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それぞれに懸命

9、総司

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 玄関口に真新しい自転車があった。ロードバイクといった洒落たタイプのものだ。夫には妹があるが、嫁いで実家にはいない。舅の年齢を考えれば、夫が乗ると思えた。
 
 出迎えた姑は、わたしの傍らのダグにびっくりした表情を向けた。姉の夫が外国人であることをこれまで伝えたことはあるはずだが、会う驚きは別なのだろう。
 
 和室に通され、ほどなく夫が現れた。
 
 久しぶりに会う彼はちょっと頬の辺りがふっくらと見えた。実家暮らしが心地いいのかもしれない。この地に仕事も見つけたとも聞く。そんな安定がわかる。少し前の彼と雰囲気が違う。この彼なら、玄関に置いてあったロードバイクを気軽に足代わりにするはずだ。
 
「やっぱり、ダグと来ると思った」
 
 夫は面倒見のいい義兄を見てちょっと笑う。これから口実を振りかざし、養育費を逃れようとするには余裕がある。それで、わたしはまた落ち着かなくなる。
 
 お茶を運んできた姑が夫の側に残ろうとしたが、夫が席を外すように言った。姑は、不満げな顔をなぜかわたしに向ける。
 
「大丈夫」
 
 彼がそれを鷹揚に言いなだめ、姑をふすまの外に追いやった。何が「大丈夫」なのか。
 
 ふと、この部屋が夫の実家に泊まる際の自分たちの寝室になっていたことを思い出した。布団を並べ、間に総司を挟んで眠った…。その記憶がまるで別の世界のもののようだ。
 
「昼頃に会社に顔出さないといけないから…」
 
「わたしも総司の幼稚園の時間があるから」
 
 時間がないと暗に言う夫に、その決まった職について質問する気も起きなかった。夫は頷いて、シャツの胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出す。それをわたしたちの間にある座卓に置いた。折り目でふわっと浮いた紙を手に取った。
 
 文字の羅列が目に飛び込んでくる。
 
『○●大学医学部病院におけるDNAによる精査の結果、高科浩司氏と高科総司君が生物学上の父子である確率は、きわめて低いとの検査報告をここにご報告いたします…』
 
 まず、意味が取れなかった。いや、頭で理解はできても、それをこくんと飲み込むことが出来ないのだ。
 
 いつの間にか、わたしの手から紙を抜いていたダグが、
 
「これはコピーのようだけど、原本はあるの?」
 
「あるよ。他、配列の解析表も付いてた」
 
「見せてほしい」
 
 ダグの声に夫は立ち上がり、部屋を出て行った。ふすまの向こうで声がする。姑が彼に何か言っているようだった。「…丈夫なの? お金の…」と聞き取れた。
 
 ほどなく夫が戻り、A4サイズの封筒に入った書類を渡した。封筒には先ほど目にした『○●大学医学部病院』の名が印刷されている。
 
 ちらりとわたしを見てからダグが中から紙を取り出す。夫が見せた紙と同様のものが一枚、それに鑑定の結果を表にしたものが二枚あった。
 
 ダグはそれに丹念に目を通している。
 
「わかるの?」
 
「いや、門外漢だからね」
 
 見終わった紙を彼は封筒の中に戻した。
 
「でも、本物だってことは、わかった」
 
 ダグの声に、向かいに座る夫がくすっと笑う。何がおかしいのか。いらだち、わたしはわかりもしないのに封筒を手に取った。中を見たい訳でもないのに。それを夫が身を乗り出し、すっと抜き取ってしまう。
 
「お前に破られたら困る」
 
「ちょっと…」
 
 声を荒げたわたしをなだめるように、ダグがこちらの手の甲をぽんと叩いた。それで口を閉じた。
 
「それが本物だとして…」
 
 時間もない。怒りをぶつけるよりもまず知るべきことがあった。
 
 わたしの代わりに、ダグが夫に聞く。
 
「なぜ鑑定が必要だった?」
 
「俺だって、そんなこと考えたこともなかった」
 
 夫はそこで言葉を切り、姑の淹れたお茶を一口飲む。思わせぶりな溜めが長いから、またそれでいらだつ。ダグが「なぜ?」と聞いているのに。
 
 ついにらむように彼を見ていた。目が合い、視線をつっと向こうが逸らした。
 
「病院から、連絡があった」
 
「え?」
 
「総司が生まれたあの病院だよ」
 
「病院…」
 
 ダグの視線を頬に感じる。
 
 妊娠出産の思い出はそう遠いものではなく、思い出すまでもない。それに、わたしには不妊治療の期間もあった。長く思えたそれを経ての経験だ。忘れる訳がない。
 
 夫の転勤に従い、西日本にいた頃のことだ。偶然名のある不妊治療のクリニックが、通える距離にあり、すぐに訪れた。今から七年は経つ。
 
 それ以前にも他の病院で通院していたから、治療の知識はあった。感じのいい場所だったが、これまでと取り立て変わり映えのない治療内容にやや落胆し、焦れながら通っていたのを思い出す。
 
 思い出が忙しく頭を駆けめぐった。
 
 しかし、それが…、
 
「向こうが認めてるんだ。総司が出来た人工授精の処置の際、取り返しのつかないミスがあった、って」
 
 ダグがわたしの肩にぽんと手を置いた。機械的に彼を見る。夫の話の真意を理解した迷いのない表情をしていた。とうに、彼には夫が持ち出す突飛な内容の目鼻がついていたのだと知る。
 
「間違いない?」
 
 何が?
  
