kyrie 涙の国

くり

文字の大きさ
上 下
18 / 30
ヒメの章

開拓暦586年2月、第一城壁、西方城壁防衛軍基地

しおりを挟む
 頭上には白っぽく輝く太陽があって、淡く闇夜を照らしていた。
 かくんっ、と自分の首が落ちた衝撃でミリアは目を覚ました。慌ててふるふると首を振り、ずり落ちた毛布を引っ張り上げる。ポケットから出した時計を見ると、とっくに日付を越えていた。
 ヒメはまだ帰っていないようだった。
「ふあ、ふぁ、っくしゅんっ」
 ずびと鼻を啜り、ミリアは暗闇の向こうに目を凝らす。シュナイダー家の異変はとうに伝わっていた。というより、詳細が入る前から何かが起こったのは明らかだった。なんせ、ラアドによる凄まじい閃光と衝撃は西軍にまで届いたのだ。ラアドのような攻撃魔法を知るのは軍人だけで、おまけにそれはヒメの得意技だったから、ミリアにはすぐにヒメの身に何かあったのだと察しがついた。
 ミリアはもう一度熱魔法をかけた。すぐに周囲がぽかぽかとしてきて、ほっと一息つく。中で待っていた方がいいのは分かっていた。しかし、いてもたってもいられなくて、ミリアはコートと毛布を持ってまだ雪の残る外に飛び出した。雪が残っているどころか雨のせいでべちゃべちゃだったが、本当は走って迎えに行きたいくらいだった。
 ミリアは白兵に、第二小隊になってからまだ日が浅かった。
 セジュン小隊長はお父さんという言葉のよく似合う大きな人だった。ミリアは彼によく懐いていた。だから、彼が最も信頼し背中を預けるヒメのことが正直気に入らなかった。ヒメもまだ隊内ではかなり若い方だった。だが、その剣技には目を瞠るものがあり、ミリアはその才能を妬んだ。ヒメの人柄をよく掴めなかったのも原因だった。ミリアはヒメが、少なくとも好きではなかった。
 だが、今は共に残された仲間だ。
 馬鹿な意地張ってないで仲良くしろよとセジュンが笑っているような気がした。言われるまでもないと、ミリアは頬を挟むようにぱんぱん叩いた。
「ミリア……?」
 ヒメが帰ってきたのは、それから一時間ほどが経過した頃だった。
 声が聞こえた途端にミリアは跳ね起き、ヒメへと駆け寄って毛布を被せた。軍服一枚で夜通し歩いてきたヒメの体はすっかり冷えていて、頬は目に見えて青褪めている。その頬を温めるように手を添え、ミリアは気付いた。
「ヒメ、泣いてるの……?」
「……うん」
 ヒメはくしゃっと顔を歪めた。まるで笑おうとして失敗したようだった。
「ごめんね、ミリア」
 ヒメはそう言ってミリアに抱きつき、隠すように額を肩口に埋めた。ヒメの髪から花のような香りが漂ってくる。髪型も朝と違う。
「……〈罪負い女王ザ・クリミナル〉に呼ばれたって聞いたよ」
「うん」
「なにがあったの?」
 沈黙が夜を支配する。
 一向に答える気配のないヒメに、ミリアは嘆息した。
「私、そんなに頼りない?」
「え?」
「私じゃ力不足だから、ヒメは何も教えてくれないんでしょ?」
 顔を上げようとするヒメの後頭部を押さえつけ、ミリアは唇を噛んだ。鏡を見なくても、今自分が最低な顔をしていることくらいは分かった。
「ごめん。ちゃんとわかってるよ……。でも、私だって何かしたいんだから」
 これでは拗ねたガキと一緒だ。しかしどうしようもなくて、苦しさが胸に溜まっていく。暫くして、ヒメがまたごめんねと言った。ますます胸を抉られる心地がした。
「謝らないでよ」
「ごめん」
「ほら」
「……ごめ、ん」
