3 / 5
三
しおりを挟む
寒月に晒された縁側はほの暗く、立ち込めた霧が足元を重々しく漂っている。母屋へ収穫した獲物を運び入れて燈台を灯すと、張り巡らした帳に双角の影が揺らぐ。
この一年、火焔の姿を見た女たちはことごとく逃げ出した。穏やかだった目尻は吊り上がり、表情は性格が邪険になるにつれ冷酷さを伴ってゆく。何より頭髪に隠れるほど目立たなかった角が、サンショウの枝に生える刺の如く鋭利さを増した。
生身であればこの人間も、と褥へ横たわらせた亡骸に唇を合わせる。火焔は男と肌を重ねたことはなかったが、逃げも隠れもしない憐れな少年を一心不乱に抱き、川原で喰んだ箇所を何度も啜った。
もはや、生きている人間も死んでいる人間も火焔には大差がなかった。恐怖におののいた女を手篭めにしたところで、飢えも欲も一時凌げるだけで直ぐに喪失感にさいなまれる。本物の鬼に近づくたび、漠然と満たされぬ苛立ちを募らせた。苛立ちはさらに、火焔を鬼としてあるべき姿に変容させる。
夢中になるあまり、屋敷内に侵入者が入り込んだことを知らずにいた。事を終えようとしたあたりで、間近に気配があると後れ馳せながら気付く。
火焔は途端に不機嫌となり、中途半端に熱を解放した躰に衣を纏わせた。脱ぎ捨てた羽織で少年を覆い、おおよそ見当のつく相手を几帳越しに睨みつける。クスクスと嘲笑するような笑い声が漏れて聞こえ、火焔は余計に腹ただしさを覚えた。
「……どうか怖い顔をなさらないで下さい。今宵は年末でしょう。挨拶に参ったのです。……ああ、でも冷徹なその表情を私にもっと与えてくださるのですか?」
半ば呆れたように几帳から姿を出すと、若者はご丁寧にも膝を折り、慎み深く頭を下げている。火焔は無視して御座へ移動し、脇息に寄りかかりあぐらをかいた。空薫していた香木の匂いが、いくらか憤りを鎮めてくれる。
山犬は顔を上げ、琥珀色の瞳を意味ありげに微笑ませて火焔へ向き直る。銀白色の癖のない髪を輪郭に沿わせ、その毛先がかかる唇を徐に動かした。
「火焔様は先ほど里へ降りたのでしょう。御影も狼となって、年の瀬の町並みを歩いておりました。浮かれた世間を眺めるのは楽しいものです。童が私を犬だと勘違いして冬苺を投げて寄越しました。甘くて美味しくて、もうひとつ食べましたところ大いに喜ぶので……」
「お主には犬のほうが似合っておるな。あいにく俺には犬を飼う趣味などないが」
火焔は御影の話をわざと遮って火桶に炭をくべた。静かに爆ぜる音と、香木と炭とが調和した空間が辺りに満ちる。熱の落ち着いた躰には丁度良い温度だが、山犬には暑いらしい。既に顔が赤らんでいる。
「……はい、私は童の飼い犬となったつもりで、しばらく子守りをしておりました。そのうち雪がちらつき始め、私の鼻先でも結晶が解けてゆきます。その結晶を追うのに必死で、気付くと西の彼方に濃色の雲が流れておりました。御影は後悔いたしました。火焔様への土産を何も持っていないと……。あの、少しよろしいですか?」
この一年、火焔の姿を見た女たちはことごとく逃げ出した。穏やかだった目尻は吊り上がり、表情は性格が邪険になるにつれ冷酷さを伴ってゆく。何より頭髪に隠れるほど目立たなかった角が、サンショウの枝に生える刺の如く鋭利さを増した。
生身であればこの人間も、と褥へ横たわらせた亡骸に唇を合わせる。火焔は男と肌を重ねたことはなかったが、逃げも隠れもしない憐れな少年を一心不乱に抱き、川原で喰んだ箇所を何度も啜った。
もはや、生きている人間も死んでいる人間も火焔には大差がなかった。恐怖におののいた女を手篭めにしたところで、飢えも欲も一時凌げるだけで直ぐに喪失感にさいなまれる。本物の鬼に近づくたび、漠然と満たされぬ苛立ちを募らせた。苛立ちはさらに、火焔を鬼としてあるべき姿に変容させる。
夢中になるあまり、屋敷内に侵入者が入り込んだことを知らずにいた。事を終えようとしたあたりで、間近に気配があると後れ馳せながら気付く。
火焔は途端に不機嫌となり、中途半端に熱を解放した躰に衣を纏わせた。脱ぎ捨てた羽織で少年を覆い、おおよそ見当のつく相手を几帳越しに睨みつける。クスクスと嘲笑するような笑い声が漏れて聞こえ、火焔は余計に腹ただしさを覚えた。
「……どうか怖い顔をなさらないで下さい。今宵は年末でしょう。挨拶に参ったのです。……ああ、でも冷徹なその表情を私にもっと与えてくださるのですか?」
半ば呆れたように几帳から姿を出すと、若者はご丁寧にも膝を折り、慎み深く頭を下げている。火焔は無視して御座へ移動し、脇息に寄りかかりあぐらをかいた。空薫していた香木の匂いが、いくらか憤りを鎮めてくれる。
山犬は顔を上げ、琥珀色の瞳を意味ありげに微笑ませて火焔へ向き直る。銀白色の癖のない髪を輪郭に沿わせ、その毛先がかかる唇を徐に動かした。
「火焔様は先ほど里へ降りたのでしょう。御影も狼となって、年の瀬の町並みを歩いておりました。浮かれた世間を眺めるのは楽しいものです。童が私を犬だと勘違いして冬苺を投げて寄越しました。甘くて美味しくて、もうひとつ食べましたところ大いに喜ぶので……」
「お主には犬のほうが似合っておるな。あいにく俺には犬を飼う趣味などないが」
火焔は御影の話をわざと遮って火桶に炭をくべた。静かに爆ぜる音と、香木と炭とが調和した空間が辺りに満ちる。熱の落ち着いた躰には丁度良い温度だが、山犬には暑いらしい。既に顔が赤らんでいる。
「……はい、私は童の飼い犬となったつもりで、しばらく子守りをしておりました。そのうち雪がちらつき始め、私の鼻先でも結晶が解けてゆきます。その結晶を追うのに必死で、気付くと西の彼方に濃色の雲が流れておりました。御影は後悔いたしました。火焔様への土産を何も持っていないと……。あの、少しよろしいですか?」
0
あなたにおすすめの小説
バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?
cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき)
ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。
「そうだ、バイトをしよう!」
一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。
教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった!
なんで元カレがここにいるんだよ!
俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。
「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」
「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」
なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ!
もう一度期待したら、また傷つく?
あの時、俺たちが別れた本当の理由は──?
「そろそろ我慢の限界かも」
何故よりにもよって恋愛ゲームの親友ルートに突入するのか
風
BL
平凡な学生だったはずの俺が転生したのは、恋愛ゲーム世界の“王子”という役割。
……けれど、攻略対象の女の子たちは次々に幸せを見つけて旅立ち、
気づけば残されたのは――幼馴染みであり、忠誠を誓った騎士アレスだけだった。
「僕は、あなたを守ると決めたのです」
いつも優しく、忠実で、完璧すぎるその親友。
けれど次第に、その視線が“友人”のそれではないことに気づき始め――?
身分差? 常識? そんなものは、もうどうでもいい。
“王子”である俺は、彼に恋をした。
だからこそ、全部受け止める。たとえ、世界がどう言おうとも。
これは転生者としての使命を終え、“ただの一人の少年”として生きると決めた王子と、
彼だけを見つめ続けた騎士の、
世界でいちばん優しくて、少しだけ不器用な、じれじれ純愛ファンタジー。
Sランク冒険者クロードは吸血鬼に愛される
あさざきゆずき
BL
ダンジョンで僕は死にかけていた。傷口から大量に出血していて、もう助かりそうにない。そんなとき、人間とは思えないほど美しくて強い男性が現れた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる