ため息曜日のおとぎ話〜わたしに降る幸せのサイン〜

ため息曜日

3、ひょんなこと

　
　大あくびが出た。

　手で押さえたものの、見送ったお客にしっかりと見られてしまった。中年の作業着の男性はむっとしたようにこちらをにらんだ。

「申し訳ありません」

　ふいっと顔を背けて去って行った。気を悪くしたのだろうか、とちらりと思ったが、特に気にもしなかった。

　また次のあくびが出かけて、口を手で覆う。昼前からの忙しさがひと段落した今になって、忘れていた眠気がさしてくる。

　今夜は十二時前には寝よう。

　ここ数日、絵を描くことの楽しさに、つい夜更かしが続いていた。パートもあり家のこともある。自由になるのは総司が寝てからの時間のみ。まぶたが重くなるまで絵に没頭してしまっていた。

　リビングでゲームをする夫には、「はまっているミステリーがあって」と、珍しい夜更かしをごまかしている。元々彼は、わたしが学生時代に同人活動をしていたことさえ知らない。そもそも『同人』という言葉すら意味がわからないはずだ。

　ちょっとだけ思い出した過去を、今更説明するのも気恥ずかしい。照れ臭い。ほんの気晴らし、気まぐれに過ぎないのだから。

「あと三時間か…」

　口の中でつぶやく。

　夕ご飯のメニューの後で、昨夜ごくラフに作り出した漫画のネームが細切れに浮かぶ。ネームは漫画の下書きのようなもの。

　かといって、ちゃんとしたものを描くつもりはない。思いついたシーンだけを切り出したようにネームにすることが、昔の癖だった。その流れで、前後のストーリーをこしらえてネームにつなげていくのが、わたしのやり方だった。

　暇な時にしておく、ビニール袋の準備を始めると、店長がレジの方へ小走りにやって来た。「残業を頼めないか」とか「シフトの変更を」など、迷惑なことがすぐに思いつく。

「高科さん」

　とわたしを名指しだ。「あらあら、人気者ねえ」と、隣りが含み笑いをしてから目を逸らす。

「はい、何です？」

「さっき、中年の男性のレジを担当したの、高科さんですよね？」

「はあ」

「ショートカットで、三十くらいの細身の女性というから、あなただと思う…」

「はあ」

「雑誌とコーヒー飲料を買われた…」

　そこで作業服の男性を思い出す。わたしの大あくびをにらみつけて去った。クレームかとげんなりしながら応じた。

「ああ、一リットルパックのコーヒー牛乳と『エロリータ・フェニックス・ジャポン　増刊号』のお客様ですね」

　モップでその辺の床の掃除をさせられていた小林君が、そこでぷっとふき出した。普通のスーパーの雑誌コーナーなのに、何であんなマニアックな成人向けを売っているのか、前から不思議だった。

「そ、そう、その『ジャポン』…ね』

　店長はそこで咳払いをした。実は、ともったいぶったように声を落とす。あの男性こそが、このスーパー『マルシェあたらしや』チェーンの社長なのだと告げた。

「社長は、ああいう普通のお客を装って、極秘に接客の抜き打ちチェックを行うことがあります。自分も耳にしていましたが、まさか、あんなに何気ないとは…」

「はあ」

「何気ないお客」がコアな成人誌を買うのも引っかかるのだが。

　ともかく、パートの身としては、社長の姿も知らない。身分を明かしての改めての叱責かと、開き直ったような気分になった。ちゃんと非礼は詫びたし、そこまでのミスとも思えない。五つ星ホテルでもあるまいし。

「素晴らしい、とのお言葉でした。高科さん」

「はあ？」

　店長はほくほの笑顔でわたしを見て、先ほどの接客が社長の合格点を遥かに上回っていたのだ、と言う。

「商品がきわどい誌名の雑誌であるにも関わらず、ごく自然にレジ業務をこなし、お客側に気まずさを与えることがなかった、と大変お褒めでしたよ。お客の照れ臭さをとっさのあくびで払拭してしまうなど、なかなかできたことではないと、それはご機嫌でした」