 ミリアは溜め息を吐いて、ヒメから離れようとした。しかし今度はヒメが離さなかった。二人はそのまま抱き合っていた。
「ねえ、ミリア」
「なに?」
「もし、もしもね。これまであったことが、全部、なかったことになったらどうする? 友達も、友達との思い出も、全部、全部なくなったら」
 どういう意味かと尋ねようとし、ミリアは寸前でとどまった。代わりに別のことを訊いた。
「それって、コーラショ戦も?」
「……うん」
 平然を装ったが、胸がずきりと痛んだ。この痛みはいつまで続くのだろう。慣れる日は来るのだろうか。でも、消える日は来ないということだけは知っていた。
「……悔しい、かな」
 やがてミリアは呟くように答えた。
「悔しい?」
「だって、どんなに苦しくったって、私のものだもん。誰にも踏み躙る権利なんてないから」
「……!」
 はっ、と息を呑む音がした。
「……そ、か。そっか。そうだよね」
 ヒメが離れると、失った温もりに寂しさがこみあげてきた。ヒメの涙はまだ乾いていなかったが、どこか吹っ切ったような晴れやかさがあった。
「ありがと。ミリア」
「もういいの?」
「うん」
 ヒメは頷く。そして、驚くミリアに深く深く頭を下げた。
「私、これからすごくひどいこと言うと思う。ミリアのこと傷つけるかもしれない。それでも、私はキリエを助けたい。踏み躙られたもの、取り返してあげたい。お願い。私に協力してください」
「あ……」
 ミリアは胸を押さえた。
 熱い。温かいどころではない。胸が、ものすごく、熱を発している。この気持ちの正体を、ミリアは既に知っている。
「……嬉しい」
「え?」
「私、なんでもやる。手伝うよ。一緒にキリエを助けよう」
「ミリア……。つっ、……」
 ありがとう、とヒメは俯いた。嗚咽を堪えるように絞り出した声で何度も何度もありがとうと繰り返した。ミリアは首を振って、自分もそっと目尻をぬぐう。こんなに世界が輝いて見えるのはなんでだろう。かつて、これほどまでに報われた日はあっただろうか。
空が白みだす。城壁を段々と染め上げていく様をミリアとヒメは見守った。鼻がむずむずとして、二人同時にくしゃみをして笑いあうまで、この夜明けを心に焼き付け続けた。




 少し仮眠を取るつもりが大寝坊となり、目が覚めるともうお昼近かった。同じベッドで寝たミリアを揺り起こし、二人で以前に食堂からくすねたパンを食べた。今日はミリアも非番となっていたが、のんびり食堂で食べる気はなかった。適当に食欲を満たすと、二人はすぐに病室へと向かった。
 ノックをして大部屋に入ると、ドアを開けた途端に笑い声が溢れてきた。部屋にいるのは二人だけだった。元気そうな姿に、思わずヒメも声を大きくしてしまった。
「ペレ! ペンダ!」
「ヒメ。おかえり」
 ペレが振り返って穏やかな笑みを向けてくれる。ペレは目を覚ましてから、個室からこの大部屋に移っていた。同室の患者との触れ合いはペレの回復を助けてくれた。今では、松葉杖があれば一人でも自由に動き回れる。ヒメが駆け寄り飛びつくと、外見に反して優しい彼は柔らかくヒメを受けとめてくれた。ずるいとミリアが続き、さすがにやめてくれと苦笑する。
 ペレから離れると、ヒメは隣のベッドで上体を起こしていたペンダを見た。
「ただいま、ペンダ」
「お、おう。おかえり」
 何故かペンダは気まずそうに目を逸らした。ヒメは首を傾げたが、一応ペンダにもぎゅっとしておいた。うほっ!? とペンダが素っ頓狂な声を上げる。ヒメは噴き出してペンダのベッドの端にちょこんと腰掛けた。
「よかった。元気そうで。いつ起きたの?」
