超神曼陀羅REBOOT

石動天明

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第五章 覚醒める拳士

第十節 狂犬の心

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 恐らく、“来るな”と言ったのだろう。

 加瀬はいずみを人質に取り、治郎に対して優位になろうとした。
 だが、治郎が島田の暴行に付き合っていたのは、いずみを人質に取られていたからではない。自分の体力が回復し、逆転のチャンスが訪れるのを待っていただけなのだ。

 治郎は島田が落としたナイフを拾うと、雲梯に近付いてゆく。
 加瀬のナイフは、いずみの首筋にあてがわれていた。

「くぅあーっ! きたあ、このおんあをォ、くおすろぉっ!」

 “来るな”
 “来たら、この女を、殺すぞ”

 治郎は聞かずに加瀬に駆け寄り、ナイフを放り投げた。

 いずみの首元で、ナイフとナイフが激突した。
 加瀬は、得物から伝わる意外なくらいの衝撃におののき、いずみから離れた。

 治郎は雲梯に駆け寄ると、いずみの腕が拘束された梯子部分の横を掴みながらジャンプし、靴底を加瀬の顔に打ち込んだ。

 鼻が折れ、残った前歯も吹き飛んでゆく感触が、スニーカー越しに感じられた。

「ひぃ、ひぃーっ!」

 加瀬が、這う這うのていで逃げ出そうとする。
 治郎はその服の襟を掴むと、公園の中心に向かって引っ張り、放り投げた。

 起き上がった加瀬の顔に、ローキックを入れた。
 サングラスが弾けながら、吹き飛んでゆく。

「ゆぅひて……」

 治郎は許さなかった。
 二発目の下段蹴りが、加瀬の頬骨を粉砕した。

「ゆぐひて……うぇぇ……」

 治郎は加瀬の腹に踵を落とした。加瀬が口から、未消化の食べ物を混ぜた黄色い液体を噴く。

 襟を掴んで相手を引き起こすと、顔を殴り付けた。
 左のパンチが、反対側の頬を打つ。
 次は右だ。
 次は左だ。
 右。

 逃がさないとばかりに左手で襟を掴み、右の拳を雨のように降らせた。

 加瀬の頭部が、頸の据わっていない赤ん坊を揺すっているかのように、がくんがくんと前後した。

 治郎は弓矢を引き絞るように右腕を引くと、左手を放しながら加瀬を殴打した。

 脱力した暴力団のチンピラは、地面を二度、三度と転がって、指先を残して動かなくなった。

 治郎はうつ伏せになった加瀬に、五発ばかり踏み下ろしを行なった。

 それでも加瀬が動かないのを見ると、やおら空手衣のズボンの紐をほどき、ボクサーパンツの中から怒張したものを取り出して、小便をし始めた。

 コーラのような茶褐色をしていた。血が混じっているのだ。
 その赤い小便が、加瀬のクリーム色のジャケットに染みを作ってゆく。

 背中を真っ赤に染め抜いてやった治郎は、最後の雫を飛ばしてズボンを穿き直した。

 そして爪先を倒れた加瀬の顔の下に潜り込ませて、持ち上げさせた。
 加瀬の顔と地面の間に空間が出来る。そこで、素早く踵を踏み下ろす心算だった。

「駄目ぇ!」

 いずみの叫びで、治郎はストンピングをやめた。加瀬の頭が、もう一度地面に落ちる。

 治郎はいずみを振り向いた。

「駄目……それ以上は、駄目だよ、治郎……」

 汚されたいずみは、惨めな姿を晒しながら、強い光を湛えた眼で治郎を見つめていた。





 公園の水道で身体を洗ったいずみに、治郎は島田から剥ぎ取った上着を被せてやった。

 本当なら、すぐに店に戻って着替えるべきだとは思ったが、いずみは疲労感からかベンチに腰掛けてしまい、自然とその傍らに治郎も座る事になった。

 暫く二人は沈黙していたが、いずみの方から、口を開いた。

「怖かったでしょう?」
「――」

 治郎は答えなかった。
 それでも、自分の言いたい事が伝わると信じて、いずみは言葉を続けた。

「殺すとか、死ぬとか、そういう言葉を、意思をぶつけられるのって、凄く怖いの。治郎くんには分からなかった? 島田さんがナイフを出した時、腕じゃなくて、首や頭を狙われたらって。加瀬さんのナイフが当てられたのが、私じゃなくて自分だったらって……。だから、駄目よ、あんな事をしちゃ」
「――嫌、だ」
「……治郎くんと、小川さんたちとの間に何があったか知らないけれど、でも、これ以上、復讐だなんて考えちゃ駄目よ。今回は私と、貴方自身だけで済んだけど、若しかしたら貴方の家族や友達が、危険な目に遭わせられるかもしれないわ」
「――か、ぞ、く……」

 治郎は膝の上に置いた手を、ぎゅっと握った。
 後先を考えずに力を込めて、加瀬を殴ったからだろう、その拳の表面がこんもりと腫れ上がっていた。空手胼胝の出来た拳がそうまでなってしまうという事は、感情任せの、正しくないパンチを打ったという事だ。

「家族は、いない……友達、も、いない……」
「――」
「皆が、俺を、莫迦に……する」
「え?」
「勉強が、出来ない……から。スポーツが、下手……だ、から。皆と、仲、良く、出来、ない……から……。巧く、話せな、い、し……歌も、下手、で……絵も、描けない……パソコンを、打つ、のが、出来ない……英語を喋れ、ない……学校に、何を、持って、行けば良いの、か、分からない……」

 治郎は、小さな子供が恐る恐る文字を書き出してゆくように言葉を紡ぎ、頭のキャンパスに書き殴った言葉を引き千切って、放り出すように語った。

「出来る、のは、これだけ、だ……から。これ、だけは、敗けたく、ない……莫迦に、されたく、ない」

 自身の拳を持ち上げて、治郎が言った。
 人が出来る事が、治郎には出来ない。

 でもそれは、構わない。

 けれどそんな自分がやって来た空手で、戦う事で、敗けて、莫迦にされる事だけは許せない。

「強く、なり、たい……」
「――」
「俺を、誰も、莫迦に、出来ない……くらいに、強く、なりたい。俺を、莫迦にする、奴ら、全部、殺して、やれる、くらい、強く……なりたい……!」

 痛め付けられ、蒼黒く腫れ上がった顔を、鬼のように歪めて、治郎は心情を吐露した。

 言葉を使う事が苦手な少年は、心の中の黒々とした願望を、初めて口に出したのだ。

 いずみはそれが、酷く哀しく、重たい決意の表明に思えた。

 他の何ものも要らない。ただ、自分の心を守る為だけに強くなりたい。
 治郎がどのような経緯を辿り、この若さでそうした陰気な決意を胸に宿したのか、いずみには分からない。だがそれが、堪らなく哀切な様子に、いずみの眼には映った。

「治郎くん……!」

 治郎はきっと拒絶するだろう。それが分かっていても、いずみは彼を抱き締めたいと思った。

 その時だ。

「今夜はやけに犬が五月蠅いと思ったら、こういう事か」

 そう言いながら、一人の男が公園にやって来た。紫のサテン生地のシャツを着た男。
 いや、その後ろにもう一人、いる。
 燃え立つようなざんばら髪の、巨大な筋肉を持った男だ。

 治郎はその姿を、忘れようと思っても忘れられない。
 明石雅人だ。

 紫のシャツの男は、桃城であった。

 二人は公園の真ん中まで歩いて来ると、向かい合った。
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