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【第二部】秘密の授業
先生の顔みたい
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あれから三日後の、平日の午前十時。
英恵が「今日はパートの後、娘と児童館に寄ってから帰るね」と、出かけていった。
家が静寂に包まれてから数分後、インターホンが鳴る。
浩一がドアを開けると、そこには先日とは違い、白いブラウスにダークブルーのミモレ丈スカートという清潔感のある服装の芽衣が立っていた。
その手には、使い古されたスケッチブックとノートが握られている。
「……おはようございます。お願いします」
「どうぞ」
リビングに通すと、芽衣は作業デスクの前に立ち、緊張した面持ちで浩一を見つめた。
「芽衣さん、確か……学生の頃までアナログでやっていて、大人になってからデジタルでやろうとして、挫折したんですよね」
「はい……用語がたくさんあって、アイコンも難しくて……なかなか、入り込めなくて」
浩一は、プロのイラストレーターらしい顔で答える。
「では道具に慣れることからスタートしましょう。アナログとは勝手が違うので」
浩一は、自分のメイン機の隣に設置した予備の液晶タブレットの電源を入れた。
画面に白いキャンバスが映し出される。
「……これが全部、絵の具なんですね」
画面端のカラーパレットを見て、芽衣が隣の浩一の耳元で尋ねた。
「そうです。デジタルは『やり直し』が利くのが最大のメリットです。まずはレイヤーの概念から」
浩一は下書き用のレイヤー、色を塗るレイヤー、効果を加えるレイヤーを実際に作って見せる。
芽衣は浩一が用意したノートに、真剣な形相でペンを走らせていた。
「ペンも種類が多い。Gペン、丸ペン、水彩筆……全部シミュレートできる。大事なのは筆圧感知。……ちょっと描いてみて」
浩一は椅子を譲る。
芽衣は恐る恐るペンを握り、画面に線を引こうとする。だが、その手は緊張でこわばり、線は震えていた。
「力が入りすぎてるね」
浩一は彼女の背後に立った。
「ペンを紙に押し付けるようにしなくていい。画面を『撫でる』感覚で。手首じゃなく、肘から先を大きく動かすといいかな」
芽衣は頷き、深呼吸を一つして、線を引く。
今度は、滑らかな曲線が描けた。
「理想的な動きだね。飲み込みが早い」
浩一の声は、教師のものだった。
その後、ショートカットキーの使い方、色の混ぜ方、アンドゥとリドゥの注意点など、浩一はデジタル作画の基礎的な機器の使用法を指導していった。
芽衣も学生時代に美術大学を目指しており、イラスト関連の雑誌を愛読するだけあって、吸収はとても早い。
一時間ほど経ち、浩一は指導用のペンを置いた。
「基本的な使い方はこんなところです。あとは、とにかく触って慣れるしかない」
「はい……!」
「それで、芽衣さん」
「……?」
「次に会うまでに、何か一つ、作品を描いてきてください。このタブレットはしばらく貸しますから」
「えっ、でも、何を……」
「テーマは任せます。風景でも、人物でも、抽象的なものでもいい。あなたが今、何を描きたいのか、僕に見せてほしい」
プロからの、初めての「宿題」。
芽衣の顔が、不安とそれを上回る喜びで赤く染まった。
「……わかりました。やってみます」
芽衣は深々と頭を下げ、機材の電源を落とし始めた。
レッスンは終わった。
緊張が解け、空気がわずかに緩む。
「あ、ありがとうございます……」
芽衣は、恥ずかしそうに頭を下げる。
そして、目を逸らしながら微笑んでいる。
浩一は、彼女の腕を静かに掴んだ。
芽衣は顔を上げて、浩一の目を見た。
そこにいたのは「講師」の顔ではなく、あの畳の上で自分を求めた「男」の顔だった。
浩一は、芽衣の返事を待たず、その手首を引いた。
向かう先は、リビングの隣。襖を開ければ、三日前の二人の熱が残っているかのような薄暗い和室。
芽衣はその腕に絡みつき、彼の顔を見上げる。
浩一はこれまでにない、優しい笑顔を向けた。
(……先生の顔、みたい)
これまで二度、身体を重ねた時は、ただの男と女であった。それが今は、教師と生徒というべき関係が加わり、先生に求められる新たな背徳感が、彼女の中に芽生え始めていた。
布団の上に倒されながら、芽衣は言った。
「出光……先生、私……」
その先の言葉は彼の唇に塞がれた。
唇が離れると、「僕は先生なんかじゃない」と言いながら、ブラウスの上から芽衣の薄い胸に手を伸ばした。