「あ、あー、昨日の昼前、かな? ヒメが出かけた後」
「うん。知ってる」
「だ、だよな」
 はは、は、とごまかすようにペンダは笑う。ペンダの怪我は大したものではなかったから、ペレよりもぴんぴんしているようでヒメは安堵した。
「でも、あれだな」
 ようやくペンダはヒメの目を見て、照れたように鼻を掻いた。
「あ、死んだなって思ったからさ。なんかこうして会うと、新鮮っつーか、なんか変な感じがすんな」
「そうなの?」
「ああ」
「よかったね」
 ペンダはヒメの奇妙な返しに一瞬きょとんとしたが、すぐに大きく頷いた。
「よかった。また会えて」
「私も。嬉しい」
 ペンダははにかみ、それからふっと目線を落とした。
「キリエん家、行ったんだよな。何か分かったか?」
「うん」
 ちらりとミリアを見ると、ミリアは大きく頷いてくれた。ミリアには大体の事情とこれからのことを話してある。その上で、ペンダとペレにも話そうと二人で決めたのだ。
「ちょっと聞いてほしい」
 ヒメはもう一度説明した。時々ミリアが補足してくれて、なんとか話し終えると、ペンダもペレもぽかんとしていた。顔の前で手を振ると、二人揃ってああとかおうとか言う。
「大丈夫?」
「……た、ぶん。ちょっと想像を超えて、頭があんまり動いてくれないだけだと、思う」
「おう……。ちょっと待ってくれ。今、頭の中で整理するから」
 頷く。ややあってペンダから口を開いた。
「えっと、つまりだ。今の俺たちの時間っていうのは、元々なかった。でも、メアリーなんとかが過去を変えて今ができた」
「うん」
「で、キリエも過去をどうにかできる力を持ってて、時間をもとに戻そうとしている――んだな?」
「うん」
 ペンダが似合わないしかめっ面をして唸る。やはり信じがたいだろうとヒメが俯くと、いいか? とペレが手を上げた。
「どうしても元に戻さなきゃいけないのか? キリエ君の友人とおばあさん、二人とも助けられないのか」
「できないことは、ないと思う。でも、何がどう転ぶか分からないから……」
 今、こうして続いてきたことさえ奇跡のようなものなのだ。ヒメは少し迷ったが、帰り際に女王から聞いた話を語って聞かせた。
「今の時間になって、メアリーさん、もう死んじゃったんだって。元々はキリエのおばあちゃんとこっち側に来るはずだったのに、そうならなかったから」
「もし、キリエ君もメアリーさんもいない結果になったら、何かあったとしてもどうすることもできなくなるのか」
 できるのは二つだ。
 このままでいるか、元に戻すか。
「私はやっぱり今しか知らないから、このままでいたい。と、思った」
 ミリアがペレのパジャマの裾を掴み、でもと顔を上げた。
「私たちはヒメのお陰で、どうしたいかを選択することができる。キリエのおばあちゃんはそのままでよかったのかもしれないのに、メアリーって奴に変えられちゃったんでしょ? だったら、私は元に戻してあげたいって、そう思ったの」
「そうだな」
 ミリアの頭を撫でて、ペレも微笑んだ。
「俺も同感だ」
 続いてペンダも頷いた。ヒメがほっと胸を撫で下ろすと、何故かペンダはにやりとヒメに笑いかけてきた。ベッドから下りて手の甲を上にして伸ばし、ほらとみんなに促してくる。おずおずと全員の手が重なると、ペンダはすうと息を吸い込んだ。
「よっしゃああああああああああ!」
 びくっとヒメの肩が跳ねる。ミリアとペレは得心がいったように笑った。
「やんぞおおおおおおおおおおおお! えいっ、えいっ、」
「「「おー!」」」
「えいっ、あれ? おー!」
