まぁこれは内緒だから。思い出しても口にしちゃ駄目だよ。」
「はい。」
今度の晩餐会でリリアーデに忍者とは何かを聞いてみようと、アレリオンは心の片隅にメモをする。
あの時は不審者かアークエイドしかいなかったので、どちらを指す言葉か分かっただけなのだ。
聞き慣れないメイドの声がして、ぞろぞろと客人が入ってくる。
その中には少しやつれて見えるモーリスの姿もあった。
客人の中で唯一分かる姿に挨拶しようとして気付く。
「こんにちは、モーリス……様?殿??リリィは呼び捨てでいいって言ってたけど、流石に隣国の皇子様相手に呼び捨ては駄目だよね?」
アークエイドに聞いたはずなのに、答えは全く知らないおじさんから飛んできた。
「なっ、隣国の皇子殿下であることを知っておきながら。記憶が曖昧とはいえ、名を呼ぶなど流石に失礼が過ぎますぞ!正式な場ではないとはいえ、せめて第二皇子殿下と——!」
「宰相閣下。気遣いはありがたいが、私とアシェル殿はこう見えても友人でね。私自身が彼女に名を呼ぶことを許している。」
「ですが……。」
「私の友人を、謂れのない罪で愚弄するつもりかい?」
「失礼しました。」
一切の笑顔を見せなかったモーリスは、宰相と話を終えたようだ。
肌の色が違うので、この宰相はヒューナイト王国の宰相なのだろうと思う。
二人が言い争っている間に、こっそりアークエイドが「アシェは殿をつけて呼んでいた。ムーラン皇女は嬢を付けたら良い。本来名を呼ぶのは親しい相手か、周囲にいる相手の家族と混同しないようにする時だけなんだ。」と教えてくれた。
しっしと宰相を追い払う仕草をしたモーリスは、アベルに座るよう促され、アシェルとアークエイドの座る向かい側に腰かけた。
アシェルの足元にはアレリオンが、向かい側にはアベルと黒髪の男性が座る。
残る来客たちは、応接間の奥に進んでいった。
もう一つのテーブルで、何やら準備を始めているようだ。
黒髪の男性はアベルと同じく親世代だろう。
その真っ直ぐな髪質も、艶やかな黒髪もアークエイドを彷彿とさせる。
「……アークの、お父さん……?って、アーク!今すぐ離してっ。アークは誰が来るのか知ってるって言ってたけど、あの髪の毛がアークそっくりな人。アークのお父さんでしょう?ってことは、王様でしょ??なんで王様なお父さんの前で、恋人とイチャつこうって思えるのよっ!普段通りってお願いしたのは私だから、お兄様やお父様の前でも我慢するけど。アークの家族が来るなんて聞いてないわ。」
離せと言っているのに、アシェルに回された腕には力が籠められる。
「嫌だ。離さないって言っただろ?それに父上だって、母上が同じような状況になったら。どうせ俺と同じようなことをするんだ。気にする必要なんてない。それより、薫の状態で口調を荒げるなんて、珍しいこともあるんだな。」
「意識が混じってるからよ。こんなに声を荒げたのは初めてだわ。じゃなくてっ。アークが気にしなくても私が気にするのっ。恋人の親御さんへの挨拶ってどうしたら良いのかしら。……今まで恋人がいたことが無いから分からないわ。えぇっと……国王陛下。御前でこのような格好で申し訳ありません。息子さんとお付き合いさせていただいている、アシェル・メイディーです。よろしくお願いします。」
まだ婚約をしていないと言っていたので、親御さんへの挨拶もまだだろうと。
アークエイドの腕の中というなんとも締まらない状況だが、思いついた挨拶を述べる。
「はははっ、慌てふためくアシェルは珍しいんじゃないのか?覚えていないようだから、一応自己紹介をしておこうか。ヒューナイト王国国王、グリモニア・ナイトレイだ。そこのアークの父であり、アシェルの父アベルの幼馴染でもある。だからそんなに恐縮しなくても、私達は顔見知りだ。家族ぐるみの付き合いだからな。ちなみに、二人が付き合ってることは私も知っているぞ。なんせ、私達の前でプロポーズしたからな。」
「親御さんの前で、ぷろぽーず……?」
衝撃的な言葉にフリーズしたアシェルに、アークエイドは一応補足を入れておく。
