14 / 69
セカンド
5、うつむく癖
しおりを挟む
やはりパートを辞める踏ん切りはつけられずにいた。
家とパート先を往復するだけの、以前の生活に戻っただけの日々が続く。
バススタッフをしていたときは、家事や睡眠を切り詰め、時間に追われてきりきり動いていた。ただ元に戻っただけなのに、まるで余裕が生まれたように感じるから不思議だ。
時間や感情、雰囲気…。形のないものは人がどのようにそれらを受け止めるかで、重さも色合いも違ってくる…。改めてそんなことに気づき、ちょっと感心したりもした。
その空いた時間を原稿を書くことに使った。使うことの稀だったワッフルメーカーなんかを引っ張り出してきて、総司のおやつを手作りしてあげる気分にもなる。
この日もパートから帰り、洗濯物をたたんで夕飯の段取りをつければ時間が空く。ダイニングテーブルに途中の原稿を広げた。
これまでは夫の目を気にしながら、夜中にこそこそ原稿に向かっていた。照れ臭さと説明が面倒なので「友だちとフリーマーケットに手作り絵本を出す」と脚色まじりで誤魔化してきた。けれど、それもやめた。
余裕ができたとはいえ、時間は常に足りない。そして漫画を描くのはスペースを取る作業だ。言い訳しつつ、隠れて進めるのには限界もあった。
素人ながら描いた漫画でお金を得ようと思っている。真剣にそう考えていた。これからどれだけそんな生活が続くのかしれないが、夫にもある程度の理解は欲しい。
「パパ、ごめん、総司見てて」
幼稚園から帰った総司を夕飯まで見てもらうのは、もう日課になっていた。声をかけると夫はソファからあくびしながら立ち上がる。
「パパと外に行くか?」
おもちゃをひねくり回している総司を誘う。「アイス買ってやるぞ」とわたしのバックから財布を抜き出すのが見えた。アイスにつられて総司がおもちゃを放り出す。
子供を抱えた夫へ言う。
「チョコは止めて。夕飯食べなくなる」
「ふうん。総司、何が食いたい?」
「ガリガ⚪︎君…」
首をのけぞらせて総司が答える。ちょっとどきっとした。誰かさんが、好物のそのアイスキャンディーをわたしに買ってくれた記憶はまだまだ新しい。
ほどなく夫が総司を連れ、家を出て行った。
彼はわたしが外でフルタイム勤務をすることは、はっきりと嫌がる。なのに、イベントで売る同人誌のための漫画を描くことには、これといって反対もなかった。パートを合わせれば、フルタイムよりオーバーワークなのに。
「同人誌」とか「イベント」といった特殊な世界のことをよく理解していないこともあるだろう。内職程度、のような感覚なのかもしれない。
彼はわたしが稼ぐことが不満なのではない。外で正規に、以前の彼のように働く妻が嫌なのではないか…。そんなことを思うことがある。
それはそれで構わない。理由は違えど、絶対に妻は家にいて欲しいと譲らない男性だって、少なからずいるだろう。
夫の場合はどんな理由があるのか。プライドや見栄。または束縛…。そこに幼い子供がいることという実際的な事情が加わるはず。それらが組み合わさったものが、答えに近いのではないか。
どうであれ、わたしの仕事が彼にとって「内職」の域を出ない限り納得してくれる。そして描く時間を捻出する協力をしてくれるのであれば、ありがたい。それ以上何の要求もなかった。
冷え過ぎた室内のエアコンを切り、窓を開けた。狭い庭の向こうから夫の声が聞こえた。話し相手は隣りの安田さんの奥さんだ。話好きな人だからつかまってしまったのだろう。
「パパ」と総司の焦れる声が聞こえた。彼も適当にかわせばいいのに…。
意識を原稿に向ける。
広げているのは次のイベントにアンさんと出す合同誌のもの。頼まれた彼女の小説の挿絵はもう仕上げてあった。これは自分の漫画だ。タイトルこそ未定だが、最終段階に入っている。
