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甘やかな月(10)
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ガイがわたしに懐中時計を渡してくれた。
お湯の後で温まり、お茶を飲んでいた時だ。
自分の手のひらにぽとりと落とされた時計は、鎖も含め想像より重みがあった。
ガイは長いすに掛け、床に座るわたしを見て笑う。断ってからたばこに火を点けた。
「欲のないお嬢さん。好きなだけ眺めたらいい」
伯爵家の紋章が刻まれたふたをぱちんと開ける。
わたしを映したという鏡は、今は曇って何もない。指でつるんと触れてみる。
しばらく手のひらにおいて、彼に返した。
「もういいの?」
「ええ。ありがとう」
ガイは時計を胸にしまわず、ひざにのせたままにした。それで、鎖が長く下に垂れた。
わたしは、ガイがこちらに連れたこれまでの人々とは違い、残ることを決めている。
一人ずつ、交互にしかこちらに運べないと、彼は教えてくれたことがある。
わたしがこちらにい続けることで、鏡は誰も映さなくなるのだろうか。
残ると決めた時点で、わたしはこちらの人間になるのだろうか。
ガイに聞くと、
「随分過去に、残った人があったと聞きます。それからも、鏡に人は映るし、列車は走る。ほどよい頃に、また誰か写すのかもしれない」
という。
「ガイはこれまで何人を運んだの?」
彼はわたしの問いに、ちょっと上目遣いをしてから答えた。
「三十八人、いや九人。あなたを入れて、ちょうど四十人だ」
「え」
あまりの多さに、ティーカップを取り落しそうになった。勝手に三、四人ほどと思っていたのだ。
「毎月のように迎えに行って送り返した時期が続いた。祖母が健在の頃は、邸に客もあったし、そこに紛れ込んでもらって、疑われるようなことはなかったのです」
ある一人を迎えに行った際、既に亡くなっていたことがあったと、思い出すように言った。
それほど大勢だったのなら、女性も相当数いたはず。中には妙齢で、きれいな人もいただろう。
「まるであなたの猫みたいな目をしている。何を考えているの?」
「素敵な女性はいなかったの? その中には」
「妬いているの?」
ガイは肩を揺すって笑う。六割が男性。四割の半分が、「僕より祖母に近い年齢」だったという。
「でも、残りの八人は?」
「あなたは忘れている。僕は当時既婚者ですよ」
「ごめんなさい、わたし...」
「いや、あなたが計算が早いのはわかった」
彼のひざに置いたわたし手に、自分のを重ね、ちょっと握る。
帰って行く人々ばかりだったから、そんな風には見られなかったという。
「それに、ずっと一人で過ごしていくのだとばかり思っていた」
え。
彼の言葉はふに落ちない。
ガイは伯爵家の当主として、後継者を絶対に求めている。だからこそ、わたしとの結婚があったはずだ。想像も嫌だが、わたしでなければ、別な誰かと。
わたしへの責任よりも先に、そちらの意志が彼には絶対的だったはず。
どうして?
「伯爵家を次に継がなくていいの?」
「つぶれてしまえと思っていた。僕が子を成せなければ、勝手に終わる。そのための養子など考えたくもない。まあ僕の死後なら、誰が継ごうが勝手にすればいい」
「何もかも、虚しくなった」とつぶやく。
あの離婚後も、開放感の後に彼が抱えた虚無感は深かったという。
周囲や家名や名誉や保身。
それらを守るために悩み、身を削った労力も費やした時間も、彼に何ももたらさなかった。
「結局、視野を狭めて行動を縛るだけのことで、個人の幸福や自己実現には、何ら関係がない。けれど、もうそこから逸れることは許されないのです。お嬢さんもわかるだろうけど、貴族の家は一つの社会だ。僕の言動は、いいも悪いも周囲に波紋を呼んで、影響を生み出すから」
そんな時、わたしが彼の懐中時計の鏡に映った。
「黒髪の小さなあなたは、ひどくかわゆらしかった」
「え」
初めて会った彼からは、心の疲労など感じなかった。ただわたしに優しく、思いやり深かった。
一度なりとも、彼から冷たい言葉を投げられたことがあっただろうか。
いつだって、彼はわたしに親切で真摯だった。
当時のガイの心の内を思い、切なくなった。
彼のひざに顔を伏せ、少し涙ぐんだ。
「あなたが現れて、いつも僕のまわりにいてくれる。「あれは何?」、「これは何?」と袖を引くでしょう。急に忙しくなった」
「嫌なガイ」
「可愛くてならなかったのです。お嬢さんが妻となってくれたら、どんなにいいだろう。そんなことを夢見るようになった。誰にも譲りたくなかった」
そんなこと、気づきもしなかった。思いも寄らなかった。
わたしは彼を違った風にとらえていたから。
個人よりも立場を重んじて、選択する人だと、それからは決して外れることがないのだと。曇った心のレンズはそう映した。
当主としての責務でもなく、純粋にわたしを選んで求めていてくれたのに。
