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【第四部】炎上、そして爆発
捨てアカウント
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英恵はスマートフォンの画面に表示された、悪意に満ちたトレンドワードを指差した。
「そうみたいだな」
浩一の声は、自分でも驚くほど硬かった。
「デマよね? 芽衣ちゃんがパクリとか、あなたがゴーストとか」
英恵の目に疑心はなく、むしろ夫の気持ちが乱れていないかを心配するような声だった。
「最近ネットじゃ剽窃問題が話題だからな。新しい標的を求めて騒いでるだけだ。こういうのはすぐに落ち着く」
浩一は、努めて冷静に答えた。
「でも、芽衣ちゃん、大丈夫かしら。ちょっとわたし、今からあの子のところに……」
「やめておけ」
浩一は、英恵が芽衣に連絡しようとするのを制した。
「こういうのは下手に動かない方がいい。主催企業の広報がプロと相談して正式な声明を出すはずだから、それまで黙って見ておくのが最善だよ」
それはプロとしての冷静な判断であるかのように聞こえた。だが、英恵には、その態度がどこか他人事のように、冷たく響いた。
「……わかった。あなたがそう言うなら、待ってみる」
この問題は、おそらく浩一に実害は及ばない。
これはあくまで、イグニスだけの問題に落ち着くはず。
だから夫は冷静でいられるのだと、英恵は思った。
しかし、それでは芽衣がどうなっていくのか、わからない。オイルマンの作品は、書籍でもネットでも簡単に触れられる。
もしも彼女が、オイルマンの画風を悪意なく、無意識に模倣していたとしたら……?
むしろ逆に、彼女が野心的に意識的にそうしたのだとしても、絶望に打ちひしがれる芽衣の顔を想像するのは、英恵にとって耐えがたい苦痛だった。
「……パート、行ってくるね」
「ああ……」
浩一は、妻が素直に引き下がったことに、わずかな安堵と、説明しきれない違和感を覚えた。
だが、英恵はパート先に向かう電車の吊り革に掴まりながら、再びスマートフォンでSNSを開いていた。
イグニスへの疑惑は、燎原の炎のように広がり始めていた。
明らかな、炎上の気配。
特に、関心の薄い中立層は「何となくクロ」と思い込み、「ひどいね」「今回、当選しなかったあの人が可哀想」などと消極的な批判を投稿して、それを見た人が疑惑を確報と思い込み、敵意を拡散していく。
(浩一は「待て」と言ったけど、このままじゃ芽衣ちゃんが潰されてしまう)
夫は自分の保身だけを考えているのかもしれない。
(彼は、わたしに関心がないみたいに、あの子にも大した興味がないんだ。だから、平気な顔をしていられる)
かといって、オイルマンの家族であり、イグニスの友人でもあるわたしが表立って擁護したら、ますます誤解が強くなり、火に油を注ぐことになりかねない。
電車に揺られながら、熟考した。
今、必要なのは客観的な視点から、冷静に「作品」を評価する声だ。
彼女は、「捨てアカウント」をその場で作成する。
英恵は、最も拡散されている「比較画像」のポストに、慎重に言葉を選んで、引用付のリプライを送った。
あくまで冷静な、第三者の美術愛好家を装った。
『わたしもオイルマン氏のファンとして、このイグニス氏の作品に、オイルマン氏の影響があることは否定できません。しかし、そこには独自の作家性を感じます。これを「パクリ」と断罪するのは早計ではないでしょうか。才能ある新人を憶測で潰すべきではないと思います』
その投稿は狙い通り、いくつかの「good!」を獲得し始めた。