今回からチャレンジするBLは、わたしにとって初めて描くジャンルになる。ネタからネームから、そして仕上げまで…、全てが新鮮で面白い。
舞台は幕末、キャラには有名志士たちが登場する。これは、いろはちゃん情報による人気の時代背景を参考にさせてもらった。
新参でBLを描くのは、より多くの人に手に取ってもらうためだ。なら、ジャンルだって人気があり盛り上がっているところを思い切って狙うのが、目的に適う気がする。
「人気の設定ということは、もちろんそれだけ描く人口も多いということです」。
いろはちゃんからはそう注意ももらっていた。確かに、ラーメン激戦区エリアにぽっと出が出店するようなもの。それは覚悟の上だ。
人の目に触れる機会が増えるのは何より魅力だった。メジャーなジャンルということは、言い方を変えれば、誰もが親しみ易いということでもある…。
「描いてみる。駄目元で」
と、そんな声が気楽に出たのは、錆びつつもやっぱり昔の経験からの自信だ。珍しくもない設定であるなら、自分なりの切り口や工夫を加えればいい…。物語やネームをひねくり回すのは好みだった。
六時少し前に夫と総司が帰ってきた。玄関の音を聞き、わたしはペンを置いた。そろそろ夕飯の支度にかかろう。
お茶を飲みにキッチンに入ってきた彼が、わたしの原稿をひょいとのぞいた。
首を傾げている。
ちょうど描いていたシーンはキャラ同士が包容を交わすところ。「見ないでよ」と照れ臭くて、慌てて紙を伏せて隠した。手早く片付けてしまう。
「何で? 上手いのに」
「見ないでよ」
夫の背を押し、リビングに押し返す。
「もうちょっと女の子を可愛く描かないとな。あれじゃ男にしか見えないだろ。男が男と抱き合うって、何の罰ゲームだよ」
そういう読み物のジャンルがあるんだよ。驚かせてみたくて、つい口元まで出かかった。けれど、夫がつないだ次の言葉に、わたしは声を飲み込んだ。
「うわ…、気持ちわる」
ノーマルな反応だろう。彼が責められるレベルでもない。口にする人もきっと多くある。わかっているから、
「…そうだね」
と、気持ちがこもらないまま相槌が打てた。
でも冷静に思う一方、心の別な場所でふつふつと怒りに似た感情が泡立ちそうになる。
その気持ちの悪い漫画を、わたしは頭をしぼって懸命になって描いている。それで生活費を稼ごうとしている。
そのわたしも、やっぱり気持ちが悪いのかな?
ねえ?
その同人誌即売会は、東京某所で開催された。三日連続のイベントで、参加許可の下りたサークルは、そのいずれかの日に会場でスペースをもらえることになる。
今回のイベントではアンさんと合同誌を出す。一日都合をつけて、売り子を買って出た。
アンさんは当日、待ち合わせにわたしが現れると一瞬ぱっと顔をほころばせた。が、すぐにそれを引きしめ、真面目な声で言う。
「思い出して。イベントは合戦よ。食うか食われるかの、女の関ヶ原」
あははは…。
イベントを合戦だなんて思ったことないけど。男もいっぱいいるし。
彼女の個人秘書の影山さんに手伝ってもらい、本の搬入を済ませた。
夏本番の季節だ。会場はそれなりに空調が効いているとはいえ、人いきれでですぐにむっとしてくる。簡単な設営を終えれば、もう暑さを感じ出す。
椅子に座り、来る途中街頭で配っていたうちわを出してあおぐ。隣りのアンさんがごそごそと足元のバックを探っている。
何かを取り出してわたしへ差し出した。布地で服のように見える。柄が、彼女の着ている小花とテディベアがぎっしりあしらわれたものにそっくりだ。色違いなだけで…。
「はい、今日のユニフォームを支給するわね。トップスは着替えにくいからスカートだけでいいわ。ほら、わたしの後ろで、ささっとぱぱっとドリーミーなあなたに変身しちゃいなさいよ」
変身?
ドリーミーなわたし?
「ほら」、「早くしないと開場で、お客が来ちゃうでしょ」と当たり前の口調で急かす。
「…でも、汗かいて汚しちゃうとまずいし…、それに…、似合わないから(趣味じゃないし)、こんな可愛いの…」
「同人に一人でカムバックした若干憂い顔の雅姫さんに似合う色をと、特にセレクトしてきたの。汗なんか気にしないでよ。わたしたちの仲じゃない。ニキビと汗は青春の勲章でしょ?」
勲章じゃなくて、きっとシンボル…。
「いや、だから、わたし年だし、ね?」
「イベントは萌えと自称年齢で通る場でしょ。よって、二十四歳以上の人間はいないのよ」
「あははは」
まあ的を得た(?)彼女の意見に押され、半ば面倒にもなり折れた。
まあ、いっか。
彼女のスペースだし。わたしは今日、彼女のところの売り子だ。
若干憂い顔だというわたしに似合う色だというスカートを受け取る。ちなみにスモーキーなブルーだった。はいているバギーの上からスカートを重ね、パンツの方を落とした。
季節柄か、浴衣を可愛らしく着ているサークルさんも目につく。可憐に広がるティアードスカートもそうそう奇抜でもないかもしれない。椅子に座っていれば、上の黒いTシャツしか見えないし…。
そうこうしているうちに開場だ。わっと喧騒が辺りに広がって溶けていく。
「隣りに人がいると、気分が違う」
わたしにユニフォームを着せてご満悦なアンさんが、ぽつりともらす。彼女は昔から、いつも一人のイメージだ。それが彼女の意に適っているのだろう。ポリシーなのかもしれない。
一人サークルのメリットは、本を作るときも売るときもマイペースに気楽なことだ。
けれども、
売れた喜びも売れなかったがっかり感も。そして、このお祭りのような環境の独特の匂いも。みんな一人で味わう。
気ままの裏側で、それはちょっと寂しい。
今回は初の合同誌記念もあって、わたしの描いたイラストを元に、彼女がポスターを起こしてくれた。それを持ち、アンさんへ声をかけた。
「ちょっと宣伝に立とうか。人が来るよ」
「そうね」
どうせなら、今のこの時間を楽しもう。
本は売れた。
前もってブログで、イベントの告知と合同誌の宣伝をしておいたのが大きかったよう。「ブログで見ました」と声をかけてくれるお客も珍しくない。
全く、こんな「今どきの当たり前」を教えてくれた、いろはちゃん様様だ。
午前の終わりには多めに刷った(今のわたしにしては)本が三分の一ほどに減っていた。快挙と言っていい。初のBLジャンル、ということもあり、涙ぐむほどの感激だった。気分がふわふわと浮き立つ。
わたしの浮かれっぷりを横目に、ごくマイペース、長年のアンさんスタイルを崩さない彼女は、
「大した部数じゃないでしょ。昔を思えば屁みたいなものじゃない?」
と渋い顔だ。
「だって嬉しいんだもん」
「情けない。あの『ガーベラ』の雅姫さんっていったら、「クールジェンヌ」で通っていて、同人じゃ、あなたのファンも大勢いたのよ。それが、百もいかない数の本が売れたからって、へらへらでれでれ…。ああ、情けない。相棒の千晶さんもあなたの豹変に草葉の陰で泣いているわよ、悔しがって」
だから、千晶は元気だって。
「クールジェンヌ」…? は?
スペースには頻繁にお客が現れ、途切れることがない。申し訳ないが、スケッチブックへの書き込みなどはお断りさせてもらう。とても対応の時間がない。
おそらく、これまで『ガーベラ』を意識もしない若い女の子たちが本を手に取ってくれる。舞台背景が幕末であると知れば、「カップリングは何ですか?」と問いかけてくれる。
「ジャンル買い」「カップリング買い」をしてくれる人が少なくない。人気のジャンル効果の手応えをこのときしっかり感じた。
「はい、午前のおやつ支給」
うちの売り子は待遇がいいの。とバック(保冷機能付き?)からあずきバーを出してくれた。
「ありがとう」
遠慮せずにもらう。熱気でもわもわするから冷たいものはとってもありがたい。
交代で食べていると、お客が前に立った。
「いらっしゃいませ」
あずきバーを急いで飲み込み、声をかける。そのとき「あ」とアンさんがわたしのティアードスカートを引いた。それが不思議だった。
「あの…」
若い女性だ。二十代半ばに見えた。黒地に赤い菖蒲が印象的な浴衣姿だ。しっとりとした黒髪のボブを揺らし、お客は合同誌を指した。
「この中の幕末モノのBL、カップリングが『土方(歳三)×高杉(晋作)』だって聞いたんですが、間違いないですか?」
変な問いかけだと思った。でも、好み以外の本は絶対に買いたくない、といった人もある。「はい」と答えた。
彼女は指で本の表紙をなぜた。くっきりとアイラインで縁取った目をわたしに向ける。その目元を見て、『王家⚪︎紋章』という少女漫画に出てくるヒーローのトラブルメーカーな姉を思い出していた。
「おたくから、挨拶がまだないんですが…」
はい?
