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13話
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少年は、つい先ほど届いたばかりの手紙をぼんやりと眺めていた。
[結婚式を開きます。良かったら来てください]
その淡白な文面は、記憶にある限りいつも無表情だった差出人らしいものに思えた。その人にはしばらく会っていない。結婚をするとだけ伝えて家を出ていったその人は、その瞬間すら何の感情も読み取らせてくれなかった。式をしないのも「らしい」としか思っていなかったのに、どんな心境の変化だろうか。少年はしばらく熟考した。しかし見当もつかない。当然だ。何せその人、少年の実の姉であるライラとは、ほとんど口を聞いたことがないのだから。
少年、ヘンリー・ハンクフリットが生まれた時にはすでに、姉のライラは人形のような人だった。自分が母や父に叱られて泣いているときも、姉はそれをまるで観客のように外側からじっと見ていた。とても不気味で、苛立つ存在だったことを覚えている。姉は叱られることもなくぼんやりと生きているのに、後に生まれた自分はなぜこうも縛りの多い生活を送っているのか。湧き上がるのは憎悪にも近い感情だった。だから彼はある日姉に八つ当たりをした。きっとまた無表情で知らないふりをするのだろうと思っていたら、姉は彼の頬を叩き、そして母に何か言われた後彼女は壊れたように笑っていた。少し成長した今ならわかる。姉はずっと壊れる寸前の状態だったのだろう。
姉がシュベールに連れて行かれた後、ヘンリーは父の命令で学校に通うようになった。姉は行かなくて良かったのに、なぜ自分だけ強制されなければならないのかと不満に思ったが、後に自分は幸運だったと知る。なぜならあの冷え切った家の外に、「友人」という自分の居場所ができたからだ。あの家が世界の全てではないのだと知ることができた。それは彼にとって大きな転機となった。
友人たちと話してみれば、自分の両親は「当たり前」ではないことがわかった。友人たちは、親は安心できる存在であり、愛情を与えてくれる存在だと考えている。自分とはまるで違った。愛されて育った友人たちは人を愛することに長けていた。だから友情という名の愛を持って彼に接してくれる。彼はそこでようやく人の感情を学ぶ場を得た。そして次第に、姉が不幸な人であったことを理解した。誰にも関心を向けられないというのはひどく寂しく感じたことだろう。自分が姉にした八つ当たりは姉にとって虫唾の走るものだったことだろう。自分だけがあの両親に苦しんだわけではなかったのだ。彼はようやく、姉を少しだけ近しく感じることができた。
しかし、シュベールから帰ってきた姉は別人のようだった。いつでも笑顔を振り撒き、無口だったことが信じられないくらい多弁な人になっていた。これはヘンリーに対してではなく他の人に対してだ。ヘンリーとライラはあれから話すことは一度もなかった。しかしたまに同じ茶会に参加すると、姉は愛想良く多くの人々に接していた。そしていつの間にか、友人からも話題に振られるくらい姉は有名人になっていた。「子犬令嬢」。捨てられた子犬ならまだしも付けられた意味合いは姉には似合わないものだと感じた。
姉が何を考えているのか分からない。ヘンリーは少し近しく感じていたはずの姉を苦手になってしまった。そうして自分からも姉を避けるようにしていると、それが当たり前になった。
「私は結婚することになりました。だから、さようなら。頑張ってね」
それは初めて聞いた自分宛の姉の言葉だった。何も言わずに出ていくとすら思っていたから印象に残っている。でも、ヘンリーは何を言えばいいのか分からず、靄のかかったような感情を抱えて姉を見送った。
ヘンリーはもう一度招待状に添えられた文面を眺めた。同じものが両親に届いたのかと聞けば、ヘンリー宛のものしか届いていないと執事は答えた。つまり一応家族だから仕方なく、ということではなく、彼への招待には紛れもなく姉の意思が込められているのだ。文面では一切伝わってこない何かを、彼女は弟に伝えたいのかもしれない。
ペンが紙の上を擦る音が部屋に響く。彼がそこに綴った言葉は、姉と同じく淡白で、そして簡潔な言葉だった。
******************
[出席します]
その淡白な文面をライラは慎重に指でなぞった。その様子を見てリックは少しおかしそうに微笑む。
