ため息とあきらめ、自分につく嘘〜モヤモヤは幸せのサイン?!〜

帆々

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ため息と吐息の違い

9、怖い未来は見たくない

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「ひどい」

 つい非難の声が出た。家庭を捨てられないのなら、彼はわたしをもう好きでなくなるという。思わぬ動揺に瞳が潤む。薄い闇の中彼をにらんだ。沖田さんはその目を受け止めて、やんわりと流した。

 でも、

 ひどいのはわたしの方。

「若くない」と内省し、だからこれからを「無駄にしたくない」と彼は最初に言ってくれている。先の明言はないものの、「一緒になるのなら、本当に好きな相手がいい」とも告げているのに。

 なのに、わたしはのらくらと変化を恐れ、未練がましい。

 欲しいのは何?

「嫌」

 ふと声が出た。また彼の腕をぶつ。意味もなく。やっぱりグーで。

 彼は幾度かそうさせた後でわたしの手首をつかんだ。「おい」と言う。怒ったようなそれを堪えているのような低い声だった。

「雅姫」と呼ぶ。

「あんまり外れたことを言わせるな」

「え」

「どうだってお前が欲しいんだ、本音では。今、手放してしまえる自信がない」

 つかまれた手首に痛いほどの力を感じた。

 心にスイッチがあるのだとして、それはきっとこんな瞬間に入れ替わるのではないだろうか…。

 カチッと。

 自分からつかまれたままの手を引き寄せていた。彼は手首をほどきわたしの顔を上にむかせる。両の頬を手のひらで挟んだ。

 まなじりは涙でぬれている。それを彼が指先でぬぐう。

「腹は決まったか?」

「うん…」

 返事をしたことが次への扉を開かせたのか。同じ自分同じ景色に見えるのに、おそらくわずかな過去とはもう違う…。

 ほとばしるように唇から不安がこぼれ出す。他でもない、総司のことだ。

「子供を離したくない。絶対に」

「わかってる」

 声にためらいはない。なのに物足りない。身勝手にも。だったらどんな答えが欲しいのか、自分にもわからないくせに。

「本当に?」

「ああ」

「大丈夫?」

「うん」

「簡単に言ってない?」

「言ってない」

「絶対に?」

「約束する」

 矢継ぎ早に念を押すわたしに彼は苦笑した。「俺に理想の父親役が務まるかは別として、努力はする」と言ってくれる。

 彼が使った「父親役」という言葉がこそばゆく耳をなでる。

 こんなにも嬉しいのに、ありがたいのに。

 心の奥が気がかりで揺れる。どんなに素敵な言葉をもらったとして、それが叶えられるとは限らない。そんなこと、いい歳をしてる。身にしみていた。

 沖田さんはわたしを見つめ、気持ちの裏をのぞくようなことを言う。

「信じてくれ、としか言えない」

 わたしは頭を下げた。

「お願いします」

 祈るよう、願うよう。

 不安は大きい。それはいつか消えるのではなく、徐々に違った何かに変わっていくのだろう。自分の手でそうしていくもの。

「わかった、任せておけ」くらい返ると思ったのに、「こちらこそ」と彼も頭を下げてくるから驚いた。

 目が合う。何だか間が抜けていておかしかった。緊迫した雰囲気の幕間。互いにちょっと笑う。

「送る。すまん、遅くなったな」

「ううん…」

 彼が車を車道へ戻した。滑らかに走る中、ごく何気なく問う。

「ボウズだったよな。子供の名前は?」

 当たり前の質問だ。これまでなかったのが不思議なほど。しかし「来た」と気まずさに身構える。

「言いたくない」

「は?」

「沖田さん笑うから」

「笑わないって。今時分、凝った名前が多いだろ。そう言えば、お前、昔も実家の寺の名前いうの嫌がってたよな、面白がるからって」

「よく覚えてるね、そんなこと」

「ショーリンジだ」

 わたしの実家は寺をしている。父が住職を務め、姉の夫の義兄が後継として副住職となっていた。しかし、相変わらず彼の発音はおかしい。いつかの「シャチョー」と同じじゃないか。

「省倫寺!」

「それそれ」

 何がそれそれ、だ。完璧に「ショーリンジ」だったくせに。まあそれはいい。

「隠すことじゃないだろ、言え」

「うるさいな」

「うるさくねえよ」

 昔の実家の件とは違う。わかっている。秘密と言う訳にはいかない。わたしは声をひそめ「総司」とささやいた。

「はあ?! 聞こえない」

 もう。

「だから、総司」

 漢字も有名な歴史的人物と一緒、と伝える。言い捨ててぷいっと彼とは逆の窓へ向いた。絶対笑う。「お前、にわか幕末BL描きかと思ったら、根っからの腐女子だったんだな。推しの美剣士様の名前を子供に託すなよ」とか、言うはず。

 ああ、むかつく!!

 笑って馬鹿にされる前にこっちから言ってやる。

「馬鹿」

 あるはずの反応がなく、隣りを見る。沖田さんは面白がる様子もない。尋常にハンドルを握りながらつぶやいている。ちょっと噛みしめるかのように繰り返し「オキタソウジ」と。

 へ?

 わたしの視線を感じるのか、ちらっとこちらを見る。「ああ」となぜかやや照れたような笑みを見せる。解せない。

「何かな、運命的だな。そう思わないか? ボウズの名前、俺と引っ付けたらズバリ『沖田総司』だろ。腑に落ちるっていうか…」

 え?