　いやいや。単なる眠気の生理現象です。深読みが過ぎます。

　首を振って謙遜していると、隣のレジから声がした。

「店長、この人も自分の買い物のカゴ、見切り品で一杯にして帰るんだもの。恥ずかしい物を買うお客の気持ちはよくわかるわよ。同病相憐れむってやつでしょうよ」

「山辺さん、当店舗にお売りして恥ずかしい品などありません」

　わたしへの皮肉を店長がいさめたが、山家さんは黙っていない。ぬけぬけとつなぐ。

「あら、ベーカリー部の出している『ビキニパン』。あれ、子供に持たせたら、帰りにキレられかけたわよ。ティーンエイジャーが恥ずかしがるほどのパンがあるじゃない」

　ちなみに『ビキニパン』は、ビキニの上下の形をしたオリジナルのパンのこと。ビキニのクッキー生地の下は、米粉のパンが白くもっちりとビキニからはみ出している。ちょっと見、色味といいなんとも嫌らしい。

　店長は苦笑いでそれを流し、わたしへ向いた。

「今後のやる気になるはずだと、社長が特別に本社を見学できる許可を下さいました。都合のいい日を言ってくれれば、総務にわたしから伝えます。仕出しの弁当も出るそうですから、嬉しい計らいですね」

　どんなやる気につながるというのか。

「…はあ」

　と返しながら、心で吐き出すようにため息をついていた。

　要らねーよ。


　パートの帰りに本屋へ寄った。総司が毎月楽しみにしている子供向けの雑誌の発売が、二、三日過ぎていた。

　レジでお金を払うとき、ふとそれが目に留まった。カウンター下に貼られたポスター。それは某会館で行われる同人誌即売会イベントの告知だった。

『オールジャンル　フリー・マーケット第五回開催～』

　開催日や会場となる場所、問い合わせのURLが並び、下に「参加サークル様随時募集！」と上から大きく貼り紙して記してある。なぜか目が離せず、全ての字を追った。

　小さなイベントで、それほど参加者が集まらないのかな…。とぼんやりと思った。どのイベントも盛会ばかりとは限らないだろう。雑誌を受け取り、そこはそれで終わった。

　既に家には、幼稚園から帰った総司の姿がある。お土産の雑誌を渡すと、ちょっと大げさなほど大喜びして見せるのが可愛い。

　夫が取り込んでくれた洗濯物の山に倒れてしまうが、叱れない。

　夫はうたた寝をしていた。お昼の食器がローテーブルに食べたままに乾いて残っている。洗わずとも、キッチンに出してくれたらいいのに。汚れのこびりついた食器を水に浸しながら思う。「ちょっとの手間なのに」、「前に頼んだのに」…、と愚痴がふつふつとわいてくる。

　言えば喧嘩になる。だから、一度言ったはずの小さな頼み事はなおざりにされても、我慢して飲み込んでしまうことが常だった。

　気をつけてやんわり口にしているつもりが、どこか口調が尖ってしまう。でなければ「馬鹿にした」声音になるのだという。

　そんなつもりはない。でも、夫にそう聞こえて癪に触るのなら、その通りなのだろう。以前は見過ごせた些細なことで、いらつく自分を自覚しているのだから。

　ソファから床に脚をだらんと落とし、夫はよく眠っていた。

　彼が仕事をしていた頃、これと同じ光景をよく見たはずだ。帰宅後であったり、休日の昼下がりのことだったりした。弛緩して寛いでいるその姿を、当時のわたしは微笑ましく眺めていた。

　今はどうだろう。

　総司の幼い目に心に、彼がどう映るのかをいつも気にしている。「パパはちょっとお休みの期間なの。ずっと忙しかったからね」などと言い取り繕っている。

　いつからか気づいた。わたしは「そんなパパ」を理解し見守っている振りをしているのだ、と。総司のために、歪になった家の空気を壊さないように。それは、愛情という夫とのこれまでの時間の深さとその温かさを糧にしているのだろう。

