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セカンド
2、元気出そう
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『ご覧になりました? ブログ、すんごいことになってますね!!』
そんな書き出しのメッセージがいろはちゃんから送られてきた。先日彼女を煩わせ、宣伝用に作ってもらったブログのことだ。
毎日バタバタと過ぎ、そのままチェックもせず放置してあった。彼女の言葉に思い出して、朝の時間にちょっとパソコンをのぞいてみた。
毎度大げさな表現が多いいろはちゃんのことだから、とたかをくくっていたが…、
コメント欄にはわたしの年齢をやや超えた数のメッセージが表示されていた。比較がないまでも多いように思う。
時間がない中、ざっとそれぞれ見ていく。
以前、いろはちゃんづてでわたしの同人復活に、多少なり反響があったことは聞いている。でもそれもやはり彼女フィルターの、うんと補正の効いたものだと思っていた。
しかし、実際こうして小さくない反応を目にするのはちょっとしたショックだった。思いがけず、季節外れの静電気にばちっと指先を刺激されたように。
もらったコメントのほぼ全てに「『ガーベラ』さん時代からの~』に似たセリフがあるのにも驚かされる。
『雅姫様、いつかお帰りになるのを首を長くしてお待ちしてました。
『ガーベラ』さんがもう好きで好きで。新刊を追っかけ、毎度イベントで長時間並びました。
ああ!! 青春でした(笑)…』
あんなに昔なのに…。
サークルを解消してもう十三年だ。わたし自身ですら同人を再開しなければ思い出として、過ぎゆく時間に任せ、過去にほこりを積もらせていただきだろう。
昔とは違う。千晶もいない。
でも、またわたしはペンを持ちストーリーを描き始めている…。動き出すことで息を吹きかけたように、降り積もったほこりを払えただろうか。
ふと、コメントの数々を追いながら、千晶に連絡してみようと気持ちが動いた。簡単でいい。一人でまた描いていることをちらっとはお知らせしておきたい…。
『連絡ぐらいしてやれよ』。
誰かの偉そうな声がよみがえった気がしたが、単なる錯覚だろう。あるある、よくあるやつ。
自然に心に彼女が浮かんだ。沖田さんに注意されたからではない。
全てのコメントを確認し終え、慌ただしくお礼の返事を記事を更新する。個別にお返事はし辛いが、せめてありがたい気持ちは伝えたい。
あの頃のわたしたちのことを覚えてくれていた。記憶の片隅でも残しておいてもらえたことが、こんなに時を経た今、くすぐったいほどに嬉しい。ありがたい。
わたしにとっても『ガーベラ』は青春そのもの。
せめて、どんな形であれ、気持ちと夢のあるものを描いていきたい、そう願った。
パートの短い昼の休憩にアンさんにメッセージを返しておく。
彼女がスペースを獲った次のイベントで合同誌を出す予定だ。その簡易な打ち合わせだった。
こっちの懐事情を察してくれてかお金持ちの余裕か、彼女の流儀か、
『製本は信頼の置けるいつもの印刷社に頼みたい。なのでわがままを言うお詫びに費用は全て負担させてもらう』
という旨のメッセージが来ていた。
他、『雅姫さんには表紙もお願いする上心苦しいが、以前のお言葉に甘えて、わたしの小説用に小さな挿絵を描いてもらいたい』などとも。こちらは何の問題もない。
製本代をいかがわしい店でスリリングに稼いでいる身として、彼女の恩を着せない申し出は、実にありがたい。でも、何の抵抗もなくそれに断りの返事を打っていた。
四年ほどやった昔の『ガーベラ』時代も、あれこれどんぶり勘定なところはあったが、経費と売り上げだけはすっぱり二分していた。お金の件で千晶ともめたり気まずくなったことは一度もなかった。わたしたちの相性もあったのだろうけれども。
金銭の曖昧さは少額であってもそれが負い目になったり、または不満につながり易いもの。嫌なことだが、せっかくの売れっ子サークルさんが内輪もめで喧嘩別れに至るのを幾つか見たこともある…。
お金のことは後腐れがないのが気持ちも楽だ。アンさんへは、申し出はありがたいと告げた上で、合同誌の経費は単純に二分割しようと持ちかけた。
『友だち同士でお金の貸し借りは苦手で。ごめんね。印刷所はこだわりないので、どこでもOKです。イラストも欲しだけ描かせてもらうよ』と。
この返事は飛ぶように返ってきた。
『そうよね、友だち同士でお金の貸し借り変よねえ、そうねえ。午睡の後でついうっかりしていたわ、ごめんなさい。じゃあ、印刷所の見積もりが出たらお見せするわね』