「落ち着かない様子だな」
「はい。招待しておいて今更ですが、どんな顔をして会えばいいのか分からなくて……」
「いつも通りのあなたでいれば良い。無理に気を遣う必要もないだろう」
「そうなんですけど……」
ライラはそう言いつつぼんやりと思考を巡らせた。招待を素直に受け取ってくれるかすら、正直なところ賭けではあった。お世辞にも仲の良い姉弟とは言えない二人だ。実際に会って何を話すのかも決めているわけではない。それでも招待しようと思ったのは、リックと出会って良い方向に変わることができたと感じる自分を、弟に見せたかったからだ。自分がヘンリーにとって後味の悪い思い出になっているという実感が彼女にはある。だから、この結婚式を通してそれをなくすことができたら良いと考えたのだ。
「あなたはとても繊細な人だ」
リックが唐突に放った言葉にライラは俯けていた顔を上げた。
「……悪口ですか?」
「いいや、そうじゃない」
「ではどういう意味ですか?」
「俺が思うに、あなたは自分が繊細だからこそ、相手の感情の機微も細かく感じ取れてしまう。それは時にあなたを疲れさせてしまうが、それでもそれはあなたの思いやりの元になっているのだろう」
そう言いながら、リックはライラの手を取った。そして流れるような動作で彼女の指にあるものをはめた。それは白く細い彼女の指によく映えるシンプルな作りの指輪だった。
「あなたの思うように話せば良い。俺はいつだってあなたの選択を尊重するし、誰よりも信じている。これはその証だ」
「え、こ、これ……」
「昨日ようやく届いたんだ。式まで取って置いても良かったが俺も舞い上がっているのだろう。あなたに見せたくて仕方がなかった。気に入ってもらえただろうか?」
「ふふ、素敵です。本当に、とっても」
ライラは控えめに光るそれを眺めて静かに微笑んだ。グレーに輝く指輪はリックの瞳の色にも似ていて、彼をよりそばで感じることができるような気がした。そしてその感覚は、先ほどまで迷っていたライラの背中をそっと押してくれるような気がした。
「ありがとうございます。繕わない私で、ヘンリーに向き合ってみます」
「ああ、応援している」
式まではもう残り数日だ。その穏やかでいて少し落ち着かない日々は、あっという間に過ぎていった。
[結婚式を開きます。良かったら来てください]
その淡白な文面は、記憶にある限りいつも無表情だった差出人らしいものに思えた。その人にはしばらく会っていない。結婚をするとだけ伝えて家を出ていったその人は、その瞬間すら何の感情も読み取らせてくれなかった。式をしないのも「らしい」としか思っていなかったのに、どんな心境の変化だろうか。少年はしばらく熟考した。しかし見当もつかない。当然だ。何せその人、少年の実の姉であるライラとは、ほとんど口を聞いたことがないのだから。
少年、ヘンリー・ハンクフリットが生まれた時にはすでに、姉のライラは人形のような人だった。自分が母や父に叱られて泣いているときも、姉はそれをまるで観客のように外側からじっと見ていた。とても不気味で、苛立つ存在だったことを覚えている。姉は叱られることもなくぼんやりと生きているのに、後に生まれた自分はなぜこうも縛りの多い生活を送っているのか。湧き上がるのは憎悪にも近い感情だった。だから彼はある日姉に八つ当たりをした。きっとまた無表情で知らないふりをするのだろうと思っていたら、姉は彼の頬を叩き、そして母に何か言われた後彼女は壊れたように笑っていた。少し成長した今ならわかる。姉はずっと壊れる寸前の状態だったのだろう。
姉がシュベールに連れて行かれた後、ヘンリーは父の命令で学校に通うようになった。姉は行かなくて良かったのに、なぜ自分だけ強制されなければならないのかと不満に思ったが、後に自分は幸運だったと知る。なぜならあの冷え切った家の外に、「友人」という自分の居場所ができたからだ。あの家が世界の全てではないのだと知ることができた。それは彼にとって大きな転機となった。
友人たちと話してみれば、自分の両親は「当たり前」ではないことがわかった。友人たちは、親は安心できる存在であり、愛情を与えてくれる存在だと考えている。自分とはまるで違った。愛されて育った友人たちは人を愛することに長けていた。だから友情という名の愛を持って彼に接してくれる。彼はそこでようやく人の感情を学ぶ場を得た。そして次第に、姉が不幸な人であったことを理解した。誰にも関心を向けられないというのはひどく寂しく感じたことだろう。自分が姉にした八つ当たりは姉にとって虫唾の走るものだったことだろう。自分だけがあの両親に苦しんだわけではなかったのだ。彼はようやく、姉を少しだけ近しく感じることができた。