「そもそも、こっちじゃお付き合いと婚約と結婚はセットだと言っていただろ?その……家族の前で付き合い始める了承を貰ったのは事実だが。恋愛でお付き合いをすると決めた時点で、両家には連絡が行くものなんだ。政略結婚の家は、そもそも両家から子供たちに打診がくるものだしな。だから親が付き合ってるのを知っていても、何もおかしいことは無いんだ。」
「……つまり、こっちでは家族が子供の恋路を知ってても、おかしくないって事ね?それなら納得できるわ。」
それだけ大きなイベントであれば、今のキーワードで思い出すことが出来るのではないかと思ったのだが。
手繰り寄せようとする記憶は、頑丈な扉に守られている。
この扉をこじ開けようとしても開くことは無いし、頭痛が酷くなるのだ。
何故かそれを知っていたので、記憶の欠片を集めていてもこの扉は無視した。小さな箱のような物なら、少しの頭痛と引き換えに開くことが出来るのだが、この扉だけは何をしても無理なのだ。
何故それを知っていたのかと思っていたが、アシェルが薫の記憶を思い出すときの一連の流れにあるようだ。
プロポーズなんて一生に一度の大事なことのはずなのに、それを思い出すことが出来ないのは悲しく、アークエイドにも申し訳ないと思ってしまう。
「落ち着いたかい?そろそろ言葉遣いを直さないと、アンが笑い死にしてしまうよ?」
アベルの言葉に足元に視線を向けると、アレリオンは腹を抱えて肩を揺らしていた。
アシェルが男装で女性の言葉を使うのが、余程ツボに入るらしい。
「アン兄様、笑い過ぎです。」
「ふふっ、くふっ……だって、アシェが……ふ、ふふっ。」
一生懸命深呼吸をしているが、中々笑いが収まらないようだ。
アシェルも笑うポイントがズレていると言われることがあるが、アレリオンは兄妹の中で一番ズレていると思う。
なんでこれがおかしいのだろうかと思うようなことで、一人でずっと笑ってるのだ。
アシェルが産まれる前、アルフォードは何度かアレリオンを意図的に爆笑させてやろうとしていたが、一度も成功したことが無かったんだとか。
そもそも、いつも穏やかな笑みを浮かべていて崩れないので、これだけ爆笑するアレリオンはとても貴重である。
こういうちょっとしたことだと、割とすんなり思い出せたりするのだ。
そもそも忘れていたのかさえ分からないほどに。
扉で守られているわけではなさそうなのに思い出せないことがあったなと、ふと思い至る。
「そういえば……僕って、スタンピードの時。何をしてたんですか?結界の中のことは、なんとなく思い出せたんです。なんとなくというか、恐らく全部。でも、結界の外のことが何一つ思い出せなくて。」
「スタンピードか?あの時は、アシェは周囲の人たちにバフ……強化魔法をかけて回っていた。それと、前線で魔物を屠っていた。」
アークエイドの簡単な説明に記憶を探るが、やはり思い出せない。
いや、なんとなく押し寄せる魔物たちのイメージはあるのだ。だが、強化魔法をかけて回っていたとはと思ってしまう。
そこに意識を繋げようとすると扉が現れるのだ。
身体強化は呪文というよりも体内魔力の操作で、求める効力を発揮している。
ストレージはどうして呪文を思い出せたのか分からないが、今も使える。
身体強化並みに使うのが当たり前のものだったのかもしれない。
そう。
馬車の中で観えた防音の術式も、それが防音だったと思ったのに、使い方が分からない。
今のアシェルが観たことなら忘れないはずなのに、見えたはずの術式は霞がかかってしまっている。
それならばとストレージから辞書のような物を取り出し見てみたのだが、見たことは分かるのに時間が経つと霞んでしまうのだ。
それは錬金に関しても同じことがいえる。
マナポーションとヒールポーションの材料は、それがどちらの材料なのかが分かったわけではない。
素材の見た目と名前、効果効能、使用部位。どんな薬に使われやすいかなどは、素材を見れば思い浮かぶ。
でもそれがその先に繋がらないのだ。
魔法と錬金。
この二つの記憶に拒絶されているとすら感じる。
アシェルが黙り込んだからか、アークエイドは更に言葉を続けた。