咀嚼したビキニパンを喉にやりながら、頬が緩んだ。アンさんを可愛らしい人だと思った。
メッセージを返し、昼食のビキニパンを食べれば、ほどなく昼休みは終了だ。休憩室を兼ねたロッカールームには、わたしの他パート従業員が二人いた。一人は山辺さんだ。
悪口ぎりぎりの噂話をし合う彼女らを置いて、いつも通り先に部屋を出た。ドアが閉まり切る間際だ。
「高科さん、嫌らしい人よね。前に社長のお呼びがかかってから鼻高々じゃない? わたしら一般パートとは違います~って風で、肩で風切って、何様よ」
「わかるわ~。ああいう人が愛人になるタイプなのねえ。上も下も緩そう。ガバガバ」
「ねえ? 思うわ~」
しっかり聞こえてしまったが、言い返す気も起きない。ただ、「ガバガバじゃねえよ」と胸でつぶやいてドアを閉めた。
離れてちょうど正面で社員の小林君がこちらをうかがっている。昼の休憩に入りづらくてもじもじしているのだろう。「ガバガバ~」を聞きながらではお弁当の味はしない。
何となく気が向いて、後ろ手にドアをコンと叩いた。
「社員さんがお昼に入るから、そろそろ交代した方がいいんじゃないですか?」
と声をかけた。
すぐに言語でもない、猫が踏まれでもしたような「ニャンギャッ?!」と返ってきて驚いた。わたしの要らぬおせっかいに怒っているのは伝わる。
しばらく「ニャンギャッ?!」が尾を引いてにやける。ひとしきり笑いを噛み殺した。
小さな自分の変化に気づいたのはそのとき。
短い昼休みに居心地の悪さを感じることはしょっちゅうだった。誰かの悪口が耳に入るのも同意を求められるのも、不快に思いつつやり過ごしてきた。そうやって逃げていた。辛くなくとも息のしにくい場所だった。平気なふりをしていただけ。
今は芯からどうでもいいやと思うばかり。まさか、耐性がついて居心地がよくなったのでもなし…。
そんなことより、頭を悩ませる問題は他にある。今ならアンさんと作る合同誌の件だ。その内容で実は迷っていた。
彼女が書くのはBL小説で、今度もそれを書くのは決まっている。なら、わたしもそれに合わせてBLモノを描いた方がいいのかも…。あっちのジャンルは読み手を選ぶそうだし。でもどうだろう。そっちでも描きたいネタはあるが…。わたしが描いても需要があるのかしらん?……。
ほら、そっちに気持ちをシフトしていた方が楽しい。前を向いていられる。
わたしはちょっと変わったのだろう。よりふてぶてしくなった、きっと。
気持ちが強くなることでもある。悪いばかりの変化でもない。そうなれたのは、他によりいい自分の居場所があるから。
持ち場のレジに戻りしな、社員の小林君とすれ違った。
「まだいるの?」
休憩室を指して聞く。お節介とは思いながら口をついて出た。
「はっきり言ったら? 迷惑だって。あっちは休憩時間をオーバーしてるんだし。社員でしょ」
「高科さんが言ってくれたら助かるな。あの人たち、何か怖い」
首を傾げたりするから、心なしか甘えた仕草に見えた。ふと、この彼が『紳士のための妄想くらぶ』の常連客であることを思い出す。そこで『超熟ミセス』のタマさんを熱押ししていることも…。
ベテランパートたちは「あんたの好きな『超熟』ラインじゃない」とお腹で突っ込んだ。
「時給以上の仕事はしません」
「高科さん、ちょっとアネゴっぽく見えるから、つい頼っちゃうんだよなあ…」
「まさか…、どこが?」
半笑いで熟女好きの彼を追い払った。
夕飯の片付けを終えた八時過ぎ。もう少しすれば、夫が総司と一緒にお風呂に入ってくれる。一日の終わりまであと少しのこんな時間は、ほっとした気持ちになる。
よいしょとキッチンの椅子に掛けた。ケイタイを取り出しメッセージを打ち始める。相手はいろはちゃんだ。自他共に認める現代の同人ツウに意見がどうしても欲しい。
今度のアンさんとの合同誌の件で、わたしはBLを描くべきか、否か。
正直、描く気はある。合同誌内でカップリングの統一はあった方がいいような気もする。本を買ってくれる読み手にとって、親切じゃないかと。
ただ、需要があるのかどうか。要するに、わたしが描いて読んでくれる人があるのか。ありていに言えば、売れるのかどうか…。彼女の読みを知りたかった。
その辺をこちこち文にしてみるが、上手く表現できずにまどろっこしい。いらいらしてくる。クリアを押し、直接電話することにした。出られないならそれでもいい。特に急ぎでもない。また掛け直せばいいことだ…。
ぷつっと呼び出し音が切れ、通話が始まった。
「あ、いろはちゃん? ごめんね、今平気?」
メッセージはよくし合うが、それで事が足り、電話は初めてだ。互いに生活への遠慮があるためだ。
『おう、雅姫か、どうした?』
え?
