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第1部 エド・ホード
第2話 リテアと魔法の石
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小さな市場を抜けて水路を跳び越え、かぶ畑の農道を走っていく。季節はずれの粉雪はさすがに積もらなかったみたいで、泥にくすんだ融けかけの雪が、少しだけ道の端に残っている。うららかな日差しに水たまりが光って、なんだか村中がきらきらしていた。橋を渡って丘を越えると、森の入口でリテアが手を振っていた。
「エドー、こっちー、はーやーくー」
きっとお母さんをせかしたのだろう。まだ三月のはじめだというのに、リテアは白い半ズボンをはいていた。どくだみの茂みにはまだ雪がたっぷり残っていて、僕がそばまで行くと、リテアはさっそく丸めたそれを投げつけてきた。
「うわあ! やったなリテア」
「わたしは偉大な森の精だよ? 農家の息子のくせに、その口の利き方はなんだ!」
リテアはけらけら笑いながら、何個も雪玉を投げつけてきた。
「君は靴屋の娘じゃないか」
僕が雪玉を投げ返すと、
「違うってば」
リテアは手で弾いてまた雪を拾った。
「わたしは森の妖精なの!」
僕たちはそうして、太陽が頭の真上に来るまで、ありったけの雪を投げあった。息を切らして笑い転げながら、午後からもまた遊ぶ約束をして家に帰った。
「あらエド、お尻がびしょ濡れじゃない」
エレンおばさんは僕を出迎えるなりタオルを渡して、新しい着替えを出してくれた。なんというかエレンおばさんは、ちょっと僕に優しすぎるところがあるのだ。リテアなんか、お母さんに怒られるのが怖いからと言って、必死に服の汚れを隠して、午後からも同じ格好で来ることがしょっちゅうある。本当のお母さんというのは、そんなに怒りっぽいものなのだろうか。僕はときどき考えることがあった。
「森には行ってないわよね?」
エレンおばさんは台所で、きのこのリゾットをかき混ぜながら言った。
「森には絶対に入っちゃダメよ。約束だからね?」
うん、と僕はエレンおばさんの背中に言った。おばさんは小指を立てたけれど、振り返らないままだったので、僕は指切りをしなかった。
「こらエド、ゆっくり味わって食べなさい」
「だっておばさん、早くしないと雪が融けちゃうよ」
リゾットはお米がよく立っていて、さらりとしたブイヨンのなかに、贅沢なきのこの香りがした。雪のことがなくたって、どうしても早食いになってしまう。
「ごちそうさま。行ってきます!」
僕はお皿をキッチンへ運ぶと、また家を出て森のほうへ走った。リテアはまた先に来て待っていた。おそーい、早く、早く、と何度も飛び跳ねて手招きをする。
「エドが来ないから、わたし一人で遊んでたんだよ」
リテアの隣には、腰の高さくらいの小さな雪だるまがあった。リテアはやっぱり、朝と同じ白い半ズボンをはいていた。お尻のところが、少し泥で濡れている。
「もう綺麗な雪は残ってないね」
僕はどくだみの茂みを見渡して言った。
「森のなかは? 森のなかなら、まだたくさん残ってるはず!」
「ダメだよ。エレンおばさんに、森には入るなって言われてるんだ」
「エドが言わなきゃわかんないよ。もちろんわたしは秘密を守るし」
「でも約束なんだ」
「指切りはした?」
「……してないけど」
「じゃあ大丈夫!」
リテアはにこっと笑って、胸元の首飾りに手をやった。うっすらと透き通る緑色の、柳の葉の形をしたネックレス。リテアが言うには、ヒスイという石からできているらしい。お父さんが外国へ行ったときに、夜市で買ってきてくれたそうだ。リテアはこれが大のお気に入りで、いつも肌身離さず――眠るときまで――身につけて、機嫌がいいときにこうして触る。