もちろん、たった一つの投稿で流れは変えられない。
英恵は過去に作成して、使わなくなったメールを動員して、新しいアカウントを複数作成し、そこからも援護射撃を繰り返した。
『こういう意見もある。みんな、いつも簡単に騒ぎすぎでは?』
『イグニスはオイルマンそっくりだが、オイルマンなら描かないテーマだ。それにこの子鹿、妙にかわいい』
これらの投稿は、それまでイグニス批判を投稿していたアカウントを嫌うインフルエンサーにも「こちらの方と同意見です。煽動者はいつも同じ顔をしている」とする引用コメント付の投稿がなされ、拡散され始めた。
ここから「何となくクロ」の投稿をしていた人々の反応が変化していく。
『先ほどの投稿は、よく事実を確認しないで行ってしまった』
『公式の企業コメントを待つまで沈黙するべきだ』
『似てはいるけれど、事情があるかもしれない。身内とか師弟であったとしたら、何もおかしくない』
感情的な投稿が落ち着いていく。
それを見た英恵が安堵して電車を降り、職場に入った数十分後──。
ある一群の投稿が、その擁護の空気を一変させた。
『ちょっと待って。今、急に「冷静な第三者」みたいな擁護垢が湧いてるけど、こいつら全部、捨てアカでしょ? アイコンも初期設定のままだし』
『しかも、擁護の論点が口裏を合わせたように似通ってる』
『これ、関係者が複数人で組織的に「火消し工作」を始めたんじゃないか?』
安心した英恵が、いつものようにパートの仕事をテキパキと進めて、これまでと変わらない日常を過ごしている間に、流れは以前にも増して、熱を増していった。
『捨て垢で擁護って、身バレしたくない関係者で確定だね』
『証拠がなければ大丈夫って考えてるのかな。だとしたら、イグニス本人っぽいな』
『冷静になれと言われて、冷静になったら、クロ確定とわかりました』
英恵の熟慮と覚悟は、最悪の形で裏目に出た。
しかも、彼女の投稿に賛意を寄せたインフルエンサーも、何事もなかったかのようにその投稿を削除していた。
炎上は「パクリ疑惑」から、「関係者による組織的な隠蔽工作疑惑」へと変化していく。
パートを終えて、帰りの電車の中でスマートフォンを開いた英恵は、血の気が引いていくのを感じた。
(芽衣ちゃん、ごめん。わたし、失敗したかも……)
彼女の善意が意図せずして、芽衣を更なる窮地に追い込んでいたのだ。
「そうみたいだな」
浩一の声は、自分でも驚くほど硬かった。
「デマよね? 芽衣ちゃんがパクリとか、あなたがゴーストとか」
英恵の目に疑心はなく、むしろ夫の気持ちが乱れていないかを心配するような声だった。
「最近ネットじゃ剽窃問題が話題だからな。新しい標的を求めて騒いでるだけだ。こういうのはすぐに落ち着く」
浩一は、努めて冷静に答えた。
「でも、芽衣ちゃん、大丈夫かしら。ちょっとわたし、今からあの子のところに……」
「やめておけ」
浩一は、英恵が芽衣に連絡しようとするのを制した。
「こういうのは下手に動かない方がいい。主催企業の広報がプロと相談して正式な声明を出すはずだから、それまで黙って見ておくのが最善だよ」
それはプロとしての冷静な判断であるかのように聞こえた。だが、英恵には、その態度がどこか他人事のように、冷たく響いた。
「……わかった。あなたがそう言うなら、待ってみる」
この問題は、おそらく浩一に実害は及ばない。
これはあくまで、イグニスだけの問題に落ち着くはず。
だから夫は冷静でいられるのだと、英恵は思った。
しかし、それでは芽衣がどうなっていくのか、わからない。オイルマンの作品は、書籍でもネットでも簡単に触れられる。
もしも彼女が、オイルマンの画風を悪意なく、無意識に模倣していたとしたら……?