「アシェにとってスタンピードは、周囲を気にせず思いっきり暴れられる機会で、とても楽しんでいたからな。アシェもマリクもテイル夫人も、思いっきり遊んでいる、という感覚だったんじゃないかと思う。だから思い出せないんじゃないか?」
「そうかも。確か思い描いたことを一時的に封印する魔法って言ってたもんね。楽しいことをって言われてたのなら。より一層印象的で、忘れやすくなってたのかも。」
恐らくそれだけではないと思うが、余計な心配をかけないためにも同意を示した。
どちらにせよこの扉たちがどうなるかは、時間が来てみないことには分からないことだ。
「本当に申し訳ない……。」
「モーリス殿が謝ることじゃないよ。それに本来なら一時的に効果があるだけで、天邪鬼なムーラン嬢のお祝い兼嫌がらせだったんだろうし。記憶が無いからって悪いことばかりでも無かったから。」
以前見たことがあるものでも楽しいと思えた。
家族が、メアリーでさえもアシェルのことを大切に思っていてくれることを再認識出来た。
今のアシェルの状態で薫の意識が強いからこそ。
薫がどれだけ親友二人に頼りっきりだったのかを知ることが出来た。
前世の反省点にも気付けた。
今のアシェルを取り巻くすべてが、どれだけ輝いていて、どれだけ幸せな状況なのかを実感することが出来た。
たまたまアシェルが禁忌に触れていたというだけで、本当なら素敵な贈り物になったはずなのだ。
「そういってもらえると、少しは気が楽になるよ。……そろそろだね。」
部屋の奥で準備されていた機械が何やらチカチカと光り出した。
テーブルの上には黒く塗りつぶされたような紙切れ。
そこを取り囲むローブ姿の男達3人。
チカチカとする明滅は、段々と激しさを増していき——途絶えた。
紙切れはただのまっさらな紙になり、それまで何かで塗りつぶされていたとは思えない状態だ。
——時限式のスクロールは魔力回路で繋がっていないはずのダミーまで、綺麗さっぱり消えてしまうのだ。
チカチカと光が激しくなるにつれ頭痛が酷くなり、アシェルは頭を押さえていた。
光が途絶えると同時にアシェルの身体がぐらりと傾き、アシェルを支えていたアークエイドが力を入れてその身体を支える。
アベルとアレリオンが簡単に診察をして、身体には異常が無いことを確認した。
5分ほどして。
アシェルとしては頭痛が落ち着くよう願いながら、瞬きをしたつもりの感覚で。
ゆっくりと瞼が持ち上がり、アメジスト色の瞳が姿を現す。
「……もう、頭痛は大丈夫みたい。」
「そうか。やっぱり、頭痛がしてたんだな。どこかおかしいところはないか?」
「うん。なんともないよ。」
「良かった。」
アークエイドが安堵の息を漏らし。
集まった面々もどこか安心したように表情を緩めた。
「んぅ……あったかい……?」
「おはよう、アシェ。昨日、アシェがこうして欲しいと言ったんだが……覚えてるか?」
どうやら今日もアークエイドの腕の中にいるらしい。
アークエイドは寝惚けていないのに、しっかりとその腕で抱きしめてくれている。
だが、いつこんなお願いをしただろうかと、アシェルは寝起きであまり働かない頭を探る。
確かに昨日、抱きしめられていて嬉しいと思ったし、思い出した寝起きシーンはいつもこうやって腕に抱かれていた。
アークエイドが気を使ってくれていることは分かっていたが、離れて寝るのは寂しいなと思っていたのだ。
だがそれと、アシェルがおねだりしたのは別問題である。
「……あれ……夢の……。」
「やっぱり夢だと思ってるのか。夢なんかじゃないぞ。酒に酔っていたから、そう思っても仕方がないかもしれないがな。」
「夢じゃ、ない……?」
夢だと思っていたから、アシェルはアークエイドにおねだりしたし、大好きだって言えたのだ。
それにアベルも来ていたはずだ。小さい時の記憶に引っ張られて、幼子のような事を言った覚えがある。変に思われていないだろうか。
「忘れてっ、今すぐ!あれは無かったことにしてっ。」
「くくっ、それは無理な相談だな。メイディー卿は朝になれば大丈夫だと言っていたが、二日酔いになったりしてないか?」
顔を真っ赤にして以前と同じように忘れろとアシェルが言うが、アークエイドはアシェルからの貴重な「だいすき。」を忘れる気なんてない。