「縁があるんだな、お前とは…。宿命の修正力がちゃんと働いて、子連れでも俺のところに戻ってくるっていう…」

 相槌も打てない。

「そうか総司か…」

 ちょっと嘆ずるようにつぶやく。

 笑いが込み上げたが咳払いでごまかした。だって、おかしい。長年少女漫画で食べてきた人だから、きっとおつむも乙女色に軽くカラーリングされているのかも…。

「何だよ?」

「ううん、…何でもない」

 わたしの見立てとは違い、いい意味で総司の名を捉えてくれているのだ。さすがに「脳がピンク色だね」と突っ込むのもためらわれる。適当に目に入った、歩道を犬の散歩に歩く人の話題に変えた。

「犬の胴に腹巻きがしてあった。トラ柄の…。すごいセンス」

「ふうん、病院で腹でも切ったんだろ。俺もでっかい『ポンデライオン』みたいなのと遭遇してびびったことがある。知らないか? さらっさらのロン毛のでかい犬」

 頭に何となくイメージは浮かぶ。何とかハウンドとかいう…。それのポンデライオン版…。思わずふき出した。

 笑うことで気づく。

 自分がしばらく笑っていなかったことを。総司の前でする、作った笑みは別として、けらけらとこんな風に笑ったのはいつだっただろう…。

 笑いがやっと引いた後だ。

「なあ雅姫」

「うん?」

「お前といると面白いんだ」

 え。

 突っ込みたいところもあるが。

 沖田さんといるとやっぱり楽しい。


 家に着いたのは十二時ちょっと前だった。

 リビングには灯りが灯っている。中で夫がネットゲームの画面に向かっていたが、肩透かしなほど何も聞いてこない。

 身構えていた分、虚脱した。

「ごめんね。総司、一度も起きなかった?」

「…うん」

 リビングを出て浴室に向かう。手早くシャワーを浴びた後、キッチンで賞味期限が十二時で切れた幼児飲料を飲んだ。

 相変わらず夫はパソコンの画面に目を向けたままだ。

「寝るね」

 それにため息のような音が返っただけ。

 わたしの位置から夫の斜め後ろが見えた。無防備なその姿を目に留める。いつからこんな風になったのだろう。ちらりと思う。

 行き先も告げず「友達」のところへ用で出たわたしに、帰ってきても何も問うこともない。詮索をして欲しいのではないが、せめて「どこ」の「誰」と会っていたのくらい、気になりはしないのか…。

 不思議がってすぐ、自分もそれと同じだと気づく。「ちょっと出てくる」と言い、ほぼ毎日外出する夫が「どこ」へ行き「何を」しているのか、わたしは聞いたことがないではないか。

 それは、詮索しない思いやりや信頼を真似た、無関心だ。

 キッチンの電気を落とす。寝室に入る途中で総司の部屋をのぞいた。よく寝ている。ケットから出た足を直してやり、部屋を出た。

 ベッドに潜り込んだ途端、疲れがにじむ。伸ばした手足の力が抜け弛緩する。

 瞳を閉じ、思う。

 とちらが先なのだろう。夫とわたしと。

 どちらが先につないだ手を離したのだろう。

 寝返り、枕に頰を当てた。ほんのりまだぬれた髪が心地よく肌に冷たい。

 多分…、

 わたしはもう気づいている。

 先に手を離したのは、わたしだ。

 ささやかな輝きの詰まった過去とその夢を思い出したときから。ちょんと結んでいたはずの指先をそっと外したのだろう。自分さえ知らぬ間に。

 まぶたの裏に先ほどの夫の背が浮かんだ。

 ふと考える。

 彼はそれに気づいたのだろうか…、と。

 いつしか眠っていた。嫌な短い夢を見たようで目を開ける。

 消して寝たはずのオレンジの常夜灯が灯っていた。怪訝に思うよりも先に夫の気配に気づく。

 わたしが起き出す頃にようやく寝室に寝にやってくる夫だ。まだ夜中のようだし、今夜は早いなくらいにしか考えなかった。

 寝ぼけと眠気で頭がぼんやりとしていた。けれども、身体を探られればさすがに目も覚める。

「止めて…」

 寝返りを打ち、抗った。

 とてもそんな気になれない。わたしが頑ななのを知って、夫は興が覚めたらしい。「ちっ」と舌打ちをして離れてくれた。

「ごめん…」

 タオルケット越しのつぶれた声で謝った。悪い気がした。強制ではないが、夫婦である以上セックスはやや義務のような気がする。

 わたしの声に気づいたのかそうでないのか。夫は部屋を出しな、しっかり文句を置いて行った。

「調子がいいよな。子供が欲しいときは、こっちの都合も考えずに予定通りにしつこかったくせに。総司が出来たらもう用なしか?」

 腹立ちまぎれの独り言に聞こえた。言い返したいセリフは幾つも浮かんだが、聞こえないふりでやり過ごした。一つでも言葉を投げればきっと嫌な喧嘩になる。

 明日も早い。夜中に下らないいさかいをするのなら寝ていたい。

 また眠りに落ちる中、怒りはひたひたと引いていく。毒のあるセリフを残す夫も悪いが、わたしにも非がある。彼の言葉が素通りをせず耳に痛いのは、正しい部分もあるからだ。

 前に抱き合ったのはいつだったろう。まだパートしていた頃のことで、眠気とだるさで「勝手にして」とろくに脱ぎもせず事を終えた記憶がある…。

 もう嫌だ。

 身体が彼を拒む。

 気持ちが離れているのをこんなことで知る。

 終わりだ。

 何よりもわかりやすい。
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