後宮の不憫妃 転生したら皇帝に“猫”可愛がりされてます

枢 呂紅

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1巻

1-2

 それにしても、皇帝というのはやはり忙しいらしい。飛龍の机の上にはたくさんの書類が積んであるし、書きかけの筆が放置されている。
 今更だけど、飛龍のかんぺきに整った美しい顔には、うっすらとクマもにじんでいた。たくましくなった一方でせたような気もするし、疲れているようにも見える。もしかしなくても、迷い猫なんかに構っている場合ではないんじゃなかろうか。
 そんなことを思いながらじっと見上げていると、飛龍が笑み崩れた。

「ああ、もう。お前は本当に可愛いな」
「ニ、ニギャ!?」
「大好きだぞ、スイ。可愛すぎて食べてしまいたいくらいだ」

 食べないでいただけますかね!? そう突っ込みたいのに、飛龍が私を持ち上げて頬ずりをするものだから、それすら叶わない。
 というか飛龍さん。本当に貴方、飛龍さんですか? キャラ変わってない? 疲れすぎて頭おかしくなっていない? 一周回って、もはや心配になってきたよ?
 あわや二度目の気絶をしかけたとき、執務室の扉が勢いよくノックされた。

「我が君! 我が君、いるのでしょう!」

「ドンドンドン!」と強く打ち鳴らされる扉の音に、私はギョッとする。
 無情卑劣な最低男だけど、飛龍は皇帝だ。そしてここは、飛龍の執務室。どこの誰か存じませんが、そんなふうに軽快に扉を叩きのめしては、ちょっと不敬じゃございません?
 けれども飛龍は慣れたもので、音が聞こえなかったように、にこにこと今度は焼き菓子を勧めてきた。

「どうだ、市井しせい流行はやりの菓子だ。少しばかり口の中の水分を持っていかれるが、甘くて美味おいしいぞ。試しに食べてみないか?」
「我が君! わーがーきーみー!」
「はは。スイは奥ゆかしいな。遠慮ばかりでは、立派な大人になれないぞ?」
「貴方が部屋にお戻りになったのは、官吏殿より聞き及んでおりますよ!」
「……ちっ」

「ダンダンダン!」と、さっきより激しくなったノック音に、飛龍は舌打ちする。
 いや、無視した貴方が悪いからね!? 
 驚く私をよそに、飛龍はつまらなそうに扉の向こうに答える。

「うるさいぞ。入りたければ、勝手に入れ」
「貴方が一度で答えないから、こうなるんです」

 入室し、不遜ふそんに言い放ったちょうめんそうな男は、私も知っていた。
 名はタイラン寵妃ちょうひ・桜綾の従兄弟で、かねてより飛龍の侍従を務める秀才。さらに言うならば、この国で私の後ろ盾であった周大臣の政敵、李大臣の妹の子だ。
 ――なるほどね。
 泰然が身につけているのが、侍従長のあかしである紫に銀糸のしゅうがされた衣なのを見て、私は納得した。
 当時の妃は、隣国からとついできた翠玉宮の私と、李大臣の娘である紅玉宮こうぎょくぐうの桜綾のふたり。飛龍の寵愛ちょうあいを得ていたのは桜綾だけど、生まれは私が上という、後宮にありがちな泥沼仕様だった。
 そんな状態に私が死んだことで決着がつく。
 娘が名実共に第一妃となったことで、権力闘争に李大臣が勝った。泰然もその恩恵にあずかり、侍従長に出世したというところか。
 ……うん。考えたら、悲しくなってきた。
 後ろ盾になってくれた周大臣にも、悪いことをした。大臣も、彼が揃えてくれた女官たちも、本当によくしてくれたのに。私のせいで権威が落ち、ひどいにあっていないといいな。
 そんなことを考えていると、いつのまにか目の前に泰然がいた。

「この子が、皆が騒いでいた皇帝陛下のお猫様ですか」
「ニャ?」

 誰が誰のお猫様ですって?
 ふむとうなずいて、泰然が私の首根っこをつまみ上げる。飛龍が「おい」と非難がましい声をあげるが、薄い眼鏡の奥から私を眺める泰然は、お構いなしに感心した。

「……ほほう。これはなかなか美人さんですね」
「だろう? スイと名付けた」
「シャッ!」

 得意げに答える飛龍を、私は威嚇いかくする。
 だろう、じゃないわよ! ちょーっと危なかったけど、私は飛龍にほだされてなんかいないし、前世の恨みを許していない。何より、私の名前は、まだ、ない!
 突っ込みたかったのは泰然も同じようで、じとりとした目で飛龍を見た。