「うぅ……。それは大丈夫。たった二杯で酔うなんて……僕ってお酒に弱いのかな。」
メイディーの体質が無かったら下戸だったのだろうか。
アベルたちが楽しそうにお酒を飲み交わすのを見て、アシェルもいつか一緒にと思っていたのだが。
「メイディー卿が言うには、様々な要因がたまたま重なってしまったせいだ。特別弱いという訳じゃないと思うぞ?もし普段から弱くて、魔力で分解が追い付かないっていうなら……。俺はアシェに人前で酒を飲んでほしくないな。」
「そんなに見苦しかった?ごめんね。」
「違う。可愛すぎた。直ぐにでも襲いたいくらいにな。酔うなら俺の前だけにして欲しい。あとはネグリジェの胸元をはだけさせただろ……他の奴らの前で、アシェの肌を晒してほしくない。アシェは酔ったら服を脱ぎだすタイプなのかと、本気で焦った。」
「アークが僕とエッチしたいって言うの、いつものことでしょ?お年頃だから仕方ないんだろうけど。あれは暑かっただけだってば。露出狂じゃないんだから。……はぁ……。酔ってるのに気づいてなかったとはいえ、自力で酔いを醒ませなかったのは、魔力のコントロールが上手くいって無いってことだよね。ただ魔力を絞るだけじゃなくて、程よい加減を身に付けないと……。」
昨夜はお酒のお陰で記憶の蓋が緩んで、元のアシェルらしい状態だった。
寝起きも元のアシェルと変わりないので、てっきり思いだしたのかと思ったのだが、そうでもないらしい。
「口調的に思いだしたのかと思ったが……違うのか?」
どこか残念そうなアークエイドの言葉に、アシェルは苦笑を返す。
「実はね、昨日あたりからあまり関係の深くない人相手なら。元の僕らしく話すことは出来るんだよ。それくらい、記憶の欠片は集まったと思ってる。でもまだ集まり切ってないんだ。特に身近な人相手になる程、エピソードが限られた状態で浮かんでくるっていうか……。そう、記憶の繋がりが途切れて、大事に仕舞われている感じ。僕がいつも通り喋ってたら、ぬか喜びさせちゃうんじゃないかと思ってね。それにずっとドレス姿だったから、喋り方は薫を意識したほうが、ベルの望む感じだよなーって。」
アシェルと薫の喋り方は明らかに違うので、下手に思い出したと思われない方が良いと思ったのだ。
まだまだ抜け落ちていると感じる部分も多いので、相手がアシェルは記憶を取り戻したことを前提で話されると理解できないこともあって、相手を落胆させてしまうかもしれない。
——まさに今、アークエイドががっかりしたように。
「その、きっとまだアークの良く知るアシェルじゃないから。私のままの話し方の方が良い?」
いつもの笑顔から急に不安そうになったアシェルは、抑揚の少ない声で聞いてくる。
本当に同一人物なのかと思うレベルの変わりようだが、アシェルは薫の人格と知識を持った上で、人当たりよく過ごしているうちに染みついた性格なのだろうとも理解している。
——アークエイドが無愛想に振舞ううちに、今の生活が当たり前になったように。
「俺はどちらでも気にしない。どっちもアシェで、どっちも薫だ。二人は別人じゃなく同一人物なんだから、そんなこと気にするだけ無駄だろ?」
「気にするだけ……ありがと。あ、でも。まだ他の人には内緒にしててくれない?」
「アシェの家族たちは気にしないと思うがな。アシェがそう望むなら黙っておく。」
とはいえ昨夜の護衛でアレリオンは、今のアシェルがある程度言葉を使い分けられることは知っているし、アベルもきっと報告として聞いているだろう。
「ありがと。そうだ。多分僕のためだと思うけど、アークはいつも僕にしてるみたいに過ごしてくれない?その方が思いだすことも増えるんじゃないかなって。まぁ、そんなことしなくても、今日全部思いだすかもしれないんだよね?」
「あぁ、ちょうど夕方で丸三日だ。魔法庁とモーリス殿達で解読にあたって、期限は間違いないだろうと言ってる。」
「そっか。……じゃあ、今日の僕はのんびり読書だね。ふふ、懐かしいけど、ちゃんと覚えてるかな?新鮮な気持ちで昔読んだ本を読めるって、なんだかお得な気分だね。」
前向きな発言をして笑ったアシェルは、するっといつものようにアークエイドの腕の中を抜け出した。
