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【第五部】イヤリングの誘い
消えない棘
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出光浩一は、英恵が自宅にいる時間は、以前と変わらず作業デスクで仕事に打ち込んでいる。
去年の夏ぐらいから「仕事量が増えた」と彼は言い、夫婦で外出する回数はめっきり減っていた。
いつも自宅で仕事をしている。
日常は、何も変わらずに続いていくかのように見えた。
だが、英恵の喉元には、消えない棘が刺さっていた。
土曜日の午前十一時。
浩一は娘を連れて、二人で近所の公園に出かけている。
一人リビングに残った英恵は、自分のスマートフォンで、ネット上に拡散された芽衣の「作品」を改めて観察していた。
芽衣が「パクリ疑惑」を鎮火させた、あの官能画シリーズ。
英恵は、その背景に描かれた「和室」に強い既視感を覚えていた。
初めは、それも彼女の持つ独特の強いセンスの影響と思って、深くは観察しなかった。
けれども、畳の焼け具合、柱の傷、障子の桟の形。
それが、浩一がかつて寝室代わりに使っていた、自宅の和室を強く想起させるのだ。
(でも、あそこは……)
芽衣があの和室に入ったことは、ない。
何かの思い過ごしだろうと思っていた。
この家は、浩一の亡きご両親が隠居先として建てて、住んでいたところ。
しかし、二人がパンデミックで急逝したため、浩一と英恵がここに移り住んだ。
この和室は、浩一が書斎として使っている。
そして時々、そこでうたた寝をしてしまうので、英恵が布団を用意して、置きっぱなしにするようになった。
英恵は頭を振って、イグニスこと芽衣が契約企業のプロモーションとして発表した「新作」に目を移していく。
お題は『より刺激的な場所で』。
背景は、洋室だった。
ダブルベッドのヘッドボードの形。窓際に置かれたドレッサーの位置。
それは、錯覚というには厳しいほど、今自分がいるこの家の「夫婦の寝室」の構図、に酷似しているように見える。
その絵の中で乱れる「女」の耳に、小さな赤い貴石の飾られたイヤリングが、片方だけ輝いている。
先月、芽衣の受賞を祝ったあの日に、彼女が着けていた、紅色の石がついたイヤリング。
それが今、一つだけ、彼女の手のひらの中で輝いている。
先日、娘が寝室の隅を指差して、「あかく、ひかってる」と言うので、気がついて拾ったものだった。
あの時の自分の顔は、とても子供に見せられないほど、暗い感情に支配されていた。
なぜ──芽衣が、この「夫婦の寝室」の内部を、これほどそっくりに描けるのか。
考えたくもないのに、いくつもの記憶が、眩しい光の線を描きながら、繋がっていく。
回覧板を受け取り忘れた去年の真夏から、浩一が「忙しい」と言って外に出なくなったこと、それでいて二人でいても仕事が減っておらず、いつも焦ったような顔で締切ギリギリに納品を繰り返していたこと。
次に、誰が見てもそう思ったぐらい、芽衣の画風と、浩一の画風がそっくりだったこと。
それが炎上した時、浩一が「触るな」と、いつにない形相で制したこと。
そして爆発的拡散で炎上を止めた、イグニスの官能画と、今の英恵が暮らしている空間との一致性。
さらには、最新作の官能画に片方だけ描かれたイヤリングと、この炎のように赤いイヤリング。
(ひょっとして、あの絵は、芽衣ちゃんの「妄想」ではないっていうの?)
あれが二人の「事実」そのものだったとしたら?
しかし、予断は許されない。
(……夫は、わたしを愛している。あの子も、わたしを信頼している。だから、なぜこのイヤリングがここにあるのか、慎重に探らないといけない)
限りなくクロに近い芽衣の慎ましげな笑顔が脳裏に浮かぶ。
そのどことなく薄幸そうな雰囲気、うっかりなところは、英恵の母性本能をくすぐるところがあった。
だが、それはきっと、男心をも強く惹きつけるだろう。
もしも、自分の妄想が事実であったとしたら、英恵は何も知らないで、イグニスの受賞を祝ったことや、炎上事件で彼女の濡れ衣を晴らそうとしたことも、ひどく愚かしい女の失態だったことになってしまう。
芽衣が、あの画風を浩一から学んで、そして二人の冒涜的な交歓を商品として売り出していたとしたら、あの自己肯定感のない笑顔の正体は、魔性そのものに他ならなくなってしまう。
英恵は、「絶対、わたしが間違ってるんだ。そうだよね、芽衣ちゃん?」と、祈るような顔でイヤリングを握りしめる。
しかし、浩一と芽衣に直接、尋ねる勇気はまだなかった。
去年の夏ぐらいから「仕事量が増えた」と彼は言い、夫婦で外出する回数はめっきり減っていた。
いつも自宅で仕事をしている。
日常は、何も変わらずに続いていくかのように見えた。
だが、英恵の喉元には、消えない棘が刺さっていた。
土曜日の午前十一時。
浩一は娘を連れて、二人で近所の公園に出かけている。
一人リビングに残った英恵は、自分のスマートフォンで、ネット上に拡散された芽衣の「作品」を改めて観察していた。
芽衣が「パクリ疑惑」を鎮火させた、あの官能画シリーズ。
英恵は、その背景に描かれた「和室」に強い既視感を覚えていた。
初めは、それも彼女の持つ独特の強いセンスの影響と思って、深くは観察しなかった。
けれども、畳の焼け具合、柱の傷、障子の桟の形。
それが、浩一がかつて寝室代わりに使っていた、自宅の和室を強く想起させるのだ。
(でも、あそこは……)
芽衣があの和室に入ったことは、ない。
何かの思い過ごしだろうと思っていた。
この家は、浩一の亡きご両親が隠居先として建てて、住んでいたところ。
しかし、二人がパンデミックで急逝したため、浩一と英恵がここに移り住んだ。
この和室は、浩一が書斎として使っている。
そして時々、そこでうたた寝をしてしまうので、英恵が布団を用意して、置きっぱなしにするようになった。
英恵は頭を振って、イグニスこと芽衣が契約企業のプロモーションとして発表した「新作」に目を移していく。
お題は『より刺激的な場所で』。
背景は、洋室だった。
ダブルベッドのヘッドボードの形。窓際に置かれたドレッサーの位置。
それは、錯覚というには厳しいほど、今自分がいるこの家の「夫婦の寝室」の構図、に酷似しているように見える。
その絵の中で乱れる「女」の耳に、小さな赤い貴石の飾られたイヤリングが、片方だけ輝いている。
先月、芽衣の受賞を祝ったあの日に、彼女が着けていた、紅色の石がついたイヤリング。
それが今、一つだけ、彼女の手のひらの中で輝いている。
先日、娘が寝室の隅を指差して、「あかく、ひかってる」と言うので、気がついて拾ったものだった。
あの時の自分の顔は、とても子供に見せられないほど、暗い感情に支配されていた。
なぜ──芽衣が、この「夫婦の寝室」の内部を、これほどそっくりに描けるのか。
考えたくもないのに、いくつもの記憶が、眩しい光の線を描きながら、繋がっていく。
回覧板を受け取り忘れた去年の真夏から、浩一が「忙しい」と言って外に出なくなったこと、それでいて二人でいても仕事が減っておらず、いつも焦ったような顔で締切ギリギリに納品を繰り返していたこと。
次に、誰が見てもそう思ったぐらい、芽衣の画風と、浩一の画風がそっくりだったこと。
それが炎上した時、浩一が「触るな」と、いつにない形相で制したこと。
そして爆発的拡散で炎上を止めた、イグニスの官能画と、今の英恵が暮らしている空間との一致性。
さらには、最新作の官能画に片方だけ描かれたイヤリングと、この炎のように赤いイヤリング。
(ひょっとして、あの絵は、芽衣ちゃんの「妄想」ではないっていうの?)
あれが二人の「事実」そのものだったとしたら?
しかし、予断は許されない。
(……夫は、わたしを愛している。あの子も、わたしを信頼している。だから、なぜこのイヤリングがここにあるのか、慎重に探らないといけない)
限りなくクロに近い芽衣の慎ましげな笑顔が脳裏に浮かぶ。
そのどことなく薄幸そうな雰囲気、うっかりなところは、英恵の母性本能をくすぐるところがあった。
だが、それはきっと、男心をも強く惹きつけるだろう。
もしも、自分の妄想が事実であったとしたら、英恵は何も知らないで、イグニスの受賞を祝ったことや、炎上事件で彼女の濡れ衣を晴らそうとしたことも、ひどく愚かしい女の失態だったことになってしまう。
芽衣が、あの画風を浩一から学んで、そして二人の冒涜的な交歓を商品として売り出していたとしたら、あの自己肯定感のない笑顔の正体は、魔性そのものに他ならなくなってしまう。
英恵は、「絶対、わたしが間違ってるんだ。そうだよね、芽衣ちゃん?」と、祈るような顔でイヤリングを握りしめる。
しかし、浩一と芽衣に直接、尋ねる勇気はまだなかった。
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