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第八章 悪役坊ちゃん傷心中
閑話・とある魔法使いの夢
しおりを挟む幼い頃から繰り返し視る夢が二つある。
はじめて視たのは九歳のときだった。当時はただの嫌な夢だと気に留めなかったが、同じ夢を三度視たところで、ああこれは未来視なのだと気がついた。曖昧な内容の未来視を周囲に吹聴すると混乱を来たすため、今しばらくは様子を見ることにする。幸い夢の中の自分はもっと成長しているから、この未来の実現には時間がかかるだろう。
そうしてゆっくりと状況を吟味するうちに、察した。十三歳のときだった。
これは、魔王が復活した最悪の未来───
夢はいつも、揺れる視界と、自分の息遣いから始まる。
視界が暗いのは灯かりがないからだ。申し訳程度、ぽつぽつと弱弱しい掛け燭の炎が揺らめいている。灯かりが必要ないのはここが冥界の底だからである。冥界の生き物は魔力感知に優れているため、視界が悪くても問題ない。
先導するは二人の青年。のちの調査で判明する、ギルバート・ロウとルーファス・チカだ。
トラクは隣を走る少女を一瞥する。「大丈夫? リディア」と問いかけると彼女はうなずいた。腰まで伸びた真っ直ぐな栗色の髪と、透きとおる若草色の双眸が美しい少女だった。
これものちの調査で判明する。彼女は〈異邦の迷い子〉──くじらの託宣の領域外に生まれた少女。
重厚な扉を開いた先には、広い空間があった。
漆黒のすべらかな石でできた部屋の中心に、同じ材質でできた噴水がある。水の湧きだす音が広い部屋に反響していた。
噴水の縁に深く腰掛けて項垂れていた男がゆらりと顔を上げる。
黄色みの強い、さらりとしたバターブロンド。透けるように白い膚。曇った空色の眸。彼についてもまた、のちの調査で判明する。ニコラ・ロウ、ギルバートの弟である。
トラクの横にいたリディアが息を呑んだ。
「ニコラ……」と零したその声は憎々しげで、そしてどこか切なげでもあった。バルバディアに入学してリディアに接触し、裏から手を回してニコラのルームメイトとなったトラクには、彼女の懊悩が手に取るように解った。
ニコラ。事あるごとにリディアに突っかかって、彼女を「ぽんこつ」とか「爆発魔」とか罵るわりに本気で嫌っているようにはどうも見えなくて、只人排他主義なのかと思えばそんなこともなく、何か危機が迫れば相手が毛嫌いしているリディアだろうとアデルだろうととにかく誰かを庇ってしまう、結局のところ多分ただのお人好し───
人の善いリディアにとっては戦いにくい相手だ。
一瞬だけ躊躇する仕草を見せたリディアを庇うように、ギルバート・ロウが前に出た。
「下がっていなさい」
優秀な実兄が杖を構えても、ニコラは微動だにしなかった。
ニコラの傍らには一つの死体が転がっている。噴水の中に頭を突っ込むようにして投げ出された肢体は黒いローブに覆われているから、トラクにも誰かは判らない。
ギルバートはその死体に目をやって、静かに弟を見つめた。
不思議なほど凪いだ眸だった。
「──目的は果たしたようだね。ニコラ」
ニコラは兄の言葉に、ほほ笑んで応えた。
ゆったりとした仕草で立ち上がり、黒いローブの内側で腕を動かす。杖を構えようとしているかのような動きに、ルーファスの気配がぴりっと尖った。
ニコラがローブの裾を翻しながら杖を取り出した瞬間、ギルバートは祈詞を唱える。
「“まがものよ、よわきもの、そは×××××なり──なんじはいしなり”」
瞬きする間に、ニコラは灰色の石と化した。
立ち続ける意思を失い、バランスを崩して前に倒れ込む。ぱき、と思いのほか空々しい音とともに、かつて生き生きと魔法を学びリディアを罵った孤独な少年は、粉々に砕け散った。
誰も、彼の最期の表情を記憶に留めることはできなかった。
ギルバートに向けようとしていた右の手首から先が、トラクの足元に滑りくる。
彼は木の枝のようなものを握っていた。
夢を視はじめた当初は単純にこれがニコラの杖だと思っていた。しかし入学後、ルームメイトとして出会ったニコラが使用しているのは、魔力伝導率の高い木を職人が丁寧に精練した最高級の杖だった。アクシデントで折れたあと婚約者からプレゼントされたという杖も、トラクの未来視とは合致していない。
魔王軍に従軍し、新しい杖を誂えたという可能性も十分にある。
けれど、ニコラと寝起きをともにするようになったトラクには確信があった。
あれはただの木の枝だ。
ニコラは我々と戦う気などなかったのだ。
「行こう」ギルバートが静かに歩きだす。その頬に涙が伝っているように見えた。
トラクもリディアも気づかないふりをした。
◇ ◇ ◇
幼い頃から繰り返し視る夢は、もう一つある。
これはギルバートがニコラに石化魔法をかける夢ほど頻繁には視ない。忘れた頃、思い出させるようにふっと現れる。二、三年に一度といった具合だった。
場所は恐らく、ニコラの件と同じ建物の中、別の部屋だろう。
視界の悪さや床の材質がよく似ている。従ってこれも魔王が復活した未来、冥界のどこかで起きる出来事と考えられる。
リディアが一人の男性を膝に乗せて泣き叫んでいた。
ぐったりと力なく倒れ伏す青年の体から、止め処なく血が流れている。「いやだ」「どうして」「せんせい、先生」と、リディアは狂ったように繰り返した。その頬には、彼のものと思しき血が跳ねている。
──『リディア』の『せんせい』。
一時期は〈異邦の迷い子〉を保護した大魔法使いイルザークがここで死ぬのかと焦っていたが、バルバディアで実際にイルザークの授業を受けたところ、彼ではなかった。イルザークは夥しく長い黒髪が特徴であるが、この夢で死にかけている彼はさらりとした緋色の髪をしている。
「いいんだ、泣くな、リディア……」
先生、と呼ばれているその青年もまた、ニコラと同じ魔王軍の一員の証である黒いローブを着ていた。
ギルバートがその傍らにしゃがみ込み、失血で蒼褪めた青年の頬を撫でる。
「ギル坊ちゃん」
「──……ばか者」
「……あのかたの、魔石と杖です、お持ちください」
血塗れの手のなかできらりと光るのは、天気のよい日の天海のように透き通る、海色の魔石だった。
少しいびつな形をしていて、でもどこまでも透明で、つるんと丸い。
ニコラの眸と同じ色だ。
同じようにしてギルバートの手に託された杖は、やや年季の入った細身の杖だった。紫がかった色合いは、杖の材質としては最も頑丈な素材の、ゴショウの樹特有のものである。
「あのかたは私に、魔石を使って魔力を得るようにと、そうしてギル坊ちゃんたちのお力になるようにと命じられました。けれど、私ではきっと、使いこなせませんから」
「……そうか」
「あの人いがいと、寂しがりやで、ひとりぼっちなんで。オレ、たたかうよりは、おそばに行ってあげたくて……」
「ああ、そうだね」
ギルバートは両手が血に濡れるのも構わず青年の手を握った。いやいやと子どものように駄々をこねるリディアだけが場違いなように見えた。
リディアの膝の周りに血溜まりが広がる。
「おまえがあの子のそばにいてくれて良かった。シリウス」
バルバディア入学後、半年経った頃に一度この夢を視た。
あの杖はニコラの杖だ。
正確には、婚約者からプレゼントされたという、ニコラの二代目の杖。
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