【完結】俺はお前がいなくても。

ぽぽ

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光は友人たちと大声で談笑していた仁の元へ歩み寄り、低い声で告げた。

「仁、もう帰るわ」

「はあ?もう帰んのかよ、光?!まだ日付変わったばっかだぞ!」

仁の笑い混じりの声に現実へと引き戻される。店内のざわめきが耳に痛いほど響いた。

「別に早くないだろ。もう日跨ぎそうだし。明日も普通に仕事あるしな。仁も女遊びはほどほどにしとけよ」

「わかったよ。ったく、女遊びについては余計なお世話だっつうの。気をつけて帰れよ」

軽口を叩く仁に、光は笑みを作ることもせず背を向けた。その背中を仁の視線が追ってくるのを感じながら、光は会釈もせずに店を後にした。そして、店の出口にあったゴミ箱にまだ中身が残っているタバコを捨てた。

結局、酒やタバコで気持ちが軽くなることもなく、女と遊んで心が晴れることもなかった。むしろ、笑い声や明るい空気が心の隙間を余計に広げていく。

タクシーに乗り込み、ぐったりと背もたれに体を預ける。窓ガラスに映る自分の顔は、どこかやつれて見えた。眉間には深い皺、口元は無意識に結ばれ、瞳は光を失っている。思わず前髪をかき上げて深いため息をついた。

「……朝陽」

声に出した瞬間、自分でも驚いた。抑え込んでいた名前が、喉の奥から零れ落ちたのだ。

バックミラー越しに運転手と目が合った。「どうなさいましたか?」と心配そうに問いかけられるが、光は慌てて首を横に振った。

「大丈夫です、何でもないです」

その言葉がどれほど空虚か、光自身が一番よく知っていた。

信号が赤に変わり、タクシーは停止する。外に視線を向けた光は、その瞬間、呼吸を忘れた。

街灯の下、スラリとした影が歩いている。背筋が伸び、しなやかで、歩みそのものが品を纏っていた。細すぎず、けれど華奢に見えるその体型は、光の記憶に焼き付いたある人物の姿と重なる。

胸が跳ねる。喉が乾き、心臓が耳の奥で鳴り響く。窓に額がつきそうなほど顔を近づけ、目を凝らす。信号が青に変われば、このまま永遠に失ってしまう気がした。

「すみません!ここで降ります!」

突然の声に運転手が目を丸くする。「え、ここで?」と言いながらも急停車。光は財布から札を乱暴に押し込み、ほとんど飛び出すように車を降りた。

夜の街に駆け出し、二人の姿を探す。

だが…

「……いない」

ほんの数十秒前までそこにあったはずの影は、もうどこにもなかった。鼓動が早鐘のように打ち、額から汗が滲み出す。夜風が冷たいはずなのに、全身が火照り、吐く息すら熱い。

「どこだよ……」

焦燥に駆られ、視線を走らせる。暗がりに浮かぶ二人の背中を見つけ、反射的に駆け寄った。肩を掴む。

振り返った顔を見て、光は息を止めた。

「え……」

そこにあったのは、朝陽ではなかった。似ても似つかぬ、全くの別人。隣の男も警戒の色を露わにし、驚いた顔でこちらを見返してくる。

「すみません、人違いです」

声はかすれ、喉が焼けるように痛かった。帽子を深くかぶり直し、足早にその場を去る。

心臓が痛いほどに打ち、吐き気のような虚しさが込み上げてくる。自分の立場も忘れ、ただ衝動に任せて動いた。あまりに情けない。

家に帰ったのは深夜。玄関をくぐった瞬間、どっと疲れが押し寄せる。熱が体にこもり、足元がふらついた。

「はあっ……」

ソファに身を投げ出し、荒い呼吸を繰り返す。額に手を当てれば、熱が籠っているのが分かった。このままでは夜中にはさらに上がるだろう。嫌な予感が背筋を冷たく撫でる。

「……朝陽」

譫言のように呟きながら、ポケットからスマホを取り出した。画面に表示された連絡先。最後にやりとりしたのは、マイコと会っていたあの日。朝陽からの電話が途切れたきりだった。

