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14話
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「大変ご迷惑をおかけしました」
病み上がりの出勤日、私はオフィスで深々と頭を下げた。
「いやいや、インフルは仕方ないって」
「そうそう、青山さんも鈴木さんもかかって休んでたじゃん。むしろうつされた氷室さんは被害者よ」
幸いにも、休み明けの私に周りの人々は優しかった。
「それにしても、社長ってすごい愛妻家だったんですね。奥さんが心配だから早く帰るって、鬼の形相で仕事を早く終わらせてましたよ~」
からかうように、若手男性社員の山内さんが言った。
「すごかったよね、社長。いつもの倍速で仕事してた」
「穴は開けないところがさすがよねー」
みんなが玲司の愛妻家エピソードで盛り上がるものだから、私はいたたまれない。
でも、ちょっと、いや、かなり嬉しい。そんなにまで私を気にかけてくれていたことが。玲司は普段鉄面皮で感情がわかりにくいけれど、実はとても優しい人なのだと、一緒に暮らしていて思うことが増えた。
きっと、同居している相手が誰であっても、彼はそうやって心配して仕事を早く終わらせるのだろう。そうだとわかっていたとしても、私のためにそうしてくれたことが私にとっては特別だった。
「やだー、氷室さん。照れちゃって。社長が愛妻家なのはみんな承知の上よー」
「ねー」
「や、やめてください……!」
恥ずかしくなって両手を振るけれど、みんなニヤニヤして取り合ってくれない。
と、そこに玲司がやってきた。
「お前ら、余計な話をしていないで仕事しろ」
「今は休憩時間でーす。労働基準法違反はんたーい」
「ばかたれ」
ふざける山内を相手に、玲司は持っていたファイルで頭をゴツンと叩く。
玲司の会社は本当にアットホームで、みんな優秀で仲のいい人たちばかりだ。こうやってふざけているけれど、いざ仕事になるとしっかりしているところもすごいと思う。
私はいい職場を紹介してもらった分恩返しをしようと、休んでいた間に更新された玲司のスケジュールをチェックしたり、会議の資料をバリバリ作ったりして過ごした。
仕事を終えて退勤時間になると、珍しく玲司も同時に仕事を切り上げてきた。
「結衣、一緒に帰るぞ」
「え? あ、はい」
まだ社内だったので口調を私的なものにするべきか悩みながら曖昧な返事をする。
「まだ病み上がりだろ。一人で帰すのは心配だ」
「そんなに過保護にしなくても……」
「過保護じゃない」
玲司は本当に私のことを大切にしてくれている。契約妻とはいえ、同居人として心を砕いてくれているのがわかる。それが嬉しくて、二人で社を出たあと、私は玲司の肘に自らの腕を絡めた。
「? なんだ?」
「ううん。なんでもない」
社のオフィスは自宅マンションから徒歩八分ほどのところにある。玲司が「通勤時間は無駄だ」という信念を持っているために、そのような場所に家を借りたのだという。
たった八分間の、退勤デート。私の頭の中はそんな風に浮かれていた。
その時、不意に後ろから声がかかる。
「兄さん、それに、結衣さん。こんなところで偶然だね」
「祐司?」
そこに居たのは、玲司の弟、祐司だった。
「どうしたんだ、祐司。こんなところで」
「この近くに用があってね。そしたら見覚えのある人影があったものだから。二人とも、ずいぶん仲がいいんだね。腕なんか組んじゃって」
「っ、これは、結衣が……」
祐司がからかうように言うと、玲司は頬を紅潮させて目を逸らした。だが、照れたからといって腕を解くような真似はしない。それがやけに嬉しい。
「奥さんのこと、大切にしてるんだ。意外だよ、兄さんがねぇ」
「意外ってなんだよ」
「元カノのこと酷い捨て方してたじゃん」
祐司は少し嫌味っぽく笑みを浮かべて言った。
その言葉に、ドキッと心臓が跳ねる。玲司の性格と「酷い捨て方」というのはあまり噛み合わない気がするが。
もし、私も「酷い捨て方」をされたら……。立ち直れる気がしない。
「あれは違うだろ」
「俺は兄さんが悪いと思うけどね。勝手なことばかりして、親父たちにも心配かけてたじゃないか」
「それは……! まあいい、路上で言い争うことじゃない」
