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しおりを挟む「ねえ、光」
舞子は小さな声でそう告げながら、耳にかかった横髪を指先でそっとかき上げた。頬は赤く染まり、涙の余韻を含んだ潤んだ瞳が光を真っ直ぐに見つめている。その仕草だけでも、光の胸は不意に熱を帯びる。
そして、キスをした途端に抑えていた本能的な欲が、じわじわと顔を出し始めていた。頭の奥では「ダメだ」という警報が鳴り響いているのに、アルコールでぼやけた思考はその警告を掴みきれずに流してしまう。
舞子は額をそっと光の額に重ね合わせ、吐息が触れるほどの距離で艶めいた声を落とす。返事を待たずに、そのまま柔らかい唇を重ねてきた。
その一瞬、世界から雑音が消え、ただ彼女の温度だけが胸いっぱいに広がる。
「光の家、行こ?」
短いキスの合間に、舞子が甘えるように囁く。意識はまだ抵抗しようとしたが、気づけばタクシーの運転手に自分の家の住所を告げていた。
二人でタクシーを降り、光のマンションに着くと、エレベーターの中はふたりだけの狭い密室。舞子は変装のためにかけていたマスクやメガネを取り、光の肩に体を預けるように寄り添った。何度も何度も口づけを重ねる。互いの立場も、世間の視線も、そして朝陽の存在すら、その時だけは頭から吹き飛んでいた。ただ、熱に浮かされたように唇を求め合ってしまう。
エレベーターが到着し、扉が開く。廊下に出た二人は自然に手を繋ぎ、そのまま部屋の前へと歩いていく。だが、光は玄関の数歩手前で足を止めた。
「光?どうしたの?」
舞子が不安そうに首をかしげ、繋いだ手を揺らす。その瞬間、光の視線は前方に釘付けになった。
玄関脇の壁に体を預けて立っていたのは、朝陽だった。
記憶の奥底に沈んでいた約束が、一気に蘇る。そうだ。今日は朝陽と会う約束をしていた。それなのに、断りの連絡すらせず、ここまで来てしまったのだ。胸の奥が冷水を浴びせられたように凍りつく。
朝陽がここにいる理由は簡単に想像できた。以前も光が高熱で寝込んだとき、連絡が途絶えたことを心配して駆けつけてくれたことがあった。今回も同じだ。手にはビニール袋を下げている。中にはきっと飲み物や消化にいい食べ物が入っているのだろう。鍵は渡してあるのに、わざわざ寒空の下で待っていた。何時間ここに立っていたのか想像すると胸が締め付けられる。
俯いたまま、壁に寄りかかって立つ朝陽。やつれた肩のラインが、不安と寂しさを物語っていた。
「おまえ、なにやって…」
光がかすかに声を漏らす。その音に反応するように、朝陽の視線がゆっくりとこちらへ向いた。
最初に浮かんだのは安堵の色だった。光の無事を確認できて、心の底から安心したのだろう。だが、それはほんの一瞬で、すぐに硬直した表情へと変わった。視線が、光と舞子の繋がれた手へと吸い寄せられたからだ。指と指が絡み合っているのを見て、何も言わなくても状況は理解できる。
「え、光…知り合いなの?」
舞子が怪訝そうに囁いた。光は返事に窮し、言葉が詰まる。
「あ、いや…あの、知り合い…」
曖昧にごまかそうとしたその時、朝陽はゆっくりと歩み寄ってきた。何を言われるのか。責められるのか。拒絶されるのか。光の全身に緊張が走る。
しかし、朝陽は困ったように微笑んで言った。
「すいません、引っ越したばかりで部屋、間違えちゃいました!」
その声はどこか震えていたが、無理やり取り繕うように二人の横を通り過ぎる。光は背中を追いかけるように視線を向けたが、次の角を曲がった瞬間、もうその姿は消えていた。
「こっちに歩いてくるから、びっくりしちゃった。なんか変な人だったね」
舞子が無理に空気を軽くしようと笑って言う。その笑顔は確かに美しいはずなのに、光にはどこか遠いもののように感じられた。
光も引きつった笑みを返した。だが胸の奥では、朝陽を追いかけたい衝動が渦を巻いていた。それでも「きっと、また戻ってくる」と思ってしまう。今までも、どんなに冷たくしても、朝陽は必ず自分のそばに戻ってきたからだ。
その根拠のない自信に縋りつきながらも、心の奥底では小さなざわめきが広がっていた。
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