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ため息曜日

4、強くいたいから

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 いつもより早めの起き出した。ちょうど午前六時。

 手早く身支度を済ませ、洗濯機をかける。家の目立つ部分だけを片付け、軽く掃除しておく。残りは後だ。

 濃い目のコーヒーを入れた。ちびちび啜りながら昨夜描き終えた漫画のネームを確認する。全部で三十五ページある。ごくラフな下書きだから、もちろんこれから清書して仕上げる作業が待っている。

 ぱらぱらとページを繰り、不備やおかしな点を探す。セリフが足りない箇所が二、三。詰まった感のあるページも目についた…。他、大きな粗は今の段階で見当たらないようだ。

 ここまでに一週間。我ながらよくも描けたと思う。元来がそう筆の早い方ではないのだから、今回は驚異的な速さと言える。

「千晶は早かったよな」

 今はプロとなった旧友の、怒涛ともいえたネーム作りのスピードを思い出した。とにかく早い。ネタを思いつき、「こんな話、描いてみたいな」など口にしていたと思ったら、翌日にはラフが出来上がっている。

 そこから推敲やペン入れもあるから、それなりの時間がかかるが、あの筆の速さは天性のものだろう。

 今更、そのセンスと才能に恐れをなす。売れっ子なのも当然といえた。

「恐ろしい子」

 つぶやいてちょっと笑った。

 小鳥の声に混じり、人声が届く。都市へのベッドタウンであるこの界隈は、通勤や通学に、すでに活動の時間だ。

 時計を見て、まだ若干余裕があるが腰を上げた。今、原稿でできることはない。

 もう一杯コーヒーを飲みながら、総司の幼稚園に持って行くお弁当を作る。手まめなママのような凝ったものはできない。毎度ハムや海苔を型で抜いて、タコウインナーを飾る程度が関の山だ。それでもお弁当箱が可愛いから、それなりに映えるのはありがたい。

 のぞかれて、総司が恥ずかしい中身ではないはず。

お弁当を仕上げたら次は朝食だ。小さめのホットケーキを焼いて、それに昨夜のポテトサラダを添えた。

「総司もパパも起きて」

 二人を起こして回れば、七時半だ。

 総司を幼稚園のお迎えのバスに乗せた後、洗濯物を干す。夫は寝ぼけた様子でソファに寝転がり、ケータイを見ていた。

 そこで気づく。今朝は生ゴミ回収の日だった。収集が八時までだから、どんなに慌ててももう遅い。

「ああ…」

 気候がいいから臭いも気になる。溜めずに出したいのに…。口の中で舌打ちする。どうしようもなく、外のポリ容器に次まで納めておくよりない。

 ま、いっか。

 パートに出るまでのわずかな時間に、簡単に(適当に)リビングにだけ掃除機をかけた。昨日、総司がスナック菓子をこぼしていたから。

 夫が面倒そうに起き上がる。

「これ見よがしに、朝っぱらから掃除機なんかかけなくても…。嫌味かよ」

「そう見える?」

「…ああ、もうテレビが聞こえない。ニュースやってたのに、おい」

「ケータイ見てるじゃない、そっちで見れば」

「偏るんだよ、ネットは」

 普段、そんなにニュース好きでもないくせに。

 出かける際に、夫に回覧板を隣りへ回してくれるよう頼んだ。

「何で? お前が今、安田さんちにちょっとよればいいだけだろ?」

 案の定、夫からは不満の声だ。こんな些細なことも引き受けてくれないことに落胆するが、文句を引っ込めた。夫の言い分がもっともなのもわかる。

 わたしと出勤時間の被る隣りの奥さんに会いたくなかった。

「玄関先に置いてくれれば、それでいいから」

「…わかったよ」

「お願い」

 家を出ると、わたしは隣りとは反対に向け、自転車のペダルをこぐ。

 安田さんの奥さんは某保険会社のセールスレディーをしている。我が家がここに越し間もなく、近所づき合いの延長で彼女が勧める保険に加入した。ろくな保険に入っていなかったから、タイミングも良かった。

