ため息とあきらめ、自分につく嘘〜モヤモヤは幸せのサイン?!〜

帆々

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セカンド

3、青天の霹靂

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 その日、そろそろパートの上がりかけの頃だ。急遽、社長の店舗巡回が視察が行われた。

 どういう風の吹き回しなんだろう。午後四時に近く、スーパーは混み始める。その中を、社長は秘書の女性を伴いながらうろうろ眺めている。

 やりにくいったらないが、それで呼び出しを受けたり注意されることもなく、彼らは帰って行った。

 社長の顔を見れば、嫌でも贈られたブランドバックを思い出す。それについても、個別で苦情もなかったのでほっとした。偉い人のほんの気まぐれだったのだろう。

 定時にダッシュで店を出る。そのまま自転車をこぎ、今度は次の仕事へ向かう。この後は二時間の予定で例のバススタッフを務めるシフトになっていた。

 たったの二時間でも時給が高く、稼げる。こつこつ通えば、時期数万円の副収入になる。

 ただ、これで得たお金は家計に回さず、同人活動の経費に使うことに決めている。同じ給金であるのに、湯気に立つバスルームで半裸になって稼ぐお金で、総司におもちゃやお菓子を買い与える気持ちにはならなかった。

 このお金でもって同人誌を作り、それで儲けた売り上げでなら、たとえば焼肉でも食べさせたい気持ちになるのに…。意固地な気持ちの偏りの意味が、自分でもよくわからない。

 控え室にはナナコちゃんがいた。漫画雑誌を読んでいて、「読んでいいよ。ナナコ読んだから」と回してくれる。千晶が描いている雑誌とは別の本だ。

「ありがとう」

 ぱらぱらページをめくるうち、指名がかかった。バスタオルがきつく身体に回っているのを確認し、持ち場へ向かった。

 決まり切った手順だ。すりガラスの向こうでお客が座ってこちらを見ている。見える訳でもないが、背を向けてシャワーの湯を身体に当てていく。何度もやるうちに慣れてきて緊張もない。夕飯のメニューや同人誌のBLネタに気持ちがいっていたりする。

 そろそろ時間かな…。

 ちらっとすりガラスへ目をやった。気味の悪い光景に手の中のシャワーヘッドが滑り落ちそうになる。

 お客がガラスにぺたりとへばりつき、こちらを見ている。こんなことはたまにあった。そういう時は『ヘルプボタン』を押すことになっている。押せば、スタッフルームのアラームが鳴り、ボーイが来てくれる手筈だ。

 ボタンに手を伸ばし突起に指を置いた。そこでガラスがどんどん叩かれる。ボタンを押す指に力が入る。

 お客はしつこくガラスを叩く。気持ち悪いが怖いもの見たさもあった。顔を背けつつ、曇ったすりガラスの向こうをよく見た。

 え?!

 パート先の社長だった。

 あまりに意外で、シャワーヘッドが今度は手から滑った。バスタオルまでもがぬれた重みで足元に落ちる。慌てて乾いたバスローブを身体に巻きつけた。シャワーを止める。

 ボーイが廊下をやってくる音がした。一人ではないようだ。ほどなくすりガラスの向こうの小部屋のドアが開いた。ボーイ二人に、社長が慇懃だがしっかり連れ出されていくのが見えた。「他のお客様のご迷惑になります」お客の迷惑行為への第一段階の常套句だ。

 それで効かない場合は「リスク対応専門家」と呼ばれるスペシャリストが呼び出されるらしい。そこまでのトラブルをわたしはこの店で経験したことがなかった。

 部屋を出された社長が廊下でわめいている。

「あの女を出せ! わたしは知ってるんだ。こんな店で働かせて許されると思っているのか! あの女を出せ! 話があるんだ。知った女なんだ!」

 通気の悪い廊下を大声が響く。その声に、熱った身体を悪寒が走った。

 どうして社長にここがばれた?