薫の話し方では違和感があるだろうが、今日はドレスを着ないぞと意気込んで衣装部屋に向かう。
昨日はアークエイドが起き上がるまで腕の中にいてくれたのにと、少しばかり悲しくなるが、アシェルらしいと言えばアシェルらしい行動にアークエイドは複雑な思いを抱くのだった。
あのあと起こしにきたイザベルに、一人で着替えたことを喜ばれ、薫の意識が強い間は言葉遣いを間違わないのでドレスを着て欲しかったとも言われた。
普段から女装で間違えなければ及第点なのにと言われたが、恐らく意識を薫に持っていけば出来なくはないと思う。
その場合、表情も口調もコミュニケーション向けとは言えなくなるのだが、イザベルはそれで良いのだろうか。
そんなささやかな疑問も抱いたが、イザベルのことだから薫の言葉遣いでアシェルの雰囲気で喋ろと無茶ぶりされるに決まってる。
アシェルはあえてその疑問を口にしなかった。
朝食後は応接間のソファで、昔使っていた教科書を読みふける。
アシェルが普段通りとお願いしたので、アークエイドはソファに足を伸ばし、足の間にアシェルを座らせることにしたようだ。
アークエイドは暇だと思うのに、後ろから教科書を覗き込みながら、時々嬉しそうに頬や首筋にキスされる。
自由が無くなるしアシェルの背もたれにされているだけなのだが、どうやらこれで満足らしい。
最初のうちは退屈ではないかとアークエイドのことが気になっていたのだが、気付けばキスされることにも気付かずに、渡されていた教科書たちを読み終えていた。
読んでいると確かに見たことがあるなと思いだす。
のだが、ちょっとしたことを忘れていたり、次のページが思い出せなかったりしたので、最後まで楽しく読み進めることが出来た。
どれも錬金や素材に関するものがメインで、読み終えるとうずうずと何かを作ってみたいという欲求が湧いてくる。
内容も基礎から始まって、段々と誰かが書いた論文を参考にした解説書だったりと専門的になっていったので、今のアシェルでもしっかり理解できたのだ。
でもそれだけで、実際にアシェルがどうやって錬金をしていたのかサッパリ思いだせない。
「ねぇ、ベル。僕はまだ、錬金小屋に入っちゃ駄目なの?実際に何か作ってみたいんだけど、どうやってたかがまだ思いだせなくて。実際に作業していた場所を見たら思い出せるかなって思ったんだけど。」
朝食時。男装姿でわたくしと言ったらアレリオンが大爆笑してしまい、結局僕として喋ることにした。
まだ記憶は曖昧なのでおかしいところがあったら指摘して欲しいとは伝えたので、がっかりされることは無いと思う。
あの笑いを堪えようと肩を震わせる大爆笑を見て、アシェルが男装をしたいと言いだした時のことも思いだした。
なんせその笑い方が、当時と全く同じだったのだから。
「思い出すまでは禁止だとお伝えしましたよね?素材の中には危険なモノだってあるんです。素材の状態では問題なくても、調合次第では毒素を分泌するものも。少なくとも錬金に手を付けるのは思いだした後で、しばらくは旦那様かアレリオンお義兄様、アル様の誰かと一緒でなければ許可はできません。」
「むぅ……思い出したなら、一人でも良いじゃない。」
「むくれてみせても無駄です。むくれるってことは、ご自分でも無理だって自覚があるんでしょう?この件に関しては、条件を緩めるつもりはありませんからね。」
付き合いが長いだけあって、アシェルが頬を膨らませた意図をお見通しらしい。
イザベルがこれだけハッキリ宣言したという事は、一切譲歩する気はないということだろう。
「思い出したらすぐ言うから。そしたら三人のスケジュールを確認して、セッティングしてくれる?」
「えぇ、そちらはお任せください。事前に予定を組んでおかないと、暇さえあれば皆様ご自身の実験室に籠ってしまわれますから。……お客様がいらしたようですね。わたくしはお出迎えに向かいますが、こちらにお通しする予定ですので。失礼いたします。」
廊下が騒がしくなったと思ったら、どうやら本日の客を乗せた馬車が門をくぐったようだ。
「アーク、お客さんがくるから離して?」
