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それぞれに懸命

10、消せない違和感

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「待って、ダグ。あの人の言い分がわからない。おかしい」
 
「コージの意見をのんだ訳じゃない。気持ちを把握したまでだよ」
 
「これ以上の関わりは勘弁してくれってのが、正直なとこ」
 
 露骨な言葉だった。わたし側のダグの頬がさっとこわばるのがわかった。
 
 けれども、それは声には出ない。彼のいつもの柔らかな声が続いた。
 
「病院の対応はどうなってるのか、教えてほしい。君だけがあちらとのこの問題の窓口なんだからね。フェアじゃないことは止めよう」
 
「隠し事はないよ、ダグ。報告が遅れただけじゃないか」
 
「重大なことだから、こちらからも病院に確認は取るよ。コージの話を疑う訳じゃない。冗談にしては手が込み過ぎてるし、それだけの意味もないだろう。だから、念のための確認作業だ」
 
「それは…もう解決済みのことだから、今更病院に確認を取るっていってもあっちも迷惑なんじゃないかな…、いつまでも昔のことでああだこうだ…」
 
「昔のことなんかじゃない。雅姫ともちろんソージに一生まつわる、将来に向けての話だよ。そのための過去の追認だ。絶対に欠かせない」
 
「うん、でも…、前のことをほじくり返すのは、もう一方の夫婦のこともあるし…、デリケートな問題だから、もう交渉を持った俺に任せてくれれば、穏便で話も早い。何なら院長から、またもう一筆もらうこともできる。解決済みだけど、それならあっちも迷惑に思わないだろうし…」
 
 離婚を決めたことか。総司を切り捨ててしまうことか。夫は「解決済み」をまた口にした。夫ののらりくらりとした返しに、ダグはゆらっと頭を振った。
 
「ちっとも解決してないよ、コージ。この際、病院側の迷惑なんか、シッタコッチャナイ」
 
「知ったこっちゃない」が、何か崇高な英語の決めぜりふに聞こえた。単なる「知ったこっちゃない」なのに。こんなときだけどちょっとおかしい。
 
 どんな最中でも下らないことにくすっとできる余裕があるのだと、不思議に思った。そして、笑うことできちきち緊張していた気持ちが、ほんの少し緩む。やっと息が通るように感じた。
 
