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第一章 あるいは運命だったのかもしれない
第8話 夢見心地も束の間
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外に出るとライブ中に通り雨が降ったようで、道路にはあちこちに水たまりが出来ていた。
湿気を含んだ生ぬるい風と渋谷の夜の風景は、まだどこか非現実的で、駅まで向かう間も夢の中にいるようだった。しかしそんな夢見心地も束の間、改札の前で紗良は急激に現実に引き戻され青ざめる。
「やだ……どうしよう、定期がない。ポーチに入れたはずなのに」
「えっ、紗良、上着のポケットに入れてたよ。そっちは確認した?」
「そ、そうだっけ」
七海に言われて、紗良は丈の短いジャケットのポケットを探る。飾り程度の浅いポケットには、何も入っていなかった。
「私、ライブ中ずっと飛び跳ねてたから、落ちちゃったのかも……」
「ライブハウスに戻ろうか。落とし物で届けられてるかも」
「でも七海、門限ギリギリでしょ。大丈夫、私一人でちゃちゃっと走って行ってくるよ。後で連絡するね、今日は本当にありがとう!」
「本当に一人で大丈夫? 心配だから家に着いたら絶対連絡してね!」
「わかった」と手を振って走り出した紗良は、路上に落ちていないか注意深く確認しながら来た道を戻った。定期だけなら再発行すれば良い。だけどパスケースは百鬼夜行の動画サイト登録者数一万人突破の際に、記念で販売された限定品なのだ。諦めようにも諦めきれない。
ライブハウスに戻り、恐る恐る扉を開ける。入り口のホールでは、パンフレットや物販を慌ただしく片付けるスタッフの姿があった。勝手に入って良いものかどうか迷いながら、段ボールを抱えるスタッフの一人に声をかける。
「あの、すみません。落とし物ってどこで聞けばいいですか?」
「え、落とし物? ちょっとわかんないなぁ。奥に行って聞いてくれる?」
紗良とそう年も変わらなそうな若いスタッフは、明らかに面倒くさそうに通路の奥を顎で示した。
言われた通りに奥に進むが、誰にも会わないままホールの扉前にたどり着いてしまい、立ち尽くす。会場で落としたのだから、会場にいるスタッフに聞くのが手っ取り早いだろうと思い直し、そのまま深く考えずに扉のノブを掴んで引いた。
会場には分解された片付け途中のドラムとアンプがステージに残されているだけで、先ほどの幻想的な景色は皆無だった。コードを巻き取っていたスタッフの一人が、紗良に気付いてギョッとする。
「キミ、バイトの子じゃないよね。駄目だよ、勝手に入ってきちゃ!」
「あ、あの、落とし物しちゃって。奥に行くよう入口のスタッフさんに言われたんです……」
「落とし物? 本当に?」
疑うような視線に、紗良は思わずうつむいた。
よく考えれば、ライブが終わった後の会場にノコノコとファンが戻ってきたら警戒されるのも当然だ。顔を上げられないままスカートの裾を握りしめる。コンクリート剥き出しの床を見つめながら、嫌な汗がじわっと滲んだ。
ヒソヒソと小声で紗良を怪しむスタッフたちの声が聞こえ、下を向いていても視線を感じた。
何か言わなければ益々疑われる。だけど緊張と焦りで言葉が浮かばない。そもそも落とし物をした場所が、この会場だとは限らないのだ。泣きたいわけではないのに唇が震えて余計に思考が混乱する。
逃げ出したくてギュっと目をつぶった瞬間、ざわついていたスタッフたちが急に黙り込み、空気が変わった事に気がついた。雑音が消え、シンと静まり返る。何事だろうと冷めたい汗が流れ、不安に耐えきれず顔を上げて叫びそうになった。
目の前に、ユズがいる。
ユズは無言のまま、腰が抜けそうな紗良に向かってパスケースを差し出した。
狐の半面から覗く口は真一文字に結ばれていて、笑っているようにも怒っているようにも見える。ステージ衣装ではなく浴衣を無造作に羽織り、胸元が大きく開いていた。中性的で華奢だと思っていたが、やはり骨格は男で、程よくついた筋肉に紗良は顔を赤らめた。
