9 / 79
扉の向こう(2)
数日を過ごせば、ここでの一日のスケージュールが、身体になじむようになる。
朝、起き出すころにはリンが現れ、お茶をベッドまで運んでくれる。
わたしはこれが好きで、目が覚めたベッドの中で、うっとりと朝のお茶を待つこともあった。
手伝ってもらって着替え、身支度を整えれば、朝食へ向かう。朝ご飯は、お茶の間というわたしには耳なじみのある小さめの食堂で食べるのだ。
メニューは決まっていて、バンというパンか、野菜などが入ったリゾット風のものが主食で、他にフルーツや卵、ハムなどだ。
どれも、わたしにとって奇異なものはなく、普通に食べられる。
その後で、ガイはわたしを連れて、朝の間という場所へ移動する。ここは書斎の奥にあった。
華麗な調度品は他の部屋と同じようだけれども、ここから温室へ出られるのだ。
庭に面して建てられたガラス張りのリビングルームだ。仕切りがあって、その向こうにたくさんの切り花用の花が育てられていた。
そこでガイは新聞を読む。すぐにコーヒーが届けられるから、わたしはそれを彼に注いであげ、自分用にもカップに注ぐ。
どれほどか、ゆったりと過ごし、ガイが立ち上がる。仕事のある学究院に向かう場合は、そうして出かけてしまう。
何もないときは、わたしの相手をしてくれ、書斎の本を見せてくれることもあった。
ガイが出かけてしまえば、たいていは帰りは昼を過ぎ、夕刻だ。
彼が留守の間、わたしは日課のように庭を探検して、温室の花を使い花瓶に飾るなどする。一人の昼食やお茶の時間は、所在なく感じたけれども、それにもちょっと慣れたように思う。
ガイが帰りを知らされれば出迎えて、夕食を摂る。この時は、晩餐用の食堂を使うしきたりだ。
食事の後は、書斎に移り、眠るまでの時間を過ごす。
これが、一日の流れだ。
穏やかで、何も差し迫ることのない日常。
豊かで満ち足りたその中にいると、自分をふと幸せだと感じる。
それを感じるとき、胸をちくんと刺す刺激がある。両親への、特に母への申し訳なさであり、罪悪感だろうか。
自分だけがあんのんと、太平楽に過ごしている今に。
母の犠牲の上にわたしの幸福があるという思いが、消えないで残る。
幸せを感じれば、それはセットのように顔を出すのだ。
「…さん、お嬢さん」
声に気づいて、はっと顔を上げた。
ガイが首を傾げてわたしを見ていた。
彼の声で今の場所に気づき、迷路のようなもの思いから覚めた。
ここは書斎だ。
わたしはガイと夕食後のお茶を飲んでいた。
「手のひらを縫っているのじゃないかと、気が気じゃない」
わたしはひざに刺繍を広げていた。昨日リンに頼み、用意してもらったのだ。手の空いたときに進め、楽しくなってきたところ。
取りまとめてひざから刺繍用具どかす。小さなかごに入れてしまった。
「どうかしましたか? ぼんやりとして。元気がない」
彼はわたしの隣りに掛け、ひたいに手を置いた。それをやんわりと避ける。
「…あの、元の世界ではどうなっているの? わたしが消えてしまって…」
彼がちょっと目を細めた。
「帰りたくなったの?」
「そうじゃなくて…」
自分だけがこんな素敵な逃げ場所を見つけた。悲劇に遭った両親を弔いもせず、罰当たりなままだ。
それが心苦しい。
「どうしたの? 泣き出しそうな顔をして」
彼の手がわたしの手を包む。
「あの、あのね...」
ガイには、わたしの事情はほとんど話していない。ただ、迎えに来た時のわたしの有り様で、不遇だったのだろうと想像はついているはずだ。
言えないことを除き、大まかな身の上を話した。父の負債やそれからのことだ。
母がわたしのために、無理な仕事をして亡くなるまでを話す途中で、涙があふれ出た。
「そんなこと、絶対、嫌だったはずなのに...」
指で涙をぬぐう。わたしのその手を彼が優しく握った。
緩く自分の胸に抱き寄せる。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか。
彼の胸にひたいを当て、涙をしまおうと鼻をすすった。
「あなたは大丈夫」
もう一度同じ声がする。
わたしはゆっくりと顔を上げた。
「どうして?」
ガイはわたしのまなじりを指でぬぐってくれる。そのまま「それは過去だ」と言う。
過去だからつらいのに。
変えようがなく、それでも消えない。
「僕がいけない。説明が足りなかった」
ガイがくれたハンカチに目を当てる。そうしながら、彼の声を聞いた。
「あなたがこちらへやって来た。お嬢さんは、元の世界を自分が消えた世界、と思うでしょう」
「ええ」
「そうではないのです。あなたは元のまま、あちらに存在するのです」
え。
ここをあなたの可能性だと思ってほしい。ガイはそう言う。