画面を見つめる指先が震える。押すか、押さないか。

光は息を呑み、決心してボタンを押した。

コール音が鳴り響く。数秒の間が永遠のように長く、鼓動と重なって全身を支配する。

だが、不意に音は途切れた。

『おかけになった電話番号は現在使われておりません』

無機質な女の声が、冷徹に響いた。

「………使われて…ない?」

理解できず固まる。慌てて番号を確認する。間違いない。確かに朝陽のものだ。にもかかわらず、繋がらない。

スマホを強く握りしめ、頭を抱えた。熱のせいなのか、怒りなのか、体中を灼けるような熱さが駆け巡る。気が狂いそうだった。

自分から行かなければ、もう二度と会えない。
朝陽から来ることはない。その考えが、焼き付けるように胸に広がった。

数日後。

仕事を終えた光は、帽子とマスクで顔を隠し、地味な服に身を包んでいた。
向かった先は、朝陽が勤めている会計事務所が入っているビルの前だった。
朝陽は大学卒業をしてから会計士になり、ずっとこの職場に勤めてきたのだ。

もしかしたら職場さえも変えているかもしれない。そうなったら今度はどうやって朝陽の手がかりを掴めばいいのかわからない。

高校生の時、何度か朝陽の家に行ったことはあるため、実家の住所も頭にはある。けれど今さらそこへ行ったところで、朝陽の両親を驚かせるだけだろう。

もうプライドなんてどうでもよかった。
腕時計の針が進むたびに、胸の奥で緊張が膨らんでいく。鼓動は早まり、胸が痛いほどに熱を帯びる。朝陽の定時の退勤時間を光は知っていた。2人で待ち合わせをする時もこの時間に退勤すると伝えられた時間がいつも同じだったからだ。

そして、朝陽の定時の退勤時間を迎えた。
朝陽が残業するのかどうか、そんなことはわからない。ただ一目でいい、会いたい。その気持ちだけが光を突き動かす。ビルのエントランスから少し離れた場所で、息を殺すように待ち続けた。いつ朝陽が出てくるのかエントランスから出てくる一人一人の顔をじっくり見てしまう。

三十分ほど経った頃、ネイビー色の細身のスーツを着た男が軽い足取りで出てきた。
その青年は朝陽だった。
夢にまで見たその姿に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。周囲を行き交う人々の影は白黒に沈み、朝陽だけが鮮やかに色を帯びて浮かび上がる。

衝動的に抱きしめたい。そう思った瞬間には、もう歩みを速めていた。

その時、朝陽の視線がふとこちらを捉えた。目が合った。
射抜かれたような感覚に、呼吸が詰まる。淡い茶色の瞳に映る自分を確かめた瞬間、懐かしさと愛おしさが一気に溢れ出す。乾ききっていた心が満たされ、今にも涙が零れそうだった。

そして、朝陽が微かに笑った。
あの頃と変わらない柔らかな笑顔で、軽く手を振ったのだ。
その一瞬で、光は錯覚した。きっと朝陽も同じ想いだったのだと。あの時、プライドをかなぐり捨てて会いに行けばよかった。けれど後悔を抱く余裕さえなく、ただ会いたさに胸が締めつけられる。

今すぐ抱きしめたい。
甘ったるい香水ではなく、石けんのようにふわりとした朝陽の匂いに包まれたい。

朝陽がこちらに歩み寄ってくる。距離が縮まるたびに、光の胸は高鳴りで破裂しそうになる。

「あさっ」

名前を呼ぼうとした瞬間。

朝陽は光に視線を向けることなく、横を通り過ぎた。
頬を掠めるように、懐かしい香りだけが残る。

「賢也さん!」

すぐ近くで呼ばれたその名に、光の足が止まる。
見知らぬ男の名を朝陽の声が呼んでいる。
自分の名前ではない。誰か。

「…………は?」

光の頭が真っ白になる。

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