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第三章 潜伏する狼
第十三節 薫風少年
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治郎は長田の顔を、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も殴り付けた。
治郎の拳が炸裂した部分から、血が天井まで伸び上がる。
治郎の顔が、返り血を浴びて益々凶暴な姿を見せ付けた。
「やめろ、篠崎!」
「死んじまうって!」
「よせって言ってるだろ!?」
他の部員たちが、治郎の身体を取り押さえようとした。
公開殺人が行なわれようとしていたからだ。
治郎は、振り上げた右手を捕まえた部員に向かって、裏拳を放った。
彼が鼻血を出して怯んでいる内に、長田の身体の上で尻を滑らせて回転し、蹴りを見舞う。
泣きっ面に回転蹴りをぶち込まれた部員が、大きく仰け反って倒れる。
二人目の犠牲者のお陰で、狂獣を止める術がないと知った部員たちは、逃げ出そうとした。
治郎は悪鬼の形相で襲い掛かった。
逃げようとする奴の後頭部を掴んで、床に向けて打ち付ける。肩越しに振り返った奴には跳び蹴りを喰らわせてやった。着地をミスって倒れた治郎に圧し掛かろうとした者の頭を掴み、肘を側頭に叩き込む。その人間を踏み付けながら立ち上がって我武者羅に放った廻し蹴りが鞭の速度を発揮し、誰かの顎を外してしまった。
治郎がどうしてそんな凶行に出たのか、誰にも分からないだろう。最初に犠牲となったのが、空手部の中でも殆ど唯一、治郎を嫌っていなかった長田なのであるから。
長田が酔って治郎に酒を勧めていたのを見ている者があれば、その事が原因であるとは考えたかもしれない。だが、酒を飲むのが嫌なら断われば良いだろうし、それが出来なくとも報復として顔を潰してしまうのは度が過ぎている。
しかしそんな理由は、誰にとってもどうでも良い事だ。問題は、凶暴った治郎によって自分の身が危険に晒されているという事だけである。
決して広いとは言えない道場の中で吹き荒れる暴虐の嵐に、部員たちが逃げ惑っている。
その黒い台風を吹き飛ばしたのは、ほんの僅かなそよ風であった。
「――随分と頑張ったみたいだね」
凛とした、風の声。
声変わり前の少年のような、どちらかと言えば女性的な音色。
鈴の音が空気を引き裂いて進み、皮膚の中に浸透して脳を満たすような。
道場の入り口に、一人の少年が立っていた。
詰襟の制服を身に着けた少年は、鴉の濡れ羽色の長髪をポニーテールに纏めている。
アーモンドの形をした眼には、涼しく、冷たく、爽やかな蒼がある。
横になって見上げる月の唇は、温かく、優しく、朗らかな桜色をしていた。
青蓮院純だ。
その脇に、荒く息を吐く玲子の姿があった。
日直の仕事を終え、日誌を職員室に届けた玲子は、その後ぽつぽつと雑用を言い付けられてそれらを遂行していた。そのお陰で稽古の時間に大幅に遅れてしまい、道場にやって来た時には治郎が部員を相手に大立ち回りを始めていた所であった。
自分では止められない――そう思った玲子はすぐさま、純を呼びに行った。
純は、何か特別に部活に入っている訳ではない。だが、優れた頭脳と高い身体能力を持ち、生まれ持った誰をも魅了してやまない身体を持つ純であれば、治郎の暴走を止められると本能的に感じたのである。
そして事実、純の一声によって、その場が一時的に沈静化された。
だが治郎は、他の多くの人たちがそうであるように、純の姿を見るだけでほだされるような事はなく、却って長田へと向けていた怒りのようなものを、余計に強く燃え上がらせたように見えた。
治郎は不意に道衣の帯をほどくと、上衣を取り払い、純へと放り投げた。
その陰から、純の頭部に当たりを付けて跳び蹴りを放つ。
治郎の足刀が、自身の道衣を蹴り破る勢いで繰り出された。
治郎の上衣で視界を封じられた純が、治郎の蹴りで頭部を潰されるイメージが、玲子の頭の中に閃いた。
「治郎くん、やめてっ!」
思わず叫んだ玲子の声も、治郎には届かない。
だがそれは杞憂というもので、純は治郎の蹴りが届く瞬間、身体を後方へ倒しながら床を蹴った。純の身体は人の膝の高さで錐揉み回転をして、治郎の飛び蹴りを回避する。