「あちらの世界もあなたの可能性の一つ」
「わからない」
「うーん、ちょっと待って」
ガイは卓上のたばこ入れから数本のたばこを取り出した。それらをテーブルにほぼ等間隔に並べる。
その一本をつまみ、
「これが、あなたの元の世界だとします。いいね?」
とわたしを見る。
「ええ」
タバコを元に戻し、隣りの一本を取り上げた。
「これが今のあなただ」
「…わたしが、二人いるの?」
「二人どころか、無数にいると思う」
そう言い、彼は並べた他のたばこを指でつついた。
「宇宙は可能性で出来ていて、人それぞれの無限の可能性が交差し合っている。そんな場だと僕は解釈しています」
たまたま、ガイの可能性の一つとわたしのある可能性が絡んだ。彼の持つ不思議な懐中時計と、それが呼ぶ夜空を走る列車のミステリアスな力を使って。
本当はしっくりときていない。ちゃんと理解もできていない。
けれども、ガイの声がわたしに納得させるのだ。
大丈夫だと。
「あなたのご両親にも、それぞれ無数の可能性がある。遭われた悲劇はつらい過去ですが、彼らの可能性の世界はそこで終了したことになる。そんなものはもうない」
「ないの?」
「本人が不在の可能性など、存在の意味がない。無です。お嬢さん、あなたがただ繰り返しているだけだ。ここで」
と、ひたいをとんと指で軽く突いた。
その夜、ベッドでわたしはガイの言葉を反芻した。
人それぞれが持つという無限の可能性。
その一つがわたしの抱えたあの過去であり、そこからつながる今だ。
父と母のそれが消え、既にどこにもないのだというガイの言葉は救いだった。
つらい悲劇を過去として、わたしが頭の中で何度も思考しているだけ。
まるで、見たくもないビデオを何度も再生しているようなものだろうか。
心にすとんとガイの話が落ちていくのは、彼に出会えたからだ。そのそばにいるからだ。
その奇跡を味わったことは、何より重みのある根拠に違いない。
そして、
信じることで、わたしは初めて、心の中の両親の最期を解放できた。
どこかで、別な素敵な世界で、わたしたちは一緒に暮らしている。
朝、起き出すころにはリンが現れ、お茶をベッドまで運んでくれる。
わたしはこれが好きで、目が覚めたベッドの中で、うっとりと朝のお茶を待つこともあった。
手伝ってもらって着替え、身支度を整えれば、朝食へ向かう。朝ご飯は、お茶の間というわたしには耳なじみのある小さめの食堂で食べるのだ。
メニューは決まっていて、バンというパンか、野菜などが入ったリゾット風のものが主食で、他にフルーツや卵、ハムなどだ。
どれも、わたしにとって奇異なものはなく、普通に食べられる。
その後で、ガイはわたしを連れて、朝の間という場所へ移動する。ここは書斎の奥にあった。
華麗な調度品は他の部屋と同じようだけれども、ここから温室へ出られるのだ。
庭に面して建てられたガラス張りのリビングルームだ。仕切りがあって、その向こうにたくさんの切り花用の花が育てられていた。
そこでガイは新聞を読む。すぐにコーヒーが届けられるから、わたしはそれを彼に注いであげ、自分用にもカップに注ぐ。
どれほどか、ゆったりと過ごし、ガイが立ち上がる。仕事のある学究院に向かう場合は、そうして出かけてしまう。
何もないときは、わたしの相手をしてくれ、書斎の本を見せてくれることもあった。
ガイが出かけてしまえば、たいていは帰りは昼を過ぎ、夕刻だ。
彼が留守の間、わたしは日課のように庭を探検して、温室の花を使い花瓶に飾るなどする。一人の昼食やお茶の時間は、所在なく感じたけれども、それにもちょっと慣れたように思う。
ガイが帰りを知らされれば出迎えて、夕食を摂る。この時は、晩餐用の食堂を使うしきたりだ。
食事の後は、書斎に移り、眠るまでの時間を過ごす。
これが、一日の流れだ。
穏やかで、何も差し迫ることのない日常。
豊かで満ち足りたその中にいると、自分をふと幸せだと感じる。
それを感じるとき、胸をちくんと刺す刺激がある。両親への、特に母への申し訳なさであり、罪悪感だろうか。
自分だけがあんのんと、太平楽に過ごしている今に。
母の犠牲の上にわたしの幸福があるという思いが、消えないで残る。
幸せを感じれば、それはセットのように顔を出すのだ。
「…さん、お嬢さん」
声に気づいて、はっと顔を上げた。
ガイが首を傾げてわたしを見ていた。
彼の声で今の場所に気づき、迷路のようなもの思いから覚めた。
ここは書斎だ。
わたしはガイと夕食後のお茶を飲んでいた。
「手のひらを縫っているのじゃないかと、気が気じゃない」
わたしはひざに刺繍を広げていた。昨日リンに頼み、用意してもらったのだ。手の空いたときに進め、楽しくなってきたところ。
取りまとめてひざから刺繍用具どかす。小さなかごに入れてしまった。
