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3章 ひとつ目の狐
4.
しおりを挟む(狐の仕業……。なるほど、鬼通院が出張ってくるわけだ)
ここ楽江において、狐はこの世で最も邪悪なものとされる。すべての狐は、千年前に大地に呪詛をまき散らして怨霊と化した大妖狐、阿美妃の遣いとされているからだ。
古来、人々は狐を恐れ、忌み嫌う。特にそれが顕著なのが安陽だ。そして鬼通院は、その阿美妃の怨霊を封じた社を守っている。
こうして春明が城に上ったということは、治安武官たちの予想は正しかったのだろう。
「連日の犠牲者は、狐に喰われて死んだ。そなたは私に、それを伝えにきたのだな」
「仰せの通りにございます。そこまでお気づきであれば、私の来訪は不要でありましたね」
「少し噂が耳に入っただけだ。そなたが来なければ、確信に変わることはなかった」
紅焔の言葉に微笑みを返してから、春明は表情を引き締めて頷いた。
「狐の正体は、阿美妃を封印する社――阿美堂より漏れ出した邪気が、妖怪へと転じたものです。安陽では古来、新月の夜に同様の事件が繰り返されてきました」
邪気から生まれる妖怪は、額にぱっくりと大きなひとつ目が光る、異形の狐の姿をしている。異形の狐が現れるのは、決まって新月の夜。なので安陽に長く暮らす人々は、異形の狐に出くわすのを恐れて、新月の夜は決して外を出歩かない。
「ここ数年は阿美堂の妖気も穏やかで、邪気が大量に漏れ出ることもありませんでした。しかし数か月前から妖気が乱れる気配があり、鬼通院でも警戒をしていたのですが……。結果、異形の狐が都に解き放たれるのを許し、古い掟を知らぬ者たちに多くの犠牲者をだしてしまいました。鬼通院の長として面目ございません」
銀糸のような髪を揺らし、春明は深く頭を垂れる。その髪と同じ、細い銀の刺繍が施された絹の着物が、かすかに衣擦れの音を奏でる。
どうするつもりだと伺うように永倫がちらりとこちらを盗み見るのを感じながら、紅焔は玉座の上で小さく嘆息した。
(妖怪が人を喰らう、か。少し前の俺だったら、すぐに信じることはできなかっただろうな)
しかし紅焔は、この身をもってして、この世には人ならざるモノたちの仕業による怪事件があることを知ってしまった。
自覚なく自らを呪い現れる怨霊もいれば、死してなお愛しい者を案じて現世に留まろうとする死霊もいる。ならば、千年封印される怨霊から生まれる異形というのも、存在しておかしくはない。
「そなたの話は、まだ終わっていないはずだ」
頭を垂れたまま春明は動かない。それを肯定と受け取って、紅焔は続ける。
「私は呪術に明るくはない。だが、鬼通院は阿美妃を封じる術だけではなく、怨霊と戦う術も継承していると聞く。ひとつ目の狐がこれまでも安陽に出没していたのなら、それを殺す術も持っているのではないか」
なるほどそういうことかと、自分で話しながら、紅焔は納得してしまった。
狐の異形を殺す技を持っているのは鬼通院の呪術師だけ。しかし安陽は瑞の都であり、その治安維持は兵部の管轄――つまりは皇帝の権限の範疇だ。鬼通院の外に出没する異形を呪術師たちに対処させるなら、皇帝から鬼通院への「依頼」が必要になる。
(西朝や、その前の王朝の時代から。代々の皇帝と鬼通院の長は、こうして阿美妃の呪いに対処してきたのだな……)
目を細める紅焔の視界の先で、春明がそっと後ろを見やる。それが合図となったように、一歩引いたところで頭を垂れて控えていた若い術師が、前に進み出た。
「陛下。ここにおりますは鬼通院の呪術師、尹嘉仁と申します」
赤髪の呪術師を指し示して、春明が穏やかに告げる。春明と色違いの衣を着てはいるが、がっしりと鍛えた背高の身体つきで、顔も整ってはいるが鋭利な印象だ。呪術師というより、腕の立つ剣士と言われても納得してしまう。
「この者は怨霊や妖怪と戦う術に長けており、私も信頼を置く優秀な呪術師です。今日より十日後の新月の夜、必ずやこの都で息をひそめる狐の異形を倒しましょう」
「この身に代えて、全力でご期待に応えてみせます」
跪く嘉仁の声には、強い意志を感じる。ただしその忠誠は紅焔に向いているのではなく、春明に向けられたもののようだ。
(彼らにとって敬うべき相手は春明であり、俺ではない。当たり前といえば、当たり前か)
いささか茶番めいてはいるが、兵部に妖怪は倒せない以上、鬼通院を頼るより仕方がない。あくまで現実主義者である紅焔は、早々にそう割り切っている。
けれども、それとはまったく違う理由で、彼は少しだけ躊躇していた。
(ここで彼らに依頼をしたら、機嫌を損ねそうな顔が一人だけ思い浮かぶな……)
“では旦那さま。新たな呪いが芽吹く日に、またお会いしましょう”
少し話しすぎたと思ったのかもしれない。探し人についてあれ以上の回答を避けるように、そそくさと春陽宮に戻っていった藍玉の背中が瞼の裏に浮かぶ。
ひとつ目の異形が生まれるのは、阿美妃の怨霊から漏れ出た邪気からだ。であるからして当然、今回の事件も藍玉の守備範囲だ。
厄介なことに、狐の妖怪が人を襲うのは新月の夜と決まっている。鬼通院に妖怪討伐を依頼し、かつ同じ話を藍玉にしたら、最悪両者が都で鉢合わせてしまう。藍玉がなぜあんな力を持つのか不明な以上、出来ればそうした事態は避けたい。
といって、ここで鬼通院の提案をはねつけるのも良策ではない。彼らは阿美妃の呪いに関してのエキスパートであり、ひとつ目の狐の妖怪を代々倒してきた実績もある。これ以上、都に被害を広げないためにも、彼らの力を頼るのは必須であろう。
それに――それに、だ。
“首のない遺体を詳しく調べてみたよ。断面の感じだと、ものすごく鋭利な刃物で、一瞬で斬られたみたいだった。人間だろうと化け物だろうと、あんな斬り方ができる相手だと思うと、かなりぞっとしたな”
兵部の詰所から戻ってきた時の永倫の言葉が、頭に蘇る。
藍玉が術師として優れていることはよく知っているが、物理攻撃となると話は別だ。しかも相手は、たった二夜で十人も殺している。さすがの藍玉でも、かなり危険な相手だ。
だとしたら今回は、彼女を都に行かせるわけにはいかない。
(……すまん、藍玉。今回だけは、我慢してくれ)
紅焔は心の中で、そっとここにはいない妻に詫びる。そんなことはおくびにも出さず、彼は皇帝らしく威厳をもって鬼通院の呪術師たちに告げた。
「よろしい。そなたたちに任せよう。――次の新月の夜。我が命により、ひとつ目の妖怪を倒してみせよ。さすれば、望むままに褒美を与える」
「御意!」
春明は、春の野をかける風のような優しく穏やかな声で。嘉仁は、一対一の死闘を前したような気迫のこもった声で。それぞれ短く答えて、頭を垂れる。
そのようにして皇帝の許可を取りつけた二人は、鬼通院へと帰っていった。
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