道場の真ん中から入口まで移動した治郎と、反対に神棚に背を向けて体勢を立て直す純。
治郎は落下した上衣を蹴り上げると共に、道場から飛び出して行ってしまった。
治郎の拳が炸裂した部分から、血が天井まで伸び上がる。
治郎の顔が、返り血を浴びて益々凶暴な姿を見せ付けた。
「やめろ、篠崎!」
「死んじまうって!」
「よせって言ってるだろ!?」
他の部員たちが、治郎の身体を取り押さえようとした。
公開殺人が行なわれようとしていたからだ。
治郎は、振り上げた右手を捕まえた部員に向かって、裏拳を放った。
彼が鼻血を出して怯んでいる内に、長田の身体の上で尻を滑らせて回転し、蹴りを見舞う。
泣きっ面に回転蹴りをぶち込まれた部員が、大きく仰け反って倒れる。
二人目の犠牲者のお陰で、狂獣を止める術がないと知った部員たちは、逃げ出そうとした。
治郎は悪鬼の形相で襲い掛かった。
逃げようとする奴の後頭部を掴んで、床に向けて打ち付ける。肩越しに振り返った奴には跳び蹴りを喰らわせてやった。着地をミスって倒れた治郎に圧し掛かろうとした者の頭を掴み、肘を側頭に叩き込む。その人間を踏み付けながら立ち上がって我武者羅に放った廻し蹴りが鞭の速度を発揮し、誰かの顎を外してしまった。
治郎がどうしてそんな凶行に出たのか、誰にも分からないだろう。最初に犠牲となったのが、空手部の中でも殆ど唯一、治郎を嫌っていなかった長田なのであるから。
長田が酔って治郎に酒を勧めていたのを見ている者があれば、その事が原因であるとは考えたかもしれない。だが、酒を飲むのが嫌なら断われば良いだろうし、それが出来なくとも報復として顔を潰してしまうのは度が過ぎている。
しかしそんな理由は、誰にとってもどうでも良い事だ。問題は、凶暴った治郎によって自分の身が危険に晒されているという事だけである。
決して広いとは言えない道場の中で吹き荒れる暴虐の嵐に、部員たちが逃げ惑っている。
その黒い台風を吹き飛ばしたのは、ほんの僅かなそよ風であった。
「――随分と頑張ったみたいだね」
凛とした、風の声。
声変わり前の少年のような、どちらかと言えば女性的な音色。
鈴の音が空気を引き裂いて進み、皮膚の中に浸透して脳を満たすような。
道場の入り口に、一人の少年が立っていた。
詰襟の制服を身に着けた少年は、鴉の濡れ羽色の長髪をポニーテールに纏めている。
アーモンドの形をした眼には、涼しく、冷たく、爽やかな蒼がある。
横になって見上げる月の唇は、温かく、優しく、朗らかな桜色をしていた。
青蓮院純だ。
その脇に、荒く息を吐く玲子の姿があった。
日直の仕事を終え、日誌を職員室に届けた玲子は、その後ぽつぽつと雑用を言い付けられてそれらを遂行していた。そのお陰で稽古の時間に大幅に遅れてしまい、道場にやって来た時には治郎が部員を相手に大立ち回りを始めていた所であった。
自分では止められない――そう思った玲子はすぐさま、純を呼びに行った。
純は、何か特別に部活に入っている訳ではない。だが、優れた頭脳と高い身体能力を持ち、生まれ持った誰をも魅了してやまない身体を持つ純であれば、治郎の暴走を止められると本能的に感じたのである。
そして事実、純の一声によって、その場が一時的に沈静化された。
だが治郎は、他の多くの人たちがそうであるように、純の姿を見るだけでほだされるような事はなく、却って長田へと向けていた怒りのようなものを、余計に強く燃え上がらせたように見えた。
治郎は不意に道衣の帯をほどくと、上衣を取り払い、純へと放り投げた。
その陰から、純の頭部に当たりを付けて跳び蹴りを放つ。
治郎の足刀が、自身の道衣を蹴り破る勢いで繰り出された。
治郎の上衣で視界を封じられた純が、治郎の蹴りで頭部を潰されるイメージが、玲子の頭の中に閃いた。
「治郎くん、やめてっ!」
思わず叫んだ玲子の声も、治郎には届かない。
だがそれは杞憂というもので、純は治郎の蹴りが届く瞬間、身体を後方へ倒しながら床を蹴った。純の身体は人の膝の高さで錐揉み回転をして、治郎の飛び蹴りを回避する。
道場の真ん中から入口まで移動した治郎と、反対に神棚に背を向けて体勢を立て直す純。
治郎は落下した上衣を蹴り上げると共に、道場から飛び出して行ってしまった。
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