ため息とあきらめ、自分につく嘘〜モヤモヤは幸せのサイン?!〜

帆々

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ため息と吐息の違い

8、沖田さんとの夜

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 頭の中は感情が散らばっていた。

 沖田さんの腕をほどき、彼に背を向けたままでいる。急いで出て行かないと、取り返しのつかないことになる…。

 その怖さと同時に、今このときを失ってしまうことが堪らなく惜しい。ふらふらあっちにこっちに心が揺れるのが、自分にもわかる。

 反発する二つの感情がバランスを保っている。だから、拒絶もできず頷くこともできないでいる。

「…嫌なら、今のは聞き流してくれ」

 え?


 声に彼を振り返る。さっきわたしを抱き寄せた腕をやり場なくぶらりとさせている。

「心配するな。お前の迷惑考えないで、強引にどうこうする年じゃない」

 わたしの沈黙は彼には長かったようだ。背も向けていた。拒絶と取られてもおかしくない。

 それにも返事ができなかった。声が出なかった。

 代わりに指を伸ばした。垂れた彼の手に触れる前にメールの着信音が鳴る。それにはっとなりバックを探った。

 時計が終電まで五分を告げていた…。

「あ」

 五分ではすでに無理だ。このマンションすら急いでも出られるか怪しい。しまった。しかめっ面をしたわたしの頭にぽんと彼の手が置かれた。

「家まで送る。案外電車より早いかもな」

「ごめんなさい…」

 申し訳ないが断れる理由がない。もう帰る手段がない(タクシーがあるがお金がない)。

 財布くらい取ってくる、と彼がリビングに戻る。すぐに取って返した。軽くわたしへ笑顔をくれた。

「これまで通り何かあったら連絡しろ、いいな? いつかの『チンコ』に用ができたとか、あの変態シャチョーにつけられたとか。ああ、BLの濡れ場のソフトな絡め方とか…、何でもいい、な?」

 前者の二つはともかく、最後の一つを沖田さんに相談しても解決しない…。小声でぶつぶつ返した。

 聞こえないのか、彼は何も返さない。玄関ドアのレバーに手をかけた。わたしを外へ促す。

 何となく、何となく、

 心がわたしの中で懸命に足掻いているようで、切なかった。

 ぽんぽんと出たあけすけな言葉にこそ羞恥があるのかもしれない。でもそこに、彼らしいいつもの優しさが透けている。

 均衡を保ってぶらりぶらり揺れていた心が、彼へ傾いでいく。

 冷静になれ、身軽な昔とは違う…。抑えが頭をかすめはする。でも理屈では止められない。

 ねえ。

 それは心が発した声だった。「ねえ」と。

 胸の中で沖田さんを呼んでいる。もう一度何か言って欲しい。熱のある声を聞かせて欲しかった。そうせがむように願いながら唇を噛む。

 だったら、

 わたしは多分、

 きっと…。

 ドアが滑らかに開いた。同じフロアから抑えた声が届いた。「もう靴はいちゃった。自分で取ってきてよ」。

 え。

 何のことはない、生活音だ。それが不思議と耳に残る。

「~自分で取ってきてよ」。

 思わず、外へ出る沖田さんのシャツをつかんでいた。

「どうした?」

 衝動だった。振り返った彼へ自分から身を寄せた。紺のシャツの背に額を当てる。そのシャツの匂いに昔を思い出す。寒さか何かで彼のスーツの上着を借りて羽織ったことがあった。その時の匂いだ。鼻の奥につんとよみがえる。

 時間だけでない様々なものを経て、こんな今。

 変な感じ。

 つながっているような気がした。沖田さんとこれまでの時間と、わたしと。

「ねえ」

 仮にここでの彼への気持ちを抑えやり過ごす。その後、身もだえして悔やみ続けるのが分別なのだろうか。

 分別って何だろう。

 敷かれたあるべき道を外れず行くことかもしれない。その上を歩んでいる以上、後ろ暗いことなどない。でもそれが、あるとき本音とは違うと気づいたら? どうしたらいいのだろう。歩くことすら苦痛になったときは?

 それでも自分を縛り、心の声から遠ざける。そうして上辺を取り繕い続けなくてはいけないのだろうか。

 一度しかチャンスはないのだろうか。

 ドアが閉じた。

 彼が身体を向けると同時に、再びわたしを抱きしめた。

「何とかしよう、二人で考えよう」

 わたしはこんなに密に彼の言葉を聞いたことがない。それは途切れないわたしの逡巡を、彼が手のひらにすくったようなものだった。

 声の実感のある響き、強さ。不覚にも涙が出た。まただ。涙もろい女では決してないのに…。

 わたしは一人で気負っていたのだろう。夫に「しっかりしてくれよ」と投げるように言われ、実際そうするよりなかった。もがきつつ日々を送るこれまで、欲しかったのは励ましでもねぎらいでもない。

 手をつなぐように、肩を抱くように。夫婦だからこその、共に頑張ろう、乗り越えようという姿勢や声だった。それは、叶えられなくても、気休めでもよかった…。

 ただ欲しかった。

「一緒に頑張ろう」と。

 涙をしまうまでにどれほどかかっただろう。その間、沖田さんは髪をなぜ「大丈夫」と言い続けてくれた。どうでもいいが、レンタルショップで借りた総司の好きな『バカ殿』のDVDを返却しないと…。と妙なことを連想し、何とか涙を止めた。

 手の甲とハンカチで涙を始末した。赤い目が恥ずかしい。彼から顔を背けた。じろじろこっちを見るのが照れくさい。彼の中でわたしは雑で適当な女のはず。彼の前でめそめそした記憶もない。

「何?」

 気恥ずかしさでぶっきらぼうな声が出る。それに沖田さんはちょっと首を振った。

「ねえ、何?」

 重ねて問えば、渋々返しがくる。

「可愛いな、と思った」

「はあ?」

 何を言うかと思えば…。互いにいい年だ。あきれ混じりのおかし味と恥ずかしさが、じわじわ頬に上がってくる。

「「はあ?」じゃねえよ」

 照れ隠しのように「送る」とわたしを促した。拍子抜けしたが、いつまでもここにいる訳にもいかない。今度こそドアの外に出る。

 話すことはたくさんあるはずなのに、どうしてかためらわれた。数歩遅れるわたしをエレベーターの前で沖田さんが振り返って見た。ほどなくやってきたエレベーターは無人で、彼がもてあそぶように持つキーの音しかしない。

 不意にポケットにそのキーを入れ、わたしの手首をつかんだ。滑らせるように指を握る。

 それにちくちくと胸が痛い。

「指輪しないんだな、お前」

 え?

 問うように彼を見た。結婚指輪のことに違いない。家事に邪魔で、いつしかしなくなった。元々指輪をするのが好きではない。

「しなくていい」

 彼はわたしの指を束ねるようにぎゅっと握った。封じているみたいだと思った。

 それが胸に痛い。ちくんと。

 ときめいて痛い。


 言葉を交わさないまま、地下駐車場に着く。

 車の施錠を解きながら、沖田さんが口を開いた。

「俺ももう若くない」

「そうだね」

「そこ、否定しろよ。形だけでも」

「はは、つい本音がね」

 顎で乗れというように助手席を示した。乗り込んですぐ、彼の声がほんのそばで聞こえる。

「無駄に時間を使いたくないんだ」

 恋愛のことだろう。忙しい人であるし、自分で言うように若くもない。これからのために遊び弾を撃ちたくないのだろう。

 相槌を打ちがたい。耳を澄ますようにして黙っていた。車がマンションを出る頃、やっとわたしは口を開いた。聞きたかった問いだ。

「…なら、わたしでいいの?」

「いいも何も、お前しかいないからな」

 軽い返しだった。お相手に困っている風にはとても見えないのに。新品ばかりが並ぶ店先で、物好きにも倉庫の中からシーズン遅れを選ぶようなものかも…。やや自虐にそんなことを思ってみる。

「ずっと好きだった、昔から」

 ほろりと。

 何でもないことのように言う。ちらりとわたしへ視線を投げ「知らなかっただろ?」とつなぐ。

 こんな大きなことなのに。ちょっと笑っておかしな話でもするみたいに。

「お前は、コンビニに鯖寿司があるかどうかしか気にしてなかったもんな。俺らのことなんか完全にギャラリーだったよな」

 鯖寿司…。

 告白を茶化しながら話す沖田さんを眺めた。前を見る彼と目が合う訳もなく視線は逸れた。彼のキーリングが義兄のと同じものだと、どうでもいいことに気づく。

「…知らない」

 手が行き場を求めて膝のバックの取っ手をつかんだ。くしゃっと握る。

「一緒になるなら、本当に好きな相手がいい」

 告白はひどく胸に響いた。じんと胸の奥が熱くなるよう。嬉しかった。とても、とても…。

 感激して気持ちは昂るのに、心の探れないどこかがほっと安堵してもいる。最後の空いたピースが、隙間にぴたりとはまってしまった感覚にちょっと似ている。そうあると信じたかった未来が、お約束の不安や焦れの後でやはりやってきたことに。

