上 下
134 / 138
番外編

凍季休暇(2):坊ちゃんVS親父殿

しおりを挟む
 バーカ一生こき使ってやるって言ったろということで仲直りした感じになったのに、シリウスの怒りはその後もしばらく持続していた。お鍋の底で低温のままふつふつと沸騰し続けるお湯のごとく。しつこい油汚れのごとくネチネチと。
 心配かけたんだなぁ俺って愛されてるなぁと心たいらかに接し続けた。

 そして俺と兄貴が帰省した翌日の夕方。
 親父殿がヴェレッダ騎士団の砦から帰邸してきたのである。

「ニコ、旦那さまがお帰りになられたぞ。お迎えに行かなくていいのか」
「いーんだよ。ドラ息子は遅れて登場するもんだ」

 俺の部屋から見えるロウ家の門前には一台の馬車が停まっていた。
 聞けば親父殿が帰邸するのは一週間ぶりだという。星降祭において魔王復活の儀式に巻き込まれた俺たちの証言からも明らかな通り、魔王軍の軍勢は魔王復活に向けて動きを活発にしてきている。暁降ちの丘を領地に持つ領主として、そして騎士団の団長として、ディートハルト・ロウはこの国で今最も気の抜けない生活を送っている人のうちの一人だ。

 カーテンを閉めた俺は、馬車から親父殿が下りてきたあと、もう二つの人影がロウ家に近づいていたのを見逃していた。



 玄関先で兄貴と親父殿が話している声を聞きながら、遅れて登場したドラ息子こと俺、ニコラ・ロウは足音高く階段を駆け下りた。
 いち早く気づいた家令が、親父殿の外套を受け取りながら目を丸くする。

「坊ちゃまっ?」
「こンのクソ親父があぁぁあっ!!」

 思いっきり助走をつけて黄金の右拳を振りかぶると、俺より頭一個分背の高い親父殿の顔面目掛けて容赦なく振り抜いた。
 これまで目立った反抗もしてこなかった次男坊が突如、帰宅直後の当主を襲撃する──それなりに不意をついたつもりだったが、親父殿は顔色一つ変えず、掌を広げて俺の生っ白い拳を受け止めていた。
 兄貴は隣でぽかんとしている。

「テメエッ、俺が魔王軍に従軍する未来視の話を聞いておきながらエウフェーミアを俺の婚約者に当てるってどういうことだ! シリウスを俺の従者として認めるたァ一体どういう料簡だったんだ!! 二人が俺や魔王軍に巻き込まれて死んでも構わねえつもりだったのかよ!!」

 そうだ。


 俺はずっとこのことについて密かに怒っていた。


 エルトン本邸、およびその後に馬車が襲撃された二つの事件が、エウの魔力を狙う魔王軍による襲撃だったことは当時すでに判明していたはずだ。親父殿やベックマン氏が知らないわけがない。魔力を狙われているエウの傍に、将来魔王軍に従軍するかもしれない俺を置くことの危険性も。
 そのうえ魔王軍は只人や魔力の弱い人々の住む町を多く襲った記録が残っている。只人排斥の傾向がベルティーナ王国で固まったのは、魔王に狙われるから、という要因も大きい。俺が道を踏み外すとき、只人のシリウスなど真っ先に排除されてもおかしくないのだ。

 普通に考えるなら、二人とも遠ざけるべき存在だ。
 なのに。

「なんで危険を承知で俺の傍にいさせた!? なんで母上が未来視をした時点で俺を殺してしまわなかったんだよ!!」

 俺の拳を掌に受け止めたまま、親父殿はそっと目を伏せた。
 親父殿の手は冷たかった。
 皮は分厚く硬い。数えきれないほどの剣胼胝や血豆を潰し続けて出来上がった、鋼のような剣士の手だった。

 強い男の手。


「あんたなら簡単だったろ、一歳や二歳の赤子を斬り捨てることくらい……!」


 吐き捨てた瞬間だった。
 視界がぐるりと回転して、俺は背中から床に叩きつけられていた。親父殿に投げ飛ばされたのだ。反撃を想定していたはずなのに、受け身を取る暇さえ与えられなかった。

 さすがに一瞬呆気に取られたが、即座に身を起こして親父殿を睨みつける。
 彼は小さく溜め息をつき静かにこちらを見下ろした。

「できると思うか」
「……は?」
「おまえならできるか、ニコラ。例えばエウフェーミアどのが命懸けで産んだ赤子が、いつか人を殺すと夢に視たとして」
「…………」


「おまえならその子を殺せるか」


 ロウ家の玄関が不気味な沈黙に包まれる。
 迎えに出ていた兄貴も、家令をはじめとする使用人一同も、誰も何も喋らない。その様子を見て、ああここにいる全員が金髪美女の未来視のことを知っていたんだなと察した。執事も、ナタリアも、庭師も料理長も、若いメイドのみんなでさえ。

 答えられなかった俺の横を親父殿が通り抜けてゆく。腹が立つくらい鷹揚に、ゆったりと。

「エウフェーミアどのとシリウスを傍に置かせたのは、却って絆されればそれでいいと思ったからだ。おまえが二人に危害を加えようとするならば、ことが起きるより先に私がこの手でおまえを殺した。だがそうはならなかった。……それが全てだ」

