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【第二部】秘密の授業
英恵に言えない秘密
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秘密のレッスンが始まってから、二週間が過ぎた。
浩一と芽衣の関係は、平日の昼間、英恵が家を空けるわずかな時間を盗んで、幾度も重ねられていた。
そして、土曜日の夜。
娘はすでに寝息を立て、リビングでは浩一が作業デスクの片付けをしていた。英恵が「お疲れ様」と、マグカップに入れたコーヒーを差し出す。
「ああ、ありがとう」
結婚して六年。
娘という存在が加わったことを除けば、特に変化のない夫婦の時間だった。
(いや、変わったところもある)
恋人時代、新婚時代と違って、今はもう昔ほどの強い接触はあまりない。
ちょっとした倦怠感、娘への遠慮、親しくなりすぎたがための性的ではない家族感──これら様々な要素が重なって、二人の関係は「男女らしさ」から、「夫婦らしさ」に落ち着いていた。
だが、二人の関係性はそうなってしまったが、彼の生物としての機能や本能は、変わっていない。
「ねえ、あなた」
英恵が、ソファに座りながら楽しそうに切り出した。
「今日、パートの帰りに芽衣ちゃんに会ったよ」
「……へえ」
浩一は、マグカップを持つ手に一瞬だけ力がこもるのを自覚し、それを隠すように一口飲んだ。
「芽衣ちゃんね、昔みたいにまた絵を描き始めたんだって!」
「……そうなんだ」
「そうなのよ! 育児でそんな余裕ないんじゃないと思ってたけど、すごいよね。やっぱり絵が好きなんだね」
英恵は、自分のことのように嬉しそうだ。
彼女は昔から、この出光家を中心としたママ友コミュニティの「陽」の中心だった。
特に芽衣に対しては、内向的で夫が単身赴任中ということもあり、妹のように何かと気にかけている。
「独学で、頑張ってるみたいよ。昔、美大目指してたもんね、あの子」
「……ああ、そんなことも言ってたかな」
浩一は曖昧に相槌を打つ。
(独学、か)
芽衣が英恵にそう嘘をついたこと、そして英恵がそれを純粋に信じている事実に、浩一は背徳的な気持ちに襲われた。
(僕たちは、英恵に言えない秘密を共有している)
「あなたもさ、昔はよく徹夜して描いてたじゃない。結婚する前とか」
「……仕事だからな。夢中で描いてるだけじゃ食っていけないだろ」
浩一はぶっきらぼうに答えた。
これが、浩一と英恵の間の見えない溝だった。
浩一は英恵の快活さ、裏表のない性格、そして豊かなその身体に惹かれて結婚した。
だが、人間個人の内面や趣味には、互いにあまり関心がなかった。
彼の趣味、仕事、思想は、彼のもの。彼女のそれも、彼女のもの。
もちろん英恵は、浩一の「作品」そのものにも、本質的な興味を示さない。
彼女にとって浩一の絵は、あくまで「生活の糧」を生み出す「技術」だった。
そのことに、浩一は小さな孤独感を抱えていた。
「あ、そうだ!」
英恵が手を叩いた。
「今度、あなたが見てあげたらどう? 『オイルマン先生』直々のプロのアドバイス!」
「……よせよ。ジャンルも違うだろうし、素人の他人に教えるのは面倒だ」
浩一はまるで真実を知っているかのような妻の提案に、わざと冷たく返した。
「えー、ケチ。芽衣ちゃん、昔からあなたのこと尊敬してたのに。『浩一さんの描く光の表現が好き』って、雑誌見ながらよく言ってたよ」
「……そうだったのか」
それは初耳だった。
妻の友人である芽衣が、そんな専門的な視点で自分の絵を見ていたとは。
(だから、あの日……)
ここで、初めて二人きりになったあの日、芽衣が自分の作品のイラストに目を輝かせた瞬間を思い出す。
でも、あの時、芽衣は彼が『オイルマン』名義で仕事をしていることを知らず、どんな作品を描いているかも知らない様子だった。
「もしかして、僕が『オイルマン』だって、教えた?」
「うん。かなり前に。何か……いけなかった?」
英恵は軽く首を傾げながら、問い返した。
あの時の芽衣の目は、自分の才能を純粋に映し出す鏡のように見えた。
「わたし、口が軽いところあるからな。あはは。芽衣ちゃんも『まだ恥ずかしいから、英恵ちゃんからも内緒にしといて』って、顔を真っ赤にしてたのに、つい喋っちゃってるね」
英恵は屈託なく笑う。
彼女は、自分に秘密がないものだから、他人の秘密に無頓着で、そういうところは前々から少し苦手だった。
妻は、自分の夫が、自分の親友に絵の描き方を指導して、しかも、すぐ隣の和室で日々、肌を重ねているなどとは、夢にも思っていない。
「……まあ、本人が独学でやりたいなら、それでいいんじゃないか。下手に口を出すことでもないだろ」
「それもそうね。じゃあ、私は応援に徹しよっと! あの子、真面目で一途なところがあるから、きっとすぐに上達すると思うわ」
浩一は、何も知らないで微笑む妻の顔から目をそらし、コーヒーを飲み干した。