 意味のわからない展開だった。わたしはうろたえて、腕を抱きながら唇を噛み続けた。

 どうしよう。

 どうしよう…。

 そこで、ノックが三度。返事もできないでいると、「あたし」と声がした。スガさんの声にロックを解き、ドアを開けた。

 般若柄のシャツの彼は大柄でこわもての顔に坊主と相まって、どこぞの筋の「リスク対応専門家」そのものだ。

「大丈夫? あれ、スミレちゃんの知り合い?」

 手短かにパート先の社長であると説明した。「ふうん」とスガさんは太い腕を組んだ。

「今、スタッフルームに監禁してるの。女を出せ、説明させろってうるさいのよ。何? あれとデキてるの?」

 わたしはぶるぶる首を振った。デキてる度胸と柔軟さがあれば、ここで働かずに社長からお手当をもらってやり繰りしている。

「ま、そうよね」

 スガさんはふふっと笑う。「追い返しといてあげる」と言うから、「すみません、お願いします」と返した。


「あのね、スミレちゃん、びっくりさせるけど」

 彼の次の言葉は、本当にわたしをぼうぜんとさせた。「旦那さんが来てるの」と。

「迎えに来たんですって。会いたくなかったら、こっちも帰すけど」

 どうして?

 言葉が出ない。

 次々にことが起こり過ぎ、それぞれがまた壮絶で、頭の処理が追いつかない。

 立ち尽くすわたしの様子に、スガさんがうかがうように声を落とした。

「訳あり? 何だったら、立ち会うわよ」

 それに答えも返せず、わたしは夫がどこにいるのかをたずねた。今ボーイが案内して、空いている二番ボックスに待ってもらっているという。

 噛み続けている唇に感覚はない。

「ともかく、着替えなさいな。ね?」

 スガさんの勧めに何とか頷気、バスルームを出た。スタッフルームのドア越しに、社長の怒鳴り声がする。「わたしの知った、わたしに関係のある女なんだ。だから直接話をさせろ!」

 もう嫌。

 聞き苦しくて、顔をおおった。

 控え室へ戻りしなに肩をつかまれた。その力が強引に振り向かせる。

 そこにあった姿を前に、今度こそ驚きに心臓が止まるのではないかと思った。

 沖田さんだった。

「どうする?」

 と、スガさんがわたしの脇をちょんとこづいた。「ご亭主とこのまま帰る?」と聞くから、仰天する。

 ご亭主?

 誰が?

 誰の?

 立ったままのわたしの頬を、初めて見る「ご亭主」がぱちんと軽くぶった。

「さっさと着替えてこい。帰るぞ」

控え室に戻るとタマさんの姿があった。

 わたしはぬれ髪をタオルで拭い、下着をつけてから羽織ったバスローブを落とした。服を着るわたしとは逆に、タマさんは支度に脱いでいる。

 追い返されたらしく、社長のわめき声はもう聞こえない。しかし、ついさっきまで響いていた。タマさんだって耳にしたに違いない。店内の様子から、騒ぎの元凶がわたしであることも想像がつくはず。

 問わない触れないながらも、わたしへの視線がこれまでとは違う。距離を置くようにもまた探るようにも感じられた。

「スミレちゃん」

 小さい声だ。顔を上げれば、バスタオル一枚になった彼女が鏡の前で口紅を直していた。「近くは駄目よ」と言う。

「主婦が家族に黙ってこんなところで稼ごうと思ったら、普段の生活圏から出ないと。パートの帰りに近所でもう一稼ぎ、なんて横着しちゃ駄目よ。どこにどんな目があるかしれない」

 その言葉に今更ながらぞっとした。社長は、彼女の示唆するようにパート帰りのわたしの跡をつけたのかもしれない。最初の方こそひと目を気にし緊張して通ったが、慣れるうち、その警戒心も緩みがちだった。

「うん…」

「ここでの勤めがばれても、わたしたちはしばらく気まずいだけ。でも、知った家族はどう? …傷つけちゃ駄目よ」

 返事のしようがなく、わたしはうつむいてうんと小さく頷いた。

「どういう理由であれ、ここで働くのを決めたのは自分でしょ? 今の時分、売られた訳でもなし。ならその責任は負わないと。いい大人なんだから…」

 タマさんの言葉はいちいちもっともだった。頭の後ろをげんこつでゴツンとやられた気分だった。わたしはこういった仕事への見方も甘く、舐めていた節がある。そこを彼女は見抜いていたようだ。

 いい年をして今更「初めてだから」、「素人の主婦だから」といった言い訳はみっともないだけだ。

「そうね、ありがとう」

 タマさんからの返しはない。指名の入った呼び出し声がして部屋を出て行った。多分、もう会うこともない。

 自分が彼女の年になったとき、同じほど重みのある言葉を、必要な身近な誰かにかけてやることができるのだろうか。自分を訝しく思う。

 着替えを終えてスタッフルームに顔を出した。スガさんに今日のことで詫び、勤めをこれで終わりにしたいと切り出した。とてもじゃないが続けられる状況ではない。

「急ですみません」

「急いで結論を出さなくても、と言いたいけど…、まあ無理よね」

 あっさりと解放してくれた。こういった職場では人の出入りも激しいのだろう。

 スガさんはひげ剃り跡が残る顎をなぜながら、「あれ」と窓を外を目で示した。外には沖田さんが待っているはずだ。

「旦那じゃないでしょ?」

「え」

 すんごい慧眼だ。ぽかんと開いた口がふさがらない。

「そんな驚かないでよ。さっきスミレちゃん、びっくりするばかりで、一度もあの旦那に謝らなかったじゃない。言い訳もしないし。すぐピンときた。ふふ、いい男よね。ちょっと味見したくなるタイプ」

「へ?」

「あれ、彼氏?」

「は?」

「あれ、違うの?」

「まさか。昔の、…知人です」

「昔の男ね、はいはい」

 スガさんはそれ以上の問いを省き、今日までの給金の入った袋を渡してくれた。

 礼を言って受け取ると、意味ありげに笑う。

「昔の彼には謝っておきなさいよ、ちゃんと」

「へ?」

「お疲れ様、またね」

 そこは男を感じさせる大きな手のひらで肩をぽんと叩く。そのまま部屋の外へ押しやるように促した。

 狭いエレベーターに乗り一階まで降りる。ビルの前で沖田さんがズボンのポケットに手を入れ、立っている。スーツなので仕事の途中らしく見える。

 わたしがそばに行くと気配に振り返った。まだむっとした怒った顔をしている。黙って手首をつかみ、往来へ引っ張った。

「ちょっと…」というわたしの声と彼の「お前な…」がかぶさった。

 薄暮時にも早い時間、裏路地の看板には早々とネオンが灯されている。呼び込みが立ち、独特の声音で通行人へ声を投げていた。その人々の視線を感じたが、それどころでもなかった。

 彼がどうしてこの場にいるのか、全く意味がわからない。その上「夫」と言い現れ、挙句にこの仏頂面とくる。

「あの、沖田さん…」

 と、彼が足を止めた。やはり手首はつかんだままだ。「ちょっと」と振りほどこうとして気づいた。沖田さんはわたしの声に足を止めたのではない。

『のぞき穴』という店の看板に身を隠している(隠れていないが)社長の姿が見えた。こっちを凝視している。ギンギンな視線はまっすぐにわたしに向いていた。

 正視できず、反射的に沖田さんにつかまれた手首ごと顔に押し当てた。気味悪さに肌が粟だった。

「雅姫、あれは何だ?」

 沖田さんが小声で聞く。わたしは指の関節を噛み「社長」と答えた。

「シャチョー?」

 カタカナ英語のような音で問い返す。

「月、幾らもらってたんだ?」

 押し殺した声がそんなことをきく。まあ、アノ店の後でコレだ。自然、わたしという女がそういう生き方をすると見えたのかもしれない。

 不機嫌に、単にパート先の社長だと答えた。

「単なるパート先の社長が、何で?」

 彼の声はまだ疑わしだ。それで経緯をはしょって教えた。

「ふうん」

 そんなやり取りをしている間にも、社長はなおギンギンな目のままこちらとの距離を詰めてきていた。

 どうしよう。

「ちょっと待ってろ」

 沖田さんはわたしの手を放し、社長の方へ歩いていく。社長を相手に何をする気なのか、気になってわたしも少し後を追う。

「あんたはあの女の何なんだ? 店の経営者か? あの破れボウズの仲間か?」

 から始まり、「わたしの知った女なんだ。あんな店で働くなど許せない。女と話をさせろ…」
 ここにいる説明もない。要領を得ずくだくだしいばかりだ。

「こんな不埒な副業が家の者に知られてみろ、大事になるぞ。だから、わたしと話を…」

 社長のそれ以上の声を遮り、沖田さんはあっさり、

「雅姫の夫です。迎えに来たんですが、何のご用でしょうか?」

 と、ここでも「夫」で通す。

 沖田さんの言葉は予想外だったらしい。社長はむっつり黙り込んだ。抗弁を言いあぐねて唇をもじもじと動かしている。それでも目はまだ、じろじろとわたしを見たままだ。

 気持ちの悪い視線から逃れるように沖田さんの背に隠れた。ごく短い会話を終え、沖田さんはわたしへ振り返った。

「帰るぞ」

 と、再び手首をちょっと乱暴なほどにつかんだ。「痛い」と振りほどきたかったが、まだ社長の視線を意識もしていたため、おとなしく従った。
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