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【第三部】共鳴と模倣
彼女はペンを握った
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深夜二時。
六畳の寝室には、一歳になったばかりの息子が、ベビーベッドですうすうと眠っていた。
如月芽衣は、その隣で折りたたみテーブルを広げ、借り物の液晶タブレットの電源を入れた。
画面の白い光が、暗闇の中で彼女の顔だけを青白く照らし出す。
夫は、遠い赴任先にいる。
今月も、通帳には無機質な数字で「生活費」が振り込まれていた。
それは命綱であると同時に、芽衣をこの狭い部屋に縛り付ける鎖のようにも感じられた。
(私は、このまま……)
息子の母親。夫の妻。そして、英恵の友人。
英恵は太陽のような人だ。
快活で、誰からも好かれ、自信に満ちている。
彼女の隣にいると、自分が日陰の存在であるかのように感じられた。
特に劣等感を抱いているつもりはなかった。
けれども、彼女の夫が、ずっと自分が慕い続けていたイラストレーター『オイルマン』だと知った時、彼女の中に小さく隠れていた黒い感情が走り始めた。
そして今は、自分を止められず、計画的に彼女の夫を奪ってしまっている罪悪感。
(後悔はある……。でも、もし時間が戻っても、私はきっと同じことをする)
憧れの人との関係の深化は、普通なら自尊心を高めるものだが、彼女の場合、誇らしさよりも強い後ろめたさが先に立ち、その重みが本来ならスラリと伸びて、高貴ささえ思わせる芽衣の背中を丸くする。
(浩一さん……出光先生……)
彼との「レッスン」を思い出す。古びた和室の書斎の薄闇。そこで彼が男として、本能を屹立させて、肌を焦がすような熱を彼女に押し入れてきた。
彼は、芽衣の中に眠っていた「女」と「資質」を、同時に見つけ出してくれた。
彼の「コピー」になることは、至上の喜びだった。
彼の技術を、彼の癖を、遠慮なく吸収していく。
その特権性を得られたことが、何よりも幸せに感じられた。
だが、あの日、布団の中で言われた言葉が蘇る。
『君なら、プロになれるよ』
嬉しかった。けれど、同時に恐怖が走った。
(先生のコピーのままでしかない私が、プロに?)
それは結局、浩一の「作品」の一つでしかないのではないか。
彼に依存し、彼の才能の一部として生きるだけ。
それは、生活費を夫に依存している今の状況と、何が違うのだろう。
芽衣は、ブラウザを開いた。
あの日、見つけた企業キャラクターデザイン公募のページ。
『最優秀賞 賞金300万』
その金額が、いやらしいほど現実的に芽衣の心を揺さぶった。
これがあれば、少しだけ自立できる。
彼女は無意識のうちに猫背になってしまう自分を変えたいと思っていた。
夫に、そして英恵に対しても、胸を張って向き合っていきたい。
(……描こう!)
浩一の技術を使って、浩一ではない「私」が描きたい。
彼女はペンを握った。
テーマは『森の癒しと生命力』。
浩一に教わった通り、光のレイヤーを重ねる。輪郭線を、彼のように淡く溶かす。
だが、描けば描くほど、それは「オイルマン」の模倣品にしか見えなかった。
(……違う、これじゃない)
深夜の孤独な作業。焦りだけが募る。
ふと、ペンを止め、タブレットに映る自分の顔を見た。
疲れ切った「母親」の顔。
その瞳の奥に、和室で浩一に見せる、熱に潤んだ「女」の顔が重なっていく。
(……これ、今の私にはこれしか、ない)
描き上げた子鹿の「瞳」を、一度すべて消去した。
そして、芽衣は描き直す。
無垢な生命力を装いながら、その奥に浩一だけが知っている孤独と、彼によって引きずり出された情熱を注ぎ込んだ。
それは、先生の技術を使いながら、先生には決して描けない、芽衣だけの「告白」だった。
浩一に隠して応募することへの背徳感が、興奮となって指先を震わせた。
これは裏切りかもしれない──それでも、そうでなければ、私は私になれない。
作品を完成させると、ペンネームの欄に、彼女は指を走らせる。
その名は『イグニス』、ラテン語で『炎』。
あの人が点けてくれた炎。
けれど、もうこれは私だけの炎。
「ごめんなさい、先生。そして……ごめんなさい、英恵さん」
