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ため息曜日

2、簡単なこと、そうでないこと

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 洗濯機に入れる洗剤が一回量にやや足りないことに気づく。買い置きもない。

 ま、いっか。

 代わりに、洗濯時間を多めにしてスイッチを入れる。ため息の混じる吐息を繰り返し、午前の決まった掃除を手早く済ませた。

 それが済めばパートに出かける。

 夫の昼食を用意し、自分の分も小さなお弁当箱に詰め、バックに入れた。時計は九時を過ぎたところ。夫はまだ寝室から出てこない。

 彼の分の昼食が載るテーブルをちらっと眺めた。腹立ちといらいらが胸にもやもやと溜まるのを感じた。

 昨夜、掃除が寝てから彼と口論になった。原因は夫のオンラインゲームだ。

 別に遊ぶのは構わない。ただそれが気晴らしの度を過ぎていると感じてしまう。

 失業中、時間が自由になるのをいいことに、夜更けから朝方までそんなことに没頭している夫の姿が理解できない。

 昼間は求職活動と幼稚園から帰った総司の相手でふさがってしまうと言い、

「金のかからない遊びなんだから、唯一の楽しみにがみがみ言うなよ。息が詰まる」

 と開き直った。宵っぱりの朝寝坊では生活も乱れる。いざ転職先が決まったとき、不規則な毎日が習慣になっていれば、障りもあるはず。それに、総司への影響も心配だ。

 パパが一日家にいるのは、事情だから仕方がないが、昼過ぎまで寝ているだらしのない状況では目も当てられない。

 さっきこれ見よがしに、寝室で掃除機をガンガンかけてやったのに、置き出す気配もなかった。

「出かけてくるから。お昼、チンして食べてね」。いつもなら、この程度のことは声かけして行くが、今朝はそんな気にもなれない。

 玄関で靴を履いていると、どたどたと裸足の足音がした。振り返らなくても夫だとわかる。

 立ち上がったとき、後ろから抱きしめられた。

「ごめん」

 わたしは返事をしなかった。「いいの」なんて返す訳にもいかない。生活を改めてくれなければ、ちっともよくないのだから。

 怒っていると思うのか、彼はもう一度「ごめん」と言った。

「昼から、ハローワーク行ってくるよ」

 そこで、わたしは苦しい体勢で振り返った。夫が自分からこんなことを言い出したのは初めてだ。

「本当?」

「嘘なんかつくかよ」

 目の前に、はにかんだちょっとドヤ顔の夫がいる。寝癖の下の表情はまじめに見えた。そこに一年前までの忙しい中技術職でいきいきとしていた、凛々しさのあった彼を思い出す。

 そして、あの頃の彼に何の不満もなかった自分を。

「ありがとう」

 それだけで受け、「総司をよろしくね」と家を出た。

 一人の昼の間も彼がゲームをしているのでは…、という疑いは、このとき押しつぶして消した。


 車を手放すことに決めたのは、夫がハローワークに通い出してしばらくしてからのこと。購入したのは二年前で、走行距離もそうなく、下取りの見積もりでは思いがけず高値が付いた。

「もっと早く、さっさと売っておけばよかった」

 そんなわたしに対し、夫は何度も試乗して買ったハイブリッド車に未練が残るのか、つまらなさそうにしていた。

 あきらめるしかないと吹っ切ってくれたようで、乗り納めにドライブに行こうと提案してきた。

 くさくさした毎日が続く中、たまのお出かけもいいか、とすぐ賛成した。総司も喜んではしゃいだ。

 思えば、これがいけなかった。

 ハローワークに足を向けるようになった夫だが、例のネットゲームは続けていた。きつく約束したため、深夜二時~三時には打ち切っているらしい。

 思うような成果がなくても、渋っていた足を使った求職活動をしてくれるようになったことが嬉しく、わたしもそれ以上のことは求めずにいた。

 パートが休みの平日の午後だった。

 家から三時間ほどの距離の遊園地に出かけた帰りだ。国道でいきなり隣の車に車体をぶつけられた。運転者はわたし。夫は助手席で舟をこいでいた。

 がつんとした衝撃に、寝ていた夫も飛び起きた。

 相手方のミスとはいえ、互いに走行中のこと。任意保険の負担比率はこちらがゼロパーセントにはならない。

 事故の処理が済み、相手方が八割五分のわたしが一割五分に落ち着いた。どうせ車も手放すのだし、加入の保険から支払ってもらえばいい。楽な気持ちでいたところ、夫が自腹で払いたいと言い出した。「次に保険に入るとき、制約があるかもしれないのが嫌だ」という。

 この先、車を購入する予定など、全くない。

「こんなときのための保険じゃない。使わないと損でしょ」

「十六万くらい、何とかなるだろ?」

 今の我が家に十六万がいかに大金であるか、理解のない彼だ。返す言葉がちょっと浮かばなかった。そのためにローンの残る車を手放すというのに……。

「だいたい、お前がぶつけたんじゃないか。文句ばっかり言うけどさ…」

 さすがに言葉尻は弱かったものの、身勝手な言葉に一瞬頭に血が上った。自分は夜更かしがたたって寝ていたくせに。

「そんなお金どこに…」

 反論したところで、夫はテレビを見ていた総司をそばに引き寄せた。「子供の前で金の話は止そう」と目顔が言う。そこだけは正論だ。ふつふつ胸に不満が高まるのを押し込め、キッチンに逃げた。