聞き間違えだと思った。
またアンさんがスカートを引いた。
家とパート先を往復するだけの、以前の生活に戻っただけの日々が続く。
バススタッフをしていたときは、家事や睡眠を切り詰め、時間に追われてきりきり動いていた。ただ元に戻っただけなのに、まるで余裕が生まれたように感じるから不思議だ。
時間や感情、雰囲気…。形のないものは人がどのようにそれらを受け止めるかで、重さも色合いも違ってくる…。改めてそんなことに気づき、ちょっと感心したりもした。
その空いた時間を原稿を書くことに使った。使うことの稀だったワッフルメーカーなんかを引っ張り出してきて、総司のおやつを手作りしてあげる気分にもなる。
この日もパートから帰り、洗濯物をたたんで夕飯の段取りをつければ時間が空く。ダイニングテーブルに途中の原稿を広げた。
これまでは夫の目を気にしながら、夜中にこそこそ原稿に向かっていた。照れ臭さと説明が面倒なので「友だちとフリーマーケットに手作り絵本を出す」と脚色まじりで誤魔化してきた。けれど、それもやめた。
余裕ができたとはいえ、時間は常に足りない。そして漫画を描くのはスペースを取る作業だ。言い訳しつつ、隠れて進めるのには限界もあった。
素人ながら描いた漫画でお金を得ようと思っている。真剣にそう考えていた。これからどれだけそんな生活が続くのかしれないが、夫にもある程度の理解は欲しい。
「パパ、ごめん、総司見てて」
幼稚園から帰った総司を夕飯まで見てもらうのは、もう日課になっていた。声をかけると夫はソファからあくびしながら立ち上がる。
「パパと外に行くか?」
おもちゃをひねくり回している総司を誘う。「アイス買ってやるぞ」とわたしのバックから財布を抜き出すのが見えた。アイスにつられて総司がおもちゃを放り出す。
子供を抱えた夫へ言う。
「チョコは止めて。夕飯食べなくなる」
「ふうん。総司、何が食いたい?」
「ガリガ⚪︎君…」
首をのけぞらせて総司が答える。ちょっとどきっとした。誰かさんが、好物のそのアイスキャンディーをわたしに買ってくれた記憶はまだまだ新しい。
ほどなく夫が総司を連れ、家を出て行った。
彼はわたしが外でフルタイム勤務をすることは、はっきりと嫌がる。なのに、イベントで売る同人誌のための漫画を描くことには、これといって反対もなかった。パートを合わせれば、フルタイムよりオーバーワークなのに。
「同人誌」とか「イベント」といった特殊な世界のことをよく理解していないこともあるだろう。内職程度、のような感覚なのかもしれない。
彼はわたしが稼ぐことが不満なのではない。外で正規に、以前の彼のように働く妻が嫌なのではないか…。そんなことを思うことがある。
それはそれで構わない。理由は違えど、絶対に妻は家にいて欲しいと譲らない男性だって、少なからずいるだろう。
夫の場合はどんな理由があるのか。プライドや見栄。または束縛…。そこに幼い子供がいることという実際的な事情が加わるはず。それらが組み合わさったものが、答えに近いのではないか。
どうであれ、わたしの仕事が彼にとって「内職」の域を出ない限り納得してくれる。そして描く時間を捻出する協力をしてくれるのであれば、ありがたい。それ以上何の要求もなかった。
冷え過ぎた室内のエアコンを切り、窓を開けた。狭い庭の向こうから夫の声が聞こえた。話し相手は隣りの安田さんの奥さんだ。話好きな人だからつかまってしまったのだろう。
「パパ」と総司の焦れる声が聞こえた。彼も適当にかわせばいいのに…。
意識を原稿に向ける。
広げているのは次のイベントにアンさんと出す合同誌のもの。頼まれた彼女の小説の挿絵はもう仕上げてあった。これは自分の漫画だ。タイトルこそ未定だが、最終段階に入っている。