「嫌だ。誰が来るかは分かってるし、時間が来た時にアシェがどんな反応を示すかも分からないと聞いてる。離れたくない。前回のケースでは、頭痛を訴えたらしい。もしかしたら……またアシェが倒れるかもしれない。」
「また?」
「アシェが薫の記憶を思い出した時。箝口令が敷かれているが、侵入者の精神干渉系の魔法を受けている。アレリオン曰く、トラウマを思い出させそこに囚われてしまうようなものだったらしい。その魔法のせいなのか、記憶を一気に思い出した影響かは分からないが、しばらくアシェは意識を失っていた。場所は王宮の俺の自室だから、イメージが沸かないと思うがな。」
「あの時は本当に心配したよ。意識の戻ったアシェは今みたいに薫の意識が強すぎて、僕らのことを上手く認識できてなかったしね。」
今はアークエイドと二人っきりだと思っていたのに、アレリオンの声が聞こえてそちらに目を向ける。
「アン兄様、おかえりなさい。お仕事は?」
「今日はアシェの傍に居ることが仕事だよ。」
「アークの部屋に、アン兄様も居て、私の意識が強かった……?」
うーんと悩んで、ようやく最初から残っていた謎の記憶に思い当たる。
やたらとキラキラした広い部屋で、
「もしかして、忍者と黒髪?……確かに、覚えてる。覚えてるっていうか残ってたから、繋がった感じがする。」
「ふふっ、あの時もそう言ってたね。まぁこれは内緒だから。思い出しても口にしちゃ駄目だよ。」
「はい。」
今度の晩餐会でリリアーデに忍者とは何かを聞いてみようと、アレリオンは心の片隅にメモをする。
あの時は不審者かアークエイドしかいなかったので、どちらを指す言葉か分かっただけなのだ。
聞き慣れないメイドの声がして、ぞろぞろと客人が入ってくる。
その中には少しやつれて見えるモーリスの姿もあった。
客人の中で唯一分かる姿に挨拶しようとして気付く。
「こんにちは、モーリス……様?殿??リリィは呼び捨てでいいって言ってたけど、流石に隣国の皇子様相手に呼び捨ては駄目だよね?」
アークエイドに聞いたはずなのに、答えは全く知らないおじさんから飛んできた。
「なっ、隣国の皇子殿下であることを知っておきながら。記憶が曖昧とはいえ、名を呼ぶなど流石に失礼が過ぎますぞ!正式な場ではないとはいえ、せめて第二皇子殿下と——!」
「宰相閣下。気遣いはありがたいが、私とアシェル殿はこう見えても友人でね。私自身が彼女に名を呼ぶことを許している。」
「ですが……。」
「私の友人を、謂れのない罪で愚弄するつもりかい?」
「失礼しました。」
一切の笑顔を見せなかったモーリスは、宰相と話を終えたようだ。
肌の色が違うので、この宰相はヒューナイト王国の宰相なのだろうと思う。
二人が言い争っている間に、こっそりアークエイドが「アシェは殿をつけて呼んでいた。ムーラン皇女は嬢を付けたら良い。本来名を呼ぶのは親しい相手か、周囲にいる相手の家族と混同しないようにする時だけなんだ。」と教えてくれた。
しっしと宰相を追い払う仕草をしたモーリスは、アベルに座るよう促され、アシェルとアークエイドの座る向かい側に腰かけた。
アシェルの足元にはアレリオンが、向かい側にはアベルと黒髪の男性が座る。
残る来客たちは、応接間の奥に進んでいった。
もう一つのテーブルで、何やら準備を始めているようだ。
黒髪の男性はアベルと同じく親世代だろう。
その真っ直ぐな髪質も、艶やかな黒髪もアークエイドを彷彿とさせる。
「……アークの、お父さん……?って、アーク!今すぐ離してっ。アークは誰が来るのか知ってるって言ってたけど、あの髪の毛がアークそっくりな人。アークのお父さんでしょう?ってことは、王様でしょ??なんで王様なお父さんの前で、恋人とイチャつこうって思えるのよっ!普段通りってお願いしたのは私だから、お兄様やお父様の前でも我慢するけど。アークの家族が来るなんて聞いてないわ。」
離せと言っているのに、アシェルに回された腕には力が籠められる。
「嫌だ。離さないって言っただろ?それに父上だって、母上が同じような状況になったら。どうせ俺と同じようなことをするんだ。気にする必要なんてない。それより、薫の状態で口調を荒げるなんて、珍しいこともあるんだな。」
