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第七話 裏門に残された愛の跡
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鶴丸は、焦がれていた。
主君に汚された身と心を、一刻も早く菖蒲の泉で清めたい。あの清らかで、自分だけが知る悦びの源泉に触れ、己を取り戻したい。その一心で、彼は再び、危険を冒して菖蒲との密会を求めた。
菖蒲もまた、彼を待っていた。鶴丸に会えぬ数日間、彼女の心は妙に落ち着かなかった。復讐の道具であるはずの小姓が、いつしか彼女の孤独を埋める、唯一の存在になりつつあることを、認めざるを得なかった──。
その夜の茶室は、これまでになく熱を帯びていた。
再会を喜ぶように、二人は言葉少なに互いを求め、貪るように唇を重ねた。鶴丸は、菖蒲を喜ばせたい、自分の成長した姿を見せたい一心だった。菖蒲に教わった通り、優しく、丁寧に彼女の身体を愛撫していく。菖蒲もまた、その愛撫に身を委ね、甘い吐息を漏らした。
二人の身体が、熱く溶け合っていく。
鶴丸は、菖蒲の乱れる声と、熱に潤んだ瞳を見て、確かな手応えを感じていた。
──もっと、もっと菖蒲様を喜ばせたい。私だけがこの人の全てを味わいたい。
その純粋な想いが、彼に致命的な過ちを犯させた。
快感の頂点へと向かう中で、彼は無意識のうちに、主君に教え込まれた「技」を使ってしまったのだ。尻を打って「泣け」と言った。そして、何度も「そんなに気持ちいいのか、どこがいいんだ、言ってみろ。このスケベ女が」と傲慢な顔で言った。菖蒲が驚いて、その顔を見ると、今度はその頬を手で打って、「さあ言えよ」と言った。
その瞬間、鶴丸と菖蒲の身体が、快感の絶頂で互いが強い熱を帯びた。
しかし菖蒲の全身を貫いたのは、悦びの痺れではない。記憶に刻まれた、屈辱の痛みだった。
この言葉遣い。乱暴な手の打ち方、女を道具としてしか見ない、自分勝手な熱。鶴丸のものではない。
──これは、夫、忠晴その人のもの。
愛しい情夫の腕の中にいながら、憎い夫に抱かれている。そのおぞましい錯覚に、菖蒲の心は絶叫した。
しかし、それがかえって、鶴丸を雄々しくさせていく。教えられた通りにすると、本当に女は気をやるのだと思った。彼は、顔色の悪くなった菖蒲を見ながら、息を荒くして、言った。
「顔は固いが、身体は正直。……関心、関心」
次に彼は、ぐったりと力の抜けた菖蒲から身を離すと、菖蒲の肩を、所有物のように強く掴んだ。そして、彼女の前に、再び自分の腹に当たりそうになるぐらい熱を取り戻したそれを、その顔に向き合わせる。
菖蒲の中に強い憎悪の念が湧いてきた。
──これを面白いと思う女がいるとして、それが目の前の女であるかどうか、それを確かめもせず、ただ聞いたようなことだけをする。
そんな男がどうしても許せなかった。鶴丸の変化に、自分のそうした態度が夫を冷たくさせたのかもしれないと思ったが、それよりも何よりも今のこの状態を生理的に受け止められない、と菖蒲は思った。
快感が、一瞬にして、冷たい灰と化した。
「……やめよ」
その手が、彼の平手打ちよりも強く、鶴丸のそれを強く横から叩いて、顔を背けた。
「あ……菖蒲様? いかがなされました……?」
何が起きたか分からず、戸惑う。鶴丸の顔に浮かぶ純粋な疑問符が、菖蒲の心をさらに逆撫でした。
「下がりおれ。二度と、わたくしの前にその顔を見せるでない」
「な、なぜでございますか!? わたくしは、ただ、奥方様を……」
「……お前は、あの男の匂いがする」
吐き捨てるように言い放ち、菖蒲は乱れた着物を整え、背を向けた。
その背中は、二人の間に、決して越えることのできない壁ができてしまったことを、雄弁に物語っていた──。
その日を境に、鶴丸が菖蒲に会うことは、二度となかった。
そして数週間後、菖蒲の懐妊が、城内に知らされた。
有馬家は、待望の世継ぎの誕生に沸き立った。忠晴も、大役を果たしたとばかりに満足げだった。
菖蒲は、正室としての地位を盤石なものにした。
だが、彼女の胸に、勝利の甘さはない。
腹の子が、鶴丸の子か、忠晴の子か、もはや彼女自身にも分からなかったからだ。
ただ、あの最後の夜の記憶が、生まれてくる子への愛情に、暗い影を落としていた。
