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180話
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第百八十話:「午後、観察と、まどろみと」
陽光の午後。柔らかく揺れるハンモックの上。
セシリアの指先がふっと光った瞬間、空気が静かに変わった。
風ではなく、“整えられた風”。
葉音はくるくると円を描き、ノブの頬をくすぐるように通り抜けていく。
「……では、心地よい風を吹かせましょう」
その一言に続いて、そよ風が一定のリズムで吹き始めた。
気流の調整、温度の維持、粉塵除去――すべてを魔術式で行うのが、彼女にとっては“午後のお散歩”程度の手間だった。
ノブは肩をひとつすくめ、目を細めた。
「相変わらずすごいな、セシリアは。
ありがとう。……昼寝が捗るよ」
そのまま、果樹の陰に設置された大きめのハンモックに身を沈める。
数秒と経たず、深く穏やかな呼吸に変わっていた。
頬はやや赤みを帯び、口元にはごくわずかな弛緩――安らいでいる証だった。
セシリアはそっと記録帳を開き、1ページにこう記した。
13:41 入眠反応確認
体温の急下降なし。表情穏やか。昨夜の外交対応による疲労蓄積が顕著。
しばらく見つめたのち、ページを閉じる。
「……昨夜も遅くまでイーストの使者と会談していましたものね。
……無理もありません」
そしてためらうように、彼の寝息の隣――ハンモックの端にそっと足をかける。
生まれて初めてともいえる“観察の一時停止”。
理性の隙間に差し込んできた、柔らかい安心。
「……今日は記録より、“隣”でいいでしょう」
小鳥が鳴いた。
遠くで誰かが麦を束ねる音がした。
風は変わらず優しく、木陰はふたりの夢の重さを支えていた。
ハンモックが軽やかに軋み、二人分の重みを柔らかく受け止める。
ノブはすでに深い眠りに入っていた。
まるで疲労も、王政も、過去も、すべてを一時的に棚上げして。
セシリアは隣に腰を下ろしたものの、眠るわけではなかった。
彼女の指先はそっと空中に波を描く。
風の密度、肌への触れ方、音の軌道――魔術師の微調整は、もはや術式ではなく、誰かの眠りを守るための習慣になっていた。
「……記録終了」
手帳を閉じる。
それは観察の打ち切りではなく、ただ一人の時間に自らを委ねるための、静かな儀式だった。
---
目を閉じる。
風が頬をかすめる。
木々の葉擦れの音。遠くの噴水の水音。
すべてが、“何者でもない時間”として流れていく。
セシリアは、ノブの寝息と自分の呼吸のリズムが少しずつ一致していくのを感じていた。
「……思考を止めることすら、魔術式が要るなんて。
でも、あなたの隣だと、少しは楽になるのかもしれませんね」
ハンモックが優しく揺れる。
セシリアの髪がふわりと肩にかかる。
ノブは眠ったまま、わずかに身体をずらし、無意識にスペースを広げる。
その些細な動きに、セシリアは笑った。
---
遠くで鳥たちがさえずる。
陽はまだ高く、空気は薄くあたたかい。
王子と魔導師。
かつて“国の道筋を握る者”と“術式で国家を揺るがせる者”とまで称された二人は、
今こうして、一枚の布地の上でただ静かに、
**「平穏という異常事態」**を分かち合っていた。
---
どれほど時間が経っただろうか。
ふいに遠くの鐘が鳴った。
それは政庁からの通知ではない。
城下の小学校で、新しい鐘が導入されたという話を、アリシアから聞いたばかりだった。
セシリアは片目を開ける。
そして、やわらかく微笑んだ。
「……大きな国の動きよりも、
小さな鐘の音が時間を教えてくれるほうが、
今はずっと心が安らぐ気がします」
---
ノブはまだ眠っていた。
だがその顔には、まるで何かを肯定されたあとのような安らぎがあった。
セシリアは再び目を閉じる。
記録はもう取らない。術式の稼働も止めた。
その午後だけは――魔導師も、観察者も、護衛でもなく、
ただの一人の少女として、風の中のまどろみに身を預けていた。
(次話へ続く)
陽光の午後。柔らかく揺れるハンモックの上。
セシリアの指先がふっと光った瞬間、空気が静かに変わった。
風ではなく、“整えられた風”。
葉音はくるくると円を描き、ノブの頬をくすぐるように通り抜けていく。
「……では、心地よい風を吹かせましょう」
その一言に続いて、そよ風が一定のリズムで吹き始めた。
気流の調整、温度の維持、粉塵除去――すべてを魔術式で行うのが、彼女にとっては“午後のお散歩”程度の手間だった。
ノブは肩をひとつすくめ、目を細めた。
「相変わらずすごいな、セシリアは。
ありがとう。……昼寝が捗るよ」
そのまま、果樹の陰に設置された大きめのハンモックに身を沈める。
数秒と経たず、深く穏やかな呼吸に変わっていた。
頬はやや赤みを帯び、口元にはごくわずかな弛緩――安らいでいる証だった。
セシリアはそっと記録帳を開き、1ページにこう記した。
13:41 入眠反応確認
体温の急下降なし。表情穏やか。昨夜の外交対応による疲労蓄積が顕著。
しばらく見つめたのち、ページを閉じる。
「……昨夜も遅くまでイーストの使者と会談していましたものね。
……無理もありません」
そしてためらうように、彼の寝息の隣――ハンモックの端にそっと足をかける。
生まれて初めてともいえる“観察の一時停止”。
理性の隙間に差し込んできた、柔らかい安心。
「……今日は記録より、“隣”でいいでしょう」
小鳥が鳴いた。
遠くで誰かが麦を束ねる音がした。
風は変わらず優しく、木陰はふたりの夢の重さを支えていた。
ハンモックが軽やかに軋み、二人分の重みを柔らかく受け止める。
ノブはすでに深い眠りに入っていた。
まるで疲労も、王政も、過去も、すべてを一時的に棚上げして。
セシリアは隣に腰を下ろしたものの、眠るわけではなかった。
彼女の指先はそっと空中に波を描く。
風の密度、肌への触れ方、音の軌道――魔術師の微調整は、もはや術式ではなく、誰かの眠りを守るための習慣になっていた。
「……記録終了」
手帳を閉じる。
それは観察の打ち切りではなく、ただ一人の時間に自らを委ねるための、静かな儀式だった。
---
目を閉じる。
風が頬をかすめる。
木々の葉擦れの音。遠くの噴水の水音。
すべてが、“何者でもない時間”として流れていく。
セシリアは、ノブの寝息と自分の呼吸のリズムが少しずつ一致していくのを感じていた。
「……思考を止めることすら、魔術式が要るなんて。
でも、あなたの隣だと、少しは楽になるのかもしれませんね」
ハンモックが優しく揺れる。
セシリアの髪がふわりと肩にかかる。
ノブは眠ったまま、わずかに身体をずらし、無意識にスペースを広げる。
その些細な動きに、セシリアは笑った。
---
遠くで鳥たちがさえずる。
陽はまだ高く、空気は薄くあたたかい。
王子と魔導師。
かつて“国の道筋を握る者”と“術式で国家を揺るがせる者”とまで称された二人は、
今こうして、一枚の布地の上でただ静かに、
**「平穏という異常事態」**を分かち合っていた。
---
どれほど時間が経っただろうか。
ふいに遠くの鐘が鳴った。
それは政庁からの通知ではない。
城下の小学校で、新しい鐘が導入されたという話を、アリシアから聞いたばかりだった。
セシリアは片目を開ける。
そして、やわらかく微笑んだ。
「……大きな国の動きよりも、
小さな鐘の音が時間を教えてくれるほうが、
今はずっと心が安らぐ気がします」
---
ノブはまだ眠っていた。
だがその顔には、まるで何かを肯定されたあとのような安らぎがあった。
セシリアは再び目を閉じる。
記録はもう取らない。術式の稼働も止めた。
その午後だけは――魔導師も、観察者も、護衛でもなく、
ただの一人の少女として、風の中のまどろみに身を預けていた。
(次話へ続く)
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