呆然とする紗良に苛立ったように、ユズがもう一歩前に進み出てパスケースを突き付ける。震える手でそれを受け取ると、間違いなく自分の物だった。
湿気を含んだ生ぬるい風と渋谷の夜の風景は、まだどこか非現実的で、駅まで向かう間も夢の中にいるようだった。しかしそんな夢見心地も束の間、改札の前で紗良は急激に現実に引き戻され青ざめる。
「やだ……どうしよう、定期がない。ポーチに入れたはずなのに」
「えっ、紗良、上着のポケットに入れてたよ。そっちは確認した?」
「そ、そうだっけ」
七海に言われて、紗良は丈の短いジャケットのポケットを探る。飾り程度の浅いポケットには、何も入っていなかった。
「私、ライブ中ずっと飛び跳ねてたから、落ちちゃったのかも……」
「ライブハウスに戻ろうか。落とし物で届けられてるかも」
「でも七海、門限ギリギリでしょ。大丈夫、私一人でちゃちゃっと走って行ってくるよ。後で連絡するね、今日は本当にありがとう!」
「本当に一人で大丈夫? 心配だから家に着いたら絶対連絡してね!」
「わかった」と手を振って走り出した紗良は、路上に落ちていないか注意深く確認しながら来た道を戻った。定期だけなら再発行すれば良い。だけどパスケースは百鬼夜行の動画サイト登録者数一万人突破の際に、記念で販売された限定品なのだ。諦めようにも諦めきれない。
ライブハウスに戻り、恐る恐る扉を開ける。入り口のホールでは、パンフレットや物販を慌ただしく片付けるスタッフの姿があった。勝手に入って良いものかどうか迷いながら、段ボールを抱えるスタッフの一人に声をかける。
「あの、すみません。落とし物ってどこで聞けばいいですか?」
「え、落とし物? ちょっとわかんないなぁ。奥に行って聞いてくれる?」
紗良とそう年も変わらなそうな若いスタッフは、明らかに面倒くさそうに通路の奥を顎で示した。
言われた通りに奥に進むが、誰にも会わないままホールの扉前にたどり着いてしまい、立ち尽くす。会場で落としたのだから、会場にいるスタッフに聞くのが手っ取り早いだろうと思い直し、そのまま深く考えずに扉のノブを掴んで引いた。
会場には分解された片付け途中のドラムとアンプがステージに残されているだけで、先ほどの幻想的な景色は皆無だった。コードを巻き取っていたスタッフの一人が、紗良に気付いてギョッとする。
「キミ、バイトの子じゃないよね。駄目だよ、勝手に入ってきちゃ!」
「あ、あの、落とし物しちゃって。奥に行くよう入口のスタッフさんに言われたんです……」
「落とし物? 本当に?」
疑うような視線に、紗良は思わずうつむいた。
よく考えれば、ライブが終わった後の会場にノコノコとファンが戻ってきたら警戒されるのも当然だ。顔を上げられないままスカートの裾を握りしめる。コンクリート剥き出しの床を見つめながら、嫌な汗がじわっと滲んだ。
ヒソヒソと小声で紗良を怪しむスタッフたちの声が聞こえ、下を向いていても視線を感じた。
何か言わなければ益々疑われる。だけど緊張と焦りで言葉が浮かばない。そもそも落とし物をした場所が、この会場だとは限らないのだ。泣きたいわけではないのに唇が震えて余計に思考が混乱する。
逃げ出したくてギュっと目をつぶった瞬間、ざわついていたスタッフたちが急に黙り込み、空気が変わった事に気がついた。雑音が消え、シンと静まり返る。何事だろうと冷めたい汗が流れ、不安に耐えきれず顔を上げて叫びそうになった。
目の前に、ユズがいる。
ユズは無言のまま、腰が抜けそうな紗良に向かってパスケースを差し出した。
狐の半面から覗く口は真一文字に結ばれていて、笑っているようにも怒っているようにも見える。ステージ衣装ではなく浴衣を無造作に羽織り、胸元が大きく開いていた。中性的で華奢だと思っていたが、やはり骨格は男で、程よくついた筋肉に紗良は顔を赤らめた。
呆然とする紗良に苛立ったように、ユズがもう一歩前に進み出てパスケースを突き付ける。震える手でそれを受け取ると、間違いなく自分の物だった。
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