鶴丸の運命もまた、狂い始めていく。
菖蒲を失った失意は、彼の容姿から、かつての華やいだ美しさを奪い去った。背が伸び、肩には武家の男らしい筋肉がつき、声も低くなる。その身体つきは、男性的で精悍なものへと成長していた。
それは、もはや忠晴が好む、華奢な少年のものではなかった。
忠晴の鶴丸への寵愛は、急速に冷めていった。
鶴丸が十八になった年の春。
忠晴は、最後の「慈悲」として、鶴丸の元服を取り計らった。自らが烏帽子親となり、彼に「晴行」という新しい名を与えた。それは、表向きには、長年仕えた小姓へのこの上ない名誉であった。
だが、その儀式の場で、忠晴は、鶴丸にとっての死刑宣告を、にこやかに言い渡した。
「大寧寺晴行。そなたも、もう立派な武士じゃ。家を興し、妻を娶らねばなるまい。わしが、良き相手を見つけてやったぞ」
あてがわれたのは、小禄の侍の家に、薬屋から養女になった娘であった。
鶴丸は、祝言の席で、初めてその妻の顔を見た。世間の見る目からいうと、とても容姿を褒められそうにない女だった。忠晴が、自分にもはや何の興味もなくなったことを、そして、これは手切れ金代わりなのだと、鶴丸は悟った。
元服と祝言を終えた鶴丸は、「お役御免」とばかりに、お城から追われるようにして、遠方の小さな地へ送られた。
旅立ちの日。荷をまとめた鶴丸は、馬上の人となり、一度だけ、巨大なお城を振り返った。行き先への道から見えるのは、高い塀に囲まれたその裏門。
裏門塀の向こう、青紫色の屋根瓦に覆われた奥御殿の方角を、ただじっと見つめる。
あの塀の奥に、菖蒲様がいる。
今は、世継ぎの母として、幸せに暮らしているのだろうか。あの夜、なぜ自分は拒絶されたのか。その答えは、永遠に分からない。
男として成長した結果、彼は、愛する女からも、仕える主君からも、捨てられたのだ。
鶴丸だった男──大寧寺晴行は、もう振り返らなかった。
妻となる女が待つ、見知らぬ土地へ。彼の心には、菖蒲に焦がれた記憶だけが、癒えることのない火傷のように、熱く、そして痛々しく、生涯残り続けることになる。
そして菖蒲もまた、腕に抱く世継ぎの顔を見るたびに、あの月の夜に、一人の少年を弄び、そして自らも溺れた、罪深い契りを思い出すのであった。
【終】
主君に汚された身と心を、一刻も早く菖蒲の泉で清めたい。あの清らかで、自分だけが知る悦びの源泉に触れ、己を取り戻したい。その一心で、彼は再び、危険を冒して菖蒲との密会を求めた。
菖蒲もまた、彼を待っていた。鶴丸に会えぬ数日間、彼女の心は妙に落ち着かなかった。復讐の道具であるはずの小姓が、いつしか彼女の孤独を埋める、唯一の存在になりつつあることを、認めざるを得なかった──。
その夜の茶室は、これまでになく熱を帯びていた。
再会を喜ぶように、二人は言葉少なに互いを求め、貪るように唇を重ねた。鶴丸は、菖蒲を喜ばせたい、自分の成長した姿を見せたい一心だった。菖蒲に教わった通り、優しく、丁寧に彼女の身体を愛撫していく。菖蒲もまた、その愛撫に身を委ね、甘い吐息を漏らした。
二人の身体が、熱く溶け合っていく。
鶴丸は、菖蒲の乱れる声と、熱に潤んだ瞳を見て、確かな手応えを感じていた。
──もっと、もっと菖蒲様を喜ばせたい。私だけがこの人の全てを味わいたい。
その純粋な想いが、彼に致命的な過ちを犯させた。
快感の頂点へと向かう中で、彼は無意識のうちに、主君に教え込まれた「技」を使ってしまったのだ。尻を打って「泣け」と言った。そして、何度も「そんなに気持ちいいのか、どこがいいんだ、言ってみろ。このスケベ女が」と傲慢な顔で言った。菖蒲が驚いて、その顔を見ると、今度はその頬を手で打って、「さあ言えよ」と言った。
その瞬間、鶴丸と菖蒲の身体が、快感の絶頂で互いが強い熱を帯びた。
しかし菖蒲の全身を貫いたのは、悦びの痺れではない。記憶に刻まれた、屈辱の痛みだった。
この言葉遣い。乱暴な手の打ち方、女を道具としてしか見ない、自分勝手な熱。鶴丸のものではない。
──これは、夫、忠晴その人のもの。
愛しい情夫の腕の中にいながら、憎い夫に抱かれている。そのおぞましい錯覚に、菖蒲の心は絶叫した。
しかし、それがかえって、鶴丸を雄々しくさせていく。教えられた通りにすると、本当に女は気をやるのだと思った。彼は、顔色の悪くなった菖蒲を見ながら、息を荒くして、言った。
「顔は固いが、身体は正直。……関心、関心」
次に彼は、ぐったりと力の抜けた菖蒲から身を離すと、菖蒲の肩を、所有物のように強く掴んだ。そして、彼女の前に、再び自分の腹に当たりそうになるぐらい熱を取り戻したそれを、その顔に向き合わせる。
菖蒲の中に強い憎悪の念が湧いてきた。
──これを面白いと思う女がいるとして、それが目の前の女であるかどうか、それを確かめもせず、ただ聞いたようなことだけをする。
そんな男がどうしても許せなかった。鶴丸の変化に、自分のそうした態度が夫を冷たくさせたのかもしれないと思ったが、それよりも何よりも今のこの状態を生理的に受け止められない、と菖蒲は思った。
快感が、一瞬にして、冷たい灰と化した。
「……やめよ」
その手が、彼の平手打ちよりも強く、鶴丸のそれを強く横から叩いて、顔を背けた。
「あ……菖蒲様? いかがなされました……?」
何が起きたか分からず、戸惑う。鶴丸の顔に浮かぶ純粋な疑問符が、菖蒲の心をさらに逆撫でした。
「下がりおれ。二度と、わたくしの前にその顔を見せるでない」
「な、なぜでございますか!? わたくしは、ただ、奥方様を……」
「……お前は、あの男の匂いがする」
吐き捨てるように言い放ち、菖蒲は乱れた着物を整え、背を向けた。
その背中は、二人の間に、決して越えることのできない壁ができてしまったことを、雄弁に物語っていた──。
その日を境に、鶴丸が菖蒲に会うことは、二度となかった。
そして数週間後、菖蒲の懐妊が、城内に知らされた。
有馬家は、待望の世継ぎの誕生に沸き立った。忠晴も、大役を果たしたとばかりに満足げだった。
菖蒲は、正室としての地位を盤石なものにした。
だが、彼女の胸に、勝利の甘さはない。
腹の子が、鶴丸の子か、忠晴の子か、もはや彼女自身にも分からなかったからだ。
ただ、あの最後の夜の記憶が、生まれてくる子への愛情に、暗い影を落としていた。
鶴丸の運命もまた、狂い始めていく。
菖蒲を失った失意は、彼の容姿から、かつての華やいだ美しさを奪い去った。背が伸び、肩には武家の男らしい筋肉がつき、声も低くなる。その身体つきは、男性的で精悍なものへと成長していた。
それは、もはや忠晴が好む、華奢な少年のものではなかった。
忠晴の鶴丸への寵愛は、急速に冷めていった。
鶴丸が十八になった年の春。
忠晴は、最後の「慈悲」として、鶴丸の元服を取り計らった。自らが烏帽子親となり、彼に「晴行」という新しい名を与えた。それは、表向きには、長年仕えた小姓へのこの上ない名誉であった。
だが、その儀式の場で、忠晴は、鶴丸にとっての死刑宣告を、にこやかに言い渡した。
「大寧寺晴行。そなたも、もう立派な武士じゃ。家を興し、妻を娶らねばなるまい。わしが、良き相手を見つけてやったぞ」
あてがわれたのは、小禄の侍の家に、薬屋から養女になった娘であった。
鶴丸は、祝言の席で、初めてその妻の顔を見た。世間の見る目からいうと、とても容姿を褒められそうにない女だった。忠晴が、自分にもはや何の興味もなくなったことを、そして、これは手切れ金代わりなのだと、鶴丸は悟った。
元服と祝言を終えた鶴丸は、「お役御免」とばかりに、お城から追われるようにして、遠方の小さな地へ送られた。
旅立ちの日。荷をまとめた鶴丸は、馬上の人となり、一度だけ、巨大なお城を振り返った。行き先への道から見えるのは、高い塀に囲まれたその裏門。
裏門塀の向こう、青紫色の屋根瓦に覆われた奥御殿の方角を、ただじっと見つめる。
あの塀の奥に、菖蒲様がいる。
今は、世継ぎの母として、幸せに暮らしているのだろうか。あの夜、なぜ自分は拒絶されたのか。その答えは、永遠に分からない。
男として成長した結果、彼は、愛する女からも、仕える主君からも、捨てられたのだ。
鶴丸だった男──大寧寺晴行は、もう振り返らなかった。
妻となる女が待つ、見知らぬ土地へ。彼の心には、菖蒲に焦がれた記憶だけが、癒えることのない火傷のように、熱く、そして痛々しく、生涯残り続けることになる。
そして菖蒲もまた、腕に抱く世継ぎの顔を見るたびに、あの月の夜に、一人の少年を弄び、そして自らも溺れた、罪深い契りを思い出すのであった。
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