しかし、シュベールから帰ってきた姉は別人のようだった。いつでも笑顔を振り撒き、無口だったことが信じられないくらい多弁な人になっていた。これはヘンリーに対してではなく他の人に対してだ。ヘンリーとライラはあれから話すことは一度もなかった。しかしたまに同じ茶会に参加すると、姉は愛想良く多くの人々に接していた。そしていつの間にか、友人からも話題に振られるくらい姉は有名人になっていた。「子犬令嬢」。捨てられた子犬ならまだしも付けられた意味合いは姉には似合わないものだと感じた。
姉が何を考えているのか分からない。ヘンリーは少し近しく感じていたはずの姉を苦手になってしまった。そうして自分からも姉を避けるようにしていると、それが当たり前になった。
「私は結婚することになりました。だから、さようなら。頑張ってね」
それは初めて聞いた自分宛の姉の言葉だった。何も言わずに出ていくとすら思っていたから印象に残っている。でも、ヘンリーは何を言えばいいのか分からず、靄のかかったような感情を抱えて姉を見送った。
ヘンリーはもう一度招待状に添えられた文面を眺めた。同じものが両親に届いたのかと聞けば、ヘンリー宛のものしか届いていないと執事は答えた。つまり一応家族だから仕方なく、ということではなく、彼への招待には紛れもなく姉の意思が込められているのだ。文面では一切伝わってこない何かを、彼女は弟に伝えたいのかもしれない。
ペンが紙の上を擦る音が部屋に響く。彼がそこに綴った言葉は、姉と同じく淡白で、そして簡潔な言葉だった。
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[出席します]
その淡白な文面をライラは慎重に指でなぞった。その様子を見てリックは少しおかしそうに微笑む。
「落ち着かない様子だな」
「はい。招待しておいて今更ですが、どんな顔をして会えばいいのか分からなくて……」
「いつも通りのあなたでいれば良い。無理に気を遣う必要もないだろう」
「そうなんですけど……」
ライラはそう言いつつぼんやりと思考を巡らせた。招待を素直に受け取ってくれるかすら、正直なところ賭けではあった。お世辞にも仲の良い姉弟とは言えない二人だ。実際に会って何を話すのかも決めているわけではない。それでも招待しようと思ったのは、リックと出会って良い方向に変わることができたと感じる自分を、弟に見せたかったからだ。自分がヘンリーにとって後味の悪い思い出になっているという実感が彼女にはある。だから、この結婚式を通してそれをなくすことができたら良いと考えたのだ。
「あなたはとても繊細な人だ」
リックが唐突に放った言葉にライラは俯けていた顔を上げた。
「……悪口ですか?」
「いいや、そうじゃない」
「ではどういう意味ですか?」
「俺が思うに、あなたは自分が繊細だからこそ、相手の感情の機微も細かく感じ取れてしまう。それは時にあなたを疲れさせてしまうが、それでもそれはあなたの思いやりの元になっているのだろう」
そう言いながら、リックはライラの手を取った。そして流れるような動作で彼女の指にあるものをはめた。それは白く細い彼女の指によく映えるシンプルな作りの指輪だった。
「あなたの思うように話せば良い。俺はいつだってあなたの選択を尊重するし、誰よりも信じている。これはその証だ」
「え、こ、これ……」
「昨日ようやく届いたんだ。式まで取って置いても良かったが俺も舞い上がっているのだろう。あなたに見せたくて仕方がなかった。気に入ってもらえただろうか?」
「ふふ、素敵です。本当に、とっても」
ライラは控えめに光るそれを眺めて静かに微笑んだ。グレーに輝く指輪はリックの瞳の色にも似ていて、彼をよりそばで感じることができるような気がした。そしてその感覚は、先ほどまで迷っていたライラの背中をそっと押してくれるような気がした。
「ありがとうございます。繕わない私で、ヘンリーに向き合ってみます」
「ああ、応援している」
式まではもう残り数日だ。その穏やかでいて少し落ち着かない日々は、あっという間に過ぎていった。
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