心が震えて、胸がちょっと苦しくなる。
「ガイが好き」
お湯の後で温まり、お茶を飲んでいた時だ。
自分の手のひらにぽとりと落とされた時計は、鎖も含め想像より重みがあった。
ガイは長いすに掛け、床に座るわたしを見て笑う。断ってからたばこに火を点けた。
「欲のないお嬢さん。好きなだけ眺めたらいい」
伯爵家の紋章が刻まれたふたをぱちんと開ける。
わたしを映したという鏡は、今は曇って何もない。指でつるんと触れてみる。
しばらく手のひらにおいて、彼に返した。
「もういいの?」
「ええ。ありがとう」
ガイは時計を胸にしまわず、ひざにのせたままにした。それで、鎖が長く下に垂れた。
わたしは、ガイがこちらに連れたこれまでの人々とは違い、残ることを決めている。
一人ずつ、交互にしかこちらに運べないと、彼は教えてくれたことがある。
わたしがこちらにい続けることで、鏡は誰も映さなくなるのだろうか。
残ると決めた時点で、わたしはこちらの人間になるのだろうか。
ガイに聞くと、
「随分過去に、残った人があったと聞きます。それからも、鏡に人は映るし、列車は走る。ほどよい頃に、また誰か写すのかもしれない」
という。
「ガイはこれまで何人を運んだの?」
彼はわたしの問いに、ちょっと上目遣いをしてから答えた。
「三十八人、いや九人。あなたを入れて、ちょうど四十人だ」
「え」
あまりの多さに、ティーカップを取り落しそうになった。勝手に三、四人ほどと思っていたのだ。
「毎月のように迎えに行って送り返した時期が続いた。祖母が健在の頃は、邸に客もあったし、そこに紛れ込んでもらって、疑われるようなことはなかったのです」
ある一人を迎えに行った際、既に亡くなっていたことがあったと、思い出すように言った。
それほど大勢だったのなら、女性も相当数いたはず。中には妙齢で、きれいな人もいただろう。
「まるであなたの猫みたいな目をしている。何を考えているの?」
「素敵な女性はいなかったの? その中には」
「妬いているの?」
ガイは肩を揺すって笑う。六割が男性。四割の半分が、「僕より祖母に近い年齢」だったという。
「でも、残りの八人は?」
「あなたは忘れている。僕は当時既婚者ですよ」
「ごめんなさい、わたし...」
「いや、あなたが計算が早いのはわかった」
彼のひざに置いたわたし手に、自分のを重ね、ちょっと握る。
帰って行く人々ばかりだったから、そんな風には見られなかったという。
「それに、ずっと一人で過ごしていくのだとばかり思っていた」
え。
彼の言葉はふに落ちない。
ガイは伯爵家の当主として、後継者を絶対に求めている。だからこそ、わたしとの結婚があったはずだ。想像も嫌だが、わたしでなければ、別な誰かと。
わたしへの責任よりも先に、そちらの意志が彼には絶対的だったはず。
どうして?
「伯爵家を次に継がなくていいの?」
「つぶれてしまえと思っていた。僕が子を成せなければ、勝手に終わる。そのための養子など考えたくもない。まあ僕の死後なら、誰が継ごうが勝手にすればいい」
「何もかも、虚しくなった」とつぶやく。
あの離婚後も、開放感の後に彼が抱えた虚無感は深かったという。
周囲や家名や名誉や保身。
それらを守るために悩み、身を削った労力も費やした時間も、彼に何ももたらさなかった。
「結局、視野を狭めて行動を縛るだけのことで、個人の幸福や自己実現には、何ら関係がない。けれど、もうそこから逸れることは許されないのです。お嬢さんもわかるだろうけど、貴族の家は一つの社会だ。僕の言動は、いいも悪いも周囲に波紋を呼んで、影響を生み出すから」
そんな時、わたしが彼の懐中時計の鏡に映った。
「黒髪の小さなあなたは、ひどくかわゆらしかった」
「え」
初めて会った彼からは、心の疲労など感じなかった。ただわたしに優しく、思いやり深かった。
一度なりとも、彼から冷たい言葉を投げられたことがあっただろうか。
いつだって、彼はわたしに親切で真摯だった。
当時のガイの心の内を思い、切なくなった。
彼のひざに顔を伏せ、少し涙ぐんだ。
「あなたが現れて、いつも僕のまわりにいてくれる。「あれは何?」、「これは何?」と袖を引くでしょう。急に忙しくなった」
「嫌なガイ」
「可愛くてならなかったのです。お嬢さんが妻となってくれたら、どんなにいいだろう。そんなことを夢見るようになった。誰にも譲りたくなかった」
そんなこと、気づきもしなかった。思いも寄らなかった。
わたしは彼を違った風にとらえていたから。
個人よりも立場を重んじて、選択する人だと、それからは決して外れることがないのだと。曇った心のレンズはそう映した。
当主としての責務でもなく、純粋にわたしを選んで求めていてくれたのに。
心が震えて、胸がちょっと苦しくなる。
「ガイが好き」
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