「まさか貴方、この猫を飼うつもりじゃないですよね?」
「もちろん、飼うつもりだが?」
「即答! 当たり前ですけど何か? みたいな顔で言ってきたよ、もう!」

 泰然はわしわしと、いてる手で自分の頭をきむしる。
 いや、うん。あんまり話したことなかったし知らなかったけど、苦労性なのはよくわかった。前世のしがらみがなければ、このひととは仲良くなれそうな気がする。

「貴方が猫を飼うとして、誰が世話をすると思ってるんですか! そういう大事なことは、先に侍従に話さないとダメでしょう!」
「……世話ならきちんと、俺がする」
「でーきーなーいーでーしょー! 貴方、皇帝! この国のトップ! もんのすごい忙しい、オーケー?」

 泰然の怒涛どとうの責めに、飛龍の眉がしゅんと下がる。
 なんなのこのふたり。保護者と子供なの? 泰然に至っては「おかあさーん!」と呼びたくなる感じだ。
 予想外なふたりの関係に唖然あぜんとしていると、飛龍の目が私に向けられる。
 私をまっすぐに見つめる、深い海の底のような青みがかった瞳――。冷たく拒絶するでもなく、メロメロに甘やかすでもなく、ただ静かに向けられたそれに、どうしていいかわからなくて、居心地の悪さを感じた。
 私がまどっていると、飛龍はなぜか少し寂しそうに目を伏せる。

「スイの瞳は翠花と同じ色をしている。だから飼いたい。そばに置きたいと思った」

 ……そういえば翠玉宮の渡り廊下でも、似たようなことを言っていた。
 生前の私は、翡翠ひすい色の瞳をしていた。翠花という名も、それが由来。猫になってからは鏡を見ていないのでわからないけれど、飛龍の言葉を信じるなら、今の私も翡翠ひすい色の瞳をしているのだろう。
 だけど、それがなんだっていうんだ。憎んで、遠ざけて、呪殺までした妃の瞳なんか、思い出したくもないはず。なのに同じ目をした子猫を拾って育てたいなんて……もしかして飛龍さん、特殊性癖の持ち主でいらっしゃいます?
 うん……逃げよう。飛龍がどんな性癖をしていようが自由にしてくれて構わないけど、我が身に厄災やくさいが降りかかってくるなら話は別だ。
 幸い、泰然は飛龍が私を飼うことに反対のようだ。眼鏡をかけ弁が立ちそうな見た目をしているし、このあと怒涛どとうの論破で私を外につまみ出してくれるはず!
 わくわくと期待して、私は泰然を見上げた。……のに、彼はなんと、仕方なさそうに溜息ためいきく。

「猫にかまけて仕事をおろそかにしないこと。それが飼う条件ですよ」

 えっ。
 読みが外れて固まる私をよそに、飛龍が身を乗り出す。

「いいのか?」
「いいも何も、貴方は皇帝です。これぐらいのわがまま、好きになさい」

 泰然は茫然ぼうぜんとする私を、クッションを詰めたかごに戻す。そして、優しい目をして飛龍に苦笑した。

「気づいていますか? あの一件以来、しかばねのような顔をしていた貴方が、ようやく人間らしい表情を浮かべている。友として、反対できるわけないじゃないですか」

 しかばねのよう? 飛龍が?
 たしかに目の下にはクマがあるし、せたなあとは思っていたけど、そんなに深刻な状況だったの? ていうか「あの一件」って何?
 それよりも、待って。いくら皇帝と友人兼側近のうるわしききずなって感じのいい雰囲気が流れていても、私、ここでお世話になりたくないよ。なに、ふたりで話をまとめてんの? 
 愕然がくぜんとする私に、飛龍は嬉しそうに微笑ほほえむ。

「よかったな、スイ。これからはずっと一緒だ」

 全然よくないんですが!

「そうか。お前も嬉しいか。ふふ、本当に可愛いなあ、スイは」

 だーっ! 伝わらない、止まらない! そして、無駄にいい顔で私の頭をでないでってば、ほんとビジュアルだけは最高だな、このひと!
 ねえ、私の意思は? 選択権は?
 新たな猫生、猫権なさすぎなんですけどー!


     *       *       *


 怒涛どとうの猫生一日目は、あっという間に終わった。
 季節は冬の始まりのようで、夜がすぐに訪れる。空気が冷えてくると同時に、空から細雪ささめゆきが降ってきた。
 侍従が火鉢を用意してくれたから寒くはないけど、ちらちらと舞う雪が地面に落ちて解けるのを見ると、なぜか無性に悲しい。

「おいで、スイ」

 寝所に移り、衝立ついたての向こうで寝間着に着替えた飛龍は、当たり前のように手を差し出した。私を呼ぶ声も、眼差まなざしも、信じられないくらいに甘くて優しい。たぶん、一緒に寝ようと誘っているのだろう。
 ――正直、心が揺らぎそうになった。
 飛龍の体温に包まれて眠るのは、どれだけ温かくて、幸せな心地がするだろう。前世で望んでも望んでも得られなかったものが、すぐ目の前にある。きっと、この胸に巣食うもの悲しさも、一瞬で解けて消えてしまうはずだ。
 だからこそ残酷で、腹が立った。飛龍と、それに自分にも。
 それに、身体は猫になったけれども、心はまだ年頃の生娘きむすめのまま。その矜持きょうじが、飛龍の腕に飛び込むことを躊躇ちゅうちょさせる。
 飛龍はしばらくソワソワと、あの手この手で私の気を引こうとした。やがて諦めてしょんぼりと肩を落とし、すごすごとふとんに潜り込む。ふん。ざまあみろ。
 ふっ、と。飛龍が灯りの火を消す。寝室の中は、完全に夜のとばりが下りた。
 ああ。やっと今日が終わった。
 飛龍のどこからいささか離れた場所に置かれたかごの中で、私は猫らしく身体を丸くする。昼間洗ってもらったおかげで、全身から花のように優しい、甘い香りがする。
 なんだっけ、この香り。なんだか、懐かしい感じがする。
 その香りはなぜか、飛龍が私の故郷、珀虎国に滞在していた二年間を思い出させた。
 ――飛龍は、身体の弱い子供だった。
 彼の母親である仙月センユエ様もお身体が弱かったから、遺伝だったのかもしれないし、ほかの兄弟よりかなり遅れて生まれた気苦労のせいかもしれない。
 とにかく、仙月様はそんな息子の身体を案じて、幼い飛龍を連れて珀虎国を訪れた。
 珀虎国と龍華国は古くから親交のある隣国同士だし、仙月様は遠縁とはいえ私たち珀虎国の王族だ。私の母様が仙月様と仲が良かったのもあって、ふたりは国賓として王宮に迎えられた。
 飛龍はその頃から綺麗な顔をしていた。身体が弱いせいか臆病な表情をするくせに、大きな青みがかった瞳はすごく理知的で。そのアンバランスな雰囲気に、私はひと目れしたんだと思う。
 当時六歳だった私は、大得意になった。素敵な男の子がそばにいるのが嬉しくて、その子より私のほうが王宮に詳しいのが誇らしくて。母様に怒られながらも、飛龍をあちこちに連れ回した。
 私と飛龍は、たくさんの無茶をした。
 厨房ちゅうぼうに忍び込んでつまみ食いをしたり、父様の白虎に炭で落書きをしたり。ときには屋根に登って、女官たちの度肝を抜いたりもした。
 発案はすべて私。飛龍に拒否権はなく、私に引っ張られるまま付き合わされる日々。飛龍はよく困ったような顔をしていたけど、なんのかんので楽しんでいた。
 最後は、両方の母様に大目玉をくらって、私たちは半泣きになりながら笑い合った。またやろうね。次はこんなことしようね。約束が、どんどん増えていった。
 大きくなったら結婚しようね。それも、私たちの約束のひとつだ。
 ……めよう。考えれば考えるほどむなしくなってくる。
 あれは子供のたわいない口約束にすぎなかった。十四歳になっても本気にしていたのは私だけ。
 結果、どうだろう。私は失恋をしたばかりか、大好きなそのひとにうとまれ、死を望まれた。こんな滑稽こっけいなエンディング、いっそ喜劇として笑ってほしいくらいだ。
 息をひそめて、そっと目を開ける。猫になったせいで夜目が利くようになり、暗がりの中でも飛龍の様子がよくわかる。疲れていたのは本当のようで、彼はあっという間に眠りに落ちたらしい。
 私は音を立てないようにそっと起き上がる。幸い猫の身体はしなやかで軽く、おんみつ行動には打って付けだ。
 大分、この身体にも慣れてきた。
 私は本能に従い、ひらりと窓枠に飛び乗る。
 遠くへ行こう。私のことなんか誰も知らない、ずっと遠くへ。
 飛龍なんか嫌い。大嫌いだ。憎い。うらめしい。二度と顔なんか見たくない。
 ……そう、心から思いたいのに、ここにいるとそれができない。思い出が邪魔して、もうこぼせないはずの涙がにじみそうになる。
 それに龍玉殿にいたら、いずれ私は新しい翠妃と出会うだろう。
 それが桜綾であれ別の誰かであれ、飛龍がそのひととむつまじく寄り添うさまを眺めるなんて耐えられない。
 死んでなお、不毛な感情に苦しむのはごめんだ。
 だって私、敗者復活戦も望めない猫なんだもの。
 窓を開けるのは難しかったものの、全身でうんうんと押すことでなんとかなった。便利なことに猫の身体は、ちょっとの隙間でも通れる。
 チラリと寝台を振り返ってから、思い切って窓の外に飛び下りる。幼い日の面影おもかげが残る寝顔は、精一杯頭の中から追い払った。


