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少女
しおりを挟むそれは夏の日の午後のことでした。朝から日差しは強かったものの、雲は多めで、いつ太陽が隠れてもおかしくないというような微妙な空模様です。日光に照らされ続けて地上の空気は熱くなっていましたが、雲のある空は気温が低いので、上昇気流が発生していました。
公園の木々ではセミがやかましく鳴き、道では陽炎が揺らめいています。
そんな中、マユミちゃんは自分の家に帰ってきました。そして「ただいま」を言うのも早々に、シャボン玉の道具を持って庭にとび出したのです。
マユミちゃんの家は少し古くて広い縁側のある作りです。それに合わせて庭も広めなので、ちょっとした遊びはできるのでした。
マユミちゃんは空を見上げると、シャボン玉を作るストローをシャボン液にたっぷり浸してからそれを吹きました。ふくれっ面をするように頬っぺたを膨らませ、ぷーっとラッパを吹くように、思いっきり強く肺から空気を押し出します。
きらめくように日差しを反射する、たくさんの球体が空中に飛び出してとても綺麗です。シャボン玉は、マユミちゃんの最近お気に入りの遊びなのです。
でもマユミちゃんのほっぺたはまだ膨らんだまま。シャボン玉を見ても、あんまり楽しくないのでした。
・・・・・・ユウコちゃんったら意地悪なんだから。
マユミちゃんはお友達の顔を思い浮かべて思いました。マユミちゃんは、いつもは仲良しの隣の家のユウコちゃんと、ささいなことでケンカして帰って来たところだったのです。マユミちゃんはシャボン玉で遊びたかったのですが、ユウコちゃんは買ってもらったばかりのお人形でずっと遊んでいたかったのでした。
シャボン玉はマユミちゃんの回りをふわふわ漂い、それから上昇気流に乗ってゆっくり上へと上がって行きました。一つ、二つと割れて数を減らしながら、マユミちゃんの頭上を越え、二階の高さへ昇り、最後に残った一つが赤い屋根の上へと達して、さらに上へと昇って行きます。
一つだけ、ずいぶん高いところへ行っちゃった・・・・・・。
マユミちゃんはそれを見て、少し不思議な感じがしました。
すると、そこへ家の中からお母さんの呼ぶ声がします。
「マユミ、スイカを切ったわよ。食べなさい」
お母さんは、縁側沿いの部屋のテーブルに、お皿を並べているところでした。
スイカは大好物でしたので、マユミちゃんは大喜びでシャボン玉の道具をほっぽり出して家の中に戻って行きました。もう頭の中にはユウコちゃんとケンカしたことも、屋根の上まで昇って行ったシャボン玉のこともなくなっていました。今日は少しだけ機嫌が悪かったのですが、マユミちゃんにはこれといった悩みごとは無く、やさしい家族に恵まれて幸せなのでした。
さて、話はもちろんこれからです。
屋根の上へ昇って行ったたった一つのシャボン玉は、その後どうなったのでしょうか。実はずっと割れずにそのままどんどん空へと昇り続けたのです。これはそのシャボン玉の物語。
シャボン玉はふと気づきました。自分をふわりと押し上げる温かい気流の感触に。上方からまぶしく照りつけてくる日差しの焼けつくような熱感に。移動する時に感じるほんのわずかな空気の抵抗と、世界の広がり。そして自分の存在にも、初めて気がついたのでした。
シャボン玉は生まれた瞬間にはもうすでに大人と同じ大きさです。なので成長する必要は無く、最初から少年のような感性でもって、回りを見渡すことができました。すぐ斜め下に、ストローを口にくわえた人間の女の子の顔がありました。マユミちゃんです。ぷくんとしたほっぺとつぶらな瞳。広めのおでこ。おかっぱ頭をしていました。どうやらこの人間が僕を作ってくれたらしいと何となく分かりましたが、だからと言って感謝したりはしません。シャボン玉にはまだ自分の存在がよく分かっていないので、まず生まれるということがどういうことかを知るのが先決だったのです。
そうしている間にもいっしょに生まれた兄弟たちは、次から次へとパチンと弾けて消えて行きました。シャボン玉にはそれがどんなに悲しいことなのかも分からず、ただ流れに乗って、上昇気流に押し上げられて上へと昇ってゆくのでした。ふんわりと浮かんでゆく気持ちよさに、何となく「この世界は悪くないものだな」と思うばかりなのでした。
天空には熱い光を放射してギラギラ輝く陽の玉があったので、いったいあれは何だろうとじーっと見つめ続けました。どこまで続いているのか分からない空の青さも、高いところに浮かんだ雲も、すごく奇妙なものに思えました。
そして気がつくとシャボン玉はたった一人になり、かなりの上空に浮かんでいたのです。
上ばかり見ていたシャボン玉は、振り返って下を見て地面がずいぶんと遠くなっているのに驚きました。さっきまですぐ横にあって巨大に見えた赤い屋根は何分の一かに小さくなり、その横の庭に人間の女の子はもういません。ただ庭の隅に物干しが、ポツンと一つあるばかりです。周囲には同じような古めの家々の屋根が連なり、道路、街路樹、高圧電線の鉄塔、田んぼ。そしてその先には高い建物が集合した都会的な街並みも見えるのでした。田んぼを突っ切って街へと続くバイパス道があり、そこを走る車が見えます。道には時々、歩く人間の姿もありました。シャボン玉を吹いてくれた女の子よりも、大きな体の人ばかりのようです。にぎやかな街並みのさらに向こうには蒼くかすんだ高い山並みがあって、それが長ーく横へと伸びて、低くなったり高くなったりしながら平地を半円状に取り囲むように続いています。高い山の反対側にも別のなだらかな低い山々があります。マユミちゃんの家がある土地は、二つの山脈に挟まれた楕円形の盆地なのでした。盆地を貫いて、一本の広い川が流れています。
シャボン玉は、この世界の広大さに初めて気づきました。空ばかり見ていたのではその巨大さが分からず、比べるものがあって初めてとてつもなく広いと実感できたのです。
何だか少し、心細い気持ちになってきました。
周囲でシャボン玉と同じくらいの高さにあるものは、もう空に向かってそびえ立つ鉄の骨組み、高圧電線の鉄塔だけになっていました。このままだと全然何も無い空間へと昇ってしまいそうです。
僕はこの広い空にたった一人なんだろうか・・・・・・。
シャボン玉がそう思って周囲を見回すと、どうやらそうではありません。自分と同じ高さの空に、浮かんでいるものがありました。いえ、浮かんでいるのではありません。羽を動かして飛んでいるのです。少し距離の離れたところを、スマートな鳥が水平にすいーっと滑るように移動していました。
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