小さく呟き、芽衣は震える指で、「データを送信する」のボタンをクリックした。
六畳の寝室には、一歳になったばかりの息子が、ベビーベッドですうすうと眠っていた。
如月芽衣は、その隣で折りたたみテーブルを広げ、借り物の液晶タブレットの電源を入れた。
画面の白い光が、暗闇の中で彼女の顔だけを青白く照らし出す。
夫は、遠い赴任先にいる。
今月も、通帳には無機質な数字で「生活費」が振り込まれていた。
それは命綱であると同時に、芽衣をこの狭い部屋に縛り付ける鎖のようにも感じられた。
(私は、このまま……)
息子の母親。夫の妻。そして、英恵の友人。
英恵は太陽のような人だ。
快活で、誰からも好かれ、自信に満ちている。
彼女の隣にいると、自分が日陰の存在であるかのように感じられた。
特に劣等感を抱いているつもりはなかった。
けれども、彼女の夫が、ずっと自分が慕い続けていたイラストレーター『オイルマン』だと知った時、彼女の中に小さく隠れていた黒い感情が走り始めた。
そして今は、自分を止められず、計画的に彼女の夫を奪ってしまっている罪悪感。
(後悔はある……。でも、もし時間が戻っても、私はきっと同じことをする)
憧れの人との関係の深化は、普通なら自尊心を高めるものだが、彼女の場合、誇らしさよりも強い後ろめたさが先に立ち、その重みが本来ならスラリと伸びて、高貴ささえ思わせる芽衣の背中を丸くする。
(浩一さん……出光先生……)
彼との「レッスン」を思い出す。古びた和室の書斎の薄闇。そこで彼が男として、本能を屹立させて、肌を焦がすような熱を彼女に押し入れてきた。
彼は、芽衣の中に眠っていた「女」と「資質」を、同時に見つけ出してくれた。
彼の「コピー」になることは、至上の喜びだった。
彼の技術を、彼の癖を、遠慮なく吸収していく。
その特権性を得られたことが、何よりも幸せに感じられた。
だが、あの日、布団の中で言われた言葉が蘇る。
『君なら、プロになれるよ』
嬉しかった。けれど、同時に恐怖が走った。
(先生のコピーのままでしかない私が、プロに?)
それは結局、浩一の「作品」の一つでしかないのではないか。
彼に依存し、彼の才能の一部として生きるだけ。
それは、生活費を夫に依存している今の状況と、何が違うのだろう。
芽衣は、ブラウザを開いた。
あの日、見つけた企業キャラクターデザイン公募のページ。
『最優秀賞 賞金300万』
その金額が、いやらしいほど現実的に芽衣の心を揺さぶった。
これがあれば、少しだけ自立できる。
彼女は無意識のうちに猫背になってしまう自分を変えたいと思っていた。
夫に、そして英恵に対しても、胸を張って向き合っていきたい。
(……描こう!)
浩一の技術を使って、浩一ではない「私」が描きたい。
彼女はペンを握った。
テーマは『森の癒しと生命力』。
浩一に教わった通り、光のレイヤーを重ねる。輪郭線を、彼のように淡く溶かす。
だが、描けば描くほど、それは「オイルマン」の模倣品にしか見えなかった。
(……違う、これじゃない)
深夜の孤独な作業。焦りだけが募る。
ふと、ペンを止め、タブレットに映る自分の顔を見た。
疲れ切った「母親」の顔。
その瞳の奥に、和室で浩一に見せる、熱に潤んだ「女」の顔が重なっていく。
(……これ、今の私にはこれしか、ない)
描き上げた子鹿の「瞳」を、一度すべて消去した。
そして、芽衣は描き直す。
無垢な生命力を装いながら、その奥に浩一だけが知っている孤独と、彼によって引きずり出された情熱を注ぎ込んだ。
それは、先生の技術を使いながら、先生には決して描けない、芽衣だけの「告白」だった。
浩一に隠して応募することへの背徳感が、興奮となって指先を震わせた。
これは裏切りかもしれない──それでも、そうでなければ、私は私になれない。
作品を完成させると、ペンネームの欄に、彼女は指を走らせる。
その名は『イグニス』、ラテン語で『炎』。
あの人が点けてくれた炎。
けれど、もうこれは私だけの炎。
「ごめんなさい、先生。そして……ごめんなさい、英恵さん」
小さく呟き、芽衣は震える指で、「データを送信する」のボタンをクリックした。
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