「この首飾りは、魔法の石でできてるの。お父さんが森で迷子の妖精を助けたときに、お礼に妖精王からもらったんだって」
「嘘だ。前にお父さんが、夜市で買ってきたって言ってたじゃないか」
「こんなに珍しいものが夜市に売ってる?」
「夜市は珍しいものを売るところじゃないの?」
「信じてないな?」
「そもそもリテアには妖精が見えるの?」
「じゃあ試してみる?」
「……試すって?」
「手を出して」
リテアは首飾りをはずして、僕の両手に握り込ませた。
「……何をするの?」
「しー、しゃべらないで」
僕は黙って頷いた。
「海のことを考えて」
「海?」
「しゃべらないでってば! ちゃんと集中して」
僕は今度こそ黙って目をつむった。
「海のことを考えて。高い波は荒れ狂う情念。じたばたせずに身を任せて。波と息を合わせるんだ」
僕には意味がわからなかった。ジョウネン? でも、なんとかやってみることにする。きっとリテアだってお父さんに教わったことを、意味もわからずに唱えているだけだ。
「空のことを考えて。風のことを考えて。それらと一つになる自分を思って。宇宙のことを考えて。世界のはじまりと終わりについて。それらすべての源について」
僕はリテアの言葉に心を委ねた。青と緑のやわらかい風が、僕を包んで通り抜ける。足から腰に、腰から首に、泡立つように走り抜ける。遠くで母さんの声が聞こえる。父さんの抱えた闇を感じる。
「森の声が聞こえる」
「え?」
リテアが間の抜けた声を出した瞬間、ヒスイの石が、雷のような緑の光を放った。膨らんでは収れんして、その密度をどんどん高めていく。
「ねえ、エド、いったい何をしたの?」
「君の言う通りにしただけだよ」
「でも、わたしは何度ためしても、こんなふうにはならなかった」
石は森中の息吹を集めて、大きなつむじ風を巻き起こした。やがてそのすべてを中心に宿して、石はふわりと浮かびあがった。
「すごい! エド、石が浮かんでるよ!」
石は宙に浮いたまま、何かにひっぱられるように、ある方向を指し示した。
「森のほうだ」
「ねえ、行ってみようよ」
リテアはそう言って、僕の手をひっぱった。
僕は頷いて、森に足を踏み入れた。
「エドー、こっちー、はーやーくー」
きっとお母さんをせかしたのだろう。まだ三月のはじめだというのに、リテアは白い半ズボンをはいていた。どくだみの茂みにはまだ雪がたっぷり残っていて、僕がそばまで行くと、リテアはさっそく丸めたそれを投げつけてきた。
「うわあ! やったなリテア」
「わたしは偉大な森の精だよ? 農家の息子のくせに、その口の利き方はなんだ!」
リテアはけらけら笑いながら、何個も雪玉を投げつけてきた。
「君は靴屋の娘じゃないか」
僕が雪玉を投げ返すと、
「違うってば」
リテアは手で弾いてまた雪を拾った。
「わたしは森の妖精なの!」
僕たちはそうして、太陽が頭の真上に来るまで、ありったけの雪を投げあった。息を切らして笑い転げながら、午後からもまた遊ぶ約束をして家に帰った。
「あらエド、お尻がびしょ濡れじゃない」
エレンおばさんは僕を出迎えるなりタオルを渡して、新しい着替えを出してくれた。なんというかエレンおばさんは、ちょっと僕に優しすぎるところがあるのだ。リテアなんか、お母さんに怒られるのが怖いからと言って、必死に服の汚れを隠して、午後からも同じ格好で来ることがしょっちゅうある。本当のお母さんというのは、そんなに怒りっぽいものなのだろうか。僕はときどき考えることがあった。
「森には行ってないわよね?」
エレンおばさんは台所で、きのこのリゾットをかき混ぜながら言った。
「森には絶対に入っちゃダメよ。約束だからね?」
うん、と僕はエレンおばさんの背中に言った。おばさんは小指を立てたけれど、振り返らないままだったので、僕は指切りをしなかった。