 でも夫がリストラ。いい保険だったが、毎月の掛け金を払い切れず解約してしまった。以来、どうにも態度に棘を感じる。大したものではない。挨拶を返してくれない、無視される…。といい大人が中学生みたいなもの。

 傷つくほど気にしていないが、できたら会うのは避けたかった。

 住宅街を抜ければ、パート先までおよそ半分。何も考えずにただ前を見て風を受けていれば、そのうち着いてしまう。気分はどうあれ、いつも無心で通ってきた。

 通りを注意しながらも、ここ最近は、知らず描きかけの漫画へ意識が向く。

 計画を上回って、調子よくネームが進んだことが嬉しい。既に、参加する予定のイベントの申し込みは済ませてある。

 睡眠時間を削り、できるだけ効率を考えて家事をこなす。節約して漫画を描く時間を捻出してきた。その甲斐あって、思いの外固まった時間が持て割とゆったり筆を進めることができた。

 夫が、夜更けのわたしの作業の「絵本を作ってフリーマーケットに出品してみようかと思って」という言い訳を鵜呑みに、理解を示してくれるのもありがたかった。「すごいな。できたら見せてくれよ」との言葉をもらったが、見せられる訳がない。

 商店街にさしかかった。そこからもうすぐ着く。スーパーの従業員用の駐輪所に自転車を停めた。そこでぽつぽつと雨が降ってきた。屋根がないから、急足で店内に逃げ込む。

 ただどんなに時間を工面しても、仕上がったラフを清書する、ペン入れの余裕が絶対に足りない。

 朝、苦いコーヒーを飲みながら、ここまでのペダルをこぐ間…。考えは固まった。

 鉛筆画で原稿を起こしてみるしかない。


 鉛筆画の同人誌は昔、作った経験がある。

 荒い誌面の独特な風合いが「好き」と言ってくれる読者もいた。あの頃は、それは遊び心で作ったものだった。でも今回は、明らかに時間がないための手抜きになる。

 それでも原稿は丁寧に仕上げたい。

 セリフは読み易く、ワードで打っておく。線画はぶれずにしっかりと。せめて表紙と扉絵は着色したい。水彩っぽくやってみようか……。

 過去の記憶をくるくる手繰り寄せながら、あれこれ手順を練っておく。

 懐かしくて細々したしれらに、今からわたしはひっそりわくわくしている。

 制服に着替えてすぐ、来月の勤務シフト表を提出しに店長の机に向かった。壁のホワイトボードに「P高科さんの本社見学の都合。(弁当の種類 印・洋・中どれか?)至急要!! 社長室より」と店長の字で書かれているのが目についた。

 本気だったのか、社長。

 と驚きにちょっと愕然となる。

 そこへ、肩越しにパートの山辺さんがわたしの用紙をのぞき込んだ。

「あ、おはようございます」

「あら、高科さん、第二日曜日に休み入れたの?」

「何を勝手なことしてんのよ」とも取れそうな響きの声だ。

 これまでわたしは日曜日もパートに入ることが多かった。他のパートたちは家族とあわせて休日を欲しがる。その人手の足りない分は買って出てきた。夫が毎日家にいるから、わたしの留守を総司に我慢してもらえばそれで何とかなったから。