玲司はうんざりしたような顔で手を振ると、祐司に背を向けた。
「奥さんのことは変な捨て方するなよー!」
祐司は後ろから大きな声で当てつけのように叫ぶ。会食の時は、兄弟仲はさほど悪くなさそうに見えていたけれど、玲司と祐司の関係もどうやら複雑らしい。
「れ、玲司さん、待って!」
早歩きでスタスタと歩いて行く玲司を慌てて追いかける。玲司はスラリと長い脚をしているから、大股で早歩きされるとまるで追いつけない。
「ああ、悪い」
「いえ」
気まずい沈黙が二人の間に降りる。
先ほどの「元カノを酷い捨て方をした話」について聞きたいが、あくまで契約妻の立場でそんなことを根掘り葉掘り聞く権利なんてないような気もする。
「気になるか? さっきの話」
家に帰って、上の空で一緒に夕食を食べていると、玲司が問いかけてきた。
「え!? えっと……その……うん」
「大学時代に長く付き合っていた彼女がいた。だけど、俺が途中で突然起業して、医学部を中退することになって」
「うん、その話は聞いたことある」
「その時に別れたんだ。彼女にちゃんと事情を説明していなかった俺も悪いと思うが、『医者になると思ってたから付き合ってたのに』って言われてな。キレて同棲してた家を真冬に追い出して、そのまま連絡先をブロックした」
「うわぁ。それは彼女も悪い気がするけど……」
なんというか、色々と酷い話だ。確かに真冬に家を追い出すのは良くないかもしれないけれど、医者目当てで付き合ってたと言う彼女も大概だと思う。喧嘩での売り言葉に買い言葉だったのだろうか。
でも、医者になることばかりを両親に期待されて、愛情に乏しい家庭で育った玲司にその言葉はあまりに酷な気がする。
「さっき、弟が言っていた言葉だが」
「え?」
「奥さんのこと変な捨て方するなよ、って奴。契約結婚とはいえ、お前のことは突然追い出したりなんてしないから安心しろ」
「あ……、うん」
私が不安に思っていたこと、伝わっていたんだ。
玲司は一見唯我独尊に見えるけれど、意外と繊細に人のことを見ている。気遣いの人でもあるのだ。
「玲司さんって、優しいよね」
「そうか?」
玲司は照れたように頬を掻きながらそっぽを向いた。
病み上がりの出勤日、私はオフィスで深々と頭を下げた。
「いやいや、インフルは仕方ないって」
「そうそう、青山さんも鈴木さんもかかって休んでたじゃん。むしろうつされた氷室さんは被害者よ」
幸いにも、休み明けの私に周りの人々は優しかった。
「それにしても、社長ってすごい愛妻家だったんですね。奥さんが心配だから早く帰るって、鬼の形相で仕事を早く終わらせてましたよ~」
からかうように、若手男性社員の山内さんが言った。
「すごかったよね、社長。いつもの倍速で仕事してた」
「穴は開けないところがさすがよねー」
みんなが玲司の愛妻家エピソードで盛り上がるものだから、私はいたたまれない。
でも、ちょっと、いや、かなり嬉しい。そんなにまで私を気にかけてくれていたことが。玲司は普段鉄面皮で感情がわかりにくいけれど、実はとても優しい人なのだと、一緒に暮らしていて思うことが増えた。
きっと、同居している相手が誰であっても、彼はそうやって心配して仕事を早く終わらせるのだろう。そうだとわかっていたとしても、私のためにそうしてくれたことが私にとっては特別だった。
「やだー、氷室さん。照れちゃって。社長が愛妻家なのはみんな承知の上よー」
「ねー」
「や、やめてください……!」
恥ずかしくなって両手を振るけれど、みんなニヤニヤして取り合ってくれない。
と、そこに玲司がやってきた。
「お前ら、余計な話をしていないで仕事しろ」
「今は休憩時間でーす。労働基準法違反はんたーい」
「ばかたれ」
ふざける山内を相手に、玲司は持っていたファイルで頭をゴツンと叩く。
玲司の会社は本当にアットホームで、みんな優秀で仲のいい人たちばかりだ。こうやってふざけているけれど、いざ仕事になるとしっかりしているところもすごいと思う。
私はいい職場を紹介してもらった分恩返しをしようと、休んでいた間に更新された玲司のスケジュールをチェックしたり、会議の資料をバリバリ作ったりして過ごした。
仕事を終えて退勤時間になると、珍しく玲司も同時に仕事を切り上げてきた。
「結衣、一緒に帰るぞ」
「え? あ、はい」