 なにやってんのヒメとミリアがどつく。ヒメがしょんぼりと謝ると、ペレがもう一回やるかと手を差し出した。
 音頭は再びペンダが取った。
「おっしゃあああああああああ! 行っくぞおうらああああああ!」
「「「おー!」」」
「あ、おーっ!」
「ヒメ!」
「ごめんっ」

 その後、ペレのリハビリの時間が来て、ミリアが付き添って出ていった。ドアが閉まると、ヒメは振っていた手を下ろしてペンダを振り返った。
「ありがと、ペンダ」
「当たり前だろ」
 親友なんだから。そう言って鼻の下を擦るペンダにヒメも微笑み返す。それっきり二人は喋らなくなった。先程までの勢いはどこへ行ったのか、ペンダは視線を逸らすように僅かに下を向く。おしゃべりなペンダらしくない。しかし、そんなペンダの顔を覗き込まないヒメも、おそらくらしくなかった。
 数分が経過した。
「ペンダ」
「ヒメ」
「あっ」
「ヒメ、いいよ」
「ペンダこそ」
「ヒメの方が早かったから、ヒメだろ」
「そうなの? それじゃ……」
 そう言ってヒメは言いよどむと、ペンダを見た。少し遠い気がする。立ち上がって座り直した。
「私ね、本当はまだ、話してないことがあって」
「トルンのことか」
「え? あ、ううん。違うけど……やっぱり、知ってたんだ」
「そりゃ、まあ……」
 さっきはただキリエの友人とだけ言ったが、やはり同窓であるペンダには分かっていたようだった。
「そっか」
 それからヒメは、よかったと笑った。笑っているのに眉尻は下がっていて、ペンダはどきりとした。
「な……何がよかったんだよ」
「うん。ごめん。話しやすいなと思って」
 キリエのお母さん、死んじゃったの。
「は……?」
 今日の天気の話でもするように告げられた言葉にペンダは耳を疑ったが、ヒメは相変わらず悲しそうなままだった。
「まじで……?」
「怪物が出た時に逃げようとして頭を打ったんだって。私、すぐそこを離れたから知らなくて、昨日の夕方病院に行って、間に合わなくて」
「ヒメ……」
 ヒメは何かあるとよく喋るようになる。ペンダはヒメに手を伸ばした。だが、どうしても踏み込めずにいると、ヒメの方からペンダの手を取った。ヒメの手は冷たかった。
「私、ね。キリエのおばあちゃんのことも大事だけど、本当はキリエに見せたくないの。キリエ、元に戻りたがってても、お母さんのこと大好きだったから。もうお母さんしかいなかったのに、それもなくなったなんて知られたくなくて。知らせたくなくて。――私、勝手だね」
「ヒメ」
「でも、自分の胸だけに収めておくのも苦しくて。ごめんね。ペンダ。ごめんね……」
「いいよ」
 ペンダは深く考えることなくそう言って、ヒメの手を強く握りしめていた。温めたいと思った。
「ヒメ、苦しかったんだろ? それで楽になるなら、いいさ」
「ペンダ……」
 いっぱいに見開かれたヒメの瞳は、そんなはずはないと訴えていた。ペンダは首を振って、なるべく優しい声音になるよう意識しながら口を開けた。
「俺は、俺も、自分がいなくなるのが怖い。でも、それ以上にヒメがいなくなることの方が怖いからさ。いいんだ。俺はいなくなっても。ヒメが残って、俺のことを覚えててくれれば」
「そんな……私が寂しいよ」
「でも、考え方を変えればさ、俺はヒメの中に生きるってことになるだろ? ヒメは俺のこと覚えてんだから」
 ヒメはきょとんとした。ぱちぱちとまばたきをする。
「そう、なの?」