「どうかしましたか? ぼんやりとして。元気がない」
彼はわたしの隣りに掛け、ひたいに手を置いた。それをやんわりと避ける。
「…あの、元の世界ではどうなっているの? わたしが消えてしまって…」
彼がちょっと目を細めた。
「帰りたくなったの?」
「そうじゃなくて…」
自分だけがこんな素敵な逃げ場所を見つけた。悲劇に遭った両親を弔いもせず、罰当たりなままだ。
それが心苦しい。
「どうしたの? 泣き出しそうな顔をして」
彼の手がわたしの手を包む。
「あの、あのね...」
ガイには、わたしの事情はほとんど話していない。ただ、迎えに来た時のわたしの有り様で、不遇だったのだろうと想像はついているはずだ。
言えないことを除き、大まかな身の上を話した。父の負債やそれからのことだ。
母がわたしのために、無理な仕事をして亡くなるまでを話す途中で、涙があふれ出た。
「そんなこと、絶対、嫌だったはずなのに...」
指で涙をぬぐう。わたしのその手を彼が優しく握った。
緩く自分の胸に抱き寄せる。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか。
彼の胸にひたいを当て、涙をしまおうと鼻をすすった。
「あなたは大丈夫」
もう一度同じ声がする。
わたしはゆっくりと顔を上げた。
「どうして?」
ガイはわたしのまなじりを指でぬぐってくれる。そのまま「それは過去だ」と言う。
過去だからつらいのに。
変えようがなく、それでも消えない。
「僕がいけない。説明が足りなかった」
ガイがくれたハンカチに目を当てる。そうしながら、彼の声を聞いた。
「あなたがこちらへやって来た。お嬢さんは、元の世界を自分が消えた世界、と思うでしょう」
「ええ」
「そうではないのです。あなたは元のまま、あちらに存在するのです」
え。
ここをあなたの可能性だと思ってほしい。ガイはそう言う。
「あちらの世界もあなたの可能性の一つ」
「わからない」
「うーん、ちょっと待って」
ガイは卓上のたばこ入れから数本のたばこを取り出した。それらをテーブルにほぼ等間隔に並べる。
その一本をつまみ、
「これが、あなたの元の世界だとします。いいね?」
とわたしを見る。
「ええ」
タバコを元に戻し、隣りの一本を取り上げた。
「これが今のあなただ」
「…わたしが、二人いるの?」
「二人どころか、無数にいると思う」
そう言い、彼は並べた他のたばこを指でつついた。
「宇宙は可能性で出来ていて、人それぞれの無限の可能性が交差し合っている。そんな場だと僕は解釈しています」
たまたま、ガイの可能性の一つとわたしのある可能性が絡んだ。彼の持つ不思議な懐中時計と、それが呼ぶ夜空を走る列車のミステリアスな力を使って。
本当はしっくりときていない。ちゃんと理解もできていない。
けれども、ガイの声がわたしに納得させるのだ。
大丈夫だと。
「あなたのご両親にも、それぞれ無数の可能性がある。遭われた悲劇はつらい過去ですが、彼らの可能性の世界はそこで終了したことになる。そんなものはもうない」
「ないの?」
「本人が不在の可能性など、存在の意味がない。無です。お嬢さん、あなたがただ繰り返しているだけだ。ここで」
と、ひたいをとんと指で軽く突いた。
その夜、ベッドでわたしはガイの言葉を反芻した。
人それぞれが持つという無限の可能性。
その一つがわたしの抱えたあの過去であり、そこからつながる今だ。
父と母のそれが消え、既にどこにもないのだというガイの言葉は救いだった。
つらい悲劇を過去として、わたしが頭の中で何度も思考しているだけ。
まるで、見たくもないビデオを何度も再生しているようなものだろうか。
心にすとんとガイの話が落ちていくのは、彼に出会えたからだ。そのそばにいるからだ。
その奇跡を味わったことは、何より重みのある根拠に違いない。
そして、
信じることで、わたしは初めて、心の中の両親の最期を解放できた。
どこかで、別な素敵な世界で、わたしたちは一緒に暮らしている。
あなたにおすすめの小説
「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」
透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。
そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。
最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。
仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕!
