ため息とあきらめ、自分につく嘘〜モヤモヤは幸せのサイン?!〜

帆々

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セカンド

4、過去と今の中で

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 路地を外れ、ようやく手が解かれた。取り戻した手首はやんわり赤くあとがついていた。

「ちょっと話せるか?」

 その声ははまだ硬い。

 時間はあった。本来ならバススタッフをもう一時間ほど勤めることになっていた。わたしも、彼がなぜあの店にやって来られたのか知りたかった。「夫」だと偽った訳も聞きたいと思った。

 商店街とは筋の違う方に駐輪所を兼ねた小さな広場があった。駅前を何となく歩き、そちらへ足が向いた。

「暑いな」

 西陽が照るその場所は、子供ですら姿がまばらだった。高校生らしい女の子が二人話し込んでいる。車止めが出入り口にぽんぽん配置されていた。ベンチにちょうどよく、そこにわたしが腰をもたせかければ、すぐに彼が、

「何か冷たいもの買ってくる。逃げるなよ」

と走って行った。広場をでてほどなくコンビニがあったはず。

 わたしはバックから帽子を出してかぶった。日除けと、気まずい出来事の後でこれから彼と過ごす時間の照れ隠しもあった。

 小さなビニール袋を提げ、沖田さんはすぐに戻ってきた。「ほら」と突き出してくれた物に思わず笑みが出た。『ガリガ⚪︎君』だった。

 ちょっとした驚きで受け取りかねていると、差し出したグレープ味を自分のソーダ味に替えてくれた。

 そんなのじゃないのに。どっちだっていいのに。

 値ごろなアイスキャンディーにほっと気持ちが和んだ。

 さっそくかじりつく彼を見ながら、わたしも封を開けた。舌に冷たい角を触れさせる。これをよく食べた昔のイベント会場の暑い匂いが、ふっと鼻の奥によみがえりそうに思う。

「まだ好きだったの? これ」

「好きなものは変わらないだろ」

「いい年をして」

「年は余計だ」

 半分も食べた頃、彼が声を落とした。「正直に言ってくれ」と切り出す。

「ん…?」

 わたしに視線を向け、すぐに戻す。ガリガ⚪︎君の残りを一口に頬張った。苦い物でも飲み込むようだ。すぐに喉にやる。

「誰にも言わない。お前…、あの店で身体を売ってたのか?」

 へ?

 思いがけない問いだった。瞬時、意味を受け止めかね、ほんのちょっとあぜんとした。

 すぐに意味を咀嚼する。ガリガ⚪︎君を唇に当てながら彼を見れば、伏せがちな目でわたしをうかがっている。

 そんな訳ねえよ。

 喉の奥にぷつぷつ込み上げる笑いを押し込めた。

「だったらどうなの?」

 返事はない。言葉の代わりに、食べ終わったアイスの棒を歯でぎりぎりと噛んでいる。その棒に、彼の意識しない『一本当たり』の焼印が見えた。この人は人生のあちこちで運のいい人なんだろうな、とちょっと思う。

「いろはちゃんと今後つき合うなって言いたいのなら、もうお宅にもお邪魔しないし、連絡もこっちからはしな…」

「そんなことを言ってるんじゃないだろ!」

 大きくはないがはっきりとした怒声だ。それが彼の側を向いた頬をぴしゃりと打つ。小さくない衝撃だ。怒ったせいで、彼が足元に落としたアイスの棒を拾い上げ、

「当たってるよ」

 と差し出した。そして、ついでにきっぱりと身体など一度も打ったことがないと否定した。あの店のシステムを簡単に説明しておく。

 それを聞く彼はまるで門外漢らしく、目を丸くしている。

「沖田さん、風俗行かないんだね」

「行かねえよ」

「専務は行けないか」

「専務は関係ないだろ」

「あははは」

 そこで今度はわたしが彼に問う。どうしてあの店に勤めていることを知ったのか…。

 それに彼は「うん…」と言いよどんだ。

「何?」

「うん…、ちょっとお前に話したいことがあって、パート先のスーパーまで行ったんだ。時間も空いてたし、仕事中ならいるだろうと思った」

 彼には前に会ったとき、普段夕方まで近所のスーパーでパートをしていると話していた。でも、スーパーの名前や場所は伝えていないはず。

 変な顔をしたのだろう。彼はそれに「住所で見当をつけた」と言う。地図で、わたしの住所から近いスーパーは三軒だ。互いにそう距離もない。三軒とも確認するつもりで足を運んだら、一軒目で当たりだったのだとか。

「ふうん」

「四時過ぎかな、ちょうどお前が自転車で出てきた。声をかけようと思ったら、あれが見えた」

「あれ?」

「さっきのシャチョー」

 ああ。

 そこで話がつながった。わたしの跡をつける様子の社長を見て、沖田さんもその跡を追ってきた。そうしてあの『紳士のための妄想くらぶ』にたどり着いた訳だ。

 商店街は人が増える時間帯だ。わたしはほどなく駅の駐輪所に自転車を停め、こそこそあの路地に向かう。なので、徒歩で自転車を追うのも困難でもなかったらしい。

「旦那と名乗ったのも、そう言えば、店からお前を連れ出すのに都合がいいと思った。あのシャチョーを納得させるためにもな」

「ああ」

 なるほど、そういうことか。

 夫役の沖田さんの登場がなければ、あの社長は簡単には引き下がってくれなかっただろう。『のぞき穴』の看板の陰からこっちを見た粘ついた視線。あれを今も感じそうでうすら寒くなる。

「お前、もうパート辞めろ。あのまま引っ込んでるか? あのシャチョーが。いい地位の男があんなことするなんて、相当お前にのぼせてるぞ。あんな様子を見て、俺はてっきりそういう仲かと…」

「止めてよ」

 わたしは沖田さんをにらんだ。スガさんにも言ったが、社長のお手当の付く「持ち物」に収まる覚悟があるくらいなら、最初っから面倒なバススタッフなんかやっていない。誰にも知られず、もちろん自分も傷つけることも避けたい…。そういった条件を満たしていると思たのが、あの仕事だった。

 何も持たないようで、案外失うものがあることに気づく。

 確かに、沖田さんの言う通り、社長の今後の出方は気になる。おかしな人は元々だが、今日の行動といい、エスカレートしそうで怖い。

「お土産のバックを返したんで、逆恨みされたのかな…。プライドを傷つけたとか。もらっとけばよかった?」

「一緒だろ。雅姫が受け取ってれば、それはそれで、あっちなりにゴーサインと取ったかもしれない」

「もっと若い子狙えばいいのに。何でわたしかな…」

「人の趣味なんて様々だろ」

 沖田さんはわたしの帽子のツバを指でぴんと弾く。その表情はもう緩んでいた。

 彼はまたパートを辞めるべきだと繰り返した。「シャチョーとの接点は断つべきだ」と。

 それに返事を返せなかった。

 今と同じほどの距離の、拘束時間の…、と条件を挙げればすぐに働ける場などなかなかない。あの職場に未練はない。あるのはそこで得られる収入にだ。

 パートでなくフルに働ければ一番いいのはわかっている。だが、夫が不平を鳴らすのが目に見えている。それで喧嘩になったことが何度もある。何だっていい、彼の仕事が早々に決まってくれれば。わたしの肩の荷もうんと軽くなるのに…。

 食べ終えたアイスの棒を唇に当てたまま、つい視線は下を向く。

「…金に困ってるのか?」

「うん…、まあ、ね」

 沖田さんを相手に見栄を張っても仕方がない。夫がリストラに遭い、一年にもなるのだと打ち明けた。

「そうか…」

 今度は彼が黙った。

「なかなか決まらないみたい。わたしは何でもいいんだけどね。でも、本人はそうは行かないだろうし…。沖田さんの目にもそんな風に映るんだ」

「いや、そういうんじゃない。ただ、お前がらしくもなく同人誌の売り上げを気にして、うちのいろはの言うことなんかありがたがってるし…。それでつい気を回した。雅姫、次BL描くんだってな?」

「何で知ってんの? 沖田さん」

 びっくりして問えば、いろはちゃんが「雅姫さんのBL!!」、「神の御手なるBL!!」と大興奮してくれたという…。

 ははは。

 しかし、さすが元少女向け漫画編集者(同人ヘッドハンターとも)。『BL』なんて単語がさらりと出てくるところがすごい。そんな四十男性なかなかいないと思う。

「お前、やおい嫌いじゃなかったか?」

「そんなことないよ、描いてなかっただけで…。勢いあるんだって、あのジャンル」

「そうだな。うちだって幾つもレーベル出してる」

 そこでわたしのケイタイが鳴った。メッセージがきたようだ。

 好きな漫画を描いてそれが売れて家計の足しにでもなるのなら、ぜひそうしたい…。そんなことをバックからケイタイを取り出しながら伝えた。沖田さんは事故に遭った猫を見るような目でわたしを見ている。

「本を作るお金が欲しくてあの店で働いてたの。食べたり着たりの生活のお金じゃないの…」

 メッセージはスガさんの名を表示していた。もしや、社長絡みのことで店に迷惑があったのか、と胸が押される気がした。

「ごめん」

 沖田さんの前だが、断って確認する。

「誰だ? 家の人か?」

「ううん、さっきのスガさん…」

 開けたメッセージには、『また機会があれば、気軽にお小遣い稼ぎに使ってね』とあり、下に続く。辞めた事情を考えれば、いたわりのある文句だ。どんな店であれ、スガさんのお陰で辛くなくあの仕事ができた。本を出すのに必要なお金も稼がせてもらえた。

 感謝以外の感情はわたしにはない。

 だが、

 その下が問題だった。

『アタシのチンコの味、忘れないでね><。スミレちゃん』

 あの海坊主オネエ…。

 ふと気配を感じれば、沖田さんが『チ⚪︎コメッセージ』をのぞき込んでいた。彼の頬が引きつっている。声にはならなかったが、唇が「くわえたのか?」と言ってるのが読めた。

 馬鹿。

「雅姫、まさか…」

「冗談、ああいう人なの、スガさんは。わかるでしょ、オネエのことは男同士」

「知るか」

「あははは」

 慌ててケイタイをしまう。

 どれほどか後か、沖田さんが「事務系の仕事なら一つ紹介できる」と言った。気持ちは嬉しいが、家庭のこともあり、また通える範囲ではない。贅沢を言っていられる身でもないのに、申し訳なかった。

 この話のために今日は来てくれたのだろう。

「ごめんね、せっかくのいい話なのに…」

「いや、お前が無理ならいいんだ。どうかと思っただけだから」

「ありがとう」

 暑いばかりだった西日が不意に雲間に隠れた。生ぬるい風が漂ったと思えば、ぽつんと手の甲に大粒の雨が落ちた。

 背後で高校生の女の子の、夕立を気にする明るい声がする。不意に手がつかまれた。確認するまでもない。この日何度もわたしの手首をつかんだ彼の手だ。

 いつかの記憶通り、日に焼けている。健康的で強くてしなやかな手。長く見ていなくないと思った。

 顔を上げれば、真剣な目と会う。つかんだ手をぎゅっと意味を込めるかのように握った。あんな店でもう稼ぐな。低い声が叱るように言う。

「二度とするなよ」

「しない。…多分」

「あ? 多分? 今度は殴るぞ」

 旦那でもないくせに、偉そうに。

 ややそっぽを向き、口の中で「しない」とつぶやいた。

 雨が強まる中、彼の薄いブルーのシャツにぽつんぽつんと不規則な水玉ができていく。つかまれた手を取り返し、立ち上がる。

「帰る」

「ああ」

 何となく彼を見た。雨粒で前髪がぬれ、そのしずくがこめかみを伝っていく。涙のようだと思った。ほんのちょっとそう思った。

 もう上がり始めた雨の中、並んで広場を出る。そのとき、どうしてだろうか。タマさんの言葉が頭に響いた。彼女は『紳士のための妄想くらぶ』のような店で働くのなら、家族に知られるような迂闊な真似はしちゃいけない、と言っていた。

「傷つけちゃ駄目よ」と。

 雨粒が見せたまやかしの涙からの連想だ。

 そして思う。

 ほんの隣りを行く彼を上目でうかがってみる。わたしがあの店で働くことを知って、彼は傷ついたのだろうか。

 いたずらに聞いてみたくなる。けれどもすぐにその気は削がれた。聞いて、答えをもらってどうしようというのだろう。

 仮にそうだとしても。

 またそうでないとしても。

 わたしはそれに返す言葉をきっと探しあぐねてしまう。
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