「でも、先生って呼びたい」
芽衣の声は、彼の熱い抱擁で震えた。
英恵が「今日はパートの後、娘と児童館に寄ってから帰るね」と、出かけていった。
家が静寂に包まれてから数分後、インターホンが鳴る。
浩一がドアを開けると、そこには先日とは違い、白いブラウスにダークブルーのミモレ丈スカートという清潔感のある服装の芽衣が立っていた。
その手には、使い古されたスケッチブックとノートが握られている。
「……おはようございます。お願いします」
「どうぞ」
リビングに通すと、芽衣は作業デスクの前に立ち、緊張した面持ちで浩一を見つめた。
「芽衣さん、確か……学生の頃までアナログでやっていて、大人になってからデジタルでやろうとして、挫折したんですよね」
「はい……用語がたくさんあって、アイコンも難しくて……なかなか、入り込めなくて」
浩一は、プロのイラストレーターらしい顔で答える。
「では道具に慣れることからスタートしましょう。アナログとは勝手が違うので」
浩一は、自分のメイン機の隣に設置した予備の液晶タブレットの電源を入れた。
画面に白いキャンバスが映し出される。
「……これが全部、絵の具なんですね」
画面端のカラーパレットを見て、芽衣が隣の浩一の耳元で尋ねた。
「そうです。デジタルは『やり直し』が利くのが最大のメリットです。まずはレイヤーの概念から」
浩一は下書き用のレイヤー、色を塗るレイヤー、効果を加えるレイヤーを実際に作って見せる。
芽衣は浩一が用意したノートに、真剣な形相でペンを走らせていた。
「ペンも種類が多い。Gペン、丸ペン、水彩筆……全部シミュレートできる。大事なのは筆圧感知。……ちょっと描いてみて」
浩一は椅子を譲る。
芽衣は恐る恐るペンを握り、画面に線を引こうとする。だが、その手は緊張でこわばり、線は震えていた。
「力が入りすぎてるね」
浩一は彼女の背後に立った。
「ペンを紙に押し付けるようにしなくていい。画面を『撫でる』感覚で。手首じゃなく、肘から先を大きく動かすといいかな」
芽衣は頷き、深呼吸を一つして、線を引く。
今度は、滑らかな曲線が描けた。
「理想的な動きだね。飲み込みが早い」
浩一の声は、教師のものだった。
その後、ショートカットキーの使い方、色の混ぜ方、アンドゥとリドゥの注意点など、浩一はデジタル作画の基礎的な機器の使用法を指導していった。
芽衣も学生時代に美術大学を目指しており、イラスト関連の雑誌を愛読するだけあって、吸収はとても早い。
一時間ほど経ち、浩一は指導用のペンを置いた。
「基本的な使い方はこんなところです。あとは、とにかく触って慣れるしかない」
「はい……!」
「それで、芽衣さん」
「……?」
「次に会うまでに、何か一つ、作品を描いてきてください。このタブレットはしばらく貸しますから」
「えっ、でも、何を……」
「テーマは任せます。風景でも、人物でも、抽象的なものでもいい。あなたが今、何を描きたいのか、僕に見せてほしい」
プロからの、初めての「宿題」。
芽衣の顔が、不安とそれを上回る喜びで赤く染まった。
「……わかりました。やってみます」
芽衣は深々と頭を下げ、機材の電源を落とし始めた。
レッスンは終わった。
緊張が解け、空気がわずかに緩む。
「あ、ありがとうございます……」
芽衣は、恥ずかしそうに頭を下げる。
そして、目を逸らしながら微笑んでいる。
浩一は、彼女の腕を静かに掴んだ。
芽衣は顔を上げて、浩一の目を見た。
そこにいたのは「講師」の顔ではなく、あの畳の上で自分を求めた「男」の顔だった。
浩一は、芽衣の返事を待たず、その手首を引いた。
向かう先は、リビングの隣。襖を開ければ、三日前の二人の熱が残っているかのような薄暗い和室。
芽衣はその腕に絡みつき、彼の顔を見上げる。
浩一はこれまでにない、優しい笑顔を向けた。
(……先生の顔、みたい)
これまで二度、身体を重ねた時は、ただの男と女であった。それが今は、教師と生徒というべき関係が加わり、先生に求められる新たな背徳感が、彼女の中に芽生え始めていた。
布団の上に倒されながら、芽衣は言った。
「出光……先生、私……」
その先の言葉は彼の唇に塞がれた。
唇が離れると、「僕は先生なんかじゃない」と言いながら、ブラウスの上から芽衣の薄い胸に手を伸ばした。
「でも、先生って呼びたい」
芽衣の声は、彼の熱い抱擁で震えた。
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