---
イケメンエリートは愛妻の下僕になりたがる(イケメンエリートシリーズ第四弾)
便葉
恋愛
国内有数の豪華複合オフィスビルの27階にある
IT関連会社“EARTHonCIRCLE”略して“EOC”
謎多き噂の飛び交う外資系一流企業
日本内外のイケメンエリートが
集まる男のみの会社
そのイケメンエリート軍団のキャップ的存在
唯一の既婚者、中山トオルの意外なお話
中山加恋(20歳)
二十歳でトオルの妻になる
何不自由ない新婚生活だが若さゆえ好奇心旺盛
中山トオル(32歳)
17歳の加恋に一目ぼれ
加恋の二十歳の誕生日に強引に結婚する
加恋を愛し過ぎるあまりたまに壊れる
会社では群を抜くほどの超エリートが、
愛してやまない加恋ちゃんに
振り回されたり落ち込まされたり…
そんなイケメンエリートの
ちょっと切なくて笑えるお話
獣人の世界に落ちたら最底辺の弱者で、生きるの大変だけど保護者がイケオジで最強っぽい。
真麻一花
恋愛
私は十歳の時、獣が支配する世界へと落ちてきた。
狼の群れに襲われたところに現れたのは、一頭の巨大な狼。そのとき私は、殺されるのを覚悟した。
私を拾ったのは、獣人らしくないのに町を支配する最強の獣人だった。
なんとか生きてる。
でも、この世界で、私は最低辺の弱者。
初恋の還る路
みん
恋愛
女神によって異世界から2人の男女が召喚された。それによって、魔導師ミューの置き忘れた時間が動き出した。
初めて投稿します。メンタルが木綿豆腐以下なので、暖かい気持ちで読んでもらえるとうれしいです。
毎日更新できるように頑張ります。
【完結】モブ令嬢としてひっそり生きたいのに、腹黒公爵に気に入られました
22時完結
恋愛
貴族の家に生まれたものの、特別な才能もなく、家の中でも空気のような存在だったセシリア。
華やかな社交界には興味もないし、政略結婚の道具にされるのも嫌。だからこそ、目立たず、慎ましく生きるのが一番——。
そう思っていたのに、なぜか冷酷無比と名高いディートハルト公爵に目をつけられてしまった!?
「……なぜ私なんですか?」
「君は実に興味深い。そんなふうにおとなしくしていると、余計に手を伸ばしたくなる」
ーーそんなこと言われても困ります!
目立たずモブとして生きたいのに、公爵様はなぜか私を執拗に追いかけてくる。
しかも、いつの間にか甘やかされ、独占欲丸出しで迫られる日々……!?
「君は俺のものだ。他の誰にも渡すつもりはない」
逃げても逃げても追いかけてくる腹黒公爵様から、私は無事にモブ人生を送れるのでしょうか……!?
フリーランスエンジニアの優しすぎる無償の愛
咲妃-saki-
恋愛
26歳OLの木崎茉莉は人生のどん底にいた。上手くいかないことに慣れ、心を凍らせることで自分を守る毎日に絶望した茉莉は、雨の夜に思わず人生の終わりを願ってしまう。そんな茉莉に手を差し伸べたかっこいい彼。茉莉は、なぜか無償の愛のような優しさをくれる不思議な男性に少しずつ救われ、前を向いていく。けれど、疑ってしまうほど親切な彼には、親切であり続ける理由があって……。雨の夜の出会いがもたらした、優しくも切ない物語。
幼馴染に10年片想いしてたら、冷酷御曹司にプロポーズされました
ほーみ
恋愛
春の匂いが、駅前の並木道をくすぐる。満開の桜の下、私はひとり歩いていた。駅までの道は、高校時代、彼とよく歩いた道だ。
制服姿の学生が笑いながらすれ違っていくのを横目に、私はスマホを見下ろした。
「今日、伝えるって決めたんじゃなかったの?」
送信したきり返信のないメッセージ。画面には「既読」の文字があるだけだった。
――渡瀬 湊。私が10年間片想いをしている、幼馴染。