　袋から出したスナック菓子をいくらかだけ総司にわたした。買ってあげた雑誌をお菓子を頬張り、食い入るように見ている。洗濯物をたたみながら様子を眺めた。

　おもちゃの広告を何度も指でこするのを見て、切なくなった。欲しいのだろう。ちらりとのぞけば、結構値が張る。今の我が家にぽんと出せる金額ではない。

　ここずっと大きなおもちゃは買ってやれていなかった。クリスマスに実家の父が総司に買ってやるようにとお金をくれたが、ちょうど逼迫した出費があり、ごく安価な物で済ませてしまった…… 。

　お菓子の油脂で汚れたそのページを指し、つい声が出た。

「それ、お友達のゆうくんは持ってるの？」

「うん」

「つばさくんも？」

「うん」

「ふうん」

　総司は「だから欲しい」とは続けなかった。幼いながらも、うちに余裕がないのを悟るのか。それに胸がひりひりと痛んだ。これから幾度、言葉を飲み込ませることになるのだろうか。

　ごめんね。

　雑誌を見る子供の頭をなぜてやりながら、考える。この家のローンがなければ、随分と楽になるな。貯金だってできるだろう。

　ローンのほとんどが手付かずだから、家が売れても差額は借金として残る。でも額が違う。支払いも減り、生活もぐっと楽になるに違いない。幸い築三年と新しいから高値も期待できるはず。

　そして、手頃なアパートなどを探して引っ越す。不便が出れば、夫の就職が決まってから次の住まいを考えればいい。

　実家の父が頭金を援助してくれており、それは親不孝をすることになるが、訳を話せば理解してくれるだろう…。無理を重ねるより、父は家を手放すことを好む気もする。

　この思いつきを夕食の後で夫に話してみた。

　渋りはするだろうが、説明すれば納得してもらえると思った。貯金も底を尽きかけている。余裕がないのは何の誇張もないのだから。

「総司の小学校入学のことを考えたら、早いほうがいいと思う」

　夫は虚を突かれたようだった。すぐに苦い顔になる。

「そんな都合よく中古の家が売れるわけがないだろ？！」

「でも、テレビで中古の家は値頃な物件も多いから、売り手市場だって」

「はあ？　テレビの言うことを真に受けるなよ。実際はそう簡単にいかないって」

「不動産屋に相談くらいしてみ…」

「駄目だ」

「どうして？」

「この家を買うとき、お義父さんにどれだけ融通してもらったか、覚えてないのか？　それからたった三年だぞ。俺にあんまり恥をかかせるなよ」

「みっともない」と、吐き捨てるようにつぶやいた。

　彼なりのプライドがあるのはわかる。わかるが、無理を重ねた先に本当ににっちもさっちも行かなくなるより、ましなのではないか。今なら、引越し代も次の住まいの敷金礼金も自前で賄える。

「そんなこと、お父さん思わないから…。不景気なんだもの、うちだけじゃなくて、よくあることだろうし…」

「なら、もうちょっと待ってくれてもいいだろう？　簡単に職は決まんないんだ。「家を売れ」だと？　そんな風に脅すみたいなことを言わなくたって。こっちの身にもなってみろよ。十五年も勤めた会社にあっさりクビを切られたんだ。慎重もなるだろ」

「脅してなんかない。考えてもらいたくって…。決めるなら早い方がいいし」

「もう考えた。駄目だ」

　それ以上はにべもない。

　夫はわたしにはっきり背を向け、テレビを見る総司の相手を始めた。わたしからの次の言葉を避け、もう追ってこない場所に逃げたように見えた。

　夫婦喧嘩で子供を逃げ場にするのは妻である女の方だと、昔から相場が決まったものだと思っていた。が、最近は夫である男もそうするらしい。何となく、へえと眺めた。

　わたしも早計だっただろう。大きな問題だし、もっと根回しというか言い方や話の持っていき方もあったはず。

　夫の気持ちをやや軽んじていたのも認める。

　でも、

　夕食の食器を洗い始めた。

　気持ちがささくれ、手つきが荒くなる。流す水の勢いが強い。お気に入りのカップが泡につるんと滑りかけ、はっとなる。落として欠けさせていたら、もっと気分は落ち込んでしまうだろう。

　水を止めた。背中に総司の声が重なり、夫の笑い声が届いた。

「ジュースでも飲む？」と振り返りかけ、頬が強張って止まった。

　夫は「待ってくれ」と言う。「もう少し」と。

　でも、いつまで待てもいいの？

　問えない、問わない問いが喉にわだかまる。何だか、それで泣き出しそうになる。


　湯船に浸かりながらあくびの混じる重い吐息を吐き出した。ここだけは一人になり、ちょっとのんびりできる。

　目をつむれば、枕元にまで買ってやった雑誌を持って行った総司が浮かんだ。あの本に載っていたおもちゃを与えてやれれば、どれほど喜ぶだろうか…。

　我慢させるのも教育だ。こっちがそう観念し、切なさに折り合いをつける。そうやって過ごしていくしかないのだと、頭ではわかっている。

　でも……、

「お金が欲しいな」と切実に思った。

　昼間のパート先の社長からの見当違いの電話を思い出す。褒めてくれるのなら、本社で弁当の代わりに、金一封くらい出してくれればいいのに。勝手な愚痴がわく。

　そこで、ふと本屋のポスターも頭に浮かんだ。同人誌即売会の参加者募集の告知だった。不思議なほど鮮やかに、目がなぞった文字を思い出せる。胸がざわざわと騒いだ。

　描いてみようか。

　ぽんとそんな気持ちが飛び出した。頑張って本を作って、もし売れれば幾らかのお金になるかも…。昔ほどじゃなくとも。

　それで、総司にあのおもちゃを買ってやることができるかもしれない。

　ぽんと気持ちが弾んだ。たとえれば、久しぶりに使ったバックから忘れていた一万円を見つけたような…。おかしなときめきがあった。

　お風呂上がり、飛躍した甘い考えを興奮を抑えながら吟味してみる。考えるだけはタダだ。誰にも知られない。恥もかかない。

　ブランクもあれば、使える時間も限られている。第一、描きたいネタがあるのか。描き上げられるのか、一人で…。

　同人活動をしていたときは、常に相棒ともいえる千晶の存在があった。単品の作品をそれぞれ描いていても、彼女の的確なアドバイスは貴重だったに違いないのだから。

　それでも、

　気持ちはかたん、と描きたい側にシフトしてしまっている。

　夫はリビングのソファでノートパソコンを開いていた。ネットゲームにログインする時間だった。家を売る話は流れ、何もなかったように毎晩と同じ定位置にいる。

　それを横目で流し、自分はキッチンのテーブルに座った。要らない紙を前にし、ペンを持つ。ここがわたしの定位置だな、とちらりと思う。

　とにかく、ラフを描いてみよう。

　そう心に決め、A4の紙をイメージでコマに分割していく。イメージが踊るままに任せ、ペンを走らせる。ちょっと戸惑うが、些細なこと。手が覚えている。あの頃の動きも癖も、筆の迷いの散らし方も…。

　とくん、と胸が鳴る。久しぶり描こう、と白い紙に向き合ったときと同じく、弾むように。

　総司のためにお金が欲しいと願ったのは真実だ。でもそれは詭弁に近いのかもしれない。本音では、わたしはまた描きたかった。その気持ちを自分が気づくまで引っ張ってくれたのが、雑誌のおもちゃの広告をこする総司の指だった。

　あの頃のように、心の一端なりを物語という形にして表現したかったのだろう。

　気持ちを凝らし、イメージを吸い上げる。ありきたりのボールペンが紡ぐのは、一見落書きにしか見えない、わたしが描くわたしの世界。

　うっすら明日の特売品が透ける、チラシの裏だ。

　それでも、指先が織りなす線が意味を成す。キャラクターが動き出し広がり、連なって物語が膨らんでいく……。

　このフィールドが好き。