 子供を盾に、これ以上の口論を避けた。底の見える仕草に、食事の支度をしながらも、怒りがなかなか静まってくれない。

 総司が寝た後で、きっちり話し合わないと。

 いらいらと唇を噛んでやり過ごした。


 夫を納得させ、何とか保険で修理費を捻出したが、事故車となったマイカーの下取り額はガンと落ちた。その差額がほぼ修理費と変わらないところが、何だか皮肉で憎たらしい。

 当てにしていた収入でもあったので、そのやり繰りにまたため息だ。

「二、三枚なくなっても、わかんないんじゃないかな」

 レジの札束を手にそんな軽口が出る。まさか盗るわけもない。人のお金は現実感もなかった。

 昼食帰りの社員の小林くんが、ぎょっとした顔をしてわたしを見る。

「本気にしないでよ」

「パートの盗難はこっちの責任になるんだから、勘弁してよ」

「盗らないって」

 昼のスーパーはひと気がまばらだ。レジのチェックを終えたところで、小林君がレジカウンターに立った。プリンを一個置き、財布を探っている。

「高科さんなら三十六に見えないし、きれいだし。こんな所より、お金になる仕事あるんじゃないの?」

 七十八円のレシートを手渡しながら、「は?」と彼を見返した。

 小林君はにやにやとにこにこの中間のような表情をしている。若くてちょっと造作がいいから、嫌らしくないのが救いだろう。

 そういえば、他のパートが「あの子、⚪︎⚪︎横町(風俗店が並ぶ)に入るところ見た」と噂していたのを聞いたっけ……。

 わたしに風俗で働いた方がいいと?

「へへ」

 悪びれない様子で、プリンを持って出て行った。


 冷蔵庫から出したプリンのパッケージから『半額』表示のシールを引きはがす。

 三個連なった一個をお風呂上りの総司に手渡した。もう一個を食べようか、明日のおやつ用にしようか。しばし悩んだ。

 ま、いっか。食べちゃえ。

 夜中にでも夫が食べるだろう。一つを残して冷蔵庫のドアを閉める。

 ドアには、以前総司の描いた絵がマグネットで留めてある。シャチホコのある城の絵だ。そのそばの木が人であることに今気づいた。ちゃんと手も指もある…。縮尺がおかしいからわからなかった。

「へえ」

 何となく目が吸いつき、しばし眺めた。わたしもそうだった、と思い出す。幼い頃から好きだったお絵描きでは、何にでも大きく人を描き込んだものだ。

 そしてそれは、自分を描いたものだったように思う。白い紙の真ん中で、何より大きく目立つのは自分だった……。

 なら、総司のこの絵のでたらめに大きな人物は、あの子そのものなのかも。

 そこには子供の持つ憧れや願い、好き、といったきらきらした自我が、散りばめられているかに見える。

 不意に、胸の奥がそれとわかるほどに、とくんと脈打った。二の腕から手首にかけてを、やんわりとしたうずきが走り、騒ぐ。

「マーマー」

 奇声を上げてわたしを呼ぶ総司の声に、その場を離れた。一緒にプリンを食べようと、待っていてくれたらしい。

「ありがとう」

 プリンの後で歯を磨かせ寝かしつければ、一区切り。一日の終わり近くに、やっと自分の時間が持てる。いつもは少しのんびり浸かる湯船も、今夜はざっとで切り上げた。妙に気が急いて、時間がおしい。

 総司の絵を見た時に浮かんだふわふわしたざわめきが、今も胸を去らない。のぼせている訳でもないのに、頬が熱っぽい。

 夫がネットゲームに興じているのにも、このときは冷静に眺められた。

「夜更かしは止めてよ」

 と声をかけたが、その返事も気にならない。

 ダイニングの椅子を引き、掛けた。チラシの裏をテーブルに置き、その辺のボールペンを握る。何を描こうか、考えるより先に手が動いた。いつしか、うっすら広告の透ける白い紙が人物の姿でいっぱいになっている。

 久しぶりに描くラフ画なのに、線に大きな崩れもないのが意外だった。嬉しくなる。ペンを入れたら、もっと変わるかも…。絵柄だって、やっぱり古いだろうし……。

 自然、そんなことを思う自分に苦笑する。

「ペン入れだって…」

 深く考えもせず、余った白い紙を思うさまラフ画で埋めていく。そうしながら、ある問いが胸をつんとついて迫り上がった。

 いつから、自分を真ん中に描けなくなったんだろう……?

 それは、教わらずとも学んだ、羞恥やあきらめを含む成長だろう。気づいたときには、わたしの描く絵には自分らしき人物は登場しなくなっていた。

 そして、描かれる側であるより、描く方をわたしは好んでいた……。

「雅姫、まだ寝ないのか?」

 リビングの夫から間延びした声がかかった。はっと時計を見る。まだ十一時ちょっとだ。十二時を回らなければ、明日に障ることもない。

「うん、もうちょっと。総司の幼稚園の…」

 言い訳が終わらない間に、「パートあるんだろ? 早く寝ろよ」と返しがくる。ゲームに意識を取られているようだ。こちらに注意を払わないのが、むしろありがたい。

 総司のおもちゃ箱から色鉛筆を借りた。インクもペンもない。ペン入れは無理だとしても、どうしても着色くらいは試してみたかった。

 色が入るたびに、小さな世界がいきいきと浮かぶ。誰が見るのでもない。求められている訳でもない。

 思いつくイメージを切り取って描くことにこそ、意味があるのだろう。

 何らかの思いを外に出すこと。日々、やり過ごすためのため息にもちょっと似ている。

 でも、ため息とは違って、

 ほら、心が弾む。

 こんなにも楽しい。
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