「こらエド、ゆっくり味わって食べなさい」
「だっておばさん、早くしないと雪が融けちゃうよ」
リゾットはお米がよく立っていて、さらりとしたブイヨンのなかに、贅沢なきのこの香りがした。雪のことがなくたって、どうしても早食いになってしまう。
「ごちそうさま。行ってきます!」
僕はお皿をキッチンへ運ぶと、また家を出て森のほうへ走った。リテアはまた先に来て待っていた。おそーい、早く、早く、と何度も飛び跳ねて手招きをする。
「エドが来ないから、わたし一人で遊んでたんだよ」
リテアの隣には、腰の高さくらいの小さな雪だるまがあった。リテアはやっぱり、朝と同じ白い半ズボンをはいていた。お尻のところが、少し泥で濡れている。
「もう綺麗な雪は残ってないね」
僕はどくだみの茂みを見渡して言った。
「森のなかは? 森のなかなら、まだたくさん残ってるはず!」
「ダメだよ。エレンおばさんに、森には入るなって言われてるんだ」
「エドが言わなきゃわかんないよ。もちろんわたしは秘密を守るし」
「でも約束なんだ」
「指切りはした?」
「……してないけど」
「じゃあ大丈夫!」
リテアはにこっと笑って、胸元の首飾りに手をやった。うっすらと透き通る緑色の、柳の葉の形をしたネックレス。リテアが言うには、ヒスイという石からできているらしい。お父さんが外国へ行ったときに、夜市で買ってきてくれたそうだ。リテアはこれが大のお気に入りで、いつも肌身離さず――眠るときまで――身につけて、機嫌がいいときにこうして触る。
「この首飾りは、魔法の石でできてるの。お父さんが森で迷子の妖精を助けたときに、お礼に妖精王からもらったんだって」
「嘘だ。前にお父さんが、夜市で買ってきたって言ってたじゃないか」
「こんなに珍しいものが夜市に売ってる?」
「夜市は珍しいものを売るところじゃないの?」
「信じてないな?」
「そもそもリテアには妖精が見えるの?」
「じゃあ試してみる?」
「……試すって?」
「手を出して」
リテアは首飾りをはずして、僕の両手に握り込ませた。
「……何をするの?」
「しー、しゃべらないで」
僕は黙って頷いた。
「海のことを考えて」
「海?」
「しゃべらないでってば! ちゃんと集中して」
僕は今度こそ黙って目をつむった。
「海のことを考えて。高い波は荒れ狂う情念。じたばたせずに身を任せて。波と息を合わせるんだ」
僕には意味がわからなかった。ジョウネン? でも、なんとかやってみることにする。きっとリテアだってお父さんに教わったことを、意味もわからずに唱えているだけだ。
「空のことを考えて。風のことを考えて。それらと一つになる自分を思って。宇宙のことを考えて。世界のはじまりと終わりについて。それらすべての源について」
僕はリテアの言葉に心を委ねた。青と緑のやわらかい風が、僕を包んで通り抜ける。足から腰に、腰から首に、泡立つように走り抜ける。遠くで母さんの声が聞こえる。父さんの抱えた闇を感じる。
「森の声が聞こえる」
「え?」
リテアが間の抜けた声を出した瞬間、ヒスイの石が、雷のような緑の光を放った。膨らんでは収れんして、その密度をどんどん高めていく。
「ねえ、エド、いったい何をしたの?」
「君の言う通りにしただけだよ」
「でも、わたしは何度ためしても、こんなふうにはならなかった」
石は森中の息吹を集めて、大きなつむじ風を巻き起こした。やがてそのすべてを中心に宿して、石はふわりと浮かびあがった。
「すごい! エド、石が浮かんでるよ!」
石は宙に浮いたまま、何かにひっぱられるように、ある方向を指し示した。
「森のほうだ」
「ねえ、行ってみようよ」
リテアはそう言って、僕の手をひっぱった。
僕は頷いて、森に足を踏み入れた。
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