 中庭にはうっすらと雪が積もっていて、柔らかな肉球がじんじんした。それが、今はありがたい。しくしく主張する胸の痛みを、ほどよく誤魔化ごまかしてくれる。
 猫の身体に寒さはこたえるけど、私がいなくなったことに気づいたら飛龍が全力で捜させるだろう。侍従の皆さんの手をわずらわせるのはアレだし、夜のうちに王宮から離れたい。
 できるだけ遠くへ。政治も後宮も関係ない、新しい猫生を始めるにふさわしい自由な場所へ。
 そのためには、どっちに向かうのがいいんだっけ。
 生前の知識をフル稼働し、王宮の外に出る最短ルートを見極めようとした、そのときだった。

『おい、ナニモンや!』

 グルルルと。
 聞こえたのはうなごえなのに、何を言っているのか理解できる。ギョッとした私がそちらに首を向けると、暗がりの奥で獣の目が光っていた。

『誰なの?』
『それはこっちの台詞せりふや!』

 グルルと再びうなごえが響き、相手が薄明かりの下に姿を現す。
 相手は一匹じゃない。長い足に、獰猛どうもうな鼻面。
 思い出した。龍玉殿には、敷地内を守る番犬が放されているんだった!
 大きい! 強そう! 人間のときに見ても怖そうなのに、猫になってから対峙たいじすると恐怖も三倍だ。
 すっかり震え上がる私に、三匹は首を傾けて相談し合った。

『なんや嬢ちゃん。見ない顔やな』
『不審者や。不審者ってことでええな?』
『なんでもええ! そおれ、追っかけっこや!』
「「「わんわん、わわん!」」」

 一斉に駆け出した三匹の番犬に、私は「みぎゃああああ!」と叫んで、文字通り尻尾しっぽを巻いて逃げ出した。
 今更だけど、なぜか犬の言葉がわかる! やっぱり猫になったからだろうか。って、今はそんなことはどうでもいい!

『いーーーやぁーーーー!』

 全速力で逃げる私を、番犬ズが勢いよく追いかけてくる。それが番犬の役目なんだけど! 三匹首を揃えて、いたいけな子猫をいじめなくてもよくない?

『兄者! おいら、愉快になってきたで!』
『奇遇やな、弟! 俺もや!』
『行くで、愚息ぐそくども!』
「「「わんわん、わわん!」」」

 あー……、ダメだ、これは。
 お犬様たち、完全にテンションが上がってらっしゃる。
 今更、プライドを捨てて「私、飛龍陛下の飼い猫でしてよ!」と訴えたところで、聞く耳を持ってもらえないやつだ。
 すなわち、取れる手は一択のみ。このまま、全力全開に逃げるしかない!

『うにゃにゃにゃにゃにゃにゃ!』

 近くの木に猛然と向かった私は、文字通り死に物ぐるいで木を登った。
 木登りは飛龍が珀虎国に滞在していたとき以来だけど、猫の身体のおかげでするする登れる。最高だな、猫の身体能力!