「意識が混じってるからよ。こんなに声を荒げたのは初めてだわ。じゃなくてっ。アークが気にしなくても私が気にするのっ。恋人の親御さんへの挨拶ってどうしたら良いのかしら。……今まで恋人がいたことが無いから分からないわ。えぇっと……国王陛下。御前でこのような格好で申し訳ありません。息子さんとお付き合いさせていただいている、アシェル・メイディーです。よろしくお願いします。」
まだ婚約をしていないと言っていたので、親御さんへの挨拶もまだだろうと。
アークエイドの腕の中というなんとも締まらない状況だが、思いついた挨拶を述べる。
「はははっ、慌てふためくアシェルは珍しいんじゃないのか?覚えていないようだから、一応自己紹介をしておこうか。ヒューナイト王国国王、グリモニア・ナイトレイだ。そこのアークの父であり、アシェルの父アベルの幼馴染でもある。だからそんなに恐縮しなくても、私達は顔見知りだ。家族ぐるみの付き合いだからな。ちなみに、二人が付き合ってることは私も知っているぞ。なんせ、私達の前でプロポーズしたからな。」
「親御さんの前で、ぷろぽーず……?」
衝撃的な言葉にフリーズしたアシェルに、アークエイドは一応補足を入れておく。
「そもそも、こっちじゃお付き合いと婚約と結婚はセットだと言っていただろ?その……家族の前で付き合い始める了承を貰ったのは事実だが。恋愛でお付き合いをすると決めた時点で、両家には連絡が行くものなんだ。政略結婚の家は、そもそも両家から子供たちに打診がくるものだしな。だから親が付き合ってるのを知っていても、何もおかしいことは無いんだ。」
「……つまり、こっちでは家族が子供の恋路を知ってても、おかしくないって事ね?それなら納得できるわ。」
それだけ大きなイベントであれば、今のキーワードで思い出すことが出来るのではないかと思ったのだが。
手繰り寄せようとする記憶は、頑丈な扉に守られている。
この扉をこじ開けようとしても開くことは無いし、頭痛が酷くなるのだ。
何故かそれを知っていたので、記憶の欠片を集めていてもこの扉は無視した。小さな箱のような物なら、少しの頭痛と引き換えに開くことが出来るのだが、この扉だけは何をしても無理なのだ。
何故それを知っていたのかと思っていたが、アシェルが薫の記憶を思い出すときの一連の流れにあるようだ。
プロポーズなんて一生に一度の大事なことのはずなのに、それを思い出すことが出来ないのは悲しく、アークエイドにも申し訳ないと思ってしまう。
「落ち着いたかい?そろそろ言葉遣いを直さないと、アンが笑い死にしてしまうよ?」
アベルの言葉に足元に視線を向けると、アレリオンは腹を抱えて肩を揺らしていた。
アシェルが男装で女性の言葉を使うのが、余程ツボに入るらしい。
「アン兄様、笑い過ぎです。」
「ふふっ、くふっ……だって、アシェが……ふ、ふふっ。」
一生懸命深呼吸をしているが、中々笑いが収まらないようだ。
アシェルも笑うポイントがズレていると言われることがあるが、アレリオンは兄妹の中で一番ズレていると思う。
なんでこれがおかしいのだろうかと思うようなことで、一人でずっと笑ってるのだ。
アシェルが産まれる前、アルフォードは何度かアレリオンを意図的に爆笑させてやろうとしていたが、一度も成功したことが無かったんだとか。
そもそも、いつも穏やかな笑みを浮かべていて崩れないので、これだけ爆笑するアレリオンはとても貴重である。
こういうちょっとしたことだと、割とすんなり思い出せたりするのだ。
そもそも忘れていたのかさえ分からないほどに。
扉で守られているわけではなさそうなのに思い出せないことがあったなと、ふと思い至る。
「そういえば……僕って、スタンピードの時。何をしてたんですか?結界の中のことは、なんとなく思い出せたんです。なんとなくというか、恐らく全部。でも、結界の外のことが何一つ思い出せなくて。」
「スタンピードか?あの時は、アシェは周囲の人たちにバフ……強化魔法をかけて回っていた。それと、前線で魔物を屠っていた。」
アークエイドの簡単な説明に記憶を探るが、やはり思い出せない。