まだ社内だったので口調を私的なものにするべきか悩みながら曖昧な返事をする。
「まだ病み上がりだろ。一人で帰すのは心配だ」
「そんなに過保護にしなくても……」
「過保護じゃない」
玲司は本当に私のことを大切にしてくれている。契約妻とはいえ、同居人として心を砕いてくれているのがわかる。それが嬉しくて、二人で社を出たあと、私は玲司の肘に自らの腕を絡めた。
「? なんだ?」
「ううん。なんでもない」
社のオフィスは自宅マンションから徒歩八分ほどのところにある。玲司が「通勤時間は無駄だ」という信念を持っているために、そのような場所に家を借りたのだという。
たった八分間の、退勤デート。私の頭の中はそんな風に浮かれていた。
その時、不意に後ろから声がかかる。
「兄さん、それに、結衣さん。こんなところで偶然だね」
「祐司?」
そこに居たのは、玲司の弟、祐司だった。
「どうしたんだ、祐司。こんなところで」
「この近くに用があってね。そしたら見覚えのある人影があったものだから。二人とも、ずいぶん仲がいいんだね。腕なんか組んじゃって」
「っ、これは、結衣が……」
祐司がからかうように言うと、玲司は頬を紅潮させて目を逸らした。だが、照れたからといって腕を解くような真似はしない。それがやけに嬉しい。
「奥さんのこと、大切にしてるんだ。意外だよ、兄さんがねぇ」
「意外ってなんだよ」
「元カノのこと酷い捨て方してたじゃん」
祐司は少し嫌味っぽく笑みを浮かべて言った。
その言葉に、ドキッと心臓が跳ねる。玲司の性格と「酷い捨て方」というのはあまり噛み合わない気がするが。
もし、私も「酷い捨て方」をされたら……。立ち直れる気がしない。
「あれは違うだろ」
「俺は兄さんが悪いと思うけどね。勝手なことばかりして、親父たちにも心配かけてたじゃないか」
「それは……! まあいい、路上で言い争うことじゃない」
玲司はうんざりしたような顔で手を振ると、祐司に背を向けた。
「奥さんのことは変な捨て方するなよー!」
祐司は後ろから大きな声で当てつけのように叫ぶ。会食の時は、兄弟仲はさほど悪くなさそうに見えていたけれど、玲司と祐司の関係もどうやら複雑らしい。
「れ、玲司さん、待って!」
早歩きでスタスタと歩いて行く玲司を慌てて追いかける。玲司はスラリと長い脚をしているから、大股で早歩きされるとまるで追いつけない。
「ああ、悪い」
「いえ」
気まずい沈黙が二人の間に降りる。
先ほどの「元カノを酷い捨て方をした話」について聞きたいが、あくまで契約妻の立場でそんなことを根掘り葉掘り聞く権利なんてないような気もする。
「気になるか? さっきの話」
家に帰って、上の空で一緒に夕食を食べていると、玲司が問いかけてきた。
「え!? えっと……その……うん」
「大学時代に長く付き合っていた彼女がいた。だけど、俺が途中で突然起業して、医学部を中退することになって」
「うん、その話は聞いたことある」
「その時に別れたんだ。彼女にちゃんと事情を説明していなかった俺も悪いと思うが、『医者になると思ってたから付き合ってたのに』って言われてな。キレて同棲してた家を真冬に追い出して、そのまま連絡先をブロックした」
「うわぁ。それは彼女も悪い気がするけど……」
なんというか、色々と酷い話だ。確かに真冬に家を追い出すのは良くないかもしれないけれど、医者目当てで付き合ってたと言う彼女も大概だと思う。喧嘩での売り言葉に買い言葉だったのだろうか。
でも、医者になることばかりを両親に期待されて、愛情に乏しい家庭で育った玲司にその言葉はあまりに酷な気がする。
「さっき、弟が言っていた言葉だが」
「え?」
「奥さんのこと変な捨て方するなよ、って奴。契約結婚とはいえ、お前のことは突然追い出したりなんてしないから安心しろ」
「あ……、うん」
私が不安に思っていたこと、伝わっていたんだ。
玲司は一見唯我独尊に見えるけれど、意外と繊細に人のことを見ている。気遣いの人でもあるのだ。
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玲司は照れたように頬を掻きながらそっぽを向いた。
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