『おい、兄者! やっこさん、あない上に逃げよった!』
『せこい真似すんなや、嬢ちゃん!』
『下りてこんか!』
『誰が下りるか!』

 わんわん吠える番犬ズの皆さんに鳴き返す。
 とはいえ、どうしよう。番犬ズは木の周りをぐるぐる歩き回っていて、私が下りるまで見張る算段のようだ。
 猫の身体になったせいか地面がものすごく遠く感じるし、ぴゅうぴゅう吹く風が冷たくて足がかじかんでくる。
 おまけに飲まず食わずとろうこんぱいで、くらくら目眩めまいがしてきた。
 あーあ。
 こんなことなら、変な意地を張らないで飛龍のくれる果物やお菓子を食べればよかった。暖かい部屋でぬくぬくして、ふかふかのクッションの上で微睡まどろんで。優雅気ままなお猫様生活。意外と悪くない。……悪くない、よね。

『あ、兄者! あいつ、なんかフラフラしてへん?』
『ほんまや! 嬢ちゃん、しっかりせい!』
『あかん、目を閉じて……』
『『『あ!』』』

 ぐらりと身体がかしぎ、四肢ししがつるりとした木の枝から離れる。空中に投げ出されながら、私は夢を見ていた。


 ――それは、幼い日の思い出。
 私は六歳の少女で、飛龍は七歳の少年で。
 中庭を散歩していた私たちは、木の下に鳥のひなが落ちているのを見つけた。枝の上に鳥の巣があり、ひなはそこから落ちたようだ。
 ひなを巣に戻してあげよう。そう主張して、私はひなを手に乗せて木を登った。たしか飛龍は珀虎国に来たばかりの頃で、するすると木登りする私に目を丸くしたものだ。

〝危ないよ、スイ。落ちたらケガするよ……〟
〝大丈夫! 私、木登り得意なの!〟

 あの頃の飛龍は、私をスイと呼んでいたっけ。
 心配しておろおろする飛龍を置いて、私はあっという間に巣のある枝に到達し、ひなを巣に返してあげた。ぴよぴよと安心したように鳴くひなににんまり笑って、得意になって木の下をのぞむ。

〝言ったでしょ? 私、ちゃんとひなどりを巣に届けてあげたわ〟
〝わかったよ。わかったから、もう下りてきて……〟

 そのとき、私の手がツルッと滑り、私たちは同時に「あっ」と声をあげた。

〝きゃ……きゃーーー!〟
〝スイ!〟

 ずさささと葉を揺らし、私は木の上から落下する。小さな身体をますます縮めて、地面にぶつかる衝撃におびえた。
 ……だけど、地面に落っこちた私は、想像していたより痛みを感じなかった。
 それどころか、私の下で「くふ!」とくぐもった悲鳴が響き、何かやわらかなものをつぶしたようにすら思う。

〝飛龍!〟

 慌てて起き上がると、私の下で飛龍がのびていた。

〝う、うーん……〟
〝きゃー! 飛龍、起きてー! 死なないでー!〟

 半泣きになりながら揺さぶると、飛龍の形のよい眉が寄せられて、青みがかった瞳がまぶたの隙間からのぞく。次の瞬間、飛龍もがばりと起き上がった。

〝スイ! 大丈夫なの?〟
〝こっちのセリフよー! 馬鹿ー!〟

 わあぁぁんと泣いて、飛龍にしがみつく。
 飛龍はドギマギしていたけど、なだめるように私の頭をぽんぽんとでてくれた。
 君が無事でよかったよ。そんなふうに、くったくのない笑みを浮かべながら。
 ――なんで今、こんなことを思い出すんだろう。
 もしかして走馬灯だろうか。でも、これって人間だったときの記憶だ。
 そっか。前世の最後は、眠るように死んじゃったから――

『いぃぃぃーーーやあぁぁぁーーー!!』

 我に返った私は、盛大に悲鳴をあげながら落下する。
 その身体が、誰かに抱き止められるまでは。

「スイ!!」

 ぎゅっと目をつむっていると、頭の上から耳慣れた声が降ってくる。聞こえるはずのないそのひとの声に、私ははっとして目を見開いた。
 風に揺れる、夜を溶かし込んだような漆黒しっこくの髪。スッと通った鼻筋に、深い海の底のような美しく柔らかな色の瞳。飛龍の、びっくりするほど綺麗に整った顔が、あせったように私を見下ろしていた。

「大丈夫か、スイ? 怪我はないか?」

 彼の鼻の頭は、寒さのせいでかすかに赤くなっている。


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