いや、なんとなく押し寄せる魔物たちのイメージはあるのだ。だが、強化魔法をかけて回っていたとはと思ってしまう。
そこに意識を繋げようとすると扉が現れるのだ。
身体強化は呪文というよりも体内魔力の操作で、求める効力を発揮している。
ストレージはどうして呪文を思い出せたのか分からないが、今も使える。
身体強化並みに使うのが当たり前のものだったのかもしれない。
そう。
馬車の中で観えた防音の術式も、それが防音だったと思ったのに、使い方が分からない。
今のアシェルが観たことなら忘れないはずなのに、見えたはずの術式は霞がかかってしまっている。
それならばとストレージから辞書のような物を取り出し見てみたのだが、見たことは分かるのに時間が経つと霞んでしまうのだ。
それは錬金に関しても同じことがいえる。
マナポーションとヒールポーションの材料は、それがどちらの材料なのかが分かったわけではない。
素材の見た目と名前、効果効能、使用部位。どんな薬に使われやすいかなどは、素材を見れば思い浮かぶ。
でもそれがその先に繋がらないのだ。
魔法と錬金。
この二つの記憶に拒絶されているとすら感じる。
アシェルが黙り込んだからか、アークエイドは更に言葉を続けた。
「アシェにとってスタンピードは、周囲を気にせず思いっきり暴れられる機会で、とても楽しんでいたからな。アシェもマリクもテイル夫人も、思いっきり遊んでいる、という感覚だったんじゃないかと思う。だから思い出せないんじゃないか?」
「そうかも。確か思い描いたことを一時的に封印する魔法って言ってたもんね。楽しいことをって言われてたのなら。より一層印象的で、忘れやすくなってたのかも。」
恐らくそれだけではないと思うが、余計な心配をかけないためにも同意を示した。
どちらにせよこの扉たちがどうなるかは、時間が来てみないことには分からないことだ。
「本当に申し訳ない……。」
「モーリス殿が謝ることじゃないよ。それに本来なら一時的に効果があるだけで、天邪鬼なムーラン嬢のお祝い兼嫌がらせだったんだろうし。記憶が無いからって悪いことばかりでも無かったから。」
以前見たことがあるものでも楽しいと思えた。
家族が、メアリーでさえもアシェルのことを大切に思っていてくれることを再認識出来た。
今のアシェルの状態で薫の意識が強いからこそ。
薫がどれだけ親友二人に頼りっきりだったのかを知ることが出来た。
前世の反省点にも気付けた。
今のアシェルを取り巻くすべてが、どれだけ輝いていて、どれだけ幸せな状況なのかを実感することが出来た。
たまたまアシェルが禁忌に触れていたというだけで、本当なら素敵な贈り物になったはずなのだ。
「そういってもらえると、少しは気が楽になるよ。……そろそろだね。」
部屋の奥で準備されていた機械が何やらチカチカと光り出した。
テーブルの上には黒く塗りつぶされたような紙切れ。
そこを取り囲むローブ姿の男達3人。
チカチカとする明滅は、段々と激しさを増していき——途絶えた。
紙切れはただのまっさらな紙になり、それまで何かで塗りつぶされていたとは思えない状態だ。
——時限式のスクロールは魔力回路で繋がっていないはずのダミーまで、綺麗さっぱり消えてしまうのだ。
チカチカと光が激しくなるにつれ頭痛が酷くなり、アシェルは頭を押さえていた。
光が途絶えると同時にアシェルの身体がぐらりと傾き、アシェルを支えていたアークエイドが力を入れてその身体を支える。
アベルとアレリオンが簡単に診察をして、身体には異常が無いことを確認した。
5分ほどして。
アシェルとしては頭痛が落ち着くよう願いながら、瞬きをしたつもりの感覚で。
ゆっくりと瞼が持ち上がり、アメジスト色の瞳が姿を現す。
「……もう、頭痛は大丈夫みたい。」
「そうか。やっぱり、頭痛がしてたんだな。どこかおかしいところはないか?」
「うん。なんともないよ。」
「良かった。」
アークエイドが安堵の息を漏らし。
集まった面々もどこか安心したように表情を緩めた。
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