「だって、俺が完全にいなくなったら、ヒメは俺のことも思い出せねえってことだろ? 俺はどこにもいないんだから。でも、ヒメが覚えてるってことは、俺は完全には消えてないことになる。少なくとも、ヒメの記憶の中には存在し続けることになる」
「そう……かも?」
「そうだよ」
 励ますように握った手を小さく上下に振る。
「だから、ヒメが気にすることなんか、なっんもねえんだよ。キリエ、助けて来いよ。ヒメにしかできないんだ。だったら、やるしかねえって」
「うん」
 ヒメの瞳が揺らがなくなったのを確認すると、ペンダは手を解き、拳を作って顔の高さに上げた。ヒメも遠慮するような力加減で拳を作り、こつん、と二人は拳をぶつけた。
「行ってきます、ペンダ」
「おう、行ってこい」
 ヒメはくるりと踵を返して走り出した。と、ドアを開けたところで立ち止まる。
「そういえば、ペンダの話聞いてない」
「あ? ああ、うん……。いや、やっぱいいわ」
「いいの?」
「すっげえしょうもないことだから」
 ペンダはそう手をひらひら振ったが、ヒメは完全に体の向きを整えて真っ直ぐにペンダを見た。
「なあに?」
「すっげえ、くだらねえぞ?」
「聞きたい」
 ペンダはそっと溜め息を吐くと、実はなとにやりとした。
「俺、ヒメのことが好きなんだ」
「?」
 ヒメは首を傾げた。
「どこがしょうもないの? 私も大好きだよ」
「そうだな」
「うん」
「よっしゃ、行ってこい」
「行ってきます」
 今度こそヒメは去っていった。ドアが閉まると、入れ替わりに静寂がやって来て、ペンダは長く長く息を吐き出して頭を抱えた。
「伝わんねえなあ……」
 悪夢を見ていた。
 ペンダは城壁の端にぶら下がっていて、それをヒメが見下ろしていた。助けてくれと頼むと、ヒメは首を傾げ不思議そうに言うのだ。
 だって、死にたいんでしょ?
 違う、あれは嘘だったんだと叫んだのに、ヒメは責めるような視線だけを残していなくなり、代わりにキリエが現れてペンダを突き落とすところで目が覚めるのだ。
 ペンダはヒメに会いたくなかった。夢のように責められるのかと思うと、ひどく悲しかった。苦しいよりも、辛かった。
「仕方ねえだろ。好きなんだもんよぉ……」
「意味分かんないんだけど」
 ばっと顔を上げると、呆れた様子でこちらを見下ろしてくるミリアがいた。かあっと顔が赤くなっていくのを自覚した。
「なっ、えっ、あっ、いっ、いつっ、いつからっ」
「伝わんねえなあから」
「ふぐぅっ」
 ミリアはペレのベッドの小机の抽斗を漁る。忘れ物を取りに来ただけらしい。
「意気地なし。これが最後なのに」
「……まあ、いいわ」
 訝るミリアに、ペンダは分かんねえの? と小馬鹿にしたように言った。
「俺はいつでもどこでも一生ヒメ一筋なんだよ。時間が元通りになったら、またヒメに会って、ばしばしアピールすんだからな」
「ぶっ」
「笑うな」
「いいじゃない、ちょっとくらい。ふうん。そっか、頑張って」
「お前、実はヒメとかペレの前じゃ猫被ってんだろ……」
 ペンダがじっと睨むと、ミリアは素知らぬ顔でさっさと部屋を出ていった。ヒメだけではない。ミリアにも、ペンダはまた会いたいと強く思った。




 星の頂点と頂点の間、隣の軍との境界線は一番防衛の薄い地点だ。何故なら、そこを攻めてくる怪物はめったにいない。そこは王城で二王の動かす魔法カノンの射程範囲内だ。そこに立つ兵士は、見張りのための最小限のみだ。
 かつて十八歳のキリエは、女王の手引きでここから外に飛び出した。
「食べ物はこれだけでいいの?」
「うん。あんまり時間はかけられないから」