 ちょっとぽかんとした顔をしたと思う。
 
「カルテにもある。人工授精で総司が出来たのは事実だよ」
 
 答えないわたしに代わり夫が言った。
 
 あの病院では体外受精を繰り返した。結果が出ず「ステップダウンしてみよう」と言う担当医師のアドバイスで人工授精に戻ることもした。何度行っただろう。それもはかばかしくなかった。
 
 これまで随分と費やしてきた費用や時間に、ふてくされた気分にもなっていた。指示されていた受診も捨てばちになり、さぼることも増えた…。そんなとき、本当に不意に妊娠を知ったのだ。
 
 ふつふつと甦る記憶はまだ生々しい。
 
「取り返しのつかないミスって…?」
 
 そこで夫はまたちょっと言葉を溜めた。ほんのしばらくわたしを見ながら口を開く。
 
「精子の取り違えがあった」
 
え。
 
 自分の手に重なるダグの大きな手を感じた。いつからそうしてくれたのだろう。わたしは彼を見、それから夫を見た。
 
「総司は、俺の精子で出来た子じゃない。別の、どっか知らない男の精子が、お前の身体に入れられて出来たんだよ」
 
「嘘だ。そんな…」
 
「こんな変な嘘つくかよ」
 
 夫はそこでまたDNA鑑定書のコピーを机の上に放った。そして淡々と話し出す。
 
 二月ほど前の真夏の頃だ。突然、自宅にその病院から電話があった。電話では話しにくい「総司君の出生に関わる非常に重要なお話」があると告げられた。会う場所であれこれ問答があり、都内のホテルで落ち着いた。そこに夫が出向くと病院の院長本人、そして弁護士がいたという。
 
「その場で五年前に精子の取り違えがあった、と言われたよ」
 
「どうして今頃?」
 
 ダグの問いに、別の夫婦から病院に問い合わせがあったのだと答えた。「子供の血液型がおかしい」と。
 
 病院側は「あり得ない」突っぱねるが、その夫婦は代理人を立て、更なる調査を要求してきた。そこで病院も調べた結果、夫婦と同じ日時に人工授精を行ったわたしの存在が浮かんできた…。
 
「精子が、入れ違ったんだよ。俺のがその夫婦の妻の方に行って、夫のがお前に入った。それで、どっちにも子供が出来た」
 
 気味が悪かった。信じられない嫌な話が身体の中に入り込み、不快なものに変わる。そして、中で好き勝手動き回る…。
 
 めまいがした。
 
 目をつむりながら、夫へどうして黙っていたのかを聞いた。わたしの問いに、彼は唇の端で笑った。
 
「言おうとしたよ。でも、お前はしょっちゅう出かけて忙しそうだったし、普段もカリカリして、取りつく島もなかっただろ。自分の態度を反省もしないのか?」
 
「そんな…。「話がある」の一言くらい言えるじゃない。大事な話なら絶対に聞いた」
 
「どうだか。自分だけが働いてるんだって、いい気になってたくせにな」
 
 夫は鼻で笑うようにこちらをあしらう。いつかこの男は、生活のためがむしゃらに同人誌を頑張るわたしへ「頼むぞ、しっかりしてくれよ」と投げるように言ってよこした。そうしていながら、こんな逃げを打つ。
 
 そして、自分ばかりがこんな重大事を二月以上も握って明かさなかったのだ。身勝手な狡さに堪らなく腹が立つ。目の前の鑑定書のコピーを破ってやろうかと手が伸びた。
 
 そこへ、ダグの声が割って入る。
 
「それで、病院は何て言ってるの? 相手方の夫婦は?」
 
「向こうの夫婦は事情がわかれば、納得できるって。片方の血は入ってるから、これまで通り育てていくらしい」
 
 そこで、夫は言葉を切った。
 
 夫の話に納得した訳ではない。動かぬ証拠を前に、無理やり飲み込まされたのと同じだ。心は受け入れたくないと、声もなく叫んでいる。
 
 顔も知らないその夫婦は、子供の衝撃的な事実をどう抱きしめるのだろう。半分夫の遺伝子を受け継いだ我が子に何を思い、乗り越えるのだろう。自然、自分と同じ立場の人たちの状況に気持ちが泳ぐ。
 
 そして、突きつけられた事実は重過ぎた。下腹の奥に妙な違和感が残る。そこで、見知らぬ人の精を受け入れ気づかぬ間に交わり、わたしの身体は子を生したのだ。言いようのない違和感は、浅い吐き気を呼び不快感に流れていく。
 
 噛んだ唇に指の節を当てたまま、視線の定まらないわたしをダグが呼ぶ。
 
「雅姫の思いはどう? ソージに対して、気持ちは変わらない?」
 
「それはない」
 
 瞬時に、首を振っていた。わたしの中の違和感や不快感と総司の存在は全く別だ。この問題で、あの子への感情が変わるものではない。
 
「そりゃ、お前は自分の子だもんな」
 
 夫の失笑交じりのつぶやきが、傷に触れたように癇にさわる。実子でないことがわかっても、育ててきたこれまでがあるじゃないか。
 
 生まれたてのふにゃふにゃと頼りないあの子を不慣れな手で抱いたこと。夜泣きや突然の発熱にうろたえたし、ちょっとのすり傷でも大騒ぎした。そんな日々の積み重ねが、わたしたちを少しずつ総司の親にしていった…。
 
 それが、血のつながりがないという見えない事実で簡単に消えてしまうものなのか。
 
 見返せば、彼は冷めたような目でぼんやりとしている。
 
 怒りより、夫の気持ちの変化が信じ難い。あの子をこの人は捨ててしまえるというのか。
 
「わかった」

 ダグの返事はわたしへのものであり、夫に対してのものでもあるようだった。「それで…」と何かをつなぎかけた彼の声を、わたしは遮った。
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