 笑うって大事なんだな。まるで時が止まったようにしみじみと噛みしめてみる。ダグには、きっとそんなつもりなんかないだろうけど。
 
 出されたままのお茶に初めて口をつけた。冷めてはいても風味のいいお茶だ。おいしい。
 
 夫にもダグの言葉は不思議に聞こえたのか、はっとした顔をしたようだ。しかし彼は、笑うどころか、うつむいた。これまでの調子の良さが、やや引っ込んでしまう。
 
「実は…」
 
「シッタコッチャナイ」の魔法の成果か、ぽつぽつと夫は語り始めた。既に、病院から和解金を受け取ってしまっているという。
 
「ごく近親者は別として、この件を口外しないことが、賠償金の絶対の契約条件になってるんだ。もう一方の夫婦と病院への接触も、遠慮してほしいらしくて…」
 
 ダグは軽く頷いて相槌に代えた。
 
 夫はわたしの目を見ない。後ろめたい何かがあるように。
 
「どうしてわたしに一言もなかったの? 賠償金とか契約とか…。何で一人で勝手に決めちゃうの?」
 
「そう、そこが僕も知りたい。それに弁護士を介いての契約なら、口約束もないね。その書面を見たい」
 
「や、それは…」
 
 夫がどこに置いたっけかな~、などと視線を泳がせ、馬鹿らしいほどのとぼけ方をする。慌てているのはわかるが、はたきたくなるような態度だった。
 
 ダグはそんな夫を前に、机に置いた指の節をとんとんと打つ仕草を見せた。ちょっとの吐息の後で聞く。
 
「ねえ、コージ。幾らもらったの?」
 
 核心を突く問いだった。病院との和解は聞いたが、もらったという賠償金の額について、夫は触れていない。
 
「え?」
 
「幾ら?」
 
「…え、その…、六、八百万だったかな…」
 
「そんな大事なことも「だったかな~」程度で話すのは信用できない。悪いけどね。やっぱり契約書を見せてほしい。あるはずだよ」
 
 ダグの声は頑としていた。それを見て、一人で来なくて本当によかったと実感する。わたしだけなら、病院側のミスを知った辺りで頭がもうろうとしたままだったろう。
 
 揺らがないダグの態度にも、夫は粘るかのようにしばらくうつむいたままだった。が、じき重い腰を上げた。襖に向かったとき、思いがけず先にそれがすっと開いた。
 
 廊下に立っていたのは姑だった。事の成り行きが不安で、様子をうかがっていたようだ。手に白いA4サイズの封筒を持っている。
 
 姑は夫に頷いて見せた。部屋に入り夫の隣に腰を下ろす。話に参加するらしい。膝に封筒を置いたまま、
 
「これを見せてもいいけど、この内容に持って行ったのは息子の手柄なんですよ。それを最初に言っておきますからね。雅姫さんなんかが相手になってたら、全然話は違ってましたからね」
 
 と釘を刺した。物腰にも譲らない覚悟が見える。夫は頼もしげに自分の母親を横目で見、ちょっと笑顔になる。
 
 うわ、気持ち悪い。
 
 正直なその感情が顔に出ないよう、口元を引き締めた。笑っちゃいそうだった。ちらりとダグを見れば、彼と目が合う。「おやおや」とでも言いたそうに、目が笑っていた。
 
「ともかく」
 
 仕切り直しだ。ダグが契約書を見せてほしいと再度口にする。確認し合うように夫と姑が目交ぜをし、その後こちらに封筒が渡された。中にはB5サイズの書面が一枚。
 
 ダグがわたしにも見やすいよう手に持った。
 
 秘密厳守。もう一方の夫婦への接触の禁止。夫が口にしたことが繰り返し硬い文章で書かれている。
 
『これ以降のいかなる請求または申し出も、私はその権利を放棄いたします…』。その文言の下に少し間を開けて、夫の署名と捺印がされている。そこまでをざっと読み、もう一度斜め読みにした箇所に目を戻す。
 
「あ」
 
 思わず声が出た。その声の相槌のように、ダグが署名の少し上部分を指でさした。そこには『金一億円』の文字があるのだ。
 
 一億!
 
 繰り返し目で確認し、それからダグを見、最後に夫を見た。
 
 彼は気まずいように目を逸らした。それでまるでちょっと照れたような表情になるのだ。「ばれちゃった、へへ」とでも聞こえそうに思えた。
 
 その隣りで姑が堅い声を出す。
 
「息子が頑張ったから、出た金額なのよ」
 
 何を?
 
 一人でこっそりと?

 持ち逃げするため?
 
 ふざけんなよ。
 
「わたしには、知る権利もないの? 実際、知らない誰かの子供を産んだのはわたしじゃない! なのに…」
 
 怒りで興奮し言葉が続かない。誰かが「それ」とでも合図をくれたら、机をひっくり返してやりたいぐらいだった。
 
 代わりに、わたしの肩に置かれたのはダグの手だった。促すようにぽんと叩く。
 
「行こう」
 
 そのまま彼は立ち上がる。その際、契約書の入った封筒を手にしたままだった。取り返そうと姑が「あっ」と手を伸ばす。小柄な姑の手を、背の高いダグは封筒をちょっと上にかざす感じで逃げた。
 
「こちらも、しかるべき人を立てこの契約を吟味させてもらいます」
 
 そう言った後、彼は部屋を出た。わたしもその背を追う。
 
 家を出るとき姑の金切り声がした。夫へ向けたものだったのが、せめてだった。

「どうするの!? あんなオバマみたいな人が出てきて!」
 
 後味が悪いばかりの訪問だった。おざなりに頭を下げただけで辞した。
 
「僕がオバマだったら、彼らにCIAの監視が付くよ」
 
 ダグの軽口も、声がやや硬い。
 
 車に乗り込み、往来へ出た。
 
「取り乱さなかった、偉いよ」
 
「まさか」
 
「頑張ったね」
 
「ありがとう、一人だったら…」
 
 そこで涙がにじむ。
 
 悲しくて、辛い。
 
 なのに、どこかでほっとしている自分がいる。
 
 もしかして、わたしは頑張れたのかもしれない。


 ケイタイの音に、放心した気持ちを引き戻された。
 
 表示を見れば夫だった。これまで、いつかけたって電源が切られていたのに、自分が必要になれば、ちゃんと電源が入っている。当たり前のことにちらりと腹が立った。
 
 無視しようと思ったが、鳴り続ける電話もうるさい。とりあえず通話ボタンを押し、耳に当てた。
 
『なあ、頭を冷やせよ』
 
 第一声から意味がわからない。
 
『急な話で驚くのもわかるけど、まずお前が冷静にならないと』
 
 わたしが黙っているのをどうとったのか、急ぐ声はちょっと得意げだ。弁護士など介すことなく、今後は夫婦二人の話し合いで決めた方が、お互いのためになる、と夫は言う。『総司のためにも』と。

 鼻で笑いそうになった。
 
 つくづく自分に都合のいい人なのだ。弁護士が間に入れば、わたしを丸め込んであの賠償金をふんだくる隙がなくなると、慌てているのだろう。姑が急かしたのかもしれない。
 
『求職が難航して、なかなかお前の気に沿えなかった部分もある。それは認めるよ』
 
 求職が難航? 毎日ゴロゴロ、漫画喫茶に日参していても?
 
 部分もある? そっちがメインの場合も『部分』って言えるんだ、ふうん。
 
 電話を切ろうと、耳から離しかけたとき、
 
『浮気のことも、目をつむる』
 
 声が突き刺さった。
 
 え。
 
『自分だけが正義って面だけは、しないでくれよな。知ってるんだから、俺は』
 
 どうして?
 
 すかさず、そんな言葉が舌の上に乗る。けれども声にならず、喉の奥に逆戻りしてしまう。
 
 わたしは何も言わず、そのまま電話を切った。
 
 すぐさまコールがある。聞こえない振りで、ケイタイをバッグにしまった。例のお隣絡みの段ボールも、ダグに手伝ってもらってさっき玄関先に置いてきた。後は、夫がどうとでも処理すればいいことだ。わたしは知らない…。
 
 煩わしいBGMも長く伸びて、そのうち切れた。思いつき、電源を切った。
 
 ダグがこちらを向き、「コージ?」と聞く。頷いて返した。
 
 ハンドルを握りながら言う。
 
「お義父さんにも咲姫にも、今日折りを見て僕から話しておくけど。それでいい?」
 
「うん、そうしてもらえると、助かる…」
 
 正直、父や姉にこれまでのことをいちいち説明する気力がない。
 
「弁護士のことは、君にマッチする人を探すのはちょっと面倒かもしれない。でも、後はその人を通じれば済む。放っておけばいい。知らない間に解決するから」
 
「うん…」
 
「一人で不安なら、帰ってきたらいいよ。君の家だしね。落ち着いて探せば、弁護士もいい人が見つかる。僕も協力するし、咲姫の方が都合がよければ、彼女と一緒に探してもいいしね」
 
 ダグの思いやりありある言葉に頷きながら、心では夫が放った言葉が尾を引いている。『浮気のことも目をつむる』と、夫は言った。
 
 車窓を見、何度も唇を噛んだ。そうやって、ようやく言葉が声になった。ダグは沖田さんのことも知っている。隠す話でもない。
 
「…さっき、あの人が言ったの。『自分だけが正義って顔はするな』『浮気のことも目をつむる』って…」
 
「え?」
 
ちらり、ダグの顔がこちらを向いた。すぐに戻り、片方の手の指の背を唇に押し当てている。わたしは、返事をしないで電話を切ったことを言い添えた。
 
「そんな話はこれまでした?」
 
「ううん」
 
「当てずっぽうってやつかもしれない。きっとコージの側が不利だからね。相談もなく決めた和解といい、それを黙っていた事実もある。だから、君に何か落ち度を見つけたいんじゃないかな」
 
「うん…」
 
「でも、アキヒコに会うのは控えた方がいいね。彼らが人を使って、身辺を探らせることもあるし」
 
 ダグの声が胸に刺さった。それは意外なほどつきんと響く。
 
 彼の言う通りかもしれない。そうじゃないのかもしれない。夫がたまたま鋭い勘を働かせたのかもしれないし、または沖田さんとの関係の具体的な事実をつかんだのかもしれない…。
 
 ふと、彼の妹のいろはちゃんのはきはきとした声がよみがえった。遅れて彼の声も耳に返る。それらにしんと気持ちを傾けながら、やはりあの人には会えないと思う。
 
 会って、この惨めでみっともない状況を話す勇気がとても持てない。
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