 来月の第二日曜日は同人誌イベントの日だった。この日ばかりはどうにでも休みが欲しい。

「この日だけ用事があって…」

「困るじゃない。みんな、日曜はあんたが出るもんだって期待してんのに。それぞれ予定もあるんだから、駄目よ。書き直してよ」

 ほら、とシフト表を顎で指し、机のペンをわたしに突きつけてくる。

 お願いでも依頼でもない。この人に一体何の権限があるというのか。わたしと同じ単なるここのパートでしかないのに。

 身勝手に呆れて、二の句が継げないでいた。それでわたしが怖じけているとでも撮ったのか、押しの一手だ。

「早くしてよ。社員の子に変に見えるでしょ?」

 目の端に、ちょうど出勤してきた小林君の姿が入った。「やべ、いじめの現場に居合わせた」といった気まずい表情をしている。

 わたしは、山辺さんが突きつけてきたペンを彼女の前で払いのけた。

「ここ数ヶ月、ずっと日曜に休んだことがないの。たまの一回くらい優先させてもらいます」

 こちらの反撃が思いがけなかったのか、彼女はやや口ごもった。それでもしつこい。

「…何よ、リストラの旦那が家にいて、子供を見てくれるんでしょ? わたしたちに見栄張ることなんかないじゃない、馬鹿ね」

「それ以上シフトの変更を強要するのなら、今度本社に行ったときに社長に直談判しますから。いじめのある働きにくい環境だって」

 パールピンクに塗った山辺さんの唇がひきつるように歪んだ。社員も弱腰で好き放題できる慣れたパート先だ。失いたくはないだろう。

 絶句したままの彼女を放って、社員室を出る。出しなに、わたしが払いのけて落ちたペンを拾っておいた。

 ちょっとすっとした。

 そうだ。帰りにB4の鉛筆を買おう。


 その日は快晴で、重いショッピングバックを持つ手がじわりと汗ばんだ。

 会場となった市の⚪︎⚪︎センターはイベントの参加者であふれていた。ざっと見て、参加サークルも百は超えていそうだ。

 大ホールを東西に分け、オリジナルと二次創作系に分けて配置がされている。受付の後で配置図に従って定められたスペースに向かう。設営準備でごった返す会場はむっとする暑さだ。

「『え—38』…、ここか」

 指定のスペースの机に荷物を置き息をつく。パーカーを脱いだ。二脚あるスチール椅子の一つに掛け、ペットボトルの水を飲んだ。

 左隣りのスペースは開いたままだった。右隣りのサークルに「よろしく」と会釈をしておく。若い二人の女性で、成人していそうだが学生風だ。

 礼儀正しく挨拶を返してもらい、朗らかに問われた。

「お一人の参加ですか?」

「ええ…、久しぶりで…、その…」

 我知らず赤面して口ごもってしまう。ごうつくばりのおばさまには強気でいられるのに。

 こういったお嬢さんと言いたいような若い子の前では、今更にこの場にいる自分に照れが出る。彼女らが仮に二十歳だとして…、「世が世なら親子だよ」などと、つばの広い帽子の影で自虐に苦笑する。

 一人の参加で売る本もわずか一種。開場まで時間がないが、慌てることはない。ショッピングバックのコピー本を平積みに並べ、値札を置くだけ。

 製本に時間を取られ、宣伝用のポスターすら用意できなかった。代わりにもならないが、B6サイズの名刺代わりのチラシだけは作ってきた。それをコピー本の扉にちまちま挟む作業を始める。それもほどなく済んでしまう。

 開場のアナウンスが聞こえた。それを潮にフロアを徐々に喧騒が広がり満ちていく。途端に人であふれ出す辺りの光景に、どきんと胸が鳴った。

 期待がないと言えば嘘になる。

 あの過去が財産だとして、その幾ばくかを引き出し当てにして、わたしはここにいる。頬をほんのり上気させ、心をときめかせていた。

 でも、あの頃とは違う。時代も、自分も。

 それをよくわかっているはず。総司のおもちゃを買うお金が欲しいと思ったのが動機だ。それが思いがけず、忘れていた漫画を描く楽しみ興味、情熱を目覚めさせた…。

 まず描きたくて漫画に向き合ったのではなく、お金を得る手段にしようとした。昔とは違う。

 ねえ、ちゃんとわきまえているから。

 長く吐息し、気持ちを落ち着かせる。

 気負わずのんきにやろう。何もお客が全部うちを見てくれる訳などないのだから…。

 ショッピングバックに忘れていた例の物を取り出し、机にちょこんと置いた。ココットに少しだけ植え替えたビオラだ。ポスターもない我が極小サークル『スミレ』の看板がわり。

 昔、相棒の千晶とやっていた『ガーベラ』のときも小さなグラスにガーベラを二本挿していた。

 楽しかったあの頃を懐かしみ、そして今日のゲン担ぎに…。

 ほら、過去の輝きをまた引き出している。

 飲みかけのペットボトルの水をちょろりとビオラにかけた。そこで、スペース前に立つ人影を感じた。

 顔を上げる。

「いらっしゃいませ」

 自然に声が出た。

 とくんと鼓動が跳ねる。

 あの頃と本当に違うのだろうか。
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