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第二話 萩焼と文車恋煩い

4.

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 キヨさんと出会った翌日、私は朝から大学にいた。

 結局、サークルや部活には入らず縁結びカフェでのバイト一本で大学生活を謳歌中の私だけれども、学生の本文は勉強だ。それも一年生は、必修科目も多く授業が詰まっている。

 そういうわけで、今日は1限からみっちりと授業が組まれていた。

「ひぃー。1限からの授業はやっぱしんどいわー!」

 その朝一の科目を終えて、2限目の教室へと向かう途中。身体をぽきぽきと鳴らして、同じ学部の友人・真紀ちゃんが嘆いた。それに、やはり社会学部のふみちゃんが笑って答える。

「そんなこと言って、真紀ちゃんは授業の頭から終わりまで寝てたでしょー」

「だって、あんなの起きてらんないよー! 朝早くから先生の声が眠すぎるよ!」

「そういえば先生、来週はちょっとした小テストをするって言ってたね」

「嘘!? やだー! ふみちゃん今日のノート、コピーさせてー!」

「しょうがないなー」

 きゃっきゃと話す二人に挟まれながら、私はなんとなく、昨日カフェで出会った文車のキヨさんのことを考えていた。

(キヨさん、この大学の中にいても、ちっとも不思議じゃない姿をしていたなあ……)

 歴史を感じさせつつも壮麗さのある構内を歩きながら、そんなことを思う。ちょうど授業の合間とあって、廊下にはたくさんの大学生が歩いているけれども、キヨさんがこの中のひとりに紛れていてもきっと私は気づかない。

 案外妖怪とはそんなものなのだろうか。

 今日も縁結びカフェには常連の妖怪たちがお気に入りのメニューを楽しみに来ているだろうし、真紀ちゃんたちには見えていないけど、現在進行形で私のパーカーのフードの中では倉ぼっこのキュウ助がすやすやと昼寝をしている。

 私が知らなかっただけで、私が見えなかっただけで。狐月さんが以前話していたように、妖怪たちはずっと私たちの傍にいるのかもしれない。もしかしたら、このたくさんいる大学生の中にも、ひとりくらい妖怪が混ざっているのかもしれない。

 そんなことを考えながら歩いていたら、ふいに真紀ちゃんが私に話題を振ってきた。

「そういえば! 昨日ふみと、鈴のバイト先の店に遊びに行こって話してたの。なのに、気が付いたら別のカフェに入っちゃってたの!」

「そ、そうなんだ」

 悔しそうに嘆く真紀ちゃんに、私は思わず顔を引き攣らせる。幸いそれには気づかず、ふみちゃんも残念そうに小首を傾げた。

「ふたりで大学を出て歩いていたら、ちょうどスタパで新作ラテの看板見ちゃって……。気が付いたら、すっかりそこで話し込んじゃって」

「あり得ないよねー。鈴の店に行こうとしてたのに別の店に入っちゃうの、もうこれで四回目だよ!? なんで私たちってこう、大学通りのお店の誘惑に負けやすいんだろ」

「あ、あはは、はは。そういうときもあるよね……」

 冷や汗をだらだら流しつつ、私は精一杯誤魔化す。

 ふたりが他の店に吸い込まれてしまうのは、たぶん、いや、十中八九、狐月さんの結界のせいだ。たぶん妖怪たちと無縁の生活を送るふたりは、なんらかの邪魔が入って縁結びカフェにたどり着けないようになっているのだろう。

 けど、邪魔が入ると言っても危ない目に遭うわけではなさそうなのはよかった。あの優しい狐月さんが危険な結界を張るわけないとわかってはいるけど、二人が恐い目にあうんだとしたら、友達として放っておけないから。

 さて、そんなことを話しているうちに、私たちはあっという間に2限目の授業が行われる大教室に到着した。

 大学の授業は、受講人数によって教室の大きさがかなり異なる。この教室は、よほどの人気授業か学部の必修科目でないと使わないような、構内でも特に大きな教室だ。

 それもそのはず。この日の2限目は、私たち社会学部生の1年生のほとんどが受講する「歴史学入門」であるからだ。

 授業の始まりを告げる鐘がなり、すらりと細身の年配の女性が教壇に立つ。顎のラインで切りそろえられたシルバーグレーの髪に、細いチェーンが光る眼鏡の奥に覗く、海を思い出させる理知的な眼差し。ピンと伸びた背筋には気品が漂う。

「さあ、皆さん。今日から3回、一緒に国文学の夢路へ旅立ちましょう」

 一瞬で大教室の空気を掴んだ女史は、そう微笑んだ。

 歴史学入門は、その名の通り1年生向けの「入門」授業だ。オムニバス形式で4名の教授が持ち回りで担当し、うち今日から3回は、この有栖川涼子女史が受け持つことになっている。

 有栖川教授の名前は、入学する前から知っていた。

 有栖川教授の専門は、源氏物語や枕草子、ほかにもその時代に記された歌や書物など様々な手記から、当時の文化・生活を研究するというものだ。何度か歴史番組に解説として呼ばれたり、数年前の歴史映画で時代考証を行っていたりしていて、私もなんとなく名前を聞いたことがあった。

 武骨な武将たちの人間ドラマや知略戦……というよりは、女性の視点から見たその時代の空気感や流行、人々の何気ない日常に焦点を当てた研究が多く、歴史好き女子からの人気も高い――というのは、歴史大好き女子・真紀ちゃんからの情報だ。

「有栖川教授、今日も麗しい……っ」

 となりで真紀ちゃんが、感激してうっとりと教壇を見つめている。真紀ちゃんの言うように、すらりと教壇に立ち、澄んだ声で歌うように歴史学について話す教授の姿は、ファンでなくても見惚れてしまうものがある。

 どうやらこの授業では、後で真紀ちゃんにノートを強請られることはなさそうだ。そんな風にくすりと笑ってしまったとき、私は気づいた。

 大教室の一番前。……特に理由はなくとも、学生が敬遠しがちで、後ろの席とは違ってまばらに空いたその列の一番端に。見覚えのある、亜麻色のストレートヘアの後ろ姿があった。

(あれって……)

「きゅう?」

 目を瞠った私に何かを感じ取ったのか、フードの中でおとなしくしていたキュウ助がもぞもぞと出てくる。一瞬慌てかけるが、ふみちゃんも真紀ちゃんもふわふわ毛玉に気付いた様子はない。ふたりには妖怪が見えないし、聞こえないのだから当然だ。

「きゅう、きゅう!」

 キュウ助も亜麻色の髪の女子生徒を見つけたらしく、嬉しそうに私の肩の上ではねながら鳴き声を上げた。それにピクリと肩を揺らし、亜麻色の髪の女子生徒が振り向く。

「しっ」と。

 人差し指を唇に当てて顔をしかめたのは、やはりというか、縁結びカフェで出会った文車・キヨさんだった。
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