 自分の背負ったものを顧みず、無責任な思い上がりと知っている。けれども、今に妙に納得してしまっている自分もいる。

 この人だったのだろうか…。

 なんて、ね。

「嬉しいけど…」

 そう前置きし、静かに深呼吸してから家庭のことを持ち出した。この人とつながっていたいと思う以上、避けられない問題だ。

 沖田さんがそのことをどう捉えているのか、それが知りたい。「一緒になるなら…」の言葉には真剣な意味を感じる。

 でも、もし彼が単純に恋愛のみを望むのであれば、わたしはどう応えたらいいのだろう。拒絶してしまえる自信がない。

 馬鹿だと思う。汚いと思う。

 つないでくれた手や抱きしめてくれた腕が、

 こんなそばにいながら恋しい。

 信号待ちで車が止まった。しばらく走ったように思う。ここはどの辺りだろう。土地勘がないからわからない。

 窓から暗い外を眺めた。街灯に、もう閉めたテイクアウト専門の餃子店が見える。彼のマンション近くの店舗でお土産に買ってもらったことがあったっけ。どこでも見かける気がするから、スピーディーに店舗展開しているらしい。

 沖田さんが店の脇に車を乗り入れて停めた。「喉乾かないか?」と身軽に車を出て、自販機で飲み物を買ってきてくれた。

「ありがとう」

 互いに言葉を切り、ペットボトルのお茶を飲んだ。

 通りでは「わ」というほど速度を上げて走り抜けていく車がある。

「雅姫、別れる気はあるのか?」

 不意に問われ、わたしは返事に戸惑った。

 夫と離婚することを考えたことがなかった…。

 それには総司の存在が大きいだろう。そして、いつか何かのきっかけで夫が前の夫に戻ってくれるのではないか。発芽率の低い種でも育むように、そんなことをまだどこかで考えているのかもしれない。

 夫にうんざりすることもしょっちゅうだし、いらいらもしてきた。不甲斐ないと唇も噛む。先の見えない我が家の将来が、情けなくなる毎日であるのに。

 愛情ではないと思う。それは未練に近い。どんな今であれ、わたしという存在を裏付けるものだ。それが変わってしまうことへの恐れ…。

 沖田さんは返事の遅いわたしを責めるでもなく、待ってくれる。しばらくののち、落ち着いた声が言う。

「やり直したいのなら、アドバイスくらいはできるぞ」

 ためらうのならやめた方がいいと言う。まだこちらへ「逃げ」を示してくれる。同時にそれは彼自身の保身でもあるが…。驚きも腹立ちもない。大人であればして当たり前の処世だと思う。

 同じ口が「ガリガ⚪︎君」だの「うま⚪︎棒」だの連呼していたとは信じ難い。

「生半可に稼ぐな。それが男を甘えさせる。きつい言い方だが、子供がひもじがればさすがに動くだろ。責めるのは酷だが、お前にも原因はある…」

 返事の代わりに腕をぶってやった。グーで。

 優雅なシングルの彼が偉そうに指摘したようなことは、幾度か感じたことがある。だから引っかかり頭にきたのだろう。

 なら何ができたのか。

 もっと賢いもっと人間のできた女ら、うんと上手い対処の仕方で乗り越えてこられたのかもしれない。

 でもわたしにはあれでせいいっぱいだった。漫画を描くことを思いつけずにいたら、状況はもっと悪かったもしれない。振り返ってもぞっとする。

 沖田さんは「生半可に」稼ぐなと馬鹿にするが、同人を再開したことは生活の糧のためだけではない。かつての夢も続きでもあり現実からの逃げでもあった。

「馬鹿」

 吐き捨てるような可愛げのない「馬鹿」だった。それに彼はちょっと笑う。

「お前は千晶とは違う意味でガッツがあるし、俺なしでもこれからも何とかやってくんだろう…」

「千晶とは違う意味」のガッツとは、どうせ真摯に漫画に向き合う彼女の姿と、好きな漫画すら暮らしのさもしい手段にしているわたしとの比較だろう。

「でも、そんなお前は見たくない」

 と、彼の指がわたしのこわばった頬をぽんと打った。それに、落ちていた目を上げる。

「俺の好きな雅姫じゃない気がする。多分、違った誰かなんだろう」
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