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第一章

向こうの世界

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 目を開けると、広がるのは一面の青い青い空だった。涼しい風がするりと抜けると、頬をさわさわと短く柔らかい何かが撫でていく。草か、と気づいたのは、顔を横に向けた先に、綺麗な若草色が広がっていたからだ。
 地面に横たわっていたようで、ゆっくりと身体を起こしてみる。落ちた、のだろうか。先ほどまでの光景を思い出してみる。
 小学校からの帰り道。
 ゴミ捨て場。
 鏡と、黒猫。
——鏡の中へと、引きずり込まれた。そう思い出すのに、時間はかからなかった。巴は現在、鏡の《中》にいる、ということになる。改めて、ゆっくりと周囲を見渡した。
 座り込んでいる足元には、様々な緑が広がっている。浅緑、黄緑、草色……短かったり、長かったり、太かったり、細かったり。色も形も異なる葉が重なって作られた、広大な草原だった。
 高く晴れ渡った空の向こうに、一際大きな建造物があることがわかる。テレビの中で見た遊園地で、似たようなものを見かけた記憶がある。
 城だ。それこそ遊園地や、テレビの中でしか見たことがないようなものが目の前に建っていることに、巴は目を疑った。
 草原があって、城があって、よくよく見まわしてみればとても遠くに家のようなものも見える。これは、本当に鏡の中なのだろうか。まるで別の国どころか、ファンタジー小説の異世界のようにも思えた。
 これから、どうすれば良いのだろうか。広大な草原に取り残され、座り込んだまま、巴は視線を伏せた。舞い込んだ情報量があまりにも多すぎて、取れる選択肢が多すぎて、逆に何を選べばいいかわからない。こんな自由な環境で、自分で、自分だけで選んで動くことなど、今まで無かったのだから。
 コンクリートのように、灰色に固まってしまった思考の中。真上から、高く、綺麗な声が掛かった。

「貴方、大丈夫……?」

 声の方を見上げた先で、きらりと、視界が輝いた。
まるで、朝日に照らされた小麦のような、綺麗な金の髪。ポニーテールにされたそれは、彼女の快活そうな性格を表しているようだった。
 手首に巻かれた青いリボンは、彼女の白い肌によく映えている。
 酷く、眩しい。でも、嫌じゃない。そんな第一印象の彼女は、心配げに巴を覗き込む顔から一転、まるで花のような笑顔で微笑んだ。

「怪我は、なさそうね。よかった!」

 立てる? と手を伸ばした彼女に、巴も恐る恐る手を伸ばす。触れ合った手は柔らかくて、温かくて、彼女が鏡のような無機質なものではなく、生きて此処に居るのだと、巴に教えていた。
 巴が立つと、彼女は少し屈み、巴の尻の近くをパンパンと叩く。汚れが落ちたのを見て、満足そうに微笑んだ。

「これでよし! ……あなた、ここの世界の人、じゃ、ないわね」

 巴の様子を見てそう思ったのだろう、彼女の言葉は確かにその通りだった。ここの、世界。やはり、ここは巴がいた世界とは別の世界なのだ。
 ここはどこで、自分が、なぜ。聞きたいことは沢山あったが、何を話していいか分からずに巴は視線を彷徨わせてしまう。そんな巴を見てか、彼女はにこりと巴に笑いかけた。 

「アタシはね、ルナ、っていうの。月、って意味の言葉よ。貴方は?」
「……ともえ。日之宮、巴」
「トモエ? トモエね、覚えた」

 彼女——ルナは、嬉しそうにニコッと笑った。
少し舌足らずに、だが目尻を下げて微笑むその姿は、すらりと伸びた背丈よりも、幼く、可愛らしく思えた。

「混乱してるでしょ。大丈夫?」
「よく、わからない……」
「だと思った」
 クスクスと微笑んだルナは、周囲をちらりと見渡して、言った。



「ここは、鏡の中の世界なの」
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