今回からチャレンジするBLは、わたしにとって初めて描くジャンルになる。ネタからネームから、そして仕上げまで…、全てが新鮮で面白い。
舞台は幕末、キャラには有名志士たちが登場する。これは、いろはちゃん情報による人気の時代背景を参考にさせてもらった。
新参でBLを描くのは、より多くの人に手に取ってもらうためだ。なら、ジャンルだって人気があり盛り上がっているところを思い切って狙うのが、目的に適う気がする。
「人気の設定ということは、もちろんそれだけ描く人口も多いということです」。
いろはちゃんからはそう注意ももらっていた。確かに、ラーメン激戦区エリアにぽっと出が出店するようなもの。それは覚悟の上だ。
人の目に触れる機会が増えるのは何より魅力だった。メジャーなジャンルということは、言い方を変えれば、誰もが親しみ易いということでもある…。
「描いてみる。駄目元で」
と、そんな声が気楽に出たのは、錆びつつもやっぱり昔の経験からの自信だ。珍しくもない設定であるなら、自分なりの切り口や工夫を加えればいい…。物語やネームをひねくり回すのは好みだった。
六時少し前に夫と総司が帰ってきた。玄関の音を聞き、わたしはペンを置いた。そろそろ夕飯の支度にかかろう。
お茶を飲みにキッチンに入ってきた彼が、わたしの原稿をひょいとのぞいた。
首を傾げている。
ちょうど描いていたシーンはキャラ同士が包容を交わすところ。「見ないでよ」と照れ臭くて、慌てて紙を伏せて隠した。手早く片付けてしまう。
「何で? 上手いのに」
「見ないでよ」
夫の背を押し、リビングに押し返す。
「もうちょっと女の子を可愛く描かないとな。あれじゃ男にしか見えないだろ。男が男と抱き合うって、何の罰ゲームだよ」
そういう読み物のジャンルがあるんだよ。驚かせてみたくて、つい口元まで出かかった。けれど、夫がつないだ次の言葉に、わたしは声を飲み込んだ。
「うわ…、気持ちわる」
ノーマルな反応だろう。彼が責められるレベルでもない。口にする人もきっと多くある。わかっているから、
「…そうだね」
と、気持ちがこもらないまま相槌が打てた。
でも冷静に思う一方、心の別な場所でふつふつと怒りに似た感情が泡立ちそうになる。
その気持ちの悪い漫画を、わたしは頭をしぼって懸命になって描いている。それで生活費を稼ごうとしている。
そのわたしも、やっぱり気持ちが悪いのかな?
ねえ?
その同人誌即売会は、東京某所で開催された。三日連続のイベントで、参加許可の下りたサークルは、そのいずれかの日に会場でスペースをもらえることになる。
今回のイベントではアンさんと合同誌を出す。一日都合をつけて、売り子を買って出た。
アンさんは当日、待ち合わせにわたしが現れると一瞬ぱっと顔をほころばせた。が、すぐにそれを引きしめ、真面目な声で言う。
「思い出して。イベントは合戦よ。食うか食われるかの、女の関ヶ原」
あははは…。
イベントを合戦だなんて思ったことないけど。男もいっぱいいるし。
彼女の個人秘書の影山さんに手伝ってもらい、本の搬入を済ませた。
夏本番の季節だ。会場はそれなりに空調が効いているとはいえ、人いきれでですぐにむっとしてくる。簡単な設営を終えれば、もう暑さを感じ出す。
椅子に座り、来る途中街頭で配っていたうちわを出してあおぐ。隣りのアンさんがごそごそと足元のバックを探っている。
何かを取り出してわたしへ差し出した。布地で服のように見える。柄が、彼女の着ている小花とテディベアがぎっしりあしらわれたものにそっくりだ。色違いなだけで…。
「はい、今日のユニフォームを支給するわね。トップスは着替えにくいからスカートだけでいいわ。ほら、わたしの後ろで、ささっとぱぱっとドリーミーなあなたに変身しちゃいなさいよ」
変身?
ドリーミーなわたし?
「ほら」、「早くしないと開場で、お客が来ちゃうでしょ」と当たり前の口調で急かす。
「…でも、汗かいて汚しちゃうとまずいし…、それに…、似合わないから(趣味じゃないし)、こんな可愛いの…」
「同人に一人でカムバックした若干憂い顔の雅姫さんに似合う色をと、特にセレクトしてきたの。汗なんか気にしないでよ。わたしたちの仲じゃない。ニキビと汗は青春の勲章でしょ?」
勲章じゃなくて、きっとシンボル…。
「いや、だから、わたし年だし、ね?」
「イベントは萌えと自称年齢で通る場でしょ。よって、二十四歳以上の人間はいないのよ」
「あははは」
まあ的を得た(?)彼女の意見に押され、半ば面倒にもなり折れた。
まあ、いっか。
彼女のスペースだし。わたしは今日、彼女のところの売り子だ。
若干憂い顔だというわたしに似合う色だというスカートを受け取る。ちなみにスモーキーなブルーだった。はいているバギーの上からスカートを重ね、パンツの方を落とした。
季節柄か、浴衣を可愛らしく着ているサークルさんも目につく。可憐に広がるティアードスカートもそうそう奇抜でもないかもしれない。椅子に座っていれば、上の黒いTシャツしか見えないし…。
そうこうしているうちに開場だ。わっと喧騒が辺りに広がって溶けていく。
「隣りに人がいると、気分が違う」
わたしにユニフォームを着せてご満悦なアンさんが、ぽつりともらす。彼女は昔から、いつも一人のイメージだ。それが彼女の意に適っているのだろう。ポリシーなのかもしれない。
一人サークルのメリットは、本を作るときも売るときもマイペースに気楽なことだ。
けれども、
売れた喜びも売れなかったがっかり感も。そして、このお祭りのような環境の独特の匂いも。みんな一人で味わう。
気ままの裏側で、それはちょっと寂しい。
今回は初の合同誌記念もあって、わたしの描いたイラストを元に、彼女がポスターを起こしてくれた。それを持ち、アンさんへ声をかけた。
「ちょっと宣伝に立とうか。人が来るよ」
「そうね」
どうせなら、今のこの時間を楽しもう。
本は売れた。
前もってブログで、イベントの告知と合同誌の宣伝をしておいたのが大きかったよう。「ブログで見ました」と声をかけてくれるお客も珍しくない。
全く、こんな「今どきの当たり前」を教えてくれた、いろはちゃん様様だ。
午前の終わりには多めに刷った(今のわたしにしては)本が三分の一ほどに減っていた。快挙と言っていい。初のBLジャンル、ということもあり、涙ぐむほどの感激だった。気分がふわふわと浮き立つ。
わたしの浮かれっぷりを横目に、ごくマイペース、長年のアンさんスタイルを崩さない彼女は、
「大した部数じゃないでしょ。昔を思えば屁みたいなものじゃない?」
と渋い顔だ。
「だって嬉しいんだもん」
「情けない。あの『ガーベラ』の雅姫さんっていったら、「クールジェンヌ」で通っていて、同人じゃ、あなたのファンも大勢いたのよ。それが、百もいかない数の本が売れたからって、へらへらでれでれ…。ああ、情けない。相棒の千晶さんもあなたの豹変に草葉の陰で泣いているわよ、悔しがって」
だから、千晶は元気だって。
「クールジェンヌ」…? は?
スペースには頻繁にお客が現れ、途切れることがない。申し訳ないが、スケッチブックへの書き込みなどはお断りさせてもらう。とても対応の時間がない。
おそらく、これまで『ガーベラ』を意識もしない若い女の子たちが本を手に取ってくれる。舞台背景が幕末であると知れば、「カップリングは何ですか?」と問いかけてくれる。
「ジャンル買い」「カップリング買い」をしてくれる人が少なくない。人気のジャンル効果の手応えをこのときしっかり感じた。
「はい、午前のおやつ支給」
うちの売り子は待遇がいいの。とバック(保冷機能付き?)からあずきバーを出してくれた。
「ありがとう」
遠慮せずにもらう。熱気でもわもわするから冷たいものはとってもありがたい。
交代で食べていると、お客が前に立った。
「いらっしゃいませ」
あずきバーを急いで飲み込み、声をかける。そのとき「あ」とアンさんがわたしのティアードスカートを引いた。それが不思議だった。
「あの…」
若い女性だ。二十代半ばに見えた。黒地に赤い菖蒲が印象的な浴衣姿だ。しっとりとした黒髪のボブを揺らし、お客は合同誌を指した。
「この中の幕末モノのBL、カップリングが『土方(歳三)×高杉(晋作)』だって聞いたんですが、間違いないですか?」
変な問いかけだと思った。でも、好み以外の本は絶対に買いたくない、といった人もある。「はい」と答えた。
彼女は指で本の表紙をなぜた。くっきりとアイラインで縁取った目をわたしに向ける。その目元を見て、『王家⚪︎紋章』という少女漫画に出てくるヒーローのトラブルメーカーな姉を思い出していた。
「おたくから、挨拶がまだないんですが…」
はい?