女の子には野太い声が返ってきてぎょっとなる。すぐに背後から『兄貴の馬鹿!! 人の電話に出ないでよ、勝手に! 信じられないな、もう!!…』といろはちゃんの声がぎゃんぎゃん元気に聞こえた。
沖田さんか…。
妙齢の妹の電話に出ないであげてよ。ああ、びっくりした。
「あっち行っててよ」。罵る声の後で、電話はいろはちゃんに変わった。
『雅姫さんですか?! すみません、すみません、お耳汚しを! 愚兄が、本当にオロカな振る舞いを…』
「あははは…、そんな気にしないで。お兄さん、電話に出ちゃうなんて、お年頃のいろはちゃんが心配なのかもね」
「違いますよ、きっと雅姫さんだからです。自分の方がよく知ってるみたいな先輩風ですよ。恥ずかしいんだから。残念な兄が申し訳ありません。大体、あの兄が雅姫さんとお知り合いというのが、そもそも間違い…』
「ははは…。あのね、いろはちゃん、ちょっと教えて欲しいんだけど…」
続きそうな沖田さんへの文句をやんわり遮った。要件を切り出す。
いろはちゃんは相槌もなくわたしの話をじっくり聞いた後で、
『ぜひ、お描きになるべきです』
短く断然した。何だか厳かな声で、ちょっとした神託が降りたように聞こえた。
「そう思う?」
『はい、やっぱりBLジャンルは勢いがありますよ。雅姫さんが描かれるんなら、話題性もあるし…』
そ、そこで彼女は言葉を溜めた。「こんなの、元『ガーベラ』さんでいらっしゃる雅姫さんには釈迦に説法でおこがましいんですが…」。そんな仰々しい前置きをし、わたしの描く絵がBL映えのする線だと思っていたという。
BL映え…。
よそで聞いたら、きっとおかしかったに違いない。けれど、いろはちゃんの口からこうして耳にすると、不思議な安定感が備わり、世の中にはいろんな言葉があるのだと、別な角度で謹聴できてしまう。わたしも勝手なものだ。
『せっかく、BL書きのアンさんと合同誌をおやりになるんだから、絶好の機会だと思います』
暗に彼女は、本としてはカップリングを統一するべきだと注意してくれているようだった。
「そう…。でもね、たとえば、いろはちゃんだったらBL読む?」
『読みますよ! もちろん。わたしは雑食ですから何でもイケます。あ、でもナマモノは勘弁ですけど。雅姫さんのBLなら三冊は買わせていただきます。保存用、読む用、観賞用とに。うは、嬉しい。興奮してきた~!』
「あははは、ありがたいお言葉。あのね、わたしがBL描いたりしたら、今まで買ってくれていた人が離れちゃわないかなって、ちょっと思たりもするの」
『う~ん、それはあり得ますけど…。BLは読み手を選びますからね。でも断言します。新たなファンは増えます。きっと今以上に』
「え」
BLを描くことは、『ガーベラ』も知らずわたしの本も買わない層の人たちが、興味を持ち手に取ってくれる機会を作ることだ…。彼女はそう説いてくれる。
なるほど。
説得力のある話に思わず聞き入ってしまった。
『でも、ご心配は無用かもですよ。同人ファンはわたしみたいなノーマルもBLもどっちもイケるくちが多いですから、あははは』
「ありがとう。本当にためになった! 目からウロコが落ちた」
厚く礼を言い、電話を切った。
よし、決まった。
BLを描こう。
そんな書き出しのメッセージがいろはちゃんから送られてきた。先日彼女を煩わせ、宣伝用に作ってもらったブログのことだ。
毎日バタバタと過ぎ、そのままチェックもせず放置してあった。彼女の言葉に思い出して、朝の時間にちょっとパソコンをのぞいてみた。
毎度大げさな表現が多いいろはちゃんのことだから、とたかをくくっていたが…、
コメント欄にはわたしの年齢をやや超えた数のメッセージが表示されていた。比較がないまでも多いように思う。
時間がない中、ざっとそれぞれ見ていく。
以前、いろはちゃんづてでわたしの同人復活に、多少なり反響があったことは聞いている。でもそれもやはり彼女フィルターの、うんと補正の効いたものだと思っていた。
しかし、実際こうして小さくない反応を目にするのはちょっとしたショックだった。思いがけず、季節外れの静電気にばちっと指先を刺激されたように。
もらったコメントのほぼ全てに「『ガーベラ』さん時代からの~』に似たセリフがあるのにも驚かされる。
『雅姫様、いつかお帰りになるのを首を長くしてお待ちしてました。
『ガーベラ』さんがもう好きで好きで。新刊を追っかけ、毎度イベントで長時間並びました。
ああ!! 青春でした(笑)…』
あんなに昔なのに…。
サークルを解消してもう十三年だ。わたし自身ですら同人を再開しなければ思い出として、過ぎゆく時間に任せ、過去にほこりを積もらせていただきだろう。
昔とは違う。千晶もいない。
でも、またわたしはペンを持ちストーリーを描き始めている…。動き出すことで息を吹きかけたように、降り積もったほこりを払えただろうか。
ふと、コメントの数々を追いながら、千晶に連絡してみようと気持ちが動いた。簡単でいい。一人でまた描いていることをちらっとはお知らせしておきたい…。
『連絡ぐらいしてやれよ』。
誰かの偉そうな声がよみがえった気がしたが、単なる錯覚だろう。あるある、よくあるやつ。
自然に心に彼女が浮かんだ。沖田さんに注意されたからではない。
全てのコメントを確認し終え、慌ただしくお礼の返事を記事を更新する。個別にお返事はし辛いが、せめてありがたい気持ちは伝えたい。
あの頃のわたしたちのことを覚えてくれていた。記憶の片隅でも残しておいてもらえたことが、こんなに時を経た今、くすぐったいほどに嬉しい。ありがたい。
わたしにとっても『ガーベラ』は青春そのもの。
せめて、どんな形であれ、気持ちと夢のあるものを描いていきたい、そう願った。
パートの短い昼の休憩にアンさんにメッセージを返しておく。
彼女がスペースを獲った次のイベントで合同誌を出す予定だ。その簡易な打ち合わせだった。
こっちの懐事情を察してくれてかお金持ちの余裕か、彼女の流儀か、
『製本は信頼の置けるいつもの印刷社に頼みたい。なのでわがままを言うお詫びに費用は全て負担させてもらう』
という旨のメッセージが来ていた。
他、『雅姫さんには表紙もお願いする上心苦しいが、以前のお言葉に甘えて、わたしの小説用に小さな挿絵を描いてもらいたい』などとも。こちらは何の問題もない。
製本代をいかがわしい店でスリリングに稼いでいる身として、彼女の恩を着せない申し出は、実にありがたい。でも、何の抵抗もなくそれに断りの返事を打っていた。
四年ほどやった昔の『ガーベラ』時代も、あれこれどんぶり勘定なところはあったが、経費と売り上げだけはすっぱり二分していた。お金の件で千晶ともめたり気まずくなったことは一度もなかった。わたしたちの相性もあったのだろうけれども。
金銭の曖昧さは少額であってもそれが負い目になったり、または不満につながり易いもの。嫌なことだが、せっかくの売れっ子サークルさんが内輪もめで喧嘩別れに至るのを幾つか見たこともある…。
お金のことは後腐れがないのが気持ちも楽だ。アンさんへは、申し出はありがたいと告げた上で、合同誌の経費は単純に二分割しようと持ちかけた。
『友だち同士でお金の貸し借りは苦手で。ごめんね。印刷所はこだわりないので、どこでもOKです。イラストも欲しだけ描かせてもらうよ』と。
この返事は飛ぶように返ってきた。
『そうよね、友だち同士でお金の貸し借り変よねえ、そうねえ。午睡の後でついうっかりしていたわ、ごめんなさい。じゃあ、印刷所の見積もりが出たらお見せするわね』
咀嚼したビキニパンを喉にやりながら、頬が緩んだ。アンさんを可愛らしい人だと思った。
メッセージを返し、昼食のビキニパンを食べれば、ほどなく昼休みは終了だ。休憩室を兼ねたロッカールームには、わたしの他パート従業員が二人いた。一人は山辺さんだ。
悪口ぎりぎりの噂話をし合う彼女らを置いて、いつも通り先に部屋を出た。ドアが閉まり切る間際だ。
「高科さん、嫌らしい人よね。前に社長のお呼びがかかってから鼻高々じゃない? わたしら一般パートとは違います~って風で、肩で風切って、何様よ」
「わかるわ~。ああいう人が愛人になるタイプなのねえ。上も下も緩そう。ガバガバ」
「ねえ? 思うわ~」
しっかり聞こえてしまったが、言い返す気も起きない。ただ、「ガバガバじゃねえよ」と胸でつぶやいてドアを閉めた。
離れてちょうど正面で社員の小林君がこちらをうかがっている。昼の休憩に入りづらくてもじもじしているのだろう。「ガバガバ~」を聞きながらではお弁当の味はしない。
何となく気が向いて、後ろ手にドアをコンと叩いた。
「社員さんがお昼に入るから、そろそろ交代した方がいいんじゃないですか?」
と声をかけた。
すぐに言語でもない、猫が踏まれでもしたような「ニャンギャッ?!」と返ってきて驚いた。わたしの要らぬおせっかいに怒っているのは伝わる。
しばらく「ニャンギャッ?!」が尾を引いてにやける。ひとしきり笑いを噛み殺した。
小さな自分の変化に気づいたのはそのとき。
短い昼休みに居心地の悪さを感じることはしょっちゅうだった。誰かの悪口が耳に入るのも同意を求められるのも、不快に思いつつやり過ごしてきた。そうやって逃げていた。辛くなくとも息のしにくい場所だった。平気なふりをしていただけ。
今は芯からどうでもいいやと思うばかり。まさか、耐性がついて居心地がよくなったのでもなし…。
そんなことより、頭を悩ませる問題は他にある。今ならアンさんと作る合同誌の件だ。その内容で実は迷っていた。
彼女が書くのはBL小説で、今度もそれを書くのは決まっている。なら、わたしもそれに合わせてBLモノを描いた方がいいのかも…。あっちのジャンルは読み手を選ぶそうだし。でもどうだろう。そっちでも描きたいネタはあるが…。わたしが描いても需要があるのかしらん?……。
ほら、そっちに気持ちをシフトしていた方が楽しい。前を向いていられる。
わたしはちょっと変わったのだろう。よりふてぶてしくなった、きっと。
気持ちが強くなることでもある。悪いばかりの変化でもない。そうなれたのは、他によりいい自分の居場所があるから。
持ち場のレジに戻りしな、社員の小林君とすれ違った。
「まだいるの?」
休憩室を指して聞く。お節介とは思いながら口をついて出た。
「はっきり言ったら? 迷惑だって。あっちは休憩時間をオーバーしてるんだし。社員でしょ」
「高科さんが言ってくれたら助かるな。あの人たち、何か怖い」
首を傾げたりするから、心なしか甘えた仕草に見えた。ふと、この彼が『紳士のための妄想くらぶ』の常連客であることを思い出す。そこで『超熟ミセス』のタマさんを熱押ししていることも…。
ベテランパートたちは「あんたの好きな『超熟』ラインじゃない」とお腹で突っ込んだ。
「時給以上の仕事はしません」
「高科さん、ちょっとアネゴっぽく見えるから、つい頼っちゃうんだよなあ…」
「まさか…、どこが?」
半笑いで熟女好きの彼を追い払った。
夕飯の片付けを終えた八時過ぎ。もう少しすれば、夫が総司と一緒にお風呂に入ってくれる。一日の終わりまであと少しのこんな時間は、ほっとした気持ちになる。
よいしょとキッチンの椅子に掛けた。ケイタイを取り出しメッセージを打ち始める。相手はいろはちゃんだ。自他共に認める現代の同人ツウに意見がどうしても欲しい。
今度のアンさんとの合同誌の件で、わたしはBLを描くべきか、否か。
正直、描く気はある。合同誌内でカップリングの統一はあった方がいいような気もする。本を買ってくれる読み手にとって、親切じゃないかと。
ただ、需要があるのかどうか。要するに、わたしが描いて読んでくれる人があるのか。ありていに言えば、売れるのかどうか…。彼女の読みを知りたかった。
その辺をこちこち文にしてみるが、上手く表現できずにまどろっこしい。いらいらしてくる。クリアを押し、直接電話することにした。出られないならそれでもいい。特に急ぎでもない。また掛け直せばいいことだ…。
ぷつっと呼び出し音が切れ、通話が始まった。
「あ、いろはちゃん? ごめんね、今平気?」
メッセージはよくし合うが、それで事が足り、電話は初めてだ。互いに生活への遠慮があるためだ。
『おう、雅姫か、どうした?』
え?
女の子には野太い声が返ってきてぎょっとなる。すぐに背後から『兄貴の馬鹿!! 人の電話に出ないでよ、勝手に! 信じられないな、もう!!…』といろはちゃんの声がぎゃんぎゃん元気に聞こえた。
沖田さんか…。
妙齢の妹の電話に出ないであげてよ。ああ、びっくりした。
「あっち行っててよ」。罵る声の後で、電話はいろはちゃんに変わった。
『雅姫さんですか?! すみません、すみません、お耳汚しを! 愚兄が、本当にオロカな振る舞いを…』
「あははは…、そんな気にしないで。お兄さん、電話に出ちゃうなんて、お年頃のいろはちゃんが心配なのかもね」
「違いますよ、きっと雅姫さんだからです。自分の方がよく知ってるみたいな先輩風ですよ。恥ずかしいんだから。残念な兄が申し訳ありません。大体、あの兄が雅姫さんとお知り合いというのが、そもそも間違い…』
「ははは…。あのね、いろはちゃん、ちょっと教えて欲しいんだけど…」
続きそうな沖田さんへの文句をやんわり遮った。要件を切り出す。
いろはちゃんは相槌もなくわたしの話をじっくり聞いた後で、
『ぜひ、お描きになるべきです』
短く断然した。何だか厳かな声で、ちょっとした神託が降りたように聞こえた。
「そう思う?」
『はい、やっぱりBLジャンルは勢いがありますよ。雅姫さんが描かれるんなら、話題性もあるし…』
そ、そこで彼女は言葉を溜めた。「こんなの、元『ガーベラ』さんでいらっしゃる雅姫さんには釈迦に説法でおこがましいんですが…」。そんな仰々しい前置きをし、わたしの描く絵がBL映えのする線だと思っていたという。
BL映え…。
よそで聞いたら、きっとおかしかったに違いない。けれど、いろはちゃんの口からこうして耳にすると、不思議な安定感が備わり、世の中にはいろんな言葉があるのだと、別な角度で謹聴できてしまう。わたしも勝手なものだ。
『せっかく、BL書きのアンさんと合同誌をおやりになるんだから、絶好の機会だと思います』
暗に彼女は、本としてはカップリングを統一するべきだと注意してくれているようだった。
「そう…。でもね、たとえば、いろはちゃんだったらBL読む?」
『読みますよ! もちろん。わたしは雑食ですから何でもイケます。あ、でもナマモノは勘弁ですけど。雅姫さんのBLなら三冊は買わせていただきます。保存用、読む用、観賞用とに。うは、嬉しい。興奮してきた~!』
「あははは、ありがたいお言葉。あのね、わたしがBL描いたりしたら、今まで買ってくれていた人が離れちゃわないかなって、ちょっと思たりもするの」
『う~ん、それはあり得ますけど…。BLは読み手を選びますからね。でも断言します。新たなファンは増えます。きっと今以上に』
「え」
BLを描くことは、『ガーベラ』も知らずわたしの本も買わない層の人たちが、興味を持ち手に取ってくれる機会を作ることだ…。彼女はそう説いてくれる。
なるほど。
説得力のある話に思わず聞き入ってしまった。
『でも、ご心配は無用かもですよ。同人ファンはわたしみたいなノーマルもBLもどっちもイケるくちが多いですから、あははは』
「ありがとう。本当にためになった! 目からウロコが落ちた」
厚く礼を言い、電話を切った。
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