 応接間へと向かう親父殿を振り返り、その大きな背中を睨みつけた。
 なんだよそれ。結局エウとシリウスを危険に晒したのに変わりないじゃねーか。ニコラが“俺”じゃなかったら二人とも死んでたかもしれねーんだぞ。

「あああああやっぱ俺、親父殿とは反りが合わねぇ!!」
「ニコラ坊ちゃま。そんな身も蓋もないことを大声で叫ばないでください」
「これが叫ばずにいられるかシリウス!? おまえももっと怒れよ!!」
「私はバルバディアに出発する直前、さんざっぱら一人で怒りましたから」

 ムカムカするのを抑えられず両手をわななかせていると、背後から「はーっはっはっは!」と闊達な笑い声が聞こえてきた。

「元気がいいな、ニコラ。だがディートハルトに挑むにはまだ早かったか」

 誰だこのおっさん。
 明るい赤茶色の髪をきれいに撫でつけ、同じ色の顎髭をさすりながら俺を見下ろすおっさんに、一応形式だけ会釈する。お客さんの前でとんでもない家庭事情を暴露してしまった……が、親父殿も兄貴も特に何も言わなかったのだから、未来視やエウの話を承知しているお偉いさんなんだろう。
 というか身にまとっている衣服が見るからに高級だ。絶対騎士団とかの偉い人だ。


 ……とか思っていた俺の横で、突如使用人が全員、最敬礼で跪いた。どうした、みんな。


 ……とか思っていた俺は、そのおっさんの眸の色が、リシ嬢を彷彿とさせる黄金色であることに気がついてしまった。


 慌てて膝をつく。
 星降祭の夜、トラクの前に膝を折ったリシ嬢のように。

「よいよい、堅苦しくするな。いつも通り適当にやってくれ。ギルバートとニコラも立ちなさい。いつも姪と息子が世話になっているな」

 立てと言われて立てるもんか!
 こんなフランクなおっさんが国王陛下だなんて誰が思うんだよ、もっと国王らしくしろよ!!

 おっさん──もといベルティーナ王国第一〇一代国王陛下は人の善さそうな笑みを浮かべて、俺と兄貴に視線を合わせた。

「おまえたちが立たないのなら、おれも床に膝をつくが?」
「脅迫だ!!」
「わはは」
「ていうか、どっかで聞いたことある喋り方だと思った。前期のオルテガ迷路攻略で父上と一緒におられましたね」
「正解だ! あのときはよく頑張ったな、おかげで違法魔法薬の製造者を捕縛できたぞ」

 陛下はワハワハ笑いながら両手で俺の肩をばんばん叩いた。
 一足先に陛下のフランクさに順応した俺の横で、根っからこの国の人間である兄貴はいまだ蒼い顔でいる。可哀想に。さすがに国王陛下がいきなり家に来るとは思わないよな!

 使用人たちは慣れた様子で陛下をほっぽって散っていく。シリウスを一瞥すると、無音で「ニコが入学して以降、何度か邸にいらっしゃってる」と唇を動かした。どうりで慣れてるわけだ。

 陛下はムムムと顎髭をさすりながら俺を見つめる。
 頭のてっぺんから足の爪先まで。

「それにしても、よい拳だった。あそこでディートハルトが大人しく殴られていたら騎士団長を解任してやろうかと思ったが、あやつもさすがにそこまで鈍っていなかったな」
「お恥ずかしいところをお見せしました」
「いいや。自分ではなく婚約者と従者の扱いに文句をつけるとは、成る程うちの息子が気に入りそうな性根だと思ってな。──で、いつまで隠れてるんだ?」

 開けっぱなしの扉の裏に隠れていたらしい。
 見覚えのあるハウスメイトがひょっこり顔を出した。藍色の短髪、琥珀色の双眸、そばかすの素朴な自称孤児、トラクである。

「や、ニコラ。プリンスのお言葉に甘えてお邪魔します!」
「まじで来やがったな」
「いや、さすがに今年は遠慮しようと思ってたんだけど、陛下が無理やり。父子ともどもお世話になります」

 ちょうどそのとき、賓客を放置して先に応接間に入っていた親父殿が、呆れ顔で扉を開けた。

「おい、ウォル。いつまで絡んでいる」
「絡んでなどいないぞ! うちの──」

 陛下はそこでトラクを振り返った。役者のような大仰な仕草だ。トラクが肩を竦めて「トラクね」と答えたあたり、息子が学院で使っている偽名をいまいち把握していないらしい。

「トラクが、おまえの愛息子たちに世話になっているから挨拶をだな」

 愛息子て。
 先程の殺伐としたやりとりを見てもそう言う陛下に思わず失笑が洩れた。変なフィルターでもかかってんのか、このおっさん。

「ああっ、その顔はニコラ、信じていないな。本当だぞ、ギルバートとおまえが生まれたときのあいつのでれでれ顔といったらそれはもうだらしがないったら──」
「ウォル!!」
「はいっ」

 一介の騎士団長に怒鳴られてピャッと顔が蒼褪める国王陛下。「この話はまた今度!」と言い残して応接間へ向かう後ろ姿を見送り、俺は兄貴とともに疲れきった溜め息を吐いた。
 トラクにぽんと肩を叩かれる。

「お疲れ」
「おまえが言うな」

しおりを挟む

処理中です...