 ヒメはミリアから背嚢を受け取って背負うと、腰の兄弟刀を確認した。最後の修繕から一度も使っていない。肉厚の刃。ぎらつく波紋。セジュンがヒメのために作ってくれた、ヒメ専用の武器だ。
 そして最後に、キリエの矛を持った。
「ん。できた」
「本当? 大丈夫?」
「全部入れたよ」
「一人で大丈夫?」
 ヒメは強く握りしめすぎて関節の白く浮いたミリアの手を取り、そっと開かせた。まだミリアの指は細く、儚い。開かせ、そっと包み込む。
「大丈夫」
「強がってない?」
「かもしれない」
「もう」
 ミリアはヒメに抱きついた。耳元ですんと鼻を啜る音がした。
「さようなら、ヒメ。全部上手くいったら、私のこと探してね」
「約束する」
 がちゃがちゃと鎧の音がする。見張りの交代だ。二人は頷きあうと、ひそんでいた部屋からそっと抜け出し、次の見張りの一般兵たちの後ろに足音を忍ばせて近付いていった。ミリアが小声で唱える。ヒメの力を温存させるため、ここからはミリアが魔法を使う。
命じるマン・バーフタン
 魔法素が蠢く。兵士たちは何事か談笑していて何も気づかない。
兵の数は増えていない。足音は聞こえないマン・チャシム・ト・キャラク・ザダン・ウ・グーシュ・ト・キャラク・ザダン。――欺けロオヤー
 ヒメとミリアの姿が、消えた。
「おーい、交代だあ」
 跳ね上げ戸を開けて兵たちがぞろぞろ出ていく。お疲れなどと言いあいながら移動する彼らの隙間を縫ってヒメとミリアは歩きだした。出たのは北よりの地点だ。そこからさらに北を目指す。向こうでもちょうど交代だったようで、離れた場所で北軍兵がぞろぞろと動いていた。好機だ。二人は足を速めた。その時だった。
「おいっ、なんだあれ……影みたいなのが動いているぞ」
「っ!」
 ミリアが顔を強張らせた。室内にいて忘れていたが、今はまだ昼なのだ。しかも、日の短い冬の、段々と橙色の光へと変わる頃。午前中よりも影の色は濃くなっている。ヒメはミリアの手を引いて走り出した。ざわめきが広がり、魔法兵の要請が聞こえる。見えないのをいいことにあっという間に兵士の壁を突破すると、騒ぎを聞きつけた北軍兵もこちらに向かっていた。先頭の男が何かを唱え、唇をすぼめる。魔法解除だ。その寸前にミリアが鋭く右手を振った。
命・嵐マン・バー!」
 ロオヤーが消えた瞬間、巨大な水の帯が二人をぐるりと囲んだ。ミリアの高速詠唱は素晴らしかった。水はぐるぐると回転すると、発生した突風と共に勢いよく一般兵たちに吹き付けた。目も開けられないシャワーのような嵐は兵の足も止めた。ミリアはヒメの背中を押した。
「今!」
「うん!」
 ヒメは城壁の端に向かって走る。へりに足をかけた瞬間、シャワーが終わって一般兵たちの驚く声が聞こえたが、ヒメは無視して飛び下りた。浮遊感は一瞬だった。ごうごうと風が鳴る。しかし、すぐに落下速度は落ち、ヒメは手足を広げてバランスをとった。まずは一秒。
 さらに数秒が経ち、ミリアの魔法の効果範囲外に出たと同時にヒメも唱えると、ゆっくりと降下していった。灰色の大地が近づいてくる。ごつごつとして、砂と石しかない不毛の荒野。キリエのいる怪物の庭に、まず右足の爪先が、踵が、左足が、着いた。
 ヒメは駆け出した。遥か頭上から歓声が聞こえたような気がした。
 アンがこちら側に来たのは、アルビオンの北西。ここから西の湖水地帯。
「キリエ、待ってて……!」
 真っ直ぐに、ただひたすら前だけを見つめて。
 私の涙を受けとめてくれたのは君だから。

 今度は私の番なんだよ。
しおりを挟む

処理中です...