次の火曜日、英恵は午前中、パートで不在だ。
浩一は、すでに芽衣にそのことを連絡してある。
浩一と芽衣の関係は、平日の昼間、英恵が家を空けるわずかな時間を盗んで、幾度も重ねられていた。
そして、土曜日の夜。
娘はすでに寝息を立て、リビングでは浩一が作業デスクの片付けをしていた。英恵が「お疲れ様」と、マグカップに入れたコーヒーを差し出す。
「ああ、ありがとう」
結婚して六年。
娘という存在が加わったことを除けば、特に変化のない夫婦の時間だった。
(いや、変わったところもある)
恋人時代、新婚時代と違って、今はもう昔ほどの強い接触はあまりない。
ちょっとした倦怠感、娘への遠慮、親しくなりすぎたがための性的ではない家族感──これら様々な要素が重なって、二人の関係は「男女らしさ」から、「夫婦らしさ」に落ち着いていた。
だが、二人の関係性はそうなってしまったが、彼の生物としての機能や本能は、変わっていない。
「ねえ、あなた」
英恵が、ソファに座りながら楽しそうに切り出した。
「今日、パートの帰りに芽衣ちゃんに会ったよ」
「……へえ」
浩一は、マグカップを持つ手に一瞬だけ力がこもるのを自覚し、それを隠すように一口飲んだ。
「芽衣ちゃんね、昔みたいにまた絵を描き始めたんだって!」
「……そうなんだ」
「そうなのよ! 育児でそんな余裕ないんじゃないと思ってたけど、すごいよね。やっぱり絵が好きなんだね」
英恵は、自分のことのように嬉しそうだ。
彼女は昔から、この出光家を中心としたママ友コミュニティの「陽」の中心だった。
特に芽衣に対しては、内向的で夫が単身赴任中ということもあり、妹のように何かと気にかけている。
「独学で、頑張ってるみたいよ。昔、美大目指してたもんね、あの子」
「……ああ、そんなことも言ってたかな」
浩一は曖昧に相槌を打つ。
(独学、か)
芽衣が英恵にそう嘘をついたこと、そして英恵がそれを純粋に信じている事実に、浩一は背徳的な気持ちに襲われた。
(僕たちは、英恵に言えない秘密を共有している)
「あなたもさ、昔はよく徹夜して描いてたじゃない。結婚する前とか」
「……仕事だからな。夢中で描いてるだけじゃ食っていけないだろ」
浩一はぶっきらぼうに答えた。
これが、浩一と英恵の間の見えない溝だった。
浩一は英恵の快活さ、裏表のない性格、そして豊かなその身体に惹かれて結婚した。
だが、人間個人の内面や趣味には、互いにあまり関心がなかった。
彼の趣味、仕事、思想は、彼のもの。彼女のそれも、彼女のもの。
もちろん英恵は、浩一の「作品」そのものにも、本質的な興味を示さない。
彼女にとって浩一の絵は、あくまで「生活の糧」を生み出す「技術」だった。
そのことに、浩一は小さな孤独感を抱えていた。
「あ、そうだ!」
英恵が手を叩いた。
「今度、あなたが見てあげたらどう? 『オイルマン先生』直々のプロのアドバイス!」
「……よせよ。ジャンルも違うだろうし、素人の他人に教えるのは面倒だ」
浩一はまるで真実を知っているかのような妻の提案に、わざと冷たく返した。
「えー、ケチ。芽衣ちゃん、昔からあなたのこと尊敬してたのに。『浩一さんの描く光の表現が好き』って、雑誌見ながらよく言ってたよ」
「……そうだったのか」
それは初耳だった。
妻の友人である芽衣が、そんな専門的な視点で自分の絵を見ていたとは。
(だから、あの日……)
ここで、初めて二人きりになったあの日、芽衣が自分の作品のイラストに目を輝かせた瞬間を思い出す。
でも、あの時、芽衣は彼が『オイルマン』名義で仕事をしていることを知らず、どんな作品を描いているかも知らない様子だった。
「もしかして、僕が『オイルマン』だって、教えた?」
「うん。かなり前に。何か……いけなかった?」
英恵は軽く首を傾げながら、問い返した。
あの時の芽衣の目は、自分の才能を純粋に映し出す鏡のように見えた。
「わたし、口が軽いところあるからな。あはは。芽衣ちゃんも『まだ恥ずかしいから、英恵ちゃんからも内緒にしといて』って、顔を真っ赤にしてたのに、つい喋っちゃってるね」
英恵は屈託なく笑う。
彼女は、自分に秘密がないものだから、他人の秘密に無頓着で、そういうところは前々から少し苦手だった。
妻は、自分の夫が、自分の親友に絵の描き方を指導して、しかも、すぐ隣の和室で日々、肌を重ねているなどとは、夢にも思っていない。
「……まあ、本人が独学でやりたいなら、それでいいんじゃないか。下手に口を出すことでもないだろ」
「それもそうね。じゃあ、私は応援に徹しよっと! あの子、真面目で一途なところがあるから、きっとすぐに上達すると思うわ」
浩一は、何も知らないで微笑む妻の顔から目をそらし、コーヒーを飲み干した。
次の火曜日、英恵は午前中、パートで不在だ。
浩一は、すでに芽衣にそのことを連絡してある。
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