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一宿一飯の恩

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「…それじゃ、いったん俺は知り合いに連絡するから。」
「あ、はい…。」

さっそく、私が現在置かれているこの状況に関して意見がもらえるだろう人に連絡する、と獣人はスマホを手に取った。そのもふもふの手でも操作ってできるものなのね。

「あ、そういえば。その…あなたの、名前は?」
「あぁ、郡司健人。」
「まさかの純日本人!?」
「なんだよ。何か問題でもあんのか?」
「いやないけど…。その…ちょっと…。」

これからお世話になるだろうに、いつまでも二足歩行の犬(本人は狼だと言い張るが)だとか獣人と呼ぶのは心の中であってもいただけない。何より不便だ。そう思って名前を聞いたのだが、まさかの純日本的な名前。名前だけ聞いたらこんな見た目だとは全く想像できないだろう。…そもそも獣人がいるなんてこと自体が、想像できるはずもないのだけれど。

「失礼な奴だな、人の名前聞いといて。」
「ご、ごめんなさい。」
「まぁいいけど。…んじゃちょっと静かにしててくれ。あいつ、電話に気がつけばいいけど。」
「はい、それはもう…ってえぇ!?」
「なんだよ、うるせぇな!」
「い、今何してたの!?」
「何って…。スマホのロック解除しただけ…もしかしてスマホ見たことないのか?」
「あるけど…!何その解除の仕方!」

通話の邪魔にならないように口を閉じようとした瞬間、ついまた声を上げることになってしまった。獣人、郡司さんが持っているのは私にもなじみのあるスマホ。何の変哲もないスマホを、おもむろに顔を近づけて…。

「鼻タッチ!」
「あぁ?鼻紋認証で解除しただけだろ。」
「びもん!?」

なんじゃそら!こちらからしてみれば、犬面の、おそらくいい歳の男が、スマホに鼻タッチしているようにしか見えない。ちょんってしてた、ちょんって!

「驚くことか?…まぁ、そっちの話を信じるんなら、獣人自体見たことないって話だったもんな。」
「そ、そうよ。ちょっと驚いちゃって…。こっちじゃそこまで珍しい方法じゃないのね。」
「あぁ。人間は指紋で解除したりするだろ。それと一緒だ。とはいえ、衛生上あまり人前じゃしない方がいい方法だったかもな。」

気をつける、と今度はスイスイと解除ナンバーを入力して操作し始める。見慣れた光景にちょっと安心する。確かに精密機械に鼻をくっつけるのはしない方がいいのかもしれないけど…。スマホに鼻をちょんって…!人語を話しているとはいえ、表面上ではワンちゃんがスマホに顔を近づけているという、何とも和やかな光景…ってそうじゃない。郡司さんは私を助けようとしてくれているのだ。少なくとも、郡司さんの迷惑になるようなことは控えなければ。

「…あぁ、俺だ、郡司。今暇か?…あぁ。いやそういうわけじゃないんだ。ちょっと、その…聞きたいことがあって。」

どうやら電話がつながったようだ。できるだけ静かになるようにと、思わず呼吸までも小さくしてしまう。電話先の相手の声は聞こえないが、じっと郡司さんを見ながら話の行方を伺う。

「あー、なんて言ったらいいかな…。説明が難しいんだが、その…、今日俺の家に、訪ねてきた人がいて、その人は俺の姿を見てすごく驚いててな。話を聞いたら、獣人を見たことも聞いたこともないんだと。…あぁ。あぁ、そうなんだよ。…いや、そんな感じじゃない。え、それはちょっと…まぁ助かるけど。…分かったよ、話しとく。じゃあな。」
「…知り合いの方は、何て?」

この状況をどう説明したもんかと悩みながらも、郡司さんは相手に頑張って説明してくれていた。見えない相手に向かって身振り手振りを加えながら会話していく姿に親近感を覚える。つい最近、私もやったことがあるような気がするし。通話を終えると、疲労感たっぷりのため息を吐き出している。

「えっと、ちょっと説明が難しくて…。詳しいことは直接会って聞きたいとさ。」
「え、直接?初対面なのに?」

まさかそんなことになろうとは。というか、私がなかなかに不審者であることはちゃんと伝わっているのだろうか。自分で言うのもなんだが、向こうにとってはちょっと、いやだいぶ怪しい人間であるはずなのに。

「…私、会っても大丈夫、なんでしょうか…?」
「うーん…。向こうが会いたいって言ってんだから、いいと思うが。」
「そういうもん…?」
「俺に聞かれても。…まぁ悪い奴じゃない。変わってるけど。」
「最後の一言が不穏なんですけど!?」

ともかく、私の身の振り方はその知り合いの人に会ってからということか。にべもなく断られでもしたら、どうしようかとも思ったが、その心配はないようだ。変わり者と言っていたけど、大丈夫なのだろうか…。
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