むしろ逆に、彼女が野心的に意識的にそうしたのだとしても、絶望に打ちひしがれる芽衣の顔を想像するのは、英恵にとって耐えがたい苦痛だった。
「……パート、行ってくるね」
「ああ……」
浩一は、妻が素直に引き下がったことに、わずかな安堵と、説明しきれない違和感を覚えた。
だが、英恵はパート先に向かう電車の吊り革に掴まりながら、再びスマートフォンでSNSを開いていた。
イグニスへの疑惑は、燎原の炎のように広がり始めていた。
明らかな、炎上の気配。
特に、関心の薄い中立層は「何となくクロ」と思い込み、「ひどいね」「今回、当選しなかったあの人が可哀想」などと消極的な批判を投稿して、それを見た人が疑惑を確報と思い込み、敵意を拡散していく。
(浩一は「待て」と言ったけど、このままじゃ芽衣ちゃんが潰されてしまう)
夫は自分の保身だけを考えているのかもしれない。
(彼は、わたしに関心がないみたいに、あの子にも大した興味がないんだ。だから、平気な顔をしていられる)
かといって、オイルマンの家族であり、イグニスの友人でもあるわたしが表立って擁護したら、ますます誤解が強くなり、火に油を注ぐことになりかねない。
電車に揺られながら、熟考した。
今、必要なのは客観的な視点から、冷静に「作品」を評価する声だ。
彼女は、「捨てアカウント」をその場で作成する。
英恵は、最も拡散されている「比較画像」のポストに、慎重に言葉を選んで、引用付のリプライを送った。
あくまで冷静な、第三者の美術愛好家を装った。
『わたしもオイルマン氏のファンとして、このイグニス氏の作品に、オイルマン氏の影響があることは否定できません。しかし、そこには独自の作家性を感じます。これを「パクリ」と断罪するのは早計ではないでしょうか。才能ある新人を憶測で潰すべきではないと思います』
その投稿は狙い通り、いくつかの「good!」を獲得し始めた。
もちろん、たった一つの投稿で流れは変えられない。
英恵は過去に作成して、使わなくなったメールを動員して、新しいアカウントを複数作成し、そこからも援護射撃を繰り返した。
『こういう意見もある。みんな、いつも簡単に騒ぎすぎでは?』
『イグニスはオイルマンそっくりだが、オイルマンなら描かないテーマだ。それにこの子鹿、妙にかわいい』
これらの投稿は、それまでイグニス批判を投稿していたアカウントを嫌うインフルエンサーにも「こちらの方と同意見です。煽動者はいつも同じ顔をしている」とする引用コメント付の投稿がなされ、拡散され始めた。
ここから「何となくクロ」の投稿をしていた人々の反応が変化していく。
『先ほどの投稿は、よく事実を確認しないで行ってしまった』
『公式の企業コメントを待つまで沈黙するべきだ』
『似てはいるけれど、事情があるかもしれない。身内とか師弟であったとしたら、何もおかしくない』
感情的な投稿が落ち着いていく。
それを見た英恵が安堵して電車を降り、職場に入った数十分後──。
ある一群の投稿が、その擁護の空気を一変させた。
『ちょっと待って。今、急に「冷静な第三者」みたいな擁護垢が湧いてるけど、こいつら全部、捨てアカでしょ? アイコンも初期設定のままだし』
『しかも、擁護の論点が口裏を合わせたように似通ってる』
『これ、関係者が複数人で組織的に「火消し工作」を始めたんじゃないか?』
安心した英恵が、いつものようにパートの仕事をテキパキと進めて、これまでと変わらない日常を過ごしている間に、流れは以前にも増して、熱を増していった。
『捨て垢で擁護って、身バレしたくない関係者で確定だね』
『証拠がなければ大丈夫って考えてるのかな。だとしたら、イグニス本人っぽいな』
『冷静になれと言われて、冷静になったら、クロ確定とわかりました』
英恵の熟慮と覚悟は、最悪の形で裏目に出た。
しかも、彼女の投稿に賛意を寄せたインフルエンサーも、何事もなかったかのようにその投稿を削除していた。
炎上は「パクリ疑惑」から、「関係者による組織的な隠蔽工作疑惑」へと変化していく。
パートを終えて、帰りの電車の中でスマートフォンを開いた英恵は、血の気が引いていくのを感じた。
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