聞き間違えだと思った。
またアンさんがスカートを引いた。
0
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
【完結】平凡OL(β)ですが、同期の末っ子御曹司(α)に溺愛されています
神無月りく
恋愛
日本外食産業の一翼を担う『川嶋フーズ』で秘書としてOL黒田鞠花(くろだまりか)は、同期で社長令息の川嶋隼人(川嶋はやと)に入社以来恋に似た憧れを抱いていた。
しかし、そもそもの身分が違う上に自分はβで、彼はα。
ただの同期以上の関係になれないまま、五年の月日が流れた。
ある日、Ωのヒートに巻き込まれて発情した彼を介抱するため一夜を共にし、それがきっかけで両思いだったことが発覚して交際がスタート。
意外に庶民的でたまに意地悪なスパダリ彼氏に溺愛され、順調にデートを重ねて幸せな日々を送っていた鞠花だったが、自分の母親からαの交際を反対されたり、彼の運命の番を自称するΩ令嬢が登場したりと、恋路を妨げる波乱に見舞われるように……
※ムーンライトノベルズ(小説家になろう)様で同一作品を連載中ですが、こちらが若干先行公開となっております。
※一応R18シーンには☆マークがついています。
*毎週土日および祝日の不定時に更新予定(ただし、1月1日~5日までは連日更新)。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
氷の参謀、うっかり拾った天使に勝てない——おやつと陽だまりで国が回る恋。
星乃和花
恋愛
【完結済:全11話+@】
冷えた石壁に囲まれた王宮作戦室。氷の異名をとる参謀アークトは、戦でも交渉でも“最短”を選び取る男。そんな彼の作戦室に、ある日まぎれ込んだのは、温室の庭師見習いソラナと、蜂蜜の香り。
彼女がもたらすのは「人と場の温度を整える」力。湯気低めの柑橘茶“猫舌温”、蜂蜜塩の小袋、会議前五分の「温度調律」。たったそれだけで、刺々しい議題は丸く、最難関の政敵すら譲歩へ。
参謀は国を守る最短を次々と実現する一方で、恋だけは“最長で温めたい”と密かに葛藤。「難しい顔禁止です」と両手で頬をむにっとされるたび、氷は少しずつ解けていく。
戦いに強い男が、掌の温度には勝てない。年の差。理性×天然のじれ甘宮廷ラブコメ。
10年引きこもりの私が外に出たら、御曹司の妻になりました
専業プウタ
恋愛
25歳の桜田未来は中学生から10年以上引きこもりだったが、2人暮らしの母親の死により外に出なくてはならなくなる。城ヶ崎冬馬は女遊びの激しい大手アパレルブランドの副社長。彼をストーカーから身を張って助けた事で未来は一時的に記憶喪失に陥る。冬馬はちょっとした興味から、未来は自分の恋人だったと偽る。冬馬は未来の純粋さと直向きさに惹かれていき、嘘が明らかになる日を恐れながらも未来の為に自分を変えていく。そして、未来は恐れもなくし、愛する人の胸に飛び込み夢を叶える扉を自ら開くのだった。
イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。
楠ノ木雫
恋愛
蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……
私が素直になったとき……君の甘過ぎる溺愛が止まらない
朝陽七彩
恋愛
十五年ぶりに君に再開して。
止まっていた時が。
再び、動き出す―――。
*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*
衣川遥稀(いがわ はるき)
好きな人に素直になることができない
松尾聖志(まつお さとし)
イケメンで人気者
*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*◦*
仕事で疲れて会えないと、恋人に距離を置かれましたが、彼の上司に溺愛されているので幸せです!
ぽんちゃん
恋愛
――仕事で疲れて会えない。
十年付き合ってきた恋人を支えてきたけど、いつも後回しにされる日々。
記念日すら仕事を優先する彼に、十分だけでいいから会いたいとお願いすると、『距離を置こう』と言われてしまう。
そして、思い出の高級レストランで、予約した席に座る恋